後編 咲き初まる


 決起集会の翌朝、早速中書の手の者が私達に彼の意向を伝えにやってきた。どうやら鈍灰も会談に参加して良いようだ。あの書が功を奏したのかはわからないが、間が空いて冷静にこちらの話を聞く気にはなったらしい。

 中書の部下は用件を伝えると足早に私の邸宅から去っていった。

「まさかもうお呼びがかかるとはな」と話しかけられ、振り返ると鈍灰がすでに起きてきていた。

「鈍灰殿がこの時間に目覚めるとは、今日は荒れそうですね」

「銘酒は体に残らんようでな。心身共にこの晴々とした空のように絶好調だわい」

「そう喜んで頂けると、秘蔵のブツを引っ張り出した甲斐があるものです」

「できればまた味わいたいものだな。で、中書殿の元にはいつ向かうんだ?」

「これからすぐにでも。執務室ではまずい話もあるだろうから私宅へとのことです」

「ん。そんじゃあ由を叩き起こさんとな」

 私達は即座に支度を整え、曹家の屋敷へ赴く。長旅の疲れと酔いが黄金のまどろみをもたらしてくれたおかげか、不思議と体が軽い。

「いやはや、中書令の家ともなると、さすがの門構えですなぁ」

 我々の家と比べるのもおこがましい程に立派な邸宅だ。重厚な造りの門は見る者を圧倒し、その内奥からは風雅な趣が溢れ出ている。同じ都といえども、我々の住む所とは別世界のようにさえ感じる。

「感心してしまう気持ちもわからなくもないですが、観光に来た訳ではありますまい」

「尹巴殿、もちろんです。中書殿が参内前の貴重な時間を割いてくださる訳ですから。ここで何らかの結果を残さねばなりません」

「向こうもそう思っているだろうよ。何せ、昨日のあの態度から打って変わっての今朝だからな」

「もしかすると、このままひっ捕らえられるなんてことも……」

「高官といえども兵を動かすには手続きが必要ですし、いくら何でもそのような無茶はあり得ませんよ」

 由殿の杞憂をバッサリ切り捨てて曹家の門を訪ねる。精悍な佇まいの衛兵が立ちはだかる。

「あいや、待たれよ。ここは曹家の館、許可なき者は通せん」

「「常侍の張本陶が来た」と中書令にお伝えください。それで通じると思います」

「張本陶……? ああ、そなたらのことはすでに当主より伺っている。こちらへ来られよ」

 どうやら仔細は邸内に普く伝わっているようだ。臣下達の円滑な連携により、私達はあれよあれよという間に中書令の元へ送り届けられた。

 中書令曹齢然は神妙な面持ちでこちらに接してきた。

「昨日の今日ですまない。いきなりで不躾だが、諸君らには速やかに天子と謁見して頂きたい」

「不躾にも程がある。昨日はあんな勝手な態度を取っておきながらどうして……」

「鈍灰殿、待ってください」

 どうやら事態は想像以上に逼迫していると見られる。突っかかる鈍灰を諫めて、私は齢然に尋ねる。

「万物流転、機を逸するなかれ。一夜明けて事情が変わるのは往々にしてあるものです。先のわだかまりは後に解くとして、今は為すべき役目を果たしましょう。まず、宮中で何が起こっているのですか?」

「話が早くて助かる。昨夜遅くのことだ。律文派の者より良からぬ報せを受けた。「虞氏らが強硬策に出る」とな。おそらく都の律文派を一掃し、律に兵を差し向ける段取りがついたのだろう」

「段取りとは……?」

「動議を押し通す為の頭数が揃ったのだろう。律の諸問題は今まで都の中枢のみで議論され、不当な摘発も三氏の独断で秘密裏に行なわれてきたが、奴らはいよいよこれを表立って為す腹積もりだ。天子といえども群臣から突き上げられたらそれを無視する訳にもいくまい。これを許せばますます彼らの専横を許すことになるだろう」

「ん? おかしいですな。そもそも我々が律へ派遣されたのは、文の乱れに憤る天子を諫めた上で決定されたと小耳に挟んでおります。周りに突き上げられてではなく、自ら率先して律文規制に動いているものかと……」

「実際の所は律文に一定の理解をお持ちで、派兵に対しても慎重であられる。我々が弾圧を止める為に苦し紛れで手を打ったのに対し、三氏派は自分達が依然宮中において主流であることを示す為にはったりを流した。貴殿らが聞いたのはそれだ。その虚言が事実のように扱われてしまうのは情けない限りだが……」

 この問題の発端は宮廷内の権力闘争である。虞氏、馬氏、陳氏の三氏は対立している曹氏の一派に対し、糾弾の一矢を放った。それが都に密かに広まりだしていた律の文章、いわゆる漢柳の弾圧であった。

 彼らは文化芸術における論争を巧みに操作し、やがて政治上の論争へ展開せしめたのである。要するに曹氏を排せんとしたが為に、彼の一族の出身地である律県を標的に選んだ。

 それへの対抗策として齢然は律への査察を以て、今回の火消しに動いた。苦境に立たされる中でどうにか案を通し、私達を律へ派遣したのである。

 ただ、相手も周到かつ油断ならなかった。わずかな綻びも許さぬと言わぬばかりに、情報を操作して権力基盤を固めたのである。以上が私達が律へ旅立つ前の背景らしい。

「お前らの権力争いの為に槍玉に挙げられる律の皆が不憫でならねーよ。まぁここから逃げ出した俺も同罪だから力を貸してやるけどな」

「昨日は無碍にあしらってすまなかった。別人を装っているとはいえ、行方不明になった皇族が帰ってきたと騒ぎになる恐れもあったのでな」

「なんでぇ、あれは演技だったのかよ。こちらは本気で憤っていたと思ってへこんでいたってのによう……」

「本気だったさ。どこで良からぬ者が聞き耳を立てているかもわからぬのに、無防備、我が物顔、能天気、浅はか、短慮、厚顔無恥、不遜、下品、服がよれている、臭い……」

「待て。後半のは余計だ」

「……ともかく宮中で話すのは危ういと判断した。君達が都の門をくぐった時点で情報はこちらに届いていたのでな」

「中書令、早々に報告に向かおうと決めたのは私です。うかつな行動を取ってしまい、申し訳ございませんでした」

「よい。それも宮中の悪弊を知っておればこその行動だ」

 昨日とは幾ばくか違って、中書の態度に柔らかさを感じる。これも私邸だからこそなのだろうか。一方で宮中の状況はかなり緊迫しているとみられる。

「参内する前に、この前は聞けなかった査察の報告を聞いておきたい。この件に対する君達の意見も含めてな」

「わかりました。律を想う者として、全てをお話致します」

 私達は律で経験した出来事、出会った人々、かの地にまつわる過去、そして私達が為そうとしている策について速やかに語る。

 その間、曹中書は口を挟むことなく、一言も聞き洩らさぬよう傾聴していた。そろそろ参内の時間が近付いている。差し迫った状況の中、彼は私達の志をどう受け止めたのだろうか。

「君達が為そうとしていること……。これは律の民の総意か?」

 その問いに尹巴が凛然として答える。

「全ての住民が同意賛成した、とは全幅の自信をもってお答えすることはできません。街のあり様が変わるのは不安だが、生活が失われるよりは良いというのが大勢の考えでしょう。ただそれでも、里の危機に当たって、各々が為せることを為そうと動いてくれた。いえ、今も動いてくれています。俗世から隔たれた秘境といえど、いつだって絶えず変化して歴史を重ねてまいりました。皆で時代に沿った形を模索していこうと……。この点においては住民一同一致しております」

「各々の意志の元に既に計画は動いている……。然ればもう止めることはできないか……」

 考え込む齢然の背を私は後押しする。

「三氏がこの問題を世間に明らかにするならば、我々の計画もまた進めやすくなると存じます」

 齢然は鈍灰へ気遣うような目線を送る。

「お前は良いのか?」

「こういう時こそ己の立場を利用しないでどうする? それにようやく見つけられたのだ。天命とやらをな。頼む。お前の力を貸して欲しい」

「かつてここから去る前にもそう言って欲しかったものだ」

「……すまん」

 長きに渡る断絶が二人の仲にしこりを残している。

 あの時にこうしていれば、あの頃に戻れたら……拭い去ったはずの後悔の情が再び湧き上がる。わだかまりを残したままの再会はえてして人を頑なにするものだ。私達は固唾を飲んでその場を眺める。

 しばしの無言の後、齢然が口を開いた。

「今度はどこかへ行く前に一言断れよ」

「は?」

 齢然は続けて、呆ける鈍灰の頭をはたいた。ペシンと小気味の良い音が邸内に響く。

「痛え!」

「文昌にも後で殴らせてやれよ。さ、一発かましに行こう」

「齢然、お前……。ああ、そうだな。あの頃とは違うと、奴らに見せてやろう」

 どうやらいらぬ心配をしたようだ。二人の間には幾ばくかの断絶なぞ、意味を為さぬ程に強固な絆がしかと存在していたらしい。

「どうやら決意して頂けたようですね」と、私は一声かける。

「ああ、この策が成ればこの国は変わる。私はそう確信した。何より友が覚悟を決めて、わざわざこの地に戻ってきたのだ。私もそれに報いたい」

「いやはや、中書令のお墨付きを頂いたならばあとは進むだけですな!」

「律からも事は順調に運べていると続々と報告が入っております。あとは時間さえできれば……」

「此度の謁見でどこまで粘れるかだな。三氏の献策が通って、天子――文昌が勅命を出さないように立ち回らねばなるまい」

「都では元々素地はできています。あとは地方からの情報がこちらに浸透するのを待って……」

「俺達が爆発させれば」

「三氏も強硬な行いはできない!」

「という訳ですね」

「話はまとまったな。外に車を待たせてあるから君達も共に乗りたまえ。さぁ参ろうか」

 私達は曹氏の邸宅を出て、馬車で宮廷に向かう。鈍灰や尹巴は慣れた様子で車に揺られていたが、由殿や私は身分に見合わぬ扱いが故に、何とも言えぬばつの悪さを感じた。やれやれ、この有様を他の同僚に見られたら何を言われるやら。

 朱に彩られ、雄々しくそびえ立つ宮廷の門は、いつも通勤していた頃とも昨日の帰京の折とも異なった雰囲気を醸し出していた。

 門の内外を兵士達が慌ただしく行き来している。

「何やら物々しくありませんか?」と怪訝な尹巴の言葉に一同は無言で頷く。

 曹中書が「何かあったのかもしれぬ」と漏らす。

 馬車には曹家の紋を掲げられているので通行には問題ないだろうが気にはなる。門前に停めて兵に尋ねようとした所、向こうからこちらを静止してきた。

「止まられたし! 止まられたし! 曹中書の車馬でございますか?」

「そうだが……この騒ぎは何事だ?」

「政治犯を捕えたと馬丞相が仰せです。直ちに太礼殿に参上するようにと」

「馬丞相」とは先より話題に上っている三氏の一つ、馬家の当主である馬翰ばかんのことである。

 馬翰、字は焚仁ふんじん、洛鳳に生まれ、洛鳳に生き、洛鳳に死ぬことを天命とする華の国の丞相である。その政治理念は絶対的な中央集権を是としている。全ては一族の恒久的繁栄を望むが故であり、その為には皇帝さえも意のままに操らんとしており、常に策謀を巡らしている。

 と、いうのが専らの評判だ。

 その馬氏より、天子が政務を執り行う太礼殿へ来るように要請があったという。

「わかった。すぐにそちらへ向かおう」

「お気を付けください。あまりに急なことですから」

「ありがとう。君の忠言、心に留めておこう」

 声をひそめてこちらを気遣う兵に見送られ、馬車は太礼殿へ足を向ける。相手が先手を打ってきたことで車内にも緊張が走っている。

「いやはや、まるで今日にでも決着をつけようというような性急振りですな」

「向こうとしてはこちらに一分一厘たりとも主導権を握らせたくないのであろう。時間を稼ぎたい所だが、そう易々と許してくれんか」

「種はすでに撒かれている。じじい共がいくら手を打った所で今更止められんさ」

「そう願いたい物だがな……」

 大らかな由殿、泰然と構える鈍灰に対し、齢然は些か慎重な姿勢を見せている。

 彼の憂慮ももっともだ。相手は己の利の為ならば、種が芽吹いた大地を根こそぎ破壊するのも辞さない連中だ。

「到着しました」と御者が告げる。いよいよ対決の時が来た。齢然を先頭にして、粛々とした足取りで私達は太礼殿の扉を通る。

 中にはすでに百官が出揃っていた。そして最奥の御座には……。

「文昌……」

 覇気がなく、曇った表情の皇帝の姿を目の当たりにして鈍灰が小さく呻いた。私達も内心驚いた。

「皇帝とはかくも威厳がないものか」と。

 ――おい、どうして中書令とあの落ちこぼれが……。

 ――あれが例の秘境の……。

 今朝の騒ぎもあってか、律文を取り巻く諸問題は官吏の間でとうに話題となっているようだ。木枯らしの如き、冷えたざわめきが私達を出迎える。張りつめた空気の中、私達は天子の御前に進み出る。

「皇帝陛下におかれましては常にご壮健であらせられることを心よりお慶び申し上げます。中書令曹齢然、散騎常侍張宇曽、顔由、そして……律県令尹巴、同じく律の文士鈍灰、ただいま参上つかまつりました」

 齢然に礼に合わせ、面を深々と下げる。伏した視線を左右に動かして周囲を窺い見るに、吊り上げられる罪人を見物しにでも来たかのような様子だ。同情、冷笑、諦め、結末はわかりきっているとでも言いたげだ。

「齢然、よくぞ――」

「随分遅いご到着でしたな、中書令殿」

 言葉を返そうとした天子を差し置いて、その側に侍る老人がねちっこい声色でちくりと一言告げる。

「馬丞相、始業の刻限には間に合っているはずですが――」

「いけませんなぁ。中書令ともあろう者が。間に合ったから良かったものの、今朝のように突発的な朝議が入ったらどうするおつもりです」

「……配慮が足りず、申し訳ございませんでした」

 不毛だと悟ったのか、齢然はあっさりと詫びて早々に話題を切り上げる。目上が悦に浸る為だけのやり取りに精神を消耗させられるのも、役人の世界ではよくあることだ。

 本来ならば眉をひそめて皮肉の一つでも返してやりたいが、それを行なったとしても得られる物はない。

「それより、今回こうして官吏を召集した理由をお話し頂けますか」

 冷静沈着に受け流す辺り、流石は齢然といった所か。馬翰は「いけすかない奴め」とでも言いたげに大きく息を吐いた。天子の御前で堂々とこのような振る舞いができてしまうとは……。

 天子の心情を汲むと胸が痛む。私は不良役人だが天子を敬う心だけはしっかりと持っている。馬翰の不遜な態度を目の当たりにして、腹の底では闘争心がめらめらと燃え上がっていた。

「それについては儂らから説明させて頂こう」

「此度の件、我らの手腕あっての摘発なのでな」

 馬氏の隣にいる二人の文官、面識はなくともあの得意そうな面を見れば察しがつく。

 三氏の内の残り二氏、侍中虞朔ぐさくと御史台大夫陳甫ちんほである。侍中は中書省と並んで詔勅を扱う省庁である門下省の長官に当たり、虞朔もまた政治の実権を持つ立場である。御史台大夫とは宮中の風紀取り締まりを担う省庁であり、陳甫はその長を務めている。

 我が国では権力の分散を図って丞相、侍中、中書令と三つの役職が皇帝の直下に置かれているが、これが仇となって争いの火種を生んでいる。皇帝の意志を尊重し、よく支えていこうという中書令に対し、丞相と侍中は己が利益の為に皇族の存在を「命を下す装置」としか思っていない。本来ならば後者二氏を排斥する動きがあるべきなのだが、彼らは官吏の監察機関である御史台を味方に取り込むことで宮中において勢力を盤石にしている。

 虞朔の声が場内に響く。

「諸官の耳にはすでに入っておるだろうが、この宮中ではとある議論が長く燻ぶっていた。それは国の文学を根底から揺るがす重大な案件であったが、これに関わるある地域、ならびに人物が少々厄介であるが故にこれまで表沙汰とならなかった。その地域とは律県、宮廷では一部の者しか実在を知らされておらなかった秘境である。人物とは……ここにいる曹中書令のことである」

 齢然は表情を変えぬまま、沈黙している。彼らの狙いがわかっている以上、その後の主張も予想がつく。

「何故、洛鳳の都とは縁もゆかりもなさそうな秘境が今ここで議されることになったのか。それはかの土地由来の文化がこの都の伝統ある文化を脅かし、果ては国政を乱す病巣となった為である」

「侍中! それは違います! 律の者は――」

「黙らっしゃい! 弁明は後で聞いてやるからそこに直れ!」

 由殿が口を挟むが、陳甫の大喝に遮られてしまう。屈強な兵士がすかさず現れ、私達の前を阻む。

「くっ!」

「丞相、こちらに発言の許可を」

「御史台も言ったであろう。貴君らの言い分は聞くと」

「後っていつだよ」

「黙れ。今は侍中の弁論中だ」

 齢然の要求も、鈍灰の抗弁もにべもなく却下される。

 虞朔はなおも高々と主張を続ける。

「律の文化、それはすなわち「漢柳」と呼ばれる独自の詩形を指す。これはわが国伝統の律詩や絶句と同じ字句数を用いた形式ではあるが、その内容は甚だ下劣である。技巧は少なく、謡の流れはぶつ切りで淀んでおり、およそ聴くに堪えない」

「歳を重ねただけの老害が! それはお前の感想だろう!」

「フッ、どうやら尻尾を現してくれたようだ。諸君、よく聞くが良い。宮中は今、文化の侵略者による危機にある。彼らはこの乱文を国家の正式な文筆とし、我らの「言葉」を奪おうとしている。天子の元に理路整然たる上奏が贈られ、厳粛なる勅文が下されることで国政は安定する。彼らはこの秩序を破壊しようというのだ。今の暴言を聞いたであろう。これこそがこ奴らの正体である。今朝、我々はこの漢柳論者の会合を摘発した。現場には乱文ひしめく書が積み上げられており、中には到底許しがたい内容の物が存在した」

「許しがたい内容だと……?」

 拘束された漢柳容認派の所持品に良からぬ物があったとなると、私達の形勢は俄然不利になる。

 虞朔は懐から書を取り出し、思いっきり突きだした。

「これは律を我が国の帰属から離れさせ、独立せんとする内容の檄文である! これまで知る者は限られていたが、律は古より我が国の属となり、連綿と密交を紡いできた。使者を交わし、彼らはその恩恵を享受してきた。しかし、これによれば彼らは遥か古より我が国を簒奪さんだつせんが為の計画をひそかに且つ丹念に推し進め、ついに現代においてそれを実現しようとしていたのである!」

「それは暴論です! 律は叛逆なそ一切考えておりませぬ!」

 あまりに飛躍した論理に尹巴が咄嗟に反駁する。

 しかし、それもあえなく握り潰される。

「ならば何故勅書を捏造した!? 何故偽りの国使を立て、詐謀を以て自治を獲得した!? いったいどれだけの間者を宮中に送り込んだ!?」

 柳蒼言の時代に発生した勅書捏造事件のいきさつは既に彼らも知る所にあるらしい。その前の頃に起こった国使殺害事件の存在までは掴めていないようだが、これも議論の流れからすぐに明らかになるだろう。

 蒼言の時代は四、五百年前、華国による統一が果たされて間もない頃である。記録も不確かで事件の責任を問うにはあまりに時間が経ち過ぎている。

 だが、彼らはこう熱弁する。

「王朝草創期より律の者が国家の政治に関わっていたとなれば、この国の根底を揺るがす重大な事件である。今日に至るまで、彼らが己の不都合な事物を隠してきたとなれば、この地が秘境の扱いであったことも何らかの意図があると考えられる。その意図とは何か。鍵を握るのは西域への交通である。我が国は常に国外に視線を向け、積極的に版図を広げてきた歴史がある。東の、北の、南のえつ、いずれも国交を結び、中には主従の約も交わしている国もある。しかし、西域はどうだ? まるで何も開拓されていないではないか。これは全て、危難が及ばぬ所から甘露のみを吸わんとする俗物どもによるものである。斯様な現実に対し、我らは断固たる行動を取って、正統なる華国を取り戻さねばならない。引いては宮廷内において律に親しき者を排して膿を出すべきである。さらに当地への出兵を以てこれを制し、帝道による統治を進めようではないか。天子の臣として、この国の更なる発展こそが我ら三臣の望みである。諸官らの後押しをここにお願いしたい」

 解答に窮する百官達は周囲の顔を窺って趨勢を見計らっている。然れども、三氏の眼線が一度集団に注がれると、まばらに拍手が起こり始めた。それはじわりじわりと広がり、間もなく万雷の轟音となった。

 欺瞞である。彼らは律に全てを押しつけるつもりだ。

「皇帝陛下、どうか私めに発言の許可を頂きとうございます」

 音の渦を切り裂く粛然たる言葉、発言者に場内全ての眼が向けられる。

 その男はあちこちにほつれの跡がある粗末な衣を着ており、髪は無作法に伸ばし放題で肌は薄汚れていて清潔感がない。しかし佇まいを見るに、背筋はすらっと伸び、眼には光が宿っており、力強さと慎み深さが調和している。

 雲より出でた月の如く、ゆらりと舞い現れた彼の存在感に場は早々に静まりかえった。

 一瞬、呆気に取られていた馬丞相が我に返る。

「鈍灰と申したな? 貴様らに発言は――」

「よい。認める」

 背後から予想外の言葉が飛んできて、丞相はぎょっとして振り返る。こちらからは見えないが、きっと苦々しい表情をしているに違いない。

「陛下……!」

「この件は一部の一存で決められることではない。せっかく視察吏を派遣していたのだから彼らの意見も聞く必要があろう」

 馬丞相は「ぐっ……」と呻いて渋々引き下がる。表情にありありと心中が表れている辺り、所詮俗物か。

「今この場において、律を直に知っておるのはそなた達以外におらぬ。是非、話を聞かせてほしい」

 先よりも天子の目に活力が宿ったように見える。穏やかな口調の節々には遠方の友とまみえた時のような温もりさえ感じられた。

 鈍灰は深々と拝礼して天子に応じる。

「機会を賜り、ご感謝申し上げます。さて、まずはここに集まって頂いたお歴々に改めて名乗らせて頂く。私の名は鈍灰、律の地にて悠々自適を送る隠者――というのは世を忍ぶ仮の姿……」

 面を上げ、真っすぐに天子を見据えながら彼は次の言葉を発した。

「真の名は叡朱旻えいしゅみん、先帝叡賢えいけんの第十八皇子にして、現帝叡文昌の侍従を務めておりました」

 場に怪訝な空気が漂う。

――朱旻? 聞いたことがあるか?

――現帝の侍従といっても何人もいるからさっぱり……。

――大体、本当なのか? 皇族を名乗るにしても第十八って所が狙っているようで怪しいぞ。

 ざわつく官僚達の様子を見て、馬翰が「勝ったな」と言わんばかりにほくそ笑む。「それがお前達の切り札か」と見下した視線をこちらに向ける。

「ははは、何を申すかと思えば客人、そなたは皇族で天子のお側に仕えていたと?」

「そうでございます」

「冗談も休み休み言いなさい。たしかに朱旻様は天子の側付きを務めておられました。ですがあの方はすでに――」

「証拠ならある。正直、大勢に見られるのは気が憚るが、この際仕方あるまい」

「まさか……!」

「見るか? 男に見せる趣味はないんだが――」

 改まった口調が性に合わないのか、鈍灰はさりげなくいつもの調子に戻そうとしつつ、衣の帯に手を掛ける。

「待て待て、ここは天子の御前ぞ。陛下に汚らしい物を見せようとするでない」

「兄弟なんだし、小さい頃から見せ合っとるんだからええだろうが」

「ええい、良いから待て」

 馬は衛兵に検めるよう目配せを送る。衛兵が鈍灰の周りを囲い込むと、彼は臆面もなく衣の帯を解いた。

 凝視数秒、衛兵の一人が声を発する。

に違いありません」

「そうか。それだけか」

 馬が安堵した束の間、兵が驚くべき言葉を告げる。

「いえ……」

「何だ?」

「天子の印が……」

「何……!?」

 馬は信じられんという表情を浮かべる。虞朔と陳甫がドタドタと慌てて囲いの元へ駆け寄る。

「丞相、間違いありません!」

「この男は紛れもなく……!」

「そう、これが証拠……。がないだけならただの元宦官とも前科者とも言えるが、俺にはこの烙印がある」

 彼らが慌てふためく理由、それは鈍灰が正真正銘、現帝の兄弟叡朱旻その人だからである。では何故、彼がそうだといえるのか。それは我が国の帝位継承における慣習が関係している。

 我が国では新しい皇帝が決まった時、その兄弟は皆去勢させられ、内股に天子印と何番目の兄弟かを示す番号を烙印される。姉妹に関しては生まれつきより後宮に入れられ、異性と関わることを生涯許されない。これは次代の権力闘争を未然に防ぐと共に、帝位継承間もない中で地盤を固める為に取られている処置である。

 傍系が力を持つことを抑えつつ、血統を継がせていく。そうすることでこの国は長く秩序を保ってきた。

 ちなみに去勢の処置は新帝の決定後に為される。故に先帝の在位中から新帝の決定までの間に子を為すことは可能で、新帝が不妊であったり、早逝したりした場合、別の兄弟が皇位を継ぎ、その子らがさらに次の皇位継承へと臨む形となっている。何かと綱渡りな制度だが、これで血統が続いてしまっているのだから仕方ない。

「そなたが行方知れずとなっていた朱旻殿下だというのはわかった。だが、これが何の意味をもつ? 枯れ落ちた葉は二度と枝に帰ることがないのだぞ?」

「意味ならあるさ。それに落ちた葉は土の肥やしとなって新たな芽を育むぞ。それに、芋だって焼ける」

 脱げかけの衣服を整えつつ、鈍灰は飄々と言葉を丞相に投げ返す。どんな場にも呑まれないこの不敵さこそ、彼の持ち味である。

「曹中書! 貴様はこ奴のことを……」

「ああ、お前達の暴挙を止めるにはうってつけの人材だろう?」

 旧知の仲である中書は知っていただろうが、鈍灰は私達には律を発つ際にこの烙印を見せてくれていた。精巧な造りの天子印を作製するには、相応の技術力が必要であることは既知の事実である。すなわち柳家の本元があった洛鳳と柳蒼言の技術を受け継いだ律でしか為し得ない物だ。

「洛鳳左京一の条に存在した柳氏……。丞相、これを聞いて思い当たることはないか?」

「私とて百官を束ねる者、その姓は聞き及んでいる。かつて都に知らぬ者はいないとまで呼ばれた一族だ。ある事件がきっかけで没落したらしいがな」

「だがその生き残りが律にいた。いや、正確に言えば事件の直前に都を脱した者がいた」

「何だと? 妄言も甚だしい。柳氏は――」

「そう、宮中の機密を扱う故に厳しい規律が課されており、柳氏の者は洛鳳から出ることさえ許されていなかった。しかし、一人例外がいた。しかもそいつは勅書の書式に、天子印の製法も知っていたってんだから驚きだ」

「っ!?」

 三氏一同仰天す。場を見守る他の官吏は要領を得ぬ様子だ。鈍灰は構わずつらつらと言葉を続けて畳みかける。

「都を去り、律に辿り着いた柳一族最後の生き残り、名は蒼言という。彼は己の身分を捨て、放浪の末に当時未開の律に至り、そこであらゆる智と技と徳を民に授け、やがて尊崇の対象となった。蒼言は新たな知見を得る為に街の外へ出ることを奨励していた。それが伝統となって、国の普く土地に律を祖とする氏族が生まれた。もちろん多くはそれを公にしていないがな。それで都にも彼らはやってきた。律で生まれ育った奴が都でまず興味を持つもの、言うまでもあるまい」

「柳家か……」

「そうだ。律じゃあ柳蒼言の生涯は誰もが諳んじることができる必修科目、いや、心に刻み込まれた誇りだ。街の祖の生まれ故郷を知ろうとするのは必然、しかし記録がスコンと抜け落ちている。そうなれば何か意図があったと考えるのも不思議ではない。だから彼らは調べた。何者が何故こうしたのかを」

「そ、それは貴様の憶測ではないか! 第一、柳蒼言が実在したという根拠はあるのか!? 洛鳳中を探してもそのような記録、存在せん!」

 陳甫が横槍を入れるが、尹巴がすかさず反論する。彼は手持ちの包みに収めていた版木を取り出し、御前に差し出した。

「根拠はございます。ここに律に蔵せられてきた、蒼言の一生を記す版をお持ちしました。この内容を諳んじろと仰るならば、今すぐにでも」

「貸せい! こ、これは!」

 陳甫が尹巴の手からぶんどった版を見て大きく唸る。馬氏と虞氏も駆け寄ってそれを覗き込んだ。

「な、何と見事な! 閑雅なる字形、乱れが無い精密な行間……柳版に近いようだが、それとも一線を画す出来だ」

「たしかに証拠に足る品のようだが……。ふふふ、なるほど……」

 馬翰が不敵な笑みを浮かべる。版を見せた以上、例の件に触れるのは想定済みだ。

「県令よ。この版の内容を一字余さず覚えておるのだな?」

「ええ、もちろんでございます」

「ならば問おう。律の民は真に罪がないのかと」

「……今の律の民にはありませぬ」

「いや、あるな。やはりお前達は辺境の蛮夷だ。古に国使を殺し、未だにその罪をあがなっておらぬではないか。死人に口なし、あたかも国使に非があるように見せかけてな。しかも偽りの使いを立て、勅書を偽造し、間者を宮中に送り込んでいる事実もここには記されておる。柳蒼言が実在していたのであれば、これこそ奴とそれを信奉する者共が、我が国に仇為さんとしている証左ではないか」

「たしかにそこに刻まれた出来事は事実に間違いないでしょう。ですが丞相、どうしてそこに不都合な事実も記してあるのか、おわかりですか?」

 尹巴があっさりと事実を認め、なおかつ意外な質問を発した為に馬翰は言葉に窮した。糾弾の手を強めようとしていた所を透かされ、虞朔も陳甫も「狙いがわからぬ」といった様子で黙っている。

 すると、口を閉ざしていた天子が問いを発した。

「今、丞相が語ったような意図はないと、そう申すか?」

「はい。その版は天子印の複製と共に、大切に保管し、代々受け継いで参りました。これは先人が犯した罪を背負い、彼らがそのような行ないを取るに至った苦悩を永く悼む為にございます。また、これらは罪の証であると同時に技術の拠り所でした。それ故に外来の者には易々と見せず、律の民として認められた者にのみ、真実を明かしておりました」

「なるほど、その品が技術の拠り所というのも頷ける。つまり柳氏の技芸は律の産業の根源と言える訳か」

「はっ、左様にございます」

「都では柳氏の技術が多く失われたものの、遺物を研究することで一部のみ今に継承されている。もし、都では絶えた技術が律で継承されていたとなれば大変めでたい。どのような経緯であれ、古の叡智が存続しているのは喜ばしいことだ」

 先に鈍灰が正体を明かして以来、天子の顔色に活力が戻っているように見えた。往時は聡明な若君だったらしいが、今ならそれも首肯できる。思いも寄らぬ再会を果たし、心が奮い立ったのかもしれない。淀んでいた水流が堰を押し流したかのように、彼はますます知恵を巡らす。

「ただ、妙なものだ。厳しい管理下に置かれていた柳氏の者が出奔したとなれば大変な騒ぎになったはずなのに、その事跡が宮中にほとんど残っていない」

 版に記されていた事実から蒼言が都を離れられた理由を推測するのは可能だ。それは彼が周囲の人間から取るに足らない人物として認識されていたからである。

 版には都を去る直前の彼は志を失い、堕落しきっており、周りから存在していないかのように扱われたとあった。そのような人物だったから記録がないのも仕方ない……とはならず、どうやらそこに鍵があると天子はお考えのようだ。

「御史台よ。汝には検討がつかぬか?」

「職務上、都内の事件には明るい故、柳氏の顛末については記憶しております。有体に言えば柳家の屋敷を火元とする大火が過去に起こっております。何でも多くの文物、工芸が失われ、その咎を負って家も没落していったとか。記録の消失もその一連によるものでしょう」

 それなら我が国では有名な事件だ。「翔月の大火」と呼ばれる洛鳳で起こった大火事のことである。宮殿には被害が及ばなかったものの、多くの家屋が焼け、死人も多数出たとされている。柳家はこの火事が元で没落したと私達は子どもの頃に習っているが、まさか火元だったとは知らなかった。

「翔月の大火なら余も歴史の講釈で習った。しかし、それでは宮中の史料までも失われている理由にはなるまい。そうであろう? 侍中よ」

「そうではございますが、当時は戦災で失われた文化の復興が大変重んじられたと言われております。それもあって史書の編纂が盛んで、柳家は図書寮の資料を大量に邸内に持ち込んでいたという史書の記述もございます。実際、今は目録に書名が残されているだけで多くの書が逸しておりますし、あり得ぬ話ではないでしょう」

「侍中の話に付言するならば、火事後の柳氏の窮乏は凄惨なもので、当時の民衆も多くを語りたがらなかったようなのです。そのごたごたもあって出奔者のことなぞ、意識から消失してしまったのでしょう」

 虞朔と陳甫の論説に、齢然は思わず苦笑いする。

「随分と穴が多い弁明、いや言い訳だな」

「何と!?」

「たしかに翔月の大火は都の文物が打撃を受けた重大な事件だ。だが、それだけではない。この事件で柳氏が失脚したことで、宮中の勢力図が一変した」

「何が言いたい?」

 問いに構わず、齢然は話を続ける。

「まず、衰えた柳氏の家臣から三つの氏族が頭角を現し始める。彼らは主の牙城を少しずつ削り取っていき、宮中でのし上がっていった。これは別に良い。権威に足る力なき者に上に立つ資格はなく、国家の発展には臣下同士の競争があってしかるべきだからだ。だが、それにも作法がある」

「気に食わぬ物言いだな。くだらぬ与太話で時間を稼ぐつもりか」

「ならば単刀直入に申そう。翔月の大火、柳氏の咎にあらず。そこの三臣の先祖が富と権力欲しさに共謀して主家に火を放ったのだ」

「やはり与太話ではないか。それが事実だと示す証拠でもあるのか?」

「貴君らはお忘れか? 中書省が勅命の伝達の為、広大綿密なる情報網を用いて関係省庁や地方各地と連携を取っていることを。長年の専横で国の全てを手中に収めたと慢心したな?」

「言うだけならタダだ。良い気になってもらっては困る。どれ、さっさと証拠を出しては如何かな? まぁそのような物、あるはずがないのだがな」

 高笑い、嘲笑い、せせら笑う三氏に対し、齢然は一冊の書を差し出す。よもや斯様な物が残されていたとは彼らも露程も思うまい。

「何だ? それは」

「これは環国にて記された『華国日記』という日記である。渡来した留学生が我が国で経験した出来事を余すことなく記録していたらしい。この著者はようだ」

「何だと……? そんな物がどうして……」

「環との交流事業では留学生の受け入れの他、我が国からも技術者を向こうへ派遣しておった。この中に律出身者……私の一族の者がいてな。彼は向こうでこの書を手に入れたが、当時にはもうすでに三氏の地位は盤石となっており、告発しようにも握り潰される可能性があった。そこである場所へ隠匿した」

 この曹何某のおかげで私達はここで戦えている。彼がこれを持ち帰らなければ、今回の件に際しても為す術がなかっただろう。

「それはかつての柳家の邸宅跡、左京一の条にある小高い丘陵に建てられた大火慰霊碑……。その台座の中に空洞があり、密封された木箱に入った状態で発見された。灯台もと暗しとはまさにこのこと、わざわざあれを調べる者はおらんな」

「当時、我が一族はまだ律に拠点を置いていた。彼は都から律へ里帰りした際、家人に言い伝えを残していった。律から都へ移ってからも、それは一族の訓戒として受け継がれていた。「愚にして空なるよりは、賢にして渇を溢せよ」とな」

『漢柳集』に収められた詩、私が齢然に対して意志を示す為に使った、あの作品と言えばわかるだろうか。それにもあった一節だ。ちなみに私が齢然にあの漢柳を見せたのは全くの偶然である。

 詠み人知らずとなっていたが、おそらく曹氏の関係者が為したのであろう。内容からして詩そのものに告発の意図があったのかもしれない。

「おそらく慰霊碑の建立に関わっていたのでしょう。細工するにはそうでなければ難しいでしょうし」

「ば、馬鹿な……! あの慰霊碑は我ら馬家が……真実をぉ……」

 馬翰が驚きのあまり泡食って卒倒する。反応を見るに、彼は大火の真実を知っていたのだろう。そして、それが決して明らかになることはないと確信していたに違いない。

「丞相! お気を確かに!」

「そうとも! 内容を検めない限り、それが証拠に足るかもわからぬ。全くの創作か、こ奴らの捏造というのも……!」

「好きなだけ読むが良い。もっとも日記という私的な文章をわざわざ偽るとは考えにくい。それに、その書はかなり古いのが見てわかる上に、使われている紙が環特有の材質だから我々の捏造というのもあり得んがな」

 動揺に打ち震えながら虞朔が内容を朗読する。声に出さねば事実を到底受け入れられないとでも言うように。

「し、翔月二十一年、洛鳳に大火起こる。風に乗りて延焼し、数日絶えず。一帯灰燼に帰す。人、多く死して哭泣止まず。唯だ幸いは朝に火及ばざるのみ……。人曰く、灯火の転倒により出火すと。是は偽なり。馬、虞、陳の三姓、主家を廃して自ら立たんと密議す。ひそかに火を放ち、文書を失せし咎を以て主をざんせんと謀る。吾、是を主家に告ぐるも用いられず。当日、実行せられ、気は乾にして風俄かに吹きて禍を招く。是が真なり。三氏は巧みに謀りて罪を逃れて柳の後継と為る。是を批すれば忽ちに邦に帰る能わず。敢えて黙して追わず、唯だ斯に残すのみ。後世是を問う勿れ。華の戦戈を召さん……」

 虞朔は読み切ると茫然と立ち尽くす。陳甫も「こんな……あり得ん……」とうわ言を吐き続けている。もはや彼らは反論する気力を削がれてしまっていた。

 決着がついたかと思った所で「まだ……まだだ」となおも独り、立ちはだかろうとする者がいた。馬翰である。どうにか意識を取り持って食ってかかる彼に、私は語りかけた。

「丞相、これ以上は無意味です。もう止めましょう」

「無意味? ふふ……たしかにそうだな。貴様らが今話したことは数百年も前のこと。当時の関係者は死に絶えておる。先祖の罪を子孫に負わそうなどと……!」

「貴方がたが我々の同志にしようとしたことをそっくりお返ししたまでですよ。このまま続けても不毛ですから、お互いこの件に関しては時効ということで流しましょう」

「時効ではない……! 貴様らは今もこの国を……」

「なおも反論するならば、こちらにも用意があります」

「はったりもいい加減に――」

「その『華国日記』ですが、当時を知る史料としても非常に優れているんですよ。こちらでは記録が失われている時代の物ですし、史部目録に加えるべき著作です。ですから出版しようと思っています。出版印はもちろん――」

「まさか律の複製印を使うつもりか! そんなことをするなら即刻貴様らの首を刎ねてくれる!」

「丞相よ、それを決めるのはそなたではない」

 天子の厳然たる一言が馬翰に放たれる。しかしながら馬翰は畏れ多くもそれに異を唱えて縋りつく。

「陛下はこ奴らの妄言を信じると仰せですか!? これはなりません! 我らが朝廷にどれだけ尽くしてきたのをお忘れですか? 長く陛下の側に仕えてきた我々とこの者共のどちらが信に足るのか、今一度お考えくだされ!」

「信じないならそれで結構。ですが少なくとももうこの場に貴方の味方はいませんよ?」

 一部始終を見届けた百官の冷淡な眼が彼に注がれる。ようやく状況を悟り、馬翰はへなへなと崩れ落ちた。

 私は天子の御前に進み出て拝礼して申し奉る。

「恐縮でございますが、皇帝陛下に上奏致します。律への派兵の命を直ちに取り下げ、今回の件に関しまして拘束を受けた者達に何卒寛大な処置を取って頂きますようお願い申し上げます」

「承知した。それとそこの三人のことは余に任せてほしい。私の臣下なのでな」

「仰せのままに。それと律のことですが……」

「こうして公の場で語られた以上、今までのように扱うのはできん」

「それについては俺から献策させて頂こう」

 鈍灰が天子の御前に立つ。この二人が言葉を交わすのはいつ以来なのだろうか。

 今にも立って駆け寄らんとするほどに、天子の表情にはありありと熱が感じられた。

「朱旻……」

「久しぶりだな、文昌よ……。だが感傷に浸る暇はないぜ」

 鈍灰は膝を屈する。

 叡朱旻としてのけじめ、鈍灰としての新たな道、全てにケリを付ける為に彼はここに帰ってきたのだ。

「上奏致します。僭越ながら鈍灰の名において命と職を与えて頂きとうございます」

「……それは叡朱旻としての身分を完全に捨て去るということか」

 再会し、言葉を交わすことを待ちわびていただろう。だが、鈍灰はこれを冷たく突き放す。

「叡朱旻は都を去った時に死にました。今、陛下の前に居るのは鈍灰という名の隠士です」

 天子は問うた。叡朱旻ではなく鈍染濁に。

「何を求める? 貴官の志を述べよ」

「律と歴々を結ぶ使いと為り、普く民と文を談じ、詩を贈り、説を語り、文筆の花を国中に開かせたい所存でございます」

「文を談ずるか……。お前らしいな。して、具体的にどうする?」

「まず律の存在を国内全土に向けて明らかにすること。統治に関してはこれまで裏で隠れて行なっていた交流を、そのまま堂々と行なう以外に何かを変える必要はないでしょう。最低限の人員を置いて連絡を密に取りつつも、他は自治に任せる方が都合がよろしいかと。その方が余計な混乱を招かずに済みます」

 耀白や詩耽らを想うと、自治の継続を願いたい所だが、ただ嘆願するだけでは一筋縄にはいかないだろう。故に鈍灰は律に役割を与えるよう、すでに案を練っていた。

「これまで通りただ自治に任せるだけでは、此度のような嫌疑を呼ぶ可能性もあるのではないか?」

「今回の騒動は誰も律についてよく知らぬが故に起こってしまいました。その為に多くの者に律を認知させる。これが先の話になります。第二は双方にとって益になる役割を与えるがよいでしょう。孔儒の教えに「室に樹を植うる勿れ」とあるように、縛りつけずに特性を発揮させる方が国に益があるという関係を築きます。律の産業と人脈を最大限に生かす役割とは何か。すなわち出版です。したがって律に経書の出版をさせるよう、認めて頂きたい。漢柳という形に捉われない文体は、古来の伝統あってのものと律の民は深く理解しています。彼らならば国の徳化を益々進歩せしむ大業を果たせるでしょう」

 経書とは我が国の国教、孔儒教の経典を指す。その出版は宮廷が認める正式な版本でのみ認められており、国の機関でしか出版されていない。

 つまりこれを認めれば、律の版行、ならびに地域そのものが公的な信用と価値を得るということに繋がる。

「お前にそこまで言わせるとは、本当にその街が気に入ったのだな……。構わん。追って正式な沙汰を送る」

「甚だ恐悦するばかりです。この恩義、必ずや報います」

「兄弟の契りは断たれたが、そなたとは友として談じる時を心待ちにしている。踏ん切りがついたら、またいつでも余にそう話すが良い」

「…………」

 礼をさらに深くし、鈍灰は引き下がる。由殿が「よかったですな」と小声をかけるとささやかに頷いた。

「律の処置も含めて詳しい沙汰については余が判断して、中書省を通じて正式に通達する。あとはそうだな……。こうして論を重ねたものの、貴官らが律で見聞きした物事、それに漢柳について最後まで聞けずじまいだったな」

 申し訳なさそうにする天子に、尹巴が満面の笑みを見せて応じる。肩の荷が下りて若干若返ったようにさえ見える。

「それについてはご心配に及びません。いずれ嫌でも聞くことになるでしょうから」

「それはいったい――」

「お取り込み中の所、失礼します!」

 太礼殿に一人の従卒が息を切らせて入ってきた。彼は全速で天子の元へ駆け寄る。

「各地より妙な報告が……っと」

「構わん。このまま話せ」

「はっ! 全国でこのような書がほぼ同時に刊行されておるようでして、中身は詩集のようですが……」

 そう話す従卒の手には『漢柳集』が携えられていた。それを見て天子は声を上げて高々と笑った。

「ははははは! 嫌でも聞くことになるか……。まったく、余を……いや、ここにいる百官をも力押しで納得させるつもりだったな?」

「それは……あくまで保険です」

 尹巴は顔を紅潮させてこめかみを掻いている。珍しく大見得を切ったと感心したのに格好がつかない御方だ。

 律を発つまでの間、私達は街の者達と総出で『漢柳集』を大量出版する計画を進めていた。各地方に住む元律の民、都にいる漢柳容認派、曹氏とその配下に協力を仰ぎ、国内全土で同時に刊行、そうして律と漢柳を公に出す算段を取っていた。

 だが、それは賭けだった。律文の喧伝は捉え方を変えると文学運動である。仮にも皇族である鈍灰が天子文昌と争うという構図が生まれる可能性もあったし、三氏が強攻して血生臭い事件が起これば、反感を抱く者達の蜂起だってあり得たのだから。

「それと、この書を持っておった者達は一様に同じ詩を口ずさんでおりまして……」

「それってこんな詩ですか?」

 この場にいる全ての者に届かせるように、私は詩を朗々と歌い上げる。


 池平詩仙庵  池平らかなる詩仙の庵、

 風飄碧苔景  風ひるがえ碧苔へきたいの景。

 酒壺香紛紛  酒壺しゅこは香紛々として、

 窓外雪冷冷  窓外は雪冷々たり。

 喜悦童子声  喜悦する童子の声、

 花開旧庭杏  花開く旧庭の杏。

 春夢呼啓蟄  春夢啓蟄けいちつを呼び、

 吟鳴谺幽境  吟鳴幽境にこだます。


 小さな街に暮らす名もなき人々のささやかな願い、

 それは安らげる家で暮らすこと、

 それは変わらぬ景色に感謝すること、

 それは程々に娯楽を楽しむこと、

 それは過ぎゆく季節を懐かしむこと、

 それは子ども達の姿に和むこと、

 それは日常の変化を慈しむこと、

 それは次の季節に思いを馳せること、

 それは心のままに自由であること。

 こうした律の人々の思いを背負って、私達はここまでやってきた。そして今、意思は都だけに収まらず、各地に広がろうとしていた。

「この詩は……?」

「漢柳集に収められた一篇です。初春の律の風景を描写した作品と言われており、厳しい冬を越え、間もなくやってくる春を待望する人々の心意気を表しているのです。ですが、それだけに及ばない心象が込められています」

 私は懐からぼろぼろになった漢柳集を取り出す。暇つぶしに読み始めたのに、随分と嵌り込んでしまったものだ。

「律で見聞きした事物、余すことなく話す準備はできております――が、そのようなことをせずとも、これを読めばわかります」

「ほう……。貴官の普段の勤務態度はあまりよろしくないと聞いておったのだが、相当真面目に読み込んでおるようだな」

「えっ?」

「これでもこの国の頂点に立っているのだ。臣下のことくらい把握するように努めておる」

 都に勤める官吏だけでも何人いるかもしれぬのに、ただただ脱帽するばかりだ。話を聞いている周りの官吏達もにわかにざわつく。彼らも何かしらやましい心当たりがあるのだろう。

「いやはや宇曽殿、やはり天子の慧眼には敵いませんな」

「顔由よ、詩は不得手でも漢柳はどうか?」

「なっ!?」

「陛下、私の部下で戯れるのは止してください」

「すまんすまん、いやあこんな気持ちになったのは久しぶりだ。詩はもちろん良いものだが、私は諸君らの生の声も聞きたくてな。「これを読めば」とは言わず、もっと色々話してくれ。その上で今後についてしっかり決めたいのだ」

 相好を崩した天子に、私達は律での体験を思う存分語ることにした。次々と湧いて出る興味深い物語に場の一同も真摯に耳を傾けている。皆、これから交流をもつ相手のことを知りたいのだ。

 朝から始まった謁見は過去に例を見ない長さになった。日はすでに天辺に昇り、やわらかな光が洛鳳の街に降り注いでいる。不穏だった宮中の空気もいつもと変わらぬ穏やかさを取り戻していた。


 一方、街では人々の関心は朝の騒ぎとあちこちで読まれている詩集の噂でもちきりとなっていた。あちこちで輪を作って「あれは何なのだ」と話し込んでいる。

 バタバタと慌ただしい都大路の端に可憐な花が咲いている。多くの人々が目もくれず足早にそれの横を過ぎ去っていく中、詩人だけは立ち止まってそれを眺めていた。詩人は手持ちの紙片に何やら書き留めると、ゆっくりとした足取りで喧騒の中へ消えていった。

 花は体を小さく揺らしながらそれを見送った。




〈第七話――了――〉


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