第5話 危うい自由
前編 危惧
「一体、いつの間に?」
ほのかに揺れる燭台の火が風に揺られながらも強く燃え続けている。杯に注がれた酒は波紋を浮かべ、そこに映る私の顔をかき消した。
詩会は大団円の内に終わり、ささやかな宴が行なわれていた。昼間の賑やかさからうって変わって、今は静かな余韻を噛みしめるように、各々が和やかに談笑を楽しんでいた。
「皆さんが準備に追われている間です。あの間、私達はひそかに文を交わし合って気持ちを重ねておりました」
「そうだったのですか。別に大っぴらに顔を合わせても見咎める者もいないでしょうに」
「面と向かって話をする余裕がなかったのですよ。本陶殿のように気の利いた言葉をさらっと言えるほど、私には経験がありませんから」
「詩人も惚れた女性の前では言葉を失う。これは良い句になりそうです」
「ほら、そうやって上手いことを言って茶化す」
澄み渡った夜空に笑い声が吸い込まれていく。
星は点々と瞬き、月は煌々と秘境の家々を照らす。私は欄干に寄り掛かって杯を掲げ、月光を水面に注ぐ。
「見てください。月の女神も喜んでいることでしょう」
「本当に、美しい月です。あの光を頼りに、夜な夜な彼女に託す言葉を考えていたのですよ」
そう言って彼も杯を掲げる。曇りのない眼が天を真っすぐに見据える。
袂から覗く細く白い腕、それは今後も彼が抱え続ける矛盾だ。しかし、彼はもう迷わないだろう。守るべき者であり、支えてくれる者でもある彼女と共にある限り。
「それがあの漢柳ですか」
「ええ、お互いに文通の内容のほとんどが詩の添削でした。でも、それだけで心が通い合っているようで、本当に楽しいひと時でした」
「今後は面をつき合わせて詩を語れますね」
「はい。また彼女と詩を語れる時が来るなんて……。これも本陶殿と顔由殿のおかげです」
「礼なら鈍灰殿にしてください。あの方は私達よりはるかに前から、やきもきしていたようですから」
背後で「わはは」と沸く団欒の輪、その中心であの男がひと際大きな声で笑っている。向かい側に座る詩耽の楚々とした笑みとは対称的だ。
合いの手を打つ由殿も相当出来上がっているようだ。大柄で介護が大変だから酔い潰れないと良いが……。
「そうでしょうね。あいつが私達のことを一番近くでを見ていたのですから……。気味悪がるでしょうし、面と向かっては言えませんが……とにかく感謝しています」
「言葉を交わさずとも、鈍灰殿はわかっていると思いますよ。優しいお方ですから」
私の発言に耀白はくすりと笑う。
この時の彼は、私の中の「純朴な青年」という印象と違って、どこか大人びて見えた。背伸びせずに、ありのままの自我を晒した出来事が彼を変えたのだろうか。
「ふふふ。「優しい」ですか。たしかにそうですね。本人はそういう所を他人に見せたくないようなんですが、やはりわかりますか」
「わかりやすい人ですから。それに街の住民が彼を受け入れているのは、詩才があるからというだけではないでしょう」
素行が悪いと言われているが、滞在中にそれほど目立った話は聞いていない。
せいぜい酒に酔って土塀に小便で龍を描いただの、ツケ払いと言って市場の商品をちょろまかしているだの、それくらいだ。
「本陶殿も色々話を聞いているのですね。でも、それらの話にもちゃんと裏があるのですよ」
「と言いますと?」
「それは――」
「おーい! いつまで二人で話してんだ! 早くこっちに来い!」
こちらの声をかき消すほどの声量が飛んできた。見れば鈍灰がぐでんぐでんになりながら手招きしている。
いつまでも耀白を独り占めしていては詩耽にも悪いし、ひとまず戻ろうか。
「横槍が入ってしまいましたね。では、今の話に関してはいずれ詳しく……」
「ええ。いずれ必ずや」
そうして私達は華咲き乱れる談笑の輪に加わる。賑やかな語り合いは連綿と続き、緩やかに夜は更けていった。
それからしばらく、街は耀白と詩耽の祝賀一色であった。詩会で詠まれた漢柳が至るとこに掲示され、彼らの過去の詩集も爆発的な量が再版された。
詩耽はかつての元気を取り戻し、街に出れば人々がこぞって彼女の元に集まった。
耀白の方もあれから詩才がさらに一皮剥けたようで、順調な詩作を続けている。
鈍灰は相変わらず酒浸りだったが、少々人当たりに角が取れたらしい。由殿の毒気の無さが彼を変えたのでは……なんて語られている。
詩会が終わってからの私達は、変わらず街の住民達と交流を重ねたり、文献を読み耽ったりして律での日常を過ごしていた。そうこうしている内に、季節は秋がすっかり深まっていた。
冬になれば本格的な春まで、山越えは不可能になる。視察の期間も長くない。都への帰還の時が近付いていた。
「由殿、ここに来てから随分経ちましたね」
「ええ、まったく、居心地が良いと時が経つのもあっという間ですな」
私は一冊の書を机の上にポンと差し出す。読みこまれて所々綻びができている。
「『漢柳集』ですか。我々がここに来ることになったきっかけですな」
「そう、ここに着いた時に「仕事」の意味はないと結論付けましたが、念を入れて真面目に調査を続けてきました。報告の使いも皆送り出し、残るは私達のみです。そして決断の時がきました」
ここに来た当初の目的は「乱文を以て国家の法を犯す者の排除」であり、私達はその斥候といえる立場である。
「律は図らずも、体制を変えることになります。名目上の県令だった尹家に跡取りがいないのですから。尹巴殿の次を娘の婿となる耀白殿が継いで、なあなあにしてもその次がいない。ここに宮廷の息のかかった者が頭に据えられる可能性があります」
報告を偽って押し隠しても、いずればれることだ。いくらなんでも体制の変化は気付かれるに決まっている。
由殿も同意しつつ、自身の意見を述べる。
「今は自治を認められていますが、そうなる可能性は高いでしょうな。どんな些細なことでも憂いの芽は摘み取りたいと、中央の者たちは考えるでしょう。世の泰平の為に、いや、己の保身の為に」
「もちろんこの国に乱の恐れなど一厘の可能性もない。むしろ平和すぎて驚くくらいです。この街のあり様を伝えれば、天子も怒りを忘れて矛を収めるはず。でも……」
「そうはいかないのが政治でしょうな。それに都にいる漢柳支持派の動きも気になりますな。彼らが余計なことをして、ここにも飛び火しては大変です」
「むしろ私達がここにいる時点で、もう火の粉が降りかかっているといえます。私達の調べたことが確かならば、律はこの辺境で自治しているからこそ、平穏を保っていると言えますし……」
「火の粉が降りかかっている……。いや、もう大火が迫っているのかもしれませぬ。我々がここに来た事実さえ作れば、彼らはどうとでもできるのですから」
当初はやる気がなかった律の内偵も、進める内に少しずつ背景が見えてきて、気付けば深みに立ち入ろうとしていた。
律の者は私達が訪ねた本来の事情を知らぬまま、胸襟を開いてくれた。それによって律の内情を知ることができ、私達は中央の者たちの筋書きにようやく気付いた。
内偵の結果など関係ないのだ。文官を派遣した既成事実、それが彼らにとって必要だった。
任を与えられてから多少は記録――もちろん重要機密で普段なら見られない物――に目を通したとはいえ、任地のことを一切知らなかった者を寄こすのはおかしい。
我が華国は国力も充実し、いよいよ辺塞にも目が届くようになってきた。中央の者たちとしては律を完全に支配下に置くきっかけが欲しかったのだ。
そのついでに内部の不安分子もあぶり出そうとしている。それに都合が良かったのが漢柳だっただけのことである。
「律までの道のりですが、北方の城塞を繋ぐ街道が整備されておりましたな」
「退屈な役場仕事から逃れられると思って、うっかりしていました。さすがに山中に入れば道なき道ばかりですが、いずれこの辺りにも大きな拠点を建てるのでしょう。そうなると色々と面倒です。あるはずのない街がその山々の先にあるのですから」
都からすれば律は一部の者しか知らぬ秘境扱いだとしても、律としてはそうではない。この国は都に対して、後ろ暗い事情を抱えている。
遥か古のことや些細なことであっても、糾弾する理由などどうとでもなる。私達が帰京した後、準備が整えばこの一帯を抑えにかかるだろう。
「とはいえ、何もかも放り出す訳にもいきませんな。おそらく、その方が事態は悪化するでしょう」
「…………」
重苦しい沈黙がのしかかる。街の将来を左右する一大事が、私達の双肩にかかっている。
「いやはや、気付かぬまま呑気に報告の使者も送り出してしまいましたし、八方塞がりとはこのことでしょうな。享楽に安んじている間に、事は逃げられぬ所まで進んでしまいましたなぁ。情けない限りです」
由殿の嘆きももっともだ。この重大な事態に立ち向かうには私達は余りにも無力だ。
しかし、それでも私達がどうにかせねば、この街の自由は永遠に失われるだろう。
「過去を悔いていても仕方ありません。眼前の事態への対処だけを考えましょう」
散々悩み通した挙句、私は意を決して椅子から立ち上がる。由殿も「そうですな」と、力を込めてゆっくりと立つ。
窓から抜ける風が『漢柳集』の頁をパラパラとめくる。開かれた書には名も知らぬ者の詩が記されていた。
悠久風来迎虚室 悠久風来たりて虚室に迎う
一篇子戯破韻律 一篇子戯れて韻律を破る
流伝野鶴是作家 流伝して野鶴是に家を作す
間座親朋此対膝 間座して親朋此に膝を対す
パタンと書を閉じて、早々に外出の身支度にかかる。
『漢柳集』を再び懐に収めて、私達は部屋を出た。
宿を出た私達が向かったのは、県令の邸宅であった。突然の訪問に関わらず尹巴は快く出迎えてくれた。
「いつもいきなりですみません」
「いえいえ、本陶殿らならいつでも歓迎です。まあいつぞやに「家の中をよく見させてほしい」と仰って、本当に隅々まで見られた時は驚きましたけれども」
詩耽に詩会の参加を依頼した日のことか。あの時の閃きが隠された事実に近付く大きなきっかけになった。
県令は都の空気を事前に察知していたのだろう。だからわざわざあんなことをしたのだ。
「恐れ入りますが、今日も色々と驚きになるかもしれません」
私の発言に尹巴の目つきが変わる。卓に置かれた茶に伸ばしかけた手を一旦、引っ込めて姿勢を戻す。顎に手をやりながら、こちらを見据える。
「詩会の企画を含め、本陶殿からの申し出にはいつも驚かされております。今日は一体何を?」
謙遜しているけれども、この方の智慧も相当なものだ。
こちらがこれから言わんとしていることはすでに見抜いているのだろう。それ故に、警戒しているのがありありと伝わってくる。
「そうですね。まずは私達のことをお話しようと思います」
「はて? 貴方達のことはすでに往年の知己の如く知り合った仲だと、個人的に思うておりますが、まだ何かあるのでしょうか?」
「ええ。私達はこの街の人々と誠心誠意を以て、忌憚なく接しておりましたが、隠していたことがございます」
「と言いますと?」
私は由殿に顔を向けると、彼は無言で頷いた。
それから私達は己の本来の目的、律に差し迫った問題について語った。
漢柳を振興する為ではなく、場合によっては弾圧する為に来たこと。
律の自治権がいずれ奪われる可能性、果ては街の存在すらなかったことにされる可能性があること。
全てを明らかにするべきだと考え、ここを訪ねたこと。
一通り話し終えるまで、県令は口を挟まず、真摯に耳を傾けてくれた。
長い沈黙の後、彼はようやく口を開いた。
「当初はきな臭いとは思っておりました。ただ、お二人の人柄に触れるにつれ、そんなことはないと高を括ってしまいました」
「こちらの落ち度です。天子への報告の如何によっては、律に対する政策を今まで通りのまま、先送りにできると踏んでいました。ただ、それもおそらくできないと気付いた頃には後の祭りでした」
どう報告した所で文官を派遣した事実さえあれば良いのだ。集落の存在を認めて表沙汰にすれば、あとは権力でこの小さな街などどうとでもできてしまう。
「このような秘境にさえ怯えるほど、中央の官吏には猜疑が広がっておりまする。いや、文筆の影響をよく知っているのでしょう。漢柳が大きな流行となって、国の学術が覆ればお抱えの学者は払い箱になります。国の為の学術が権威を失い、智慧のある者が民間に増えれば、国家の維持はより難しいと彼らは考えているのでしょう。私個人の考えでは、そのようなことは起こり得ないのですがね。己の利益のみを求める者達は、今の立場を失うことを恐れるあまり、そのような妄執に囚われているのです」
由殿も唾を飛ばして熱弁する。
彼は元より国の為というよりも、世の中あるいは社会の為という点で学問に価値を見出していたので、今の学者の体たらくに思う所があるのだろう。
「考えはどうあれ、差し迫った状況なのは確かなようですね。私にできることなら何なりと協力させていただきますよ」
警戒の方は無事解けたようだ。
尹巴は前のめりになって私に続きを促す。
「では一つ、話にお付き合い頂きたいのですが」
私の申し出に尹巴はきょとんとしたが、すぐさま相好を正した。
「この街の危機なのです。いくらでもお付き合いしますよ。して、どのようなお話で?」
「私達が調べたことと真実の照らし合わせです。天子は矛を一旦収めて私達を派遣した。これは私が畏れ多くも抱いた勘ですが、あの方も知りたいのかもしれません。伝聞や記録でしか知らない自分の土地のことを」
自治を認めてはいるが、この天地は天子のものとされている。
自分の土地で好き勝手した挙句に反旗を翻すか、それとも与えた土地をよく治めているのか、それを見極めようとしているのだとしたら?
その意識が宰相の提言――文官の派遣――を受け入れさせたのかもしれない。
「畏れ多くも天子の心情を推し量り、それを人に語るとは、本陶殿もなかなか奇特なお方だ」
「尹巴殿、それはとうにご存知でしょう?」
由殿が不敵な笑みを見せると、尹巴も「たしかにそうでした」と高笑いした。私はやれやれと肩を落としつつも、彼らのあっけらかんとした言動のおかげで心が軽くなった。
「ここから長くなりそうですし、次のお茶を用意させましょうか。こういう時こそ落ち着いていきましょう」
「頼りになります。さすがこの街を治める方だ」
「名目だけの与えられた立場ですし、こういう時くらいは役に立たねば、街の者に示しがつきませんから」
そう言って尹巴はニコッと笑った。
〈第5話前編 ――了――〉
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