その後の彼ら
サブマリナーのその後
「発射っ!」
本来ならば「撃て」という言葉も、この異常事態に動揺したのか興奮したのかは分からない。「発射」という言葉を用いたことに誰もが気づかなかった。何度もシミュレーションしたのに、我が手で撃つことを脳が抵抗したようにも思えた。それでも指は正確に動いた。艦長の声に体が反応し、俺は魚雷を放った。これが最初で最後であれと願いながら。
暫くののち、「命中」という声が耳に届き、安堵で膝が折れたのを俺は忘れない。そして、俺の右手を包み込んで労ってくれた真田艦長のことは一生忘れないだろう。
◇
間もなく、潜水艦ほくとは豊後水道にさしかかる。忍者のごとく人知れずの潜航生活にピリオドが打たれようとしていた。
「浮上準備」
「浮上準備完了」
「浮上! 浮上!」
バラストタンクから排水が始まり、空気が注入された。船体は大きく後方へ傾く。そして船首を海面に突き付けて、潜水艦ほくとはその煌々とした雄姿を波しぶきと共に現した。運よくその光景に遭遇した釣り人は、みな度肝を抜かれるのだという。予告もなしに大きな鉄のクジラがザバーンと出現するのだから。
周辺の安全を確認しての浮上とはいえ、潜水艦一隻の大きさは漁船を遥かに上回る大きさだ。船体の上部を僅かに海面に出しての航行からはその大きさは計り知れない。艦橋からは周辺海域を確認する隊員が数名体を出していた。その後方に、日章旗と自衛隊旗が潮風にはためいている。
豊後水道は潜航できるほどの水深がないため、ここを通過する潜水艦はみな浮上する。水上艦とは違い潜水艦は水上を航行するのに適していない。ちょっとの波にも船体は大きく揺れてしまうのだ。
「今日は一段と揺れるな」
「この揺れを味わうと、帰って来たって気になれて俺は嬉しいよ」
「お前はいいな。俺は猿回しの仕事が残ってるから、ほどほどにしてほしいもんだ」
「ご愁傷さん」
「他人事かよ」
艦橋の下にある羽のようになっている
「川上。あと一晩寝たら、愛しの加奈子ちゃんに会えるぞ」
揶揄うように同僚がいう。
「ああ、そうだな。だが、無事に入港するまで気は抜けない」
「水雷員としての仕事はほぼ終わってる。ベッドも広くなったし、もう少しリラックスしていいぞ。身が持たない」
「初めてだったんだ。察してくれ」
強張ったままの頬、握った拳にさらに力を込めて川上は仲間から離れた。
川上の右手の指は力を抜くと、途端に痙攣したようにに震えだす。明らかな心的外傷後ストレス障害だと思った。いわゆるPTSDだ。しかし、絶対に認めたくはなかった。血のにじむような努力をしてやっと勝ち取った潜水艦乗組員の資格。川上には、これしきのことで失ってたまるかという想いが強かった。このことは知られてはならない、見られてはならない。もし知られたら、自分は
――降ろされてたまるか! こんなことで俺は、負けたりしない!
◆
「なんで自衛隊なの? ねえ、しかもよりによって海上自衛隊。会えなくなるじゃん......」
「ごめん。でも、俺の夢だったんだ」
川上は高校を卒業して海上自衛隊を志願した。ずっと憧れていた海の防人、海の忍者に川上はなりたかった。親からも、当時付き合っていた彼女からも何度も考え直すように言われた。あの頃自衛隊は3K(危険、きつい、汚い)の代表だと言われており、頑張れよと応援してくれる人は少なかった。それでも若さは何よりも強かった。彼女と別れ、親の反対を押し切って試験に挑んだ。運動も勉強も得意だった川上は、見事狭き門である海上自衛隊の一般曹候補生として入隊。その後も努力は怠らず、今の潜水艦乗組員の資格を手に入れた。
潜水艦は海上自衛隊の中でも特殊すぎる。任務は全て極秘であった。もちろん同じ海上自衛官からも謎の部隊と見られている。長い間、海底で過ごす彼らの任務は未知なるものとされていた。やる気、根性以前に生まれ持った適性という大きな壁も存在するのだ。
そんな選ばれしサブマリナー。川上にとって勲章以上に値する輝かしい地位だった。
突然の任務開始、帰還日時不明の仕事は若きサブマリナーにとって、彼女という存在は
川上が加奈子と出会ったのは、彼女拿捕に疲れが出始めた頃だった。
「実は私、ディーゼルフェチなんです」
友人からセッティングされた合コンに加奈子はいた。訓練上がりで駆けつけた川上が最初に聞いた言葉がそれだった。
「ディーゼル、フェチ......?」
訓練に明け暮れる毎日で、それが何を意味しているのか全く分からなかった。ディーゼルというブランドがあったのか。きっとそれが好きだと言っているんだと必死に脳みそを回転させた。一年の殆どを海の中で過ごす川上は、入った給料にほとんど手を付けていない。お金ならそこそこある。大丈夫だと言い聞かせた。もう繋ぎ止めるのは金しかない! それくらい妥協しまくりで挑んだ合コンだった。
「私、オイルとかガソリンの臭いが好きなんです。特に、ディーゼルエンジンの......変でしょう? でも、嗅ぐのやめられなくって」
「はぁ......」
想像していなかった回答に川上の脳の活動は停滞してしまう。
「引きますよね! なんでそんな臭いものが好きなのかって。友達からも変な顔されるし、自分でもどうしてこんな臭いが好きなんだろうって」
本当に困り果てたような表情で加奈子は目を伏せた。そんな困り顔を見た途端、川上の胸がキュンと鳴いた。だからか分からないが、反射的にこう返した。「嗅いでみますか」と。
「えっ!」
弾かれたようにまんまるな目をして自分を見上げる加奈子は、好奇心旺盛な少女のようだった。
「あ、すみません。変なこと言って。その、俺、毎日それの臭い被ってるんですよ。や、ちゃんと風呂も入ってるし、シャワーも浴びてるんです。その辺、人一倍気を使っているつもりなんですけど......どうも、その、臭うみたいで。自分では分からないですよね、臭さの度合いが」
「いいんですか!」
テーブル越しに加奈子は立ち上がり、今にも乗り越えて来そうな勢いがあった。本当に臭うつもりかと、川上は身構えて硬くした。しかし、そんな川上をよそに加奈子は可愛らしい鼻を川上の胸元に突き出してきたのだ。
スン、スン
何度か小さな鼻孔が動いた。その間、川上は硬直したまま加奈子の鼻先を見つめる。
―― やべぇ。俺はなんて事をさせている。終わった、間違いなく終わった。
数秒という瞬きをする程度の時間が、こんなに長いものと思わなかった。臭さのあまりに気絶でもされたらどうする。そんな事が脳裏をよぎったのだから。
「もう......」
もうその辺にしませんか。そう川上が言おうとしたとき、加奈子の顔が静かに離れて行った。
「やばいです」
「っ! すみません! 俺、出直してきます!」
「そうじゃなくって。良いほうのやばいですからっ」
「......え?」
顔を真っ赤に染めた加奈子はそのあと「理想の臭いでした。好きです」と言ったのだ。川上にとって人生で初めて、受け入れられたと脱力した瞬間だった。
◇
川上は握りしめた拳をゆっくりと解いてみた。その手に異変は見られない。何度かその手を握って、開いてを繰り返し試してみる。
―― 大丈夫だ!
あの小刻みな震えは訪れなかった。
もうすぐ基地につく。計器異常をおこしてしまった「ほくと」はしばらくドック入りするだろう。その間は休暇を取って、加奈子と過ごせる。いつもと同じだ。任務明けは彼女や友人と過ごして英気を養い、そしてまたサブマリナーに戻る。大丈夫だ、大丈夫だと言い聞かせた。
翌日、午後1時すぎ。
潜水艦ほくとはドック入りの為、海上自衛隊呉地方隊へ寄港した。
「みんなご苦労だった。今回はいろいろとメンテナンスが必要であるため、ほくとは横須賀基地ではなくここで世話になることになった。ちょっと距離はあるが、帰宅するまで気を引き締めて、自衛官であることを忘れずに行動してほしい。それから、知っての通り私はここで艦を降りる。以後の任務もしっかりと励む様に! 誇りを持て! お前たちは本物のクジラ乗りだ!」
「真田艦長に敬礼!」
艦内の全ての確認を終えて、乗員が潜水艦ほくとから降りていく。それを艦長の真田は一人ずつ見送った。艦長は常に、一番最後に降りるものだ。
それぞれに今回の任務で負わされた大きな責任があった。どんなに素晴らしい働きをしたとしても、それを認めてもらう行動はとってはならない。潜水艦に乗る者は承認欲求は殺すものだ。どんな任務を負わされても何事もなかったように地上に降り溶け込んでいく。そんな彼ら一人一人の心の内を理解してやるのも、また艦長の仕事だ。
乗員全員上陸まであと数名になった。そのときハッチから上がって来たのは水雷員の川上龍起三等海曹だった。艦長の真田は一歩前に出た。
「川上三曹」
川上は背筋を伸ばして敬礼をした。
「君には重い任務を強いた。が、それを悔いることなく誇りに変えてほしい。私は君を部下に持って光栄だった。君たちは私の誇りだ。ご苦労だった」
真田は握手をするかのように、川上の右手を両手で包み込んだ。
「か、艦長......っ」
艦長だけは川上の重責を理解してくれていたのだ。それだけで報われた気がした。流すつもりのなかった涙がとめどなく溢れた。
それから川上はどうやって帰ったのか覚えていない。仲間と基地の施設で風呂に入り、手荷物をまとめて新幹線に乗った事だけは覚えてる。気が付くと川上は、自宅に近い新横浜駅に降りていたのだ。
「俺、いまどこにるんだ」
なんとか改札を抜けたのはよかった。しかし、上手く頭が現実を受け入れられていない。瞬きをするたびに、艦内の風景が切り取られて写真のように静止して浮かび上がる。冷たい汗を額に感じて、そっと手の甲で拭った。そしてなぜが、忙しそうに行き交う人々の足音や声が遠くに聞こえて視界がぼんやりしはじめた。
―― まずい。どこかに座るか。
本能的に危険を感じて視線を泳がせたとき、誰かに後ろから押された。
「うっ」
「龍ちゃん!」
「かな、こ?」
押されたのではなく、抱き着かれたことにあとから気づく。
「そうよ! どうして連絡くれなかったの。新幹線に乗ってからでも時間あったでしょう? ひどいいんだからぁ」
「あっ! ごめん。俺、すっかり、その」
「新幹線に乗って安心しちゃったんでしょ。すっかり連絡したつもりになってたんだよねー。もう、潜水艦ばかなんだからぁ」
「ごめん。けど、なんで」
聞くと川上の仲間の一人が、加奈子に連絡を入れたらしい。初めての任務で疲れ切っていて使い物にならなさそうだから宜しく頼むと言った具合に。
「カレーは食べあきたでしょう? 今日はね豚汁にしたよ。肉じゃがでしょう、それからお刺身もあるの。久しぶりにお酒も解禁だね」
「加奈子の料理、楽しみだな」
川上は微かに震える指先を隠すようにぎゅっと握りしめた。いつもの自分でいるために。それはこれからもサブマリナーとして生きるため、そして彼女の笑顔のために。
「ねえ、その前にいい?」
「えっ、まさか。ここで!」
「久しぶりの再会だよ? しかも、恋人同士の!」
ぷっと頬を膨らませて怒って見せる加奈子に川上は観念した。ふうっと短く息を吐いて荷物を地面に置く。そして、両手を広げた。
「手短にお願いします」
言い終わる前に、加奈子が飛び込んできた。
「やった。龍ちゃん、お帰りなさい。うーん、良いにおい。龍ちゃんのにおいだ。でも、ちょっといつもと違う」
「え、どう、違う」
真面目な顔をして、自分を見上げた加奈子の瞳を見て胸がざわついた。何もかも見透かされているような恐怖を感じる。ロボットとはいえ、人と変わりのないそれを魚雷という恐ろしい武器で破壊した。人殺しと言われてもおかしくないことを自分はしたのだ。それを加奈子は知っているのではないかと得体のしれない何かが襲う。
「命がけで働く、サブマリナーの臭いがする!」
「え?」
「あれ? 違った? 潜水艦乗りって、サブマリナーって言わないの?」
首を傾げて助けを求める加奈子を見た川上は、目の奥から熱いものが込み上げてくるのを感じた。もし彼女が加奈子でなかったら、こんな出迎えはなかっただろう。一人、覚束ない足取りで部屋に帰り、死んだように眠り続けたかもしれない。大事なことをなにも話せない自分に愛想つかし、去られてもおかしくない職業を恨んでいたかもしれない。いくら国のために命を懸けたと言っても、それを分かってもらう事もできない。そんな職業を選んだ自分を悔いたかもしれない。
「あってるよサブマリナーで。誰から聞いたんだ」
「勉強したの。ディーゼルフェチを舐めないでよねっ。どういう環境にいたらこういう臭いになるのかなって。潜水艦入門て本、買っちゃった」
「まじ?」
「でもよく分からなかった。言葉が難しすぎる。龍ちゃんはすごいね! これからも頑張ってね。元気に帰って来ることだけ約束してくれたら、それでいいから」
「そんで、良質のディーゼル臭をさせとけばいいんだな」
「そういうこと!」
気づけば指の震えは治まっていた。もしかしたらまた震えだすかもしれない。それでも俺はこの仕事を辞めない。加奈子の笑顔とサブマリナーの名にかけて。
俺の居場所は二つある。
ひとつは潜水艦の魚雷の下。もうひとつはディーゼルフェチの奇特な彼女の隣。
「加奈子、結婚しようか」
「結婚......結婚! なんで、今なの? 龍ちゃん!」
「嫌だよな、やっぱ」
「嫌じゃないよ、嬉しいよ」
水雷員、川上龍起三等海曹はディーゼルフェチの彼女という
二人に幸あれ。
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