後編 女も詠う

「とても安らかな気持ちになった所で、あなたの詩を聞かせていただくことはできませんか?」

「大夫様、もちろんでございます。この国の外では、身分の高い女性ではなければ詩を賦せない――いや、その教育を受けさせてもらえないと聞いております。私のような者が作る詩は、都の方が聞けば新鮮に感じられるかもしれませんね」

 たしかに彼女が話す通り、都だけではなく、他の土地においても、詩作は知識人や身分の高い者の嗜みという風潮がある。この街のように、民間の女性が日常的に詩を為す光景はあまり見られない。

「そうですね。ただ、それとは関係なく一個人として、あなたの詩には興味があります。ぜひお聞かせください」

「大夫様のその話し方、何だか母ちゃんを口説いてるみたいに聞こえるね」

 母親は蓮少年に「また失礼なことを」と叱りつける。老人も「やれやれ」とでも言いたげに頭を掻いている。

「と、とにかく詩の方を聞いていただきましょう。では行きますよ」

 女性はゆったりと詩を詠み上げる。ちゃきちゃきとした振る舞いを義父や息子に見せているが、実際はもっと柔らかい物腰の女性なのかもしれない。


 玉樹常孤高 玉樹常に孤高なり

 交交連理乎 交交として連理ならんや

 誰能為好逑 誰か能く好きつれあいとならん

 枝間育衆雛 枝間衆雛を育めるを


 美しい樹木が一本気高く立ち続けている。

 他の樹と枝を交えて結ばれないのだろうか。

 しかし、この樹と釣り合う程の樹はないであろう。

 独りその身にたくさんの鳥の雛を抱えて育んでいる程、立派なこの樹には。

 このように私は捉えたが、色々と読み応えのありそうな作品だ。

 私は「詠み手の複雑な心境が絡み合っていますね」と率直な感想を述べた。

「と、言いますと?」と老翁が問いかける。

「まず前半二句で、立派だけれども孤独なこの大木に連れができないものかと心配しています。ただ後半二句ではそれとは裏腹に、こんな立派な樹木に釣り合うものはないと褒めそやしています。孤独であることは決して負ではない、という思いが込められていると私は読み取りました。初句の「孤高」という言葉にもその意思が秘められているのでは?」

 私が解釈を述べた一方、老翁の方は少し異なる捉え方をしたようだ。

「私は良い樹なのに仲間がいない。釣り合う人はいないものかと検討したものの、周りにはいないなあ。すごいのになあという嘆きも混じっているようにも感じました。それ故に大夫様は「複雑」だと仰ったのだと思いましたが如何でしょう」

「そうですね。限られた字句数の中に豊かな感情を入れ込んだのは女性ならではとも言えるかもしれません」

 私の言葉に女性は謙遜しつつ、意見を述べる。

「いえいえ、男性でもより豊かな表現をなさる方はたくさん居られますよ。解釈が別れて、ああでもない、こうでもないと語り合うのは楽しみではあります。ただ、作者本人の考えとは異なる捉え方をされる点では、表現が曖昧で力量不足とも言えるのではないでしょうか」

 たしかに我が国の詩において、名詩と称される作品は表現が簡潔かつ直感的であることが前提という風潮がある。わかりやすく、皆で同じ価値観を共有できるからこそ、人口に膾炙するという考え方が根強い。難解な詩は煩雑と切り捨てられ、ごく一部の好事家の間で取り上げられるようになっている。ただ――。

「各々が互いの価値観の違いを認識し、尊重するという風土があれば、解釈が多様であることは決して欠点ではないと私は思います」

 国家の思想が学問に適応されるこの国では詩一つをとっても、お上御用達の学者が認めた特定の解釈を至上とする風がある。

「なるほど、先ほどから思っていたのですが、都の大夫様って存外柔軟なお考えをお持ちなのですね」

 言葉でチクリと胸を刺され、私は苦笑する。

「まあ、あくまで私個人の考えです。共にここに訪れた、もう一人の方はもう少し堅物ですよ」

 ここの住民は存外都に対して良くない印象を抱いているのかもしれない。そういえば由殿が行なっている調査はどうなっているだろうかと、ふと気になった。

「ところでさ、母ちゃんはどう思ってこの詩を詠んだの?」

 息子に聞かれ、母親は「そうだねえ」と宙を眺めて一瞬、間を置く。そして、滔々と語り始めた。

「私はあの木を見て最初に「一本だけ離れていて寂しそうだな」と思ったの。でも当人というか、当の樹の方はどんと構えていて、そんなこと気にしていない。樹だから何も考えていないだろうけど」

「どうだろうね。生き物だから考えているかもしれないし、神霊が宿っているかもしれない」

 老人が相槌を打つ。

「それはともかくとして、次に「どうして堂々としていられるのかな」と理由を想像して、じっと観察していたら鳥がたくさん止まっていて、巣もいくつか見つけたのよ」

 樹上を眺めると一つ巣があるのを見つけた。少し注意して見れば、もっとたくさん見つけられるだろう。

「それでね、「これだ」とわかったの。たしかに彼? 彼女? まあどっちでも良いわ、一本だけ離れているけれども、周りにはたくさんの鳥がいて、雛も身に抱え込んでいる。だから寂しくなんかない。それに、どこかで読んだ書に、「強い身体と信念を持って自立していれば、自ずと周りが賑わうものだ」という意味の言葉があったのをちょうど思い出してビビッと来たのよ」

 彼女が持ちだした言葉は孔儒の教えにある一節だ。しかし今、それを語るのは本筋から逸れるので特に取り上げない。

「鳥だけではない。私達だってこの樹の周りを公園にして憩いに来ている。大樹の徳がこの空間を作ったのだなあって感動して、それを詩にしたのよ」

「へー、母ちゃんにしては繊細な詩だなあ」

「一言余計よ」と言って、息子の頭を乱雑に掻き撫でる。その母親の仕草には素朴な温かみがあった。

「見事な詩です。この街の女性は皆こうなのですか?」

 お世辞でもなく素直な感想を伝えると、婦人は片手で息子を弄りながら、もう一方の手を大きく振って謙遜した。

「いやいや、本当に私など取るに足らないおばさんですよ」

「ここの女の人が皆母ちゃんみたいだったら、男は外に出ちまうよ」

 すかさず蓮少年のこめかみにグリグリと両の拳がねじ込まれる。

「あだだだだだ!」

 淑女はとりもなおさず言葉を続ける。

「女性の漢柳名手といえば、尹詩耽いんしたんさんですね」

「尹詩耽さん?」

 聞き覚えのある姓だが彼とは関係あるのだろうか。

「律随一の才媛で男女問わず人気な方なんですよ」

 男性の著名人といえば二聖で女性の著名人といえば彼女と言った所だろうか。それならば是非お目にかかりたいものだ。別に美女との邂逅を期待している訳ではない。

「おや? お会いしていないのですか?」

 どういうことだろうか。昨日今日、ここに到着して歓待を受け、その間に機会があったというのだろうか。

「あ、聞いた所によると最近、公の場に出ておられないようだし、何か思い悩んでおられるとも噂されています。お会いしていないのも無理ないかもしれませんな」

 いまいち話を把握できていないが、その女性詩人は何やら不調をきたしているようだ。滞在中にはお目通り叶いたいものだが、見込みは低そうだ。

「綺麗で優しくて明るい人なのにどうしたんだろう。前はこの公園にも来て追いかけっことかお話とかしてくれていたんだよ」

 グリグリから解放された蓮少年も悲しそうに呟く。

「そのような方がふさぎ込むというのは心配ですね」

 部外者がどうこうできる問題ではなさそうだが、何か手掛かりを得られないものか。

「最近はたまに伴も連れず楼台で一人佇んでおられるわ。声をかけるのも憚るくらい物憂げでねえ……。勇気出して声をかけてみたけど、本人はなかなか悩みを打ち明けられないし、私達も深く詮索できないから、そっとしておくしかないのよ……」

 身内や知り合いに話せない悩みも部外者には話せるかもしれない。この街の問題なので刺激しない方が良いのだろうが、女性が悩んでいるのならこのままにはしておけない。遭遇できるかはわからないが、楼台を見物の順路に入れておこう。

 引き続き三人と歓談していると、昼前の時刻を知らせる鐘が鳴る。まだまだ見物する所はありそうなのに、かなり長居していたようだ。ひとまず先を急ぐことにして、私は三人に礼を述べてその場を後にした。



 時が幾程か経ち、日も傾き始めた頃、街中を一通り歩き回った私は、本日最後の見物場所に辿り着いた。脚は張って棒のようだ。

 ここに来た理由は、途中で出会った街の者が、ここから眺める夕陽の美しさを詩で表現していて興味をもったからである……というのは建前だ。本音を言うと、今日一日中気になっていたとあるお方との邂逅を期待したからである。

 夕刻まで今少し時間がある。せっかくだからすぐに昇るより、その時が来てから初めて景色を見た方が感慨も一層湧くだろう。パンパンの脚を労わる為に、楼台の階下に腰を下ろす。手拭いで軽く顔の汗を拭い、道中聞き歩いたことを記した紙片を懐から出す。時事、恋愛、人生、家族、哲学、怪奇その他諸々の多様な詩句が紙上を賑わしている。こうして目を通して見ると、ここの住民は真に文筆を好み、表現することが生活の一部となっているのだと驚かされる。

 また、外部の人間にも屈託なく接して、物怖じすることもない。歩けば呼び止められ、ことあるごとに何かと土産物を渡された。阿りかそれとも詐欺や因縁付けかと、警戒もしたがどうやら単純な善意からの行動らしい。頂き物については宿で由殿と味わうことにしよう。

 自分がこの地を訪れるにあたって、越えてきたと思われる山々を眺める。階下から望む景色も悪くない。街の方へ振りかえると、家々の軒が赤く染まり出している。そろそろ夕暮れの頃合いかと思い、階段を昇り始める。すると、階上からすすり泣くようなか細い歌声が聞こえてきた。人はいないと思っていたが、先客がいたようだ。立ち止まって息を殺しつつ、耳を澄ませる。誰がいるのか何となく察しが付いたからだ。


 数行暗涙窃嘆悔 数行暗涙してひそかに嘆悔し

 連日煩悶徒衰怠 連日煩悶していたずらに衰怠す

 詩書文楽逸感興 詩書文楽感興を逸し

 花鳥風月失色彩 花鳥風月色彩を失う


 階段を昇り、歌声の主を見つける。悲痛な歌詞を口ずさむ後ろ姿は、夕陽が作る影にそのまま飲みこまれそうなほどに儚く、触れれば容易く散る花を連想させた。

「もし、そこの方」

 こちらが声をかけると、彼女は驚いた様子で振り返った。人はいないと思っていただろうから当然の反応だ。

「どなたです!?」

 彼女は私の姿を認めると、訝しげにこちらを見つめる。見知らぬ男と二人きりとなれば警戒するのも致し方ない。

「いや、失礼しました。自分は昨日よりこの地に滞在している者です」

 私の言葉を聞き、女性ははっと何か思い至った様子でこちらに尋ねる。

「昨日からということは、もしかして今朝、公邸の中庭で……?」

 公邸の中庭と聞いて、私も思わずああっと声を漏らす。あの時、池のほとりに立っていた女性か。

「貴女だったのですか。思わぬ所で再会しましたね。あの時は距離が離れていたので、気が付きませんでした」

 遠方に咲く花を眺めるのも良いが、間近に寄って見るのもまた良い。遠目にもそれなりの器量と踏んでいたが、面と向かってそのたおやかな物腰を見ると、美しさに見とれてしまう。自分の眼力が衰えていないとわかり、ひそかに安堵を覚える。

 ただ、彼女の表情は暗く曇っている。花も萎れていてはその魅力は薄れるものだ。

「再会した所で自己紹介でも。私は張本陶、字は宇曽と申します。貴女は?」

「申し遅れました。私は尹詩耽と申します。律県令尹巴の娘です。昨日から公邸に居られたということは、都からの使いの方ですよね? 父よりお話は伺っておりました。ご挨拶にも伺わず、このような場でまみえることになり、申し訳ございません」

 やはり県令の関係者、しかも身内であったか。あの場に身内の彼女を呼ばなかったのは、県令なりに思う所があってのことであろう。身を深く屈めて陳謝する彼女に、私は諭すように言葉をかける。

「お気になさることはありません。県令も機を見て私どもにご紹介なさるつもりだったのでしょう。話は変わりますが、ここにきたのはどのような御用で? 先ほど何か詩を口ずさんでおられたようですが……」

「聞いておられたのですか……。それならすぐに声をかけていただければよろしかったのに」

 詩耽は恨めしく言い返し、嘆息して言葉を続ける。

「ずっと心に秘めていることがあって、それを吹っ切る為に風景を眺めていました。でも、どうにもなりませんね。読書に耽っても、音楽に耳を傾けても、花や鳥と戯れても、そして景色を眺めても……。心は少しも晴れません。憂いを拭い落そうとすればするほど、染みついて落ちなくて……。ごめんなさい。貴方には関係のない話なのに」

 溜まっていたものが決壊しかかっているのか、詩耽は瞳を潤ませている。

「恐れ入りながらその心痛、当人にしか測り知りえぬものでしょう。慰めの言葉も見つかりません」

「そうよね」と詩耽は外を向き、手すりにもたれて溜め息をつく。

 私は同じく隣に立ち、「ただ――」と続ける。

「ただ?」

「慰めはできませんが、話を聞くことはできます。吐き出せば何か変わるかもしれませんよ?」

「お心遣いはありがたいのですが、それはできません。街の皆にも心配をかけているのはわかっています。でも、理屈ではなく気持ちが拒んでいるの。今まで詩文で自分の心を曝け出してきたけど、この思いだけは誰にも触れさせたくないのです」

 どうしても他人に触れられたくない心の領域、そこで患いが起これば周りには如何しがたい。周りの羨望の的である彼女だからこそ、悩みを打ち明けられないという点も、頑なさに拍車をかけている。

「わかりました。部外者の方が打ち明けやすいかと思ったのですが、そうはいかないようですね」

「勝手を言ってごめんなさい。こんなきれいな場所なのに嫌な話をしてしまいましたね」

 夕陽は煌々と街に光を注ぎながら、少しずつ少しずつ山の陰に入っていく。それに合わせて街の建物も影を長く伸ばしていく。あまり遅くなっては由殿がうるさいのでそろそろ戻るとしよう。それに、女性を夜に出歩かせるのも良くない。

「もうじき日が完全に沈みますね。女性を一人ここに置いて行くのも気が憚りますし、お宅まで送りましょう」

「そうですか。せっかくの観光をお邪魔してしまいましたし、ここはご厚意に預かりましょう」

 暗くなった階段を二人で注意深く降りて、楼台を去る。彼女に配慮して、人通りの少ない道を選んで帰ることにした。

「女性と連れ歩くのは久方ぶりです。気遣いが至らぬ時は遠慮なく申し出ください」

「ふふ、そのようなことを仰るということは、随分と女性の扱いに慣れておられると見ました」

 先ほどに比べてかすかに彼女の表情が和らいだのを見て、私は安心する。

「やはり微笑んでいる方がお綺麗です。その調子でいれば、悩みもいつか吹き飛んでしまいますよ」

「そうですね。本当に……吹けば飛ぶような悩みだったらよろしいですのに……」

 彼女の表情が元通りに曇る。

 私は「これはまいった」と胸中で呟く。たしかにその程度で解消されるような悩みなら、ここまで思い詰めていないだろう。

「いらぬことを申しましたね。失礼しました。……話題を変えましょうか」

 詩耽はこくりと頷いたけれども、口数が減ってしまった。気まずい沈黙が流れる。

「そういえば詩耽様も、例に漏れず詩をよく為すと街の者から聞いております。最近は如何でしょう? 何か良い作品ができましたか?」

 努めて優しい声色で語りかける。彼女の方も「これはよくない」と気を遣ったのか、ぽつぽつと最近の動静について話してくれた。

「最近はそうですね……。色々と作ってみてはいますけど、気がそぞろなまま作詩に臨んでいるせいか、満足できる出来のものはありませんね。何と言いましょうか、心の偽りが作品にも表れてしまっているような気がして」

 心中のわだかまりが作品作りにも影響しているようだ。彼女の詩を待ち望む者は多い。何とかしてやれたらと思うが、彼女自身が問題に向き合わない限り、満足のいく詩作はできないだろう。

「やはりこのまま悩みを抱え込んでいてはいけないと私は思います。少なくともどこかで発散する術が必要です。あなたの精神にとっても」

 私の提案に彼女は声を震わせて反論する。

「こんな気持ちをどこで吐き出せばよいというのです? 例えば詩で発散するとしましょう。それでもこの思いを詩に乗せたとて、誰が気付いてくれましょうか。気付いたとしても、安全な所から囃し立てるだけで何もしてくれないでしょう。この悩みを生んだ当人に気持ちが届いてほしいと願っても、その人は何も気付かないでしょう。いや、むしろ気付かないでいてほしい。私がこんな浅ましい気持ちに煩わされていることを彼が知ったら――」

 詩耽は口を滑らせたことにはっとして、口を抑える。おおよそだが彼女の悩みの内容を察した。

「なるほど何となく察しました」

「ごめんなさい! 今のは誰にも話さないでください! こんなことを誰かに知られたら」

 あわあわと慌てふためいて彼女は懇願する。落ち込んだり、焦ったりしている様を見るに、この感情豊かな所が本来の彼女の姿なのかもしれない。

「安心してください。誰にも話さないと固く誓います。……しかし、どうしてそんなに隠したかったのですか? 恋心は人間誰しも抱くものですよ。恥ずかしがることはないと存じますが?」

 ひとまず彼女を落ち着かせて問いかける。

 ここは政治も経済も内々で完結している土地だ。それに加えて各地に秀才を送り出しているおかげで、外聞にこだわって政略婚する必要もない。ましてや外界に女性を貢ぐ習慣もない土地柄だと調査で確認している。

 また、何だかんだ外部の人間を受け入れているようで、血縁の濃さについてもこの街の規模ならそうそう近親と当たることはないはずだ。県令が如何に子煩悩だとしても、相手が余程常識外れな男ではない限りは娘の恋愛にとやかく言うまい。

「その相手が常識外れなのです」

 この街の常識外れな男といえば、一人思い浮かぶが彼は違うだろう。如何に多芸といえど、あの男がこの才媛と結ばれるとは思いたくない。

「あ、ふらふらしてる彼は違いますよ。あれはお互い気兼ねなく話が出来る友人です。もう言ってしまいますが、私の想い人はもう片割れの方です」

 あの様子なら普段から県令と親交があるだろうと、推測で二聖の名前を出してみたが、当たりだったようだ。耀白ならば彼女とお似合いのように思われる。街の住民も、親である県令も諸手を挙げて賛成するはずだ。どこにも常識外れな点は見受けられないし、何を気後れする必要があるのだろうか。

「あら? 大夫様はご承知ではなくて?」

 詩耽は首を傾げる。

「といいますと?」

 私も釣られて首を傾げる。

「それならば私からはこれ以上話せないとしか。本人から聞いた方がよろしいことです」

 そう言うとそそくさと先を急ごうとする彼女を呼び止める。

「ちょっと待ってください。今は貴女の恋のことを話していたんですよね? それと耀白殿の何が関係あるのです」

「大いに関係あります。でも私からは言えません」

「では、彼に直接尋ねろと? 打ち解けたといっても、昨日知り合ったばかりの人間が不躾に尋ねて良いことなのですか?」

「今日出会った私にこれだけずけずけ物を言えるなら容易いことでしょう」

 立ち止まって押し問答になる。

 ああだこうだとお互いに言い合い、収拾がつかない。

「――言ってやってもいいんじゃねえかな」

 なおもつれない詩耽に食い下がっていると、何者かに唐突に声を挟まれた。

 二人して声の方向に顔を向けると、昨日と変わらない出で立ちで鈍灰が立っていた。気だるそうな表情からして一仕事終えた労働者のように見えるが、この男のことだ。大方、ついさっき目覚めたといった所だろう。

「まったく、遅いから何やってんだかと思ったら。旦那、相棒が首を長くして待ってんぜ」

「鈍灰殿、今お目覚めで?」

「夜行性なもんでな。ほら、詩耽も」

 鈍灰は無遠慮に詩耽の腕を取って歩を返す。私も彼の横について歩みを進める。

「で、話の続きなんですが」

「女なんだよ」

「へ?」

 誰が? 何が? と疑問が宙に浮く。鈍灰はなおもスタスタと歩きながら言葉を続ける。

「太清――耀白のことな。あいつは生まれつきは女だけど心は男なんだよ。本人の家族もこの街の者も皆それを認めて接している。科挙については容姿ごまかして受けたら通ってしまった。本来なら重罪だが、ここの人間は朝廷が管理している戸籍に載っていない。存在しない人間を罰することはできない。そもそもここ出身の者が受ける科挙は、余所の地域の奴とは別に行なわれるから規則も緩々だ。そんでこいつは心は異性だけど、体は同性の人間を愛してしまったってことにお悩み。以上。」

 情報の洪水にさすがに頭がついてこない。彼が、女? 見た目も振る舞いも全くの男だった。直言すれば胸元に膨らみすらなかった。

「生まれた時から男として生活していたのが影響したのかもな。体のあり様は心のあり様で決まるって言うだろ?」

 そうは言ってもどうして気にせずにいられるのだろうか。知ってしまった以上、意識してしまうかもしれない。

「まぁ俺もここの生まれではなかったから、最初聞いた時は驚いたな。でも他の奴の様子を見たり、直接あいつと接したりしている内に、すぐに気にならなくなったな。性別どうこうなんざ、小さいことなんだよ。都にも色々いるだろう? それこそ男の性を捨てて宮仕えしてる奴とかさ。男を飼ってる金持ちとか、侍女と体を重ねる貴族の女とかな。人間ってのは生まれは自力でどうこうできないが、生き方は心の持ちようで決められるしな」

 それはもっともだが……。詩耽はどう思っているのだろうか。

「私はここの生まれでしたし、太清とは幼馴染でその頃から彼は男の子として生活していたから、今まで何も気にしていませんでした。でも、ここに至って壁にぶつかってしまいました。染濁は気にせず行けって言ってくれるけど、問題は色々あるのです。外聞や面子のこともありますが、将来のこと、特に跡継ぎの問題は深刻です」

 それが悩みの根幹だったという訳か。現実的な問題と今まで意識していなかったことが初めて浮き彫りになり、前に進むことができない状況だと。

「このことは染濁にしか話していなかったけど、結局、大夫様にもばれてしまいましたね。でも、絶対他の人に話さないでくださいね。父にもです」

 念を押してお願いされた以上、私は頷く他ない。

 そうこうしているうちに、県令の舘が近付いてきた。

「では、この辺りでお暇いたします。舘までお二方に付き合ってもらうと、父に掴まった時が大変でしょうし、私からよろしく伝えておきます」

「お心遣い感謝します。正直、頭が整理できていなくて早く休みたいので助かります」

 私の本音混じりの冗談に詩耽ははにかんで応えてくれた。そして、慇懃に礼をして舘へ帰っていく。少しは気が晴れていれば良いのだが。

「ところで旦那、この後そっちの宿までついていっていいか?」

「鈍灰殿のお願いなら拒む理由はありません。由殿も大いに喜んでくれるでしょう」

「よく言うぜ。まぁちょっとした計画があるからその話ができればと思ってな」

 計画とは一体何なのだろうか。先の話に関連していることだろうか。

「察しが良くて助かる。まぁ俺はあいつらとはけっこう付き合い長いんだけどな。太清はあんたも知ってる通り、文学が恋人みたいな奴でな、色恋にはてんで関心がないんだ」

 たしかにそのような印象はある。衝撃の事実を聞いた今もなお、私の中では彼は純朴な青年のままだ。

「それで詩耽は詩耽でうじうじして行動しないし、やきもきしてたんだわ。この二人を結ばせるには強い刺激がないといけない。ただ、そうするには俺一人ではどうにもできなかった」

 荒療治で無理やりくっつけてもどうかと思ったが、黙って話の先を促す。この後のおおよその展開は読める。

「早い話がその計画を手伝えってことだな」

 鈍灰はにかっと笑って、私の肩をぽんっと叩く。これから聞く企みの内容に不安を覚えつつ、宿舎の扉を開ける。

 宿に入ろうという時、ふと建物の陰に一輪の花が咲いているのを見つけた。陽も当たらなさそうな場所によく咲いたものだと感心する。あの花にも光が当たるといいなと思いながら、私はそっと扉を閉じた。

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