第6話 送辞
前編 重罪
「ややっ! もしやそれは!?」
由殿が色めき立って大声を上げる。私も息を呑んでそれを注視する。尹巴は櫃から慎重に遺物を取り出し、私達の眼前に差し出した。
「……これが勅書の偽造に使用された印です。そして、この版は柳蒼言自身が残した懺悔の文です」
私はそれらを受け取り、じっくりと観察する。
「刻印された言葉、字体どちらも本物の天子印と寸分違いません。間違いなくこれは天子印の複製品です。この精密さは宮廷の書記官でさえ真贋の判別が難しいですね。これが実際に使用されたのならば、誰しもこれを公的な文書と信じるでしょう。そして――」
私達は版木に目をやり、刻まれた文をまじまじと見つめる。なるほど、この溜め息が出るほどに美しく整った字体を見れば、彼の版職人としての技量は明らかである。
「なんとすばらしい……! 宮殿の宝物庫に納められていてもおかしくありませんな」
「それどころか大学の教本に使用……いや、あらゆる文筆の模範とすべき書体になってもおかしくありませんね。都に彼の書が残っていないことが残念でなりません」
「これらを見れば、蒼言の腕は本物なのは間違いありませぬ。そして、この技術が継承されることで律の産業が興ったのだと。知れば知るほどに興味が大きくなりますな。どうして彼ほどの人間が都を離れることになったのでしょう? それと、どのような経緯で勅書の偽造が為されることに?」
「それはこの版を読み進めればわかります。わざわざ木版として残しているのは理由があるのです。律が後世まで背負い続けなければならない業がここに……」
尹巴に促され、私達は蒼言の述懐に耳を傾けることにした。
――絢爛たる洛鳳に柳家あり。左京一の条にて、背に種々の樹林、邸内に梅花、門前に小川あり。春には梅花の香舞い、秋には樹の実り豊かなり。吾は其の家に生まる。
族属は古より手工を修練し、乃ち都内を風靡す。建築、工芸、諸々の業において名
父の椿、版行において其の技を注ぎ、一流を興す。官学の教本を改め、石経を建つるに至る。吾に事業を継がさんと冀う。
吾は幼時より技芸を授けらる。また、職工の道を志せども官学に入る。詩書礼楽を学び、更に経史子集
吾の士大夫を志さざるを謗る者あり。然れば則ち官の道に進みて、之より上に立ちて恥を
父、断固として認めず。曰く、汝に学を与うるは以て家業の為なり。大義を履めば、則ち吏ならずとも世に利するべし。己の執心に因りて志を変ずる。其れ小人の行ないなりと。彼の意に理あり。而れども当時の吾は理を得ず。強行して官吏と為る。是に因りて家を離る。
「蒼言は官吏となった頃にはもう家とは断絶していたのですね」
「ええ。幼少から職人の技を教え込まれ、学問まで習わされていたのですから、跡継ぎとして相当期待されていたようです」
だが、その教育熱もむなしい結果に終わってしまった。元より同窓と異なる境遇に、わだかまりを抱えていたのだろう。父親の語る言葉も、我が国で伝統的に息づく「孔儒の教え」に基づいた価値観が見られ(一概にこれが悪だとは言い切れないが)、彼にとっては重荷に感じたことだろう。
学友と馴染めず、家でも窮屈な生活を送っていたと思うと、同情も禁じえない。そして、その中で彼の支えとなっていたのが書物であったというのも、何とも言えない気持ちにさせられる。
――吏と為りて数余年、刻苦勉励して務めに当たる。而れども同学と肩を並べることさえ能わず。知と行は必ずしも伴うとは限らず。否、知、元よりあらず。書を読めども思わず、思えども為さず、ただ形を繕うのみ。己の至らざるを知り、志破れる。茫然自失となりて暫く漫々と日を送る。同輩は
怠業久しく栄達を忘れ、
亦た失うに惜しむ物無きを知る。既に
幾ばくの衣、書、器具を抱え、幽谷に籠る。身辺の物品を見て、未だ捨てざる物ありを密かに悦ぶ。其の中に彫刀あり。
深山にて吾の吾たる由縁を求めて、将に己の既知を明らかにせんとす。或いは書に向かい、或いは木石に文を刻み、或いは瞑想すること悠久なり。尚お心身に手技の存するを知り、是において吾生の命を悟る。未だ智と技を忘れざれば、則ち之を以て何れかを為すべしと。
再び己を省みて嘗て風説を聞けるを
他に思う所なし。即ち是に行かんとす。天命を知れば身は雲の如く、心は風の如し。苦楽を忘れて悠々と千峰を渡る。遂に絶境に至る。地名は律と謂う。
花香芬々、温暖にして気は清し。民は温和にして純朴たり。小邑と雖も美は都に勝る。異客の吾を厚く遇し、早々に親交を結ぶ。
村民、其の由を対えて曰く、古謡にあり。水土に交わりて花は咲く。異を親しみて地を保つべしと。頑なにして外物を遠ざくは愚なりと。
蒼言の葛藤、そしてそれを乗り越えてからの自得が伝わってくる。官吏となるも志破れ、己の無力を自覚してからは無気力な日々を過ごしたようだ。それから自暴自棄になって都を離れて隠遁生活を送った。
その生活の中で、自分がかつて学んだ知識や技術を未だ忘れていないことに気付き、それらに未来を見出した。そして彼は新天地を求めて、ついに律に至る。
「紆余曲折あってここに来たのだと思う感慨深いでしょうね」
「当時の律は今よりももっと人に知られていませんでした。蒼言からすれば、ここに辿り着けたのは天の導きのような、宿命めいた縁を感じたことでしょう」
彼からすれば初めて他者に受け入れられた経験と言っても良いのかもしれない。柔軟で屈託のない人々に魅了されるのも、同じくここを訪れた者として共感できる。
――律の民は謡を好むも、其の曲調より詞意を重んず。故に詩を習えども好まず。散文に則り、韻、平仄の理を重んぜざる。故に麗辞を以て飾るを疎む。文に近からずや遠からずや。辞と意、共に調和せざれば、則ち文にあらざらんや。
吾が詩才未だ足らざるも之よりは巧なり。乃ち持参の書を以て教う。徳益々深まり、学志更に高まる。是に開闢を見る心地なり。忽ちに吾を越ゆる者現る。而れども妬かず、斯に賢才ありを説ぶ。
律は民に徳あれども貧に安んず。平穏にして人の通行稀なるが為に、将に業を成さんとせず。僅かに農耕して外物を頼るのみ。
民に説いて曰く、業を興せば貧を恐れず。外に開きて知見と外貨を得ざらんやと。律民之を望まず。曰く、古謡に大波は小波を飲むとあり。律は小なり。過てば必ずや外患を招かんと。
患いを恐る。是れ無知が所以なり。吾即ち已に此に於いて学ぶ所なき者に求む。曰く、旅すべしと。弟子数人、初めて律を離る。後に之を習いとす。改革は不急にして素を軽んずべからず。自ずから変革を欲するを待ちて幾年、先ず文学に変あり。
彼は古より韻律より詞意を重んず。之を益々進ましめ、新詩を生まんとす。論議混迷にして紛々たり。吾同じくして戯れに字句脚韻のみを用いて短詩を為す。是れ書生の知る所となりて、漸く人口に膾炙す。嘗て
漢柳、律を知る隠者の語る所となりて、密かに伝播す。漢柳の評を聞きて来訪増す。何れも俗を捨てるに忍びず、而れども安ずる所を得ざる。乃ち不遇の賢才往来す。彼の扶けを受けて出版、工芸、
漢柳の成り立ちについて語られている。どうも漢柳は街の発展を求める動きの中で形作られてきたらしい。そこに環へ渡来していた者達の関与もあった訳だ。
文化の振興が経済の拡充を生み、産業の確立をもたらした。蒼言による教化はここに大きく花開いたのだ。
彼がこれを実現できたのは人徳あってのものだろう。彼の教えを信じて外界に出た律の民にもまた尊敬の念を抱く。
「その人徳も挫折を味わったからこそでしょうなぁ」
由殿もまた蒼言の生き様に思いを馳せている。
「元々は家業を重荷に感じていたこと、突発的に私怨で官吏を目指したことを思えば、およそ清い人物だったとは考えづらいでしょう。隠棲生活で己の清濁を受け入れたことで、律では弟子をもつようになっても、謙虚であり続けられたのかもしれませんな」
蒼言は決して聖人ではなかった。それでも苦難を経て、一人の人間として天命を全うしようとした。地道に知識と技術を継承させていく意義を見出したのだ。
「己の矮小さを悟ったから、律が学びの中から自ずと変わっていくことを待てたのでしょうね。都を離れ、自然に囲まれた生活の中で、一人の人間ができることには限りがあると身を以て知った。若い頃の彼がこのことを理解していれば……」
「もしものことを語ると話題は尽きませんねえ……。もしかしたらもっと偉大な立場に就いてから律に来ていたかもしれませんし、何か事件に巻き込まれて、早くに命を落としていたかもしれません。こればかりは天にしかわかりません」
「まあ彼の生涯について浸るのは後にして、とにかく先を読みましょうぞ。今は勅書の件について調べているのですから」
「おっと、そうでした。読めば読むほど感興を催すものですから、つい……」
由殿に催促されて次の版木に視線を移す。
ここまで順調に発展しつつあった律に何があったというのだろうか。
――文は郁郁として楽なり。業は穏穏にして安なり。行人曰く、桃源、蓬莱、是にありやと。過なり。神仙は此にあらず。此は人の里なり。永に災い非ざるは無し。况んや律においてや。
意味深な文章の展開に、私達は「いよいよか」と心中で身構える。
――洛鳳より公の使い来たる。詰問して曰く、我は既往に散逸せし勅文を録するを務めとす。令邸は何処にあらんや。当地に令を置きて久しくも暫く使い来ず。是れ如何と。律民、
吾、民に問う。其の言より察するに、
吾、天を仰ぐ。之を知られれば殲滅を免るるべからず。意を決して即ち筆墨と玉石を取りて書を
<前編――了――>
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