中編 耀白の決意

 本陶殿が去った後、私は物思いに耽りながら台所で茶器の片付けをしていた。冷水に触れる手指とは裏腹に、心はかっかと熱く燃え上がっている。

 詩耽の患いに私が関係しているということ、それに今まで気付かなかった、いや、向き合おうとしなかった自分に憤りを感じていた。よくよく考えてみればと思案すると、心当たりのある出来事はまま見受けられた。それに加えて本陶殿の先の発言から、彼女の悩みについて大よその見当は付いた。

 ただそうはいったものの実感が湧かない。たしかに自分は男性として生活してきた。仲間の下世話な話にも加わり、自分もそういうことをいずれ行なうのだろうと漫然と考えてきた。その時は自分の体のことなど、頭から抜け落ちていた。そして月に一度、自分が女だと思い知らされる時期が来る度に、時が早く過ぎることを祈りながら憂鬱な気分で日々を過ごした。

 そのような矛盾を孕みながらも、自分を男と信じ続け、そして今、私を男性として愛してくれる人が現れた。それなのに私は自分の体を言い訳に、彼女の思いに応えようとしていないのだ。この矛盾を彼女に晒すことを恐れていると言えば良いのだろうか。

 それだけではない。彼女が私と将来を共にするということは、すなわち尹家に跡取りが居なくなるということだ。私のことをよく受け入れてくれているとはいえ、街の住民からの世間体や面子にも関わる。それを瑣末なことと捉えて無視するのは、この街を治める者として正しい姿なのだろうか。それこそ、私が彼女の袖を振り払い、彼女が真の良人と結ばれた方が、この街にとって良き未来を保証できるのではないのだろうか。

「――様……太清様、来客でございます」

 浮かんでは消えてゆく煩雑な思考に支配されていたせいで、家人の声に気付くのが遅れた。

「誰か?」

「染濁殿でございます」

 おそらく詩会のことだろう。夜も程々に更けているが、もう遅いのだからという言い分はあいつに通用しない。

「通せ。それと今日はもう退いて良いぞ」

 家人を帰した後、私は布巾で手を拭いながら応接間に向かった。



 染濁はいつもと変わらぬ相好で待っていた。珍しいことに、ほのかに酒の香がするくらいで泥酔していないようだ。

「よお」

「約束もしていない夜分の訪問は控えろといつも言っているだろう。で、何の用だ?」

「まあ、そうせっつくな。とりあえずこれでもどうだ?」

 そう話す染濁の手には酒の瓶が携えられていた。ここで飲む為にその前では控えていたという訳か。腹を割って話したいことがある時は決まってこの流れだ。

「仕方のない奴だ。今、用意する」

「へへっ、そう来なくてはな」

 ちょっとした酒盛りの用意を済ませ、彼と杯を交わす。お互い無言で一杯を口に含み、会話の間合いを測る為の沈黙が流れる。

「宇曽の旦那は来たか?」

 彼の問いに私は無言で頷く。やはり用件は詩会のことであったか。

「詩会の件か? それなら私は参加させてもらうよ。気がかりなことがあるのでね」

「詩耽のことだろう?」

「…………」

「図星だからって黙ることはないだろう。お前と同じように俺もあいつのことが心配なんだからな。お前に限った話ではない」

 そう、彼女を心配しているのは私だけではない。昔から付き合いのある染濁はもちろん、街の者も皆、彼女が元気を取り戻すことを待望している。

「そうだな。私も彼女のことが心配だ。お前と同じようにな」

「いや、違うな」

 同じと言ったかと思えば、すぐさま違うと言い直したり忙しい男だ。もう酔いで前後不覚になっているのか。

「違う。そういうことを言っているんじゃない。心配しているのは同じだが、俺とお前では理由が違う」

「違うのか? 私は友として彼女のことが――」

「はあああああ……」

 私の言葉を遮って染濁は大袈裟に溜め息を吐く。何事かと目を白黒させる私に、彼は真剣な眼差しをこちらに向ける。

「なあ、太清よ。お前はそれで良いのか?」

「…………」

 こちらを見つめる彼に対し、手元の杯に視線を落とす。水面に映る自分は何も言ってくれない。

「……自分でもよくわかっていないんだ。私は彼女のことを同性の友として見ているのか、異性の思い人として見ているのか……。大切な人なのは確かなんだ。大切だからこそ、私は彼女を――」

「待て。その先を言ったらぶっ飛ばす」

 静かな怒りがこもった声が私を刺す。

「俺が「ぶっ飛ばす」つったら、本当にそうするってのはわかっているよな? 俺がそうできるのは、お前のように男とか女とかくだらんことに捉われず、一人の人間として認めているからだ。利口なお前のことだし、宇曽と話をして、詩耽の思いも、そして自分がどうしたいかも、もうわかっているだろう?」

 ――一人の人間として。

 誰にともなく発した呟きが私の心に熱を吹き込ませる。彼にかかれば私のこだわりなど、ちっぽけに映るのだろう。しかし、それは私のいらぬ執着を吹き飛ばすには申し分なかった。風のようにどこまでも自由で、優しくて、柔らかくて、果てしない男、それが染濁という人間だ。

「その目を見て安心した。お前さんは立派な士だよ」

「大鵬は地平の先まで望めども、地に咲く一輪の花を見ることはできない。大鵬にならんとして、大切な物を見落とそうとしていたよ。染濁、ありがとう」

「大鵬とは、謙虚なお前にしては奇特なことを言う。少し酔っているな」

「ふふ、そうかもしれない。だが、たまには酔うのも悪くない」

 心が定まったおかげなのか、今まで胸につっかかっていた煩いは溶け消え、ぽかぽかと温かい意志が体内に満ち溢れている。

「だが、問題はこれからだぞ。実際、想い人を目の前にして、恋心に打ち明けるのは想像以上に困難なことだからな」

「そうなのか? お前や本陶殿の様子を聞くに、そうは思えないのだが」

「旦那や俺は特殊な場合だ。困難でなければ詩耽がこうも悩んでいないだろうが」

 私と詩耽の関係も「特殊な場合」に相当するはずだが、言わんとすることはわかる。

「恋愛に疎いから実際どうなるかはよくわからないな。本陶殿にも相談してみたい所だが、彼は私の体に気付いていないだろうし……」

「いや、知っているぞ。俺が話した」

 大した人だ。夕べ、彼が訪ねた折には、そのような素振りは全く見られなかったし、動揺すらなかった。

「実はその辺りも話すつもりだったが、機を逸したと言っていたぞ。そういうことだから安心して良い。あ、由の野郎はまだ知らないみたいだがな」

 何だか彼らに担がれているような気がしてきた。しかし、彼らが私達のことを思って行動してくれている、その優しさのおかげで俄然、勇気が湧いてきた。

「詩耽が会に参加するかどうかはっきり聞いていないが、現状どうなんだ?」

「まあ足踏みしている感じだな。俺と旦那達で仕掛けてみたが、色々思う所があるみたいだ」

「そうか……」

「こうなったらお前から声をかけてみないか?」

「そうしたいのは山々だが、以前見舞った時に面会を断られている。今回も難しいだろうな」

「直接会うのは難しいかもしれんが、それなら手紙でも良いんじゃねえかな。気持ちをありったけ込めれば、あいつも心動かされるはずさ。律随一の詩人が愛する女の心を感動させられないようじゃ、俺の沽券にも関わるから頼むぜ?」

「そう言われたら乗らずには参るまい。必ず詩耽を私の手で連れ出してみせるさ」

 私はすぐさま紙と筆を用意して、手紙をしたためる。この時ほどすらすらと筆が進んだ経験は、後にも先にもないだろう。


 追君幾星霜  君を追いて幾星霜

 比肩百詩歌  肩を比ぶる百詩歌

 切磋成双璧  切磋して双璧を成し

 句満如琢磨  句満ちて琢磨するが如し

 親近望綿綿  親近綿綿たるを望み

 疎遠憂峨峨  疎遠峨峨たるを憂う

 玉輪潜山陰  玉輪山陰に潜み

 吟嘯恋嫦娥  吟嘯嫦娥を恋う


 詩を書き記す間、昔のことを思い出していた。



 私は女の身でありながら男の心をもって生まれたことで、小さい頃によく苛められた。子どもの内は女子の方が背丈が高くなるとは世間で言われるものの、幼い頃の私はそれとは反対に小柄で華奢な少女のままであった。

 その上、大人しい性格も相まって、周りの子どもに後ろ指を差されても言い返せないことが多々あった。

 そんな私を庇護してくれたのが詩耽であった。今でこそ彼女は慎ましい女性だが、昔はひどくお転婆であった。間違っていると思ったら堂々と指摘し、男子にも果敢に立ち向かい、腕ずくでも打ち負かしてしまう。そんな子だった。

 助けられてからは何をするにも詩耽と一緒になり、私は先を行く彼女の後ろをちょろちょろついて回っていた。

 そんな日々が続き、周りから私の性についてとやかく言われなくなった頃、詩耽が詩の勉強を始めたと言うので、例に漏れず私も一緒に講釈を受けるようになった。それから染濁と出会うまで二人で詩の腕を競い合い、いつしか律随一の詩才と呼ばれる程にまでなった。

 そして科挙を受ける歳になった。律特有の形だけの試験らしいが、私にとって初めて街の外にでる機会だった。

『私達、ずっと一緒だよね?』

『はは、ちょっと試験を受けに出て行くだけなのに神妙になるなよ』

『でも貴方が男ではないってバレたら……』

『心配するなって。都にとっちゃ、ここなんてどうでも良いんだから何とでもなるさ』

『でも……』

『たとい峻厳たる山々に隔たれていても、空は繋がっている。それと同じように俺達の絆も、いつまでもどこまでも続いていくさ。もし何かあった時は詩でも口ずさんでくれたら化けて出てやるよ』

『人が心配しているのに軽口叩いちゃって。ええ、ええ、せいぜい大声で喚き散らしてあげるわ。月の仙女様も嫉妬するくらいにね』

『女同士の仲に仙女様が嫉妬するか?』

『あー、えっと……』

『どうした? 何故赤くなっている?』

『うるさい!』

 ――バシーンッ!

 無意識に頬を撫でる。あの時のことを思い出すと今でも頬に走った強烈な衝撃が甦る。

 彼女の思慕があの時――いや、そのずっと以前からだったことを思うと、随分待たせてしまって申し訳なく思う。

 手紙に封をして、染濁に差し出す。彼は「自分で渡しに行け」とでも言いたげに、こちらに突き返す。

「頼む。お前が渡しに行って欲しい」

「何でだよ。自分で行けって」

「この時間から私が屋敷に行けば、かえって目立つだろうよ。尹巴様に余計な気を揉ませる訳にもいかん。その上、明日の日中も人目を避けながら職場を離れることができん。その点、お前なら屋敷に寝床をしょっちゅう借りているし、昼間も自由が利くから詩耽にこっそり渡すこともできるだろう? 頼む」

 染濁はしぶしぶながら受け取ってくれた。

「体の良い小間使いだな。まあいい、その代わり本番は腹括れよ」

「ああ、もちろんだ」

 どうにか引き受けてくれて良かった。詩耽への思いを自覚した今、彼女の元を訪れて平常心を保っていられる自信がない。なるほど、これが恋というものか。ついほんの数刻前、本陶殿に「恋などできない」と言っていたのが嘘のような気持ちの変わり様だ。

 酒も尽きたので酒盛りを終い、染濁を見送る。それから床につく準備をするが、なかなか寝付けそうにない。今まで感じたことのない心身の高揚感に私は戸惑った。

 友として見ていた女性が愛おしくてたまらない。

 ほんの少し意識が変わっただけ。たったそれだけで、彼女の顔や声を想像した途端、胸の奥に熱された真珠が入り込んだような苦しみが襲いかかる。

 私はどうしようもなく、熱にほだされたまま布団に入り、もじもじと身をよじらせて眠気がこの痴情を収めてくれるのをひたすら待ち続けた。布団との衣擦れでさえこそばゆく、悶々とした気持ちをどうすることもできぬまま夜を明かした。


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