恋はこれから? 二人のその後

 思いもよらぬ事件に巻き込まれ、気づけば出会って間もない男と見知らぬ土地で暮らすことになっていた。山口夏恋は山崎晶と横浜で新しい生活を始めた。


「二、三日したら私の荷物がここに届きます。狭くなっちゃう。すみません」

「荷物って言っても、身の回りのものだけじゃないか。二部屋もあるんだから気にしなくていいよ」

「ありがとうございます。父に恋人と暮らすことになったって言ったら、明らかに安心した声で。実家に帰るって言ったときと違ってた」


 両親もどういう心構えで夏恋を迎えたらいいのか悩んでいたのかもしれない。近所付き合いが当たり前で、生活スタイルまで把握されている田舎での暮らし。都会と違って外部の人間の出入りが少ない夏恋の町では、小さな変化は大事件へと変わってしまう。傷ついた娘を守りたいけれど、更に傷つける恐れがあった。だから、恋人と暮らすという言葉に安堵を隠しきれなかったのだろう。


「俺にとってはありがたいかな」

「どうして?」

「どこの馬の骨だって言われるよりは数倍いいよ。落ち着いたら挨拶しないといけない身としては、ハードルは低いほうがいい」

「ふふっ。山崎さんて意外と事なかれ主義」

「そりゃ誰だって……。でも、君に関しては何だってやれる自信はついたよ」

「山崎さん」


 山崎が事なかれ主義を通すのは彼がもつ性格だけではない。警察官の身分を隠し持ちながらも、それを決して表に出してはならないという理由もある。派手に立ち回るイメージの強い警察官と、山崎のように静かに潜って生きる警察官もいる。特に山崎は潜ったままでなければならない。明確な目的を持たされない潜入捜査官は、その職を辞めない限りは仮の身分が本当の身分なのだ。


 それが、あの事件をきっかけに綻んだ。山口夏恋が誘拐されたと知ったとき、これまでの自分にはなかった、熱のようなものが込み上げたのだ。


「俺たち、恋人同士でいいんだよな」

「そんな、改めて言われると……その」

「俺の一方的な気持ちを押し付けているのなら、俺はそれを望まない」


 恋人になるきっかけは様々だろう。山崎はちょっとしたハプニングを乗り越えて、芽生える恋がある事を理解している。でもそれを利用して、夏恋を自分に留めることを素直に喜べなかった。利用するには、あまりにも酷な出来事だったからだ。


―― 行く宛がないことを知っていて、俺は彼女を攫った。


「ずるいですよね、山崎さんに逃げちゃって。山崎さんの気持ちに甘えているのは分かってます。でも、山崎さんのは押し付けじゃないですから。心地良いなって思うから、恋人としてもやっていけると思うんです。こんな言い方しかできなくてごめんなさい。その、恋愛ってどんなだったかなって……。分からなくて」

「謝らせるつもりはなかったんだ。俺こそごめん。でも、それって恋人として一緒に暮らしてくれるってことで、いいのかな?」

「山崎さんが、イヤ、でなければ……」


 山崎は念押しをして言質を取るなんて最低だと思った。しかし、それは夏恋の表情を見るとそうでもないかもしれないと思えた。夏恋は俯いてはいるものの、その顔は真っ赤だったからだ。


―― くそっ。すっげぇかわいい!


「嫌じゃないさ。むしろ、好きだから無理やり連れてきたんだ」

「好きって、その、わたしが?」

「他に誰がいるんだよ」

「ですよねっ、すみませんっ」


 山崎は未だに距離を保とうとする夏恋に焦りと少しの苛立ちを覚えた。


―― このままじゃ、いっこうに恋人のようになれないじゃないか……。


「そうだ、呼び方を変えよう。それと、敬語もなしで」

「えっと?」

「夏恋って、呼んでもいいかな。俺のことは晶って呼んでくれていい」

「わ、私のことはいいですけどっ。山崎さんを呼び捨てにするのは無理です。せめて、さん付けで!」


 夏恋は赤らめたままの表情で山崎に言った。それを見た山崎は折れたように返事を返す。


「じゃあ、さん付けで。でも名字じゃなくて名前の方でね。あと、敬語はなし。俺たち、恋人同士だから」


 山崎がひとつ妥協案を出し、でもそれ以外は譲らないよと優しく迫る。だって、恋人同士だから。


「恥ずかしい……」

「夏恋?」

「……っ、うう。あ、あきらさん?」

「うん?」

「えっと。これからも、よろしくお願いします」

「ふっ……ふははっ。なんか、硬いよ」


 山崎が珍しく笑った。いや、夏恋は初めて見たかもしれない。表情の薄い男の顔が、目尻にシワを入れて頬を上げる。いつも真面目で慎重な山崎が笑うと、男の人から男の子になったみたいに可愛らしくなる。山崎の新しい顔を見た夏恋は、顔が熱くなるのを誤魔化すように反発した。


「山っ、晶さんに言われたくない。出会ったときから硬かったのはそっちなんだからっ。何考えてるのか、全然分からなかったし」

「合コンの時のことを言ってるのか」

「そうよ。無口だったし、表情も変わらないし。なのに人のこと、よく見てる不思議な人だった」

「俺のこと、ちゃんと見ててくれたんだな」

「えっ」


 いつも合コンでは気にされない立ち位置だった。同僚の甲斐田や瀬戸は人当たりがよく、女性の心はみんな二人に向いていた。山崎はそれが楽だったし、深い関係を持つのは避けていたからちょうどよかった。夏恋はそんな雰囲気を醸し出した山崎をちゃんと見ていたのだ。


「つまらない男だって思っただろ」

「そんなことない。カクテル……チャイナ・ブルーの。とても美味しかった。嫌味のない優しさが口の中に広がったの」

「あれは飲みやすいよ。なのに、安っぽくない」

「晶さんみたいだなって、今は思うの。甘すぎなくて、それでいて全てを優しく包み込む、凛としたブルー」

「まさか。チャイナ・ブルーは夏恋そのものだって、俺は思ったんだ。惑わされない個々の味が、調和を重んじた、濁りを知らないブルー」


 言い終わったあと二人は見つめ合った。思っていることがどこか似ている。物事の捉え方がとても近い気がする。そして、それのどこにも他人を傷つける要素は含まれていない。

 人を想う気持ちや温度が、似ていて心地良い。


 夏恋は何度か瞬きをして、ゆっくりと瞼を下ろした。山崎はそんな夏恋の頬にそっと手のひらをあてる。目を瞑った夏恋は、胸の高鳴りを抑えながら息を潜めた。そこにゆっくりと山崎が距離を詰める。とうとう山崎の影が夏恋を覆った。


―― んっ……ん


 山崎の唇が夏恋の唇をとらえる。ただ重ねられただけのキスが優しさと温もりを運んできた。触れた部分に明確な温度はない。けれど、そこから春のような暖かさが広がった気がした。添えられた手も、寄せられた唇も山崎らしさで溢れていた。


「んっ……」


 夏恋は自然と声を漏らしていた。男女の育みにこれほど心が震えることがあるだろうか。そして、ゆっくりと山崎の唇は離れていった。


「ご、ごめんっ。急に」


 山崎が焦るのも無理はない。夏恋は涙を流していたのだから。慌てた山崎は夏恋の濡れた頬を指で拭った。ごめんな、ごめんなと詫ながら。


「違うのっ、違うのっ……わたし、嬉しかったから。イヤで泣いてるんじゃないの」

「えっ、嫌じゃない? 本当か?」

「本当だから。だから、離れないで。もう少し、こうしていて」


 夏恋から山崎に抱きついた。半ばそれは縋っているようにも見えた。一人にしないで、置いて行かないで、私をまもって……と。


「ずっと、護るから。何があっても夏恋を一人にしない。誰にも、やらないよ。そうなっても、いい?」


 夏恋はうんうんと頷いて、その顔を山崎の胸に埋めた。かすかに体を震わせながら。


「俺、優しいだけじゃないよ。嫉妬もするし、夏恋を縛るかもしれない」

「平気」

「キス、以上のこともするよ」

「子供じゃないから、大丈夫」

「それは紳士的じゃないかもしれない」

「……うん」

「見た目とのギャップが激しくても、受け入れて欲しい」


 だんだんと、山崎の言うことがあやしくなってきた。夏恋はとうとう返事に困る。


「……」


――大人の男の人なんだから、それくらい普通だし……たぶん。それに、普段が真面目な人って夜が……すごいって……。


「夏恋?」

「っ、はい! 大丈夫です。どんな晶さんでも、受け入れるように、努力しますっ」


 そう言い終わると、夏恋は山崎の背中に回した腕に力を入れた。見た目は細くて薄そうな体だったのに、こうして抱きついてみると全然違った。


―― 筋肉……ある!


 筋肉を感じた瞬間、夏恋の胸の高鳴りは激しさを増した。それは山崎が男であることを知らしめるのに十分だった。急にドキドキが止まらなくなる。このままではいけないと、夏恋は咄嗟に口を開いた。


「あのっ、デート! デートがしたいの。公園に行ったり、お買い物したり、一緒にご飯作ったり」

「そうだな。先ずはそれからだな。荷物を片したら夕飯の買い物だ。あー、でもこれはデートじゃないな」

「ううん! デートだよ。私にとって、晶さんと一緒にすることは全部デートなの」


 普通の過程を踏まずに恋人同士になった二人にとって、デートという言葉は新鮮だった。出会ってから仕事に関する話しかしていない。もう少し踏み込んでみようかと、思った矢先に事件が起きた。

 もし、山崎が助けに来てくれなかったら、夏恋は今頃何をしていたのだろうか。山崎は自分を無理やり攫ったと言うけれど、夏恋には天からの救いだと今は思っている。


「外で食べてもいいな。作るのは明日からでもいい。時間は、たっぷりあるんだしさ」

「うん! あ、でも私……無職だから」

「婚約者なんだから気にしなくていいだろ」

「こんっ、やくしゃ……」


 夏恋は真っ赤な顔をしたまま山崎を見た。その顔はツンとしていてどこか冷たい。でも夏恋はすぐに分かった。山崎は自分の反応を楽しんでいると。


「晶さんて、そういう人だったんだ」


 山崎はジィっと横目で見つめてくる夏恋に耐え兼ねたのか、口の端をだらしなく崩した。それを隠そうと片手で覆う。


「もうっ、楽しそうですね!」


 夏恋は拗ねて山崎に背を向けた。本当は拗ねてなんかいない。山崎の破顔した顔を見て胸のドキドキが治まらなくなったからだ。


「ごめん。怒った? 夏恋がかわいいから」

「可愛くないからー」


 夏恋は熱を持った頬を両手で押さえてうずくまった。恥ずかしくてたまらない。山崎は、そんな子供のような行動をとる夏恋が新鮮で、思わず後ろから抱きしめた。


「山崎さっ……」

「夏恋、名前」

「あきら、さん」


 肩書きは婚約者のまま。でも、関係は恋人未満からのスタートだ。きっと今は山崎の想いの方が勝っているだろう。彼女を一途に思いながら危険をおかしたのだから。それに比べたら、夏恋の山崎への想いはまだ芽生えたばかり。これからゆっくりと育つはずだ。事件でひどく傷ついた心の傷を癒すのは、長い時間が必要だから。


「少しづつでもいいんだ。前に進もう。立ち止まって、振り返ったって構わない。無理に忘れる必要はないし、無理に記憶に留めなくてもいい。全部時間が薄くしてくれるよ」

「うん」

「一人で立ち向かわないで欲しい。夏恋のそばに俺がいるって、忘れるな」

「迷惑かけるよ? 夜中に突然、泣き出すかもしれない」

「大丈夫だ」

「蹴ったり叩いたり、八つ当たりで酷いことを言うかもしれないよ?」

「新しいプレイだと思って受け止める」

「もうっ! ひどいっ。ふ、ふふっ……」


 真面目な山崎が言うから我慢できずに吹き出してしまった。夏恋を気遣っての言葉なのだろう。いや、もしかしたら?


―― 晶さんて、本当はもっと……


「ふざけてますよね」

「俺はいつでも真面目だと言われている」

「言われているだけで、本当は違うんでしょう?」


 夏恋は背中から抱きしめられたまま振り返って、山崎に疑いの眼差しを向けてみた。山崎は小さな声で「その見極めは合っているのか?」と言って、夏恋の唇をゆっくりと塞いだ。

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COVERT―隠れ蓑を探して― 佐伯瑠璃(ユーリ) @yuri_fukucho_love

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