第3話 まちびとと語る
前編 老人と少年の詩
昨夜の酔いは未だ醒めやらず。頭にずうんとした重さを感じつつ、我々は昨日も通された応接の間にて朝食を摂っている。顔路の方はというと、普段と変わらずしゃんとした様子である。
「宇曽殿、昨夜は詩談に花が咲いたとはいえ、随分と飲みましたなあ」
この男、恰幅の良い体格に違わず、かなりの大酒飲みである。潰した相手は数知れず、どれだけ深酒しようと翌朝にはけろっとしている。昨夜も詩談に花が咲き、一同かなりの量を飲酒したはずで、私もそれなりにいける口だが今朝まで響いてしまっている。しかし、この男はというと普段と変わらぬ様子ででんと構えている。快活な張りのある声も今は頭にまで響いて憎らしい。
「由殿の強さは承知の上でしたし、自分なりに控えておりましたがかなり後を引いていますね……。尹巴殿らもかなりの量を口にしていたはずですが果たして」
尹巴や二聖の面々も顔路の配分に合わせていたからかなりの量を飲んでいたはずだ。名酒は体に残らないとはいうが、それは一般的な飲酒量の場合の話である。
「さて、今日は如何しましょうか」
朝食の焼き魚を突きつつ、顔路に尋ねる。
「昨夜は学士との詩談ではありましたが、今日は街にでも繰り出して民との談話に興じませんか? 夜を徹して教授いただいた作詩の法を存分に発揮しますぞ」
「由殿、文筆の道は一朝一夕になるものではありませんよ?」
昨夜、彼は二聖から(酔いどれの状態ではあるが)手取り足取り、詩作の技巧を教えられていた。学んだことをすぐ実践してみたいのだろう。
「だからこそです! 忘れぬ内にやってみなくては」
私は汁物をすすって一息つく。
「では、今日は街を色々と見回ることにしましょうか。とはいえ仕事の方も少しはしなくてはならないですし、資料集めも分担して行いましょう」
「それもそうですな。私もこの地について色々と気になる部分があります」
椀を置き、口周りを軽くふいて立つ。
「よし。では腹ごしらえも済んだことですし行くとしましょうか。おっとその前に尹巴殿にも一声かけねば」
膳を下げさせ、県令に取り次ぐように従者に声をかける。ただ従者によると県令は未だ私邸より、この公邸に登庁しておらぬという。
「由殿の酒豪振りを伝えておくべきでしたね……」
「話したところで鈍灰殿が張り合って周りにも薦めて、同じような結末になっていたでしょう」
県令の公邸と私邸は庭園の中にはしる渡り廊下で繋がっている。とりあえずそこから伺うことにしよう。
舘に向かうまでの庭園に入る。渡り廊下の左右には牡丹の花が所々彩りつつ、青々とした葉を生やした生垣が整然と並び立って、私達を出迎える。
手入れが行き届いており、見事なものだと思わず唸る。清くこざっぱりさせつつ、華美ではない程度に彩りを添えている。ここの主の好みが反映されているようだ。
庭園の雰囲気を味わいながら通路を進んでいると、庭にたたえた池のほとりに、一人の女性が立っているのが見える。我々のいる場所からやや距離があるので、その御顔を窺い知ることはできない。ただ、遠目からでも凛とした佇まいを感じ取ることができる辺り、それなりの器量をもつ女性であろう。ここにいるということは県令の関係者なのは間違いない。あのような佳人のことを一言も口に出さないとは、県令殿はお人が悪い。
「宇曽殿、士大夫たる者、女性にうつつを抜かす暇はありませぬぞ」
「由殿もお堅い方だ。風月に感慨を抱くと同様に、女性に目が向くのは悪いことではないと思いますがねえ」
「くだらないことを言ってないで、ささ、早く尹巴殿の元へ向かいましょう」
女性を知らぬ朴念仁に背を押される。女性の方はというと、こちらに気付いていたようで、表情までは読み取れないが顔を向けているのが見えた。「何者だろうか」と不思議そうにしている面持ちが想像できる。
大輪爛々として池畔に咲き、芳香芬々として清風に舞う。
花の香に誘われた羽虫は後ろ髪引かれる思いでしぶしぶその場を後にする。
しかし、その時私は知らなかった。花は羽虫などに目もくれず、すでに天上の太陽に魅了されていたということに。
私邸に入ると、ちょうどよく尹巴が出迎えてくれた。二日酔いのせいなのか、表情が灰色である。
「本陶殿、路殿、おはようございます。昨晩は実に充実した宴でありましたね」
その割に声色は弱々しく、姿勢も萎れている。
「県令、こちらこそ。ところでお顔色が少々悪いようですが、大丈夫でしょうか? この男に乗せられて随分と深酒なさっていた様子でしたし」
「なに、問題ありませんよ。体は重いですが、昨夜の楽しみに胸がほっこりと温まって気はますます壮になっております」
姿勢を正してそう答えてくれたものの、虚勢だとわかる。
「ところで耀白殿と鈍灰殿は?」
「耀白殿でしたら宴の後すぐ帰宅しております。節度をよく保っていたようで、足取りも確かでしたし、心配無用です。今日は休暇を与えております故、自宅でゆっくりしておられるでしょう。鈍灰は……まあご想像通りです。ここに泊まって今も大いびきをかいております」
「なるほど、昨夜のお礼を言えればと思ったのですが、お休みのところをお邪魔するのも野暮というものでしょう。別の機会にするとしましょうか」
「彼らには私の方からよろしく伝えておきます。さて本日は如何なさるご予定で?」
「そうですね。先ほど顔路と街に見物にでも出ようかと相談しておりましたが、この地の名物、名勝なぞはありますか?」
名物といえば昨夜の銘酒や脂の乗った川魚が思い出される。他にも珍味名産にありつけるのならば、帰京後の土産話にもちょうどいい。
「ふむ、この街の名物が詩談なのは昨夜のことでご承知いただけたでしょうし……」
そう言うと、県令はむうんと考え込んでしまった。二日酔いで頭も本調子ではないのに考えさせて申し訳なく思う。
「すいません。何分、他所と隔たれた土地ですので、外から見て何が際立って何が珍しいものなのか、とんと判断がつかないものでありまして。我々からしたら当たり前のものも、そちらからすれば珍奇なものもあるでしょうし、実際に見て回るのが最適かもしれません。お役に立てず申し訳ありません」
「言われてみればそれはごもっともですね。開けっぴろげに歓迎されたからここが絶遠の地であることを失念しておりました」
我々に対し、手厚い歓待があったのはそれだけ外界への憧れを持っているからなのだろうか。自然の要害に閉ざされて娯楽が少ないが故に、唯一の娯楽だった文学がここまで発展したのかと私はふと想像した。そう考えると、ここの住民の先祖の苦慮が思い起こされる。思えば、来訪間もない時に軽く話を聞いただけで、我々はここについてあまりに無知だ。
「尹巴殿、良ければ公邸の蔵書庫を拝見させていただけませんか」
尹巴は合点がいった様子で快く了承してくれた。
「では由殿は書庫の調査をお願いします」
顔路は「え?」と目をぱちぱち瞬かせ、こちらに抗弁する。
「やや、先に分担すると話し合いましたが、宇曽殿は自分に調べ物を押し付けて、楽をするつもりですな? それに詩の妙法を試す機会が……」
そうは問屋が卸さないとでも言いたげである。
「そうは言いましたが、まずはやるべきことから片づけるべきでしょう。それに外は涼しくなってきたとはいえ、まだまだ日差しが強い中での活動になります。この手の足で稼ぐ仕事は自分に任せてください」
この男はガタイの良い見た目に反して、地道な体力仕事が苦手だ。それを十分承知している故の分担である。もっとも書庫の調査も大量の文書を相手にする体力仕事なのだが、どうも彼にとっては違う扱いらしい。それに酒の席で聞いただけの作詩を実践させて、ここの民に不信を抱かせるのも忍びない。
「ふむ……。街を見に行けないのは残念ですが、それなら宇曽殿の方が適任ですな。自分は書庫で大人しく調べ物をします。明日は自分が外回りということで頼みますよ?」
私はすまない気持ちを表情に浮かべて、「了解」と手振りで応える。
「では私は外に出ますし、そちらは頼みましたよ。あ、そうそう。由殿の調べ物のついでで良いので、こちらも確認しておいてもらってよろしいですか?」
私は一片の紙片を顔路に手渡す。受け取った紙片を一瞥して、彼は怪訝な表情を浮かべる。
「仕事の為です。頼みますよ」
念押しの言葉に彼は静かに頷く。
「……わかりました。尹巴殿、書庫への入庫は――」
「手続きは滞りなく済ませてあります。自由に入っていただいて結構ですよ。私も今日は一日中、公邸に居りますので何かあれば気軽にお越しください」
県令はにこやかにそう話すと、支度の為に奥へ退いていった。我々もそれぞれ目当ての為に別れていく。
県令邸を出た私は、まず思うままに往来を練り歩くことにした。
街路ですれ違う人々が物珍しげにこちらを窺う。狭い土地のことだ。彼らにとっては外部の人間かどうかの判別なぞ容易い。市場では各露店の店主が活気良く物を売りさばいていく。
「ちょっとそこのお兄さん、お使いかい?」
店番に声をかけられて、ふと立ち止まる。
「そう見えますか? 冷やかしと思われていないならありがたいですね」
「この辺りでは専らの噂だよ。都からお使いが来たって」
情報の伝播が早いものだ。もっとも話題に限りがある秘境では、外からの情報は貴重なものなのであろう。
「なるほど、そちらの意味でのお使いか。たしかに私の仕事は国のお使いです」
「一体、当地にどのような御用で?」
店の者は私のことを訝しむというより、単純な興味から尋ねているようだ。土産話をせがむ童子のように生き生きとした眼差しで問うてきた。昨夜の酒宴のことを誰かが良いように吹聴してくれたのかもしれない。
「何たって二聖の耀白殿はともかく、鈍灰の方にもお達しがくるというのはなかなかのことでさぁ。噂によれば漢柳のことを気にしておられたとか。いよいよあの二人が都にお声をかけられたのかとやきもきしていたのさ。さぁ旦那、せっかくですしこの「聞き屋の周」にお話しくだせぇ」
気付けば周囲に小さな人だかりができている。期待かそれとも単なる野次馬根性か。聴衆が望んでいることは何なのか。一挙手一投足見られているようで居たたまれない。
「何から申せば良いか……」と少し言い淀んだ後、私は自身の務め、すなわちこの国の文筆について学ぶということを述べた。そして、二聖やこの国の政についてあれこれ何かするということはないことも加えて説明した。都で漢柳が問題になっていることについては、言うまでもなく伏せておいた。
話し終えると聴衆からは安堵の空気が流れているように感じた。
「いやぁそれなら良かった。あの方々がここを出ていくことになったら、我々は悲嘆に暮れて商売どころではありませんでしたよ」
民衆の彼らへの熱はそれほどまでに高かったのかと驚いた。都に召されることを栄誉と捉えるのもこちら側の価値観であって、彼らにとってはそれは違うようだ。私も立身出世や栄誉ばかり追い求める官僚の世界に、少しばかり辟易した経験があるので彼らの考えはわからなくもない。
「そうと聞けば安心しましたよ。どうぞゆっくりこの国の文筆を堪能してくだせぇ」
二聖を朝廷に推挙するなどということになれば暴動が起きそうだなと、空恐ろしくなった。何はともあれ、街の人々に受け入れられたのであれば仕事もしやすくなるので助かる。由殿が外回りの番でも円滑に交流ができそうだ。
「そうさせてもらいます。ここの人々は皆、詩を賦すと聞いていますから。語らいに良い場があれば伺いたいものですが、この近くにありますか?」
「それならこの市場を抜けた先の広場が良いでしょう。憩いの場として皆思い思いの過ごし方をしておりやす。中には、いや、大半が創作に関する思索や談話に耽っているかと」
そう聞くと居ても立ってもいられない。私は周に礼を述べると、足早にその広場に向かうことにした。
広場に辿り着くと、たくさんの住民が各々和やかに過ごしているのが見えた。何人かはこちらの存在に気が付き、ちらちらとこちらの様子を窺っている。やれやれ、しばらくはどこに行っても噂の種になりそうだ。
私はたまたま眼があった一団に声をかけられる。老人と少年と女性の組み合わせだ。祖父と孫、その母親という関係であろうか。
「もし、そこのお方。突然声をかけてかたじけない。もしや昨日、都からきたという使者の方ですかな?」
偽る必要もないので、私は正直に「はい」と答える。
「おお、やはりそうでしたか。立派な出で立ちのお方がこのような場所に来られたので、まさかと自分の眼を疑いました」
「ははは。ご老人、お戯れを言うのは止してください。自分は木端役人に過ぎません。ところで皆さんはここで何を?」
私の問いに女性が答える。
「大夫様ならすでにご存じでしょう。ここは文筆の街。ならばここに人が集まる理由は一つしかございませんわ。そう、詩談です。私達は家族なのですが、家にこもって語るのではなく、たまにはこうして外に出て想像を膨らませているのです」
「ほう、なるほど。して、どのようなことを想像しておられたのですか?」
少年が元気よく答える。
「大夫さん! それならね、あの木を見て皆で思ったことを話していたんだよ」
彼が指をさした方向には大きな木がそびえ立っていた。枝は広々と広がり、葉は青々と茂り、幹は太く、根は力強い。この街の活力を顕現させたかのようであった。
「立派な木ですね。街全体を貫き通す柱のようです」
「ふふふ。さすがお上手ですね」
女性が楚々とした笑みを浮かべて言う。
「言い過ぎじゃないかなー」
少年がぶっきらぼうに言い放ったのに老人が語調を強める。
「これ! 目上の方に何と! 失礼しました。お気を煩わせる物言いをして申し訳ありません」
私は予想外に殊勝な態度を見て、思わず腰を屈めて応じてしまう。
「いえいえ、そんなかしこまらないでください。ここでは皆が平等なのだと聞き及んでおります。ならば私もここの習慣に則るまでです。ところであの木を見て、どのようなことを想像なさったのでしょう?」
腰の低い老人の姿に、改めてここの住民の徳の高さに驚かされる。由殿はここでの詩談についてこられるだろうか。
「ご厚意に心より感謝申し上げます。そうですな。家族とはいえ、年も性も異なる面々です。木一つを取って見ても、想像することは多種多様なのだなと感心しておりました。せっかくですし、我々が思いついた詩をお聞きいただけますか?」
これは渡りに船だ。是非、聞かせてもらおう。
「お願いします」と答えると、我こそはと言わんばかりに少年がまず躍り出た。
「大夫さん! 僕の詩を聞いてよ!」
「まあまあ、そんなに焦らなくても大丈夫さ。落ち着いて聞かせてくれよ」
「蓮ちゃん。そんなにがっついたら大夫さんも困っちゃうでしょ」
少年の母親がたじたじの私を見て、助け船を出してくれた。
「いえいえ、子どもは元気があって良いですね。じゃあ詩の方を聞かせてくれるかな?」
少年は朗々と詩を詠いあげる。
悪鬼跋扈吐火炎 悪鬼跋扈して火炎を吐く
竜騎颯爽振聖剣 竜騎颯爽として聖剣を振るう
一閃討滅為骸山 一閃討滅骸の山を為す
万民安息奉祈念 万民安息祈念を奉ず
勇ましい詩だ。だが……。
「えっと……。この詩はあの木を見て作ったのだよね?」
私の思う所を察して、少年は「あっ」と声を漏らした。
「そうだった! 爺ちゃんと母ちゃんには説明していたから、つい言い忘れていたよ。えっとね、僕はあの木を見て、まず「何でここにあるのかなー」って考えたんだ」
「ほうほう、それで?」
木の謂われか。あれほどの大木になれば色々といわくが付いてもおかしくはない。
「それで色々考えていたらね。さっきの詩みたいな物語を思いついたんだ」
「悪い鬼が竜に乗った武将に懲らしめられて人々は木を神木としてそれに武将と鬼を奉ったという話だね」
「一息にまとめないでよ! とにかくさ、あの木にはきっとここの人も知らない伝説があると思ったんだ。すっごい剣が封印されているとかさ! 根っこに恐ろしい怪物が眠っているとか!」
大人には思いつかない詩題だ。文士の中には小事の説として、切って捨てる者もいるだろう。
「その考えは面白いね。物語調の詩というのも我が国においてないことはない。でも、いずれも史実や伝説を基にしている。もしかしたら全くの創作から始まるというのは君が元祖になるかもしれないね」
「本当? やった!」
一瞬、自分の名前が呼ばれたのかと思ってどきっとした。そういえば彼らに名乗っていないことに気付いたが、今更もう良いか。
「それにしても、一本の木からそのようなことを考えつくとは、げに子どもの想像力は恐ろしいものですね」
「大人になる間に失ってしまうものなのでしょうな。私も子どもの頃、夜中に催して厠に向かう時に、幽霊を見たと思ったら草木が風で揺れていただけという経験があります。自分の想像力がそのようなまやかしを見せていたのですな。今では鬼や霊よりも現実のかかあの方が恐ろしいと思う始末です」
笑う老人の陰で、お嫁さんが凍りついた表情をしている。少年も気付き、「まずい」と目で語っているが、年寄りにはそのようなことはお構いなしだ。だから恐ろしい目に遭うのだと、私は胸中で呟いた。
「では、ご老人、あなたはどのような詩を?」
続けて虎の尾を踏みやしないか心配ではあるが、話の流れからして話題を振るしかあるまい。
「私は木を見て、自分の生に思いを馳せました。この齢になると、どうしてもそういう物の見方になってしまいますね。ただ、樹木は生命や人生の喩えによく使われますし、題材としては陳腐かもしれません」
「ええ、しかしながら、作品に込めた気持ちは決して陳腐なものではないでしょう?」
詩に限らず、文学の題材は世に溢れている。とはいうものの、人間というのは不思議なもので、一旦誰かがとある事物を題に用いると、右も左もそのことにかかりきりになる。何か一つに捉われると、他のものに目が行かなくなるのである。
評論や解釈についても似たようなことが言える。「これは何某のことを示している」や、「これはあれの象徴である」といった物言いの型が決まると、それ一色になるのである。この老人も同じような弊害に少々捉われているのだろう。「樹木はすなわち生命の象徴」という発想を陳腐なことと、謙遜して話している。
しかし、それは別に間違ったことではない。事物がとある概念の象徴として普遍的に扱われることは、情報や感覚の共有に有益だからである。感情や感覚を作品を通して移入する際、わかりやすい象徴を比喩として盛り込むことで、文章は読者にぐっと深く迫ってくるのである。そういう意味では作品の主題に陳腐なものなどないのかもしれない。
「ここには人の拙きを嘲る者はいないということも聞き及んでおります。ご老人、是非あなたの詩をお聞かせください」
「そう仰ってもらえると、遠慮なく見せたくなってしまいますな。では参りましょう」
老人は袂から紙片を取り出し、それを読み上げる。「ほんとはノリノリじゃん」と小声で言う少年の口を母親が手で制す。
大樹貫城邑 大樹城邑を貫く
梢梢揺万枝 梢梢として万枝を揺らす
吾生落葉已 吾が生は葉を落とすのみ
婦子共孝慈 婦子共に孝慈なり
活力ある大樹に比べて自分はもう後は残り少ない生だが、義娘も孫も私に手厚く接してくれているといった大意であろうか。老後の幸せを噛み締めている作品だ。
「聞いているだけで楽しくなる朗らかな作品ですね」
「不肖の身でありながら子を授かり、その子がこのようなできた妻を娶り、孫にも恵まれ、この上ない幸福と改めて思ったのです。息子は今、仕事に出ていますが、嫁さんがしっかりしてくれているから、安心して留守と私を任せて働きに出られています。私の妻は昔に他界していますが、あの世で「息子には過ぎた嫁」と喜んでいるでしょう」
老人の言葉を聞き、先ほど凍りついたお嫁さんの表情に柔らかな温もりが戻る。機嫌が直ったようで何よりだ。女性が口を開き、滔々と語る。
「普段、夫がいない間は家をしっかり守らねばという気持ちで、お義父さんのお世話をしていました。時にはきついことも申しており、鬼嫁などと思われていないだろうかと心細くなっておりました。このような詩を聞き、脳裏の不安が払拭されました。私もお義父さんのことを本当の父と同じように慕っておりますから、これからもどうぞよしなに」
にっこりと笑みを浮かべる女性の姿に、我々も釣られて笑顔になる。男は女性の涙に弱いが、笑顔にはもっと弱い。
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