エピローグ

繋がる道


 律を巡る騒動から幾月か経った。あれからの私と由殿はというと、すっかりかつての暇な日常を取り戻して……とはいかず、新たな任地で多忙な毎日を過ごしていた。

「宇曽殿、先方へ送る書簡は……」

「それならそこの棚に……。あ、由殿、午後の会議ですけどやっぱ明日へ――」

「昼から視察と称して町へ抜け出すおつもりですかな?」

「…………」

「書類もまだまだ溜まっておりますし、今日はみっちり仕事をして頂きますぞ」

 やれやれ、どうやら逃がしてはくれないようだ。これでは詩を考える暇もない。酒に親しみながら物思いに耽っていたあの頃が恋しい。

 皇帝陛下の勅命により、律は正式に我が国の県として認められた。我々は都と律の道すがらに新設された集落にて西域との窓口となるよう、中書令曹齢然より命を受けて当地に赴任している。まだまだ小さい町だが少しずつ活気づき始めており、不便さも解消されつつある。下っ端官吏であることには変わらず、与えられた権限も弱々しいものだが、将来を想うと責任重大な役割だ。

「とは言っても、ろくに休憩を取らなければ頭が回りませんよ。私は貴方のように屈強な心身を持っておりませぬ故」

「いやはやまったく、仕方のない御方です。しばし休息にしましょう。茶を淹れてきますが逃げないでくださいよ?」

「行け行け」と手を無造作に振って由殿を送り出した後、椅子に座って大きく伸びをしつつ天井をぼーっと眺める。ここの所、官吏になってから一番働いている気がする。

 この地で過ごすようになって数ヶ月、どうにか生活の目処を立てねばならぬと奔走してきた。宮廷と律双方の支援を受けつつも、辺境の一歩手前にある寒村を盛り立てるのはなかなかに骨が折れるものだった。新任村長として政治の難しさを実感する毎日だ。日頃から憎まれ口ばかりほざいている私を補佐してくれる由殿には感謝してもしきれない。

「おや? 抜け出していないとは感心感心」

「怒らせた方が面倒だと思っただけです」

 ぶすっとしている私を気に留めず、由殿は湯気立つ碗を机に置いた後、懐から一枚の封書を取り出した。

「それはそうと、今しがた書が届きました。耀白殿からだそうです」

「仕事の書簡でしょうか?」

「いえ、どうやら私信のようです。書状が二枚」

 手紙を受け取り、紙面に目を走らせる。留め、跳ね、払い、いずれも精密な文字列は耀白殿の筆、細い字体で緩やかな筆遣いは詩耽さんの物だろう。


 ――暑気の合間に流れる清風が心地良い今日この頃、貴下におかれましては益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。先だっては私と詩耽の婚礼の儀にご来席頂き、厚く御礼申し上げます。

 さて、例の事件があって律は多少の混乱があったものの、今は落ち着きを取り戻して、詩耽と二人三脚で県令の職務に臨んでおります。義父上は初めは助役として世話を焼いてくれましたが、今はもうすっかり隠居して悠々自適な日々を過ごしています。詩耽はそれを見て「羽を伸ばしすぎやしないか心配だ」と言っていますが、私としては住民と和気藹々と詩談に興じる義父上を見られて喜ばしく思っています。今こうして律の民が安住できているのはお二人のおかげです。県令としてではなく友として改めてお礼を申し上げます。

 次にあの男のことなんですが……。奴は天子からお役目を与えられてからも相変わらず破天荒な行いばかりしているようで、全国のあちらこちらから良い報せ悪い報せ交々届いてくる有様でありまして、こちらとしては一度叱りつけてやらねばと考えているのですが、雲から雲へ渡り歩いているが如く、なかなか消息がつかめず困り果てています。詩耽は「いずれふらっと顔を出すだろうからその時まで放っておけば良い」と言っていますが、色々な意味で不安しかありません。ですので、以前そちらからご提案頂いた例の事業を以て、早晩奴の尻尾を掴もうと考えている次第です。

 もちろんこの事業にはそれ以外の意気も込めて参与させて頂きます。心身の性が普通とは異なる私を多くの人々が受け入れてくださった。この喜びはまさに宿にできる霊樹を見つけた金烏の心地です。それに報いる意味でもこの仕事を素敵なものにしたいですね。

 具体的な工程に臨むに当たっては改めて人を寄越しますし、私もそちらへ足を運んでお話できればと存じます。では、お体に気を付けて。


 耀太清


 律にも優れた版本があったおかげで、孔儒教の経書出版は宮廷のお墨付きをもらってからすぐに事業として形になった。かの地の書籍はすでに高い評価を得て、各地に広まっている。それを受けて私達は早くも次の仕事に取りかかろうとしていた。それは新しい漢柳詩集の編纂、出版である。これを風の便りで聞けば鈍灰だって律に帰ってくるはず。何故なら彼も生粋の詩狂いだからだ。

「由殿、「撰集」の件、近いうちに動きがありそうです」

「やや! さすがは耀白殿、仕事が早いですなあ」

「貴方もこれに作品を収めたいなら今から考えてはどうです? 

が溜まった書類を放置しないのであればそうさせて頂きます」

 はぁ……この男も口喧嘩が達者になったものだ。

 私はきまりが悪くなったので二枚目に視線を移した。


 ――いつも主人がお世話になっております。如何お過ごしでしょうか。

 薄明は鳥吟に耳を澄まし、白昼は書に向かい、月夜は琴を弾じて憂いに沈んでいた日々も、遠い過去のように感じるようになりました。今、彼と共に夢のような毎日を送れているのが不思議でなりません。これも良き縁が幾重にも重なり合ったおかげなのかもしれませんね。お二人には主人共々いつも感謝しております。

 父は長年の荷が下りてほっとしたのか、最近は頗る元気です。その様と言ったら羽を伸ばしすぎて反対に心配になる程です。公園で子ども達に歌や言葉を教えに行ったり、市場で大人相手に色々相談を受けてやったり、同世代のお年寄りの方には詩の手ほどきをしていたり……。主人にこの話を問うと「仕事を辞めて間もないし、じっとしていられないのだろう」だなんて言って、むしろ嬉しそうにしている始末です。染濁がここを離れたかと思ったら、今度は父が彼のような遊び人になってしまうようで私は気が気でありません。

 染濁と言えば、主人から色々聞いているのですが、彼は以前からとんと報せも寄越さずあちこちで好き勝手しているみたいですね。父とは違って、あの人のは根っからの性分でしょうから心配はしていません。ただ、また三人で色々語り合いたいなとは思っています。彼としては私達ののろけを聞かされるから勘弁したいのでしょうけど。

 放っておいてもいずれひょっこり顔を出すでしょうけど、街の人達も「以前よりも街は賑わっているけれども、あいつがいなくなってからどうも張り合いがない」と寂しがっていますし、ここは一度、彼に「里帰り」してきてほしいですね。

 蓮も平らかな水面に浮かんでいる姿を見るだけでは物足りません。波に揺らされたり風に流されたりして、その変化が興趣を呼ぶのです。したがって、主人と同じく私もできる限りそちらにご協力します。世間をあっと言わせる素晴らしい物を作りましょう。

 今後ともどうぞよしなに。


 耀詩耽


 やはり皆、あの男の不在を寂しく思っているらしい。居たら居たで騒々しいが、居なくなると不思議とあれが恋しくなる。

 彼はあの時の献策が叶い、今は律と宮廷、国内の各地域、そして西方の異国を行き交い、律の広報活動を行っている。その職務は各地の情報収集から自治体ならびに有力者との交渉まで多岐に渡っている。

 こちらには本人からの連絡はめったにない。ただ、事業を円滑に進める為になまじ権限を与えすぎたおかげで、各地から怒号とお褒めの言葉が続々と届いてきていた。色々言いたいことが山積しているものの、請求書や賠償を求める書状が来ないだけ、マシだと思うしかあるまい。

「詩耽殿は何と?」

「思いっきりのろけたいらしいです」

「へ?」

「はい、どうぞ」と手紙を返した隙を突いて、足早に執務室を出る。「あっ!」と声が聞こえた所で私はダッと走り出した。声の主は追おうとしたものの、書類の雪崩に巻き込まれていた。後方から恨み言が聞こえた気がしたが気のせいだろう。

 急ごしらえの小屋のような庁舎を出て、集落をうろつく。住民も外で仕事している部下も慣れた様子で「またサボりですか」と笑いかけてくる。

「いやいや、これも私の仕事だよ」

「ははは、長官もいつも大変ですね。顔由殿には私らから上手く言っておきますよ」

「そうか。助かる」

 彼らに見送られ、私は集落の外れにある丘陵を登っていく。頂上には陰で一休みするのにちょうど良い木が一本生えており、集落の全体を一望できる。私は赴任してきた当初からここを憩いの場にしている。

「はぁ、よっこいしょっと」

 木陰に腰を下ろし、天を見上げる。白日は燦々と輝き、空の青さはどこまでも果てしなく広がっている。少々視線を下ろすと、遠方で青々と茂った山がいくつも重なり合っている。あの向こうに律はある。そう、律は存在している。

 この正反対の方向は洛鳳の都だ。振り返ってみると、ついてきてくれた妻と子には不便な暮らしをさせてきた。私が家にいる時は努めて明るく振舞って「都にいた頃より生き生きしていて格好良いよ」と励ましてくれて、頭が下がるばかりだ。

 宮中の方はというと、件の三氏はいずれも当主が変わった。元々一族の中でも不満が燻っていたそうだ。前当主となった馬翰、虞策、陳甫はすっかり老け込んで隠居してしまった。新しい当主は各々よく天子を助け、国も益々栄えるだろうと専らの評判だ。中書令も「同じ位階で相談相手がいるのは頼もしいことだ」と非常に喜んでいた。長い孤独な戦いが終焉して、ようやく前に進むことができる。その嬉しさと言ったら、周りには決して計り知れないだろう。

 背中も地面に倒し、ばたりと寝転がる。その上を風が通り過ぎ、木の葉を何枚か連れ去っていく。木漏れ日が私の顔に降り注ぎ、思わず目を細める。穏やかな昼下がりの空気がまどろみを誘う。

 うとうとしかけて少し経った頃、「宇曽どのぉー」と声が聞こえてきたので身を起こす。由殿がひいひい言いながら丘を駆け上がってくるのが見えた。

「はあはあ、宇曽どのぉ、宇曽どのぉ、ひい、ふう……オエッ」

 全速力でここに向かってきたにしたっておかしい程に肩で息をしている。そういえばこの男はでかい図体している癖に、体力がなくて外での活動が不得手であった。

「由殿お疲れ様です。はい、どうぞ」

 水筒を手渡し、ひとまず落ち着いてもらう。大男は無言で受け取るとぐびぐびと水を飲み下していく。

「ふぅ……。宇曽殿、ひどいですよ! せっかく今日は真面目に仕事してくれると感動していたのに」

「はっはっは! 騙したのは謝りますが、まあ落ち着いてくださいよ」

「まったく……。で、ここに居られるということは何か懸念でも?」

 新集落に移ってからというものの、私は胸中で不安の芽が顔を覗かせると、この丘を登ってざわつく心を落ち着かせていた。それを話した覚えはないが、どうやら彼は彼で察していたようだ。さすがの長い付き合いと言うべきか。そういえば彼はここに来ることに関しては今まで一度も文句を言ったことがない。

「いえ、今回は違います。何と言いますか、誓いを立てたくなりまして」

「誓い、ですか」

「ええ、「撰集」を……いえ、漢柳を必ず全国に普及させると」

「全国にですか……」

「大げさでしょうか?」

「いいえ、宇曽殿にしては控えめですな。どうせなら華国に留まらず、この天の下、山海の果てまで普く広めましょう。私達がこれから為す仕事はそういうものだと存じます」

「ふふっ……。出会った頃から思っていましたが、由殿は本当に遠慮というものを知らないですよね」

「そうでなきゃ宇曽殿についていっていませんよ。未開の地で古の秘境と世界を繋ぐ。天下の大業、大いに結構じゃないですか。私はこういう仕事をしたくて官吏になったのですから」

 天下の大業とは文字通り大きく出たものだ。官吏になった理由については全くの初耳だ。

「ええ!? 今まで話したことありませんでした?」

「ええ、全く。。さて、仕事に戻りましょうか」

 彼の口調を真似して茶化しつつ、私は立ち上がって丘を下りていく。腹の底まで知り合った友同士であるが故に、今の空気が照れ臭くて居たたまれなかったのだ。やかましく言葉を応酬しながら町へ戻ろうとしていた所で、聞き覚えのある吟嘯の声が後方から聞こえてきた。


 金烏宿霊樹  金烏霊樹に宿す。

 騰蛇巡雲海  騰蛇雲海を巡る。

 芙蓉遊流水  芙蓉流水に遊ぶ。

 柳花極光彩  柳花光彩を極む。



『桃花詩記』――完――

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る