最終話

 夏恋は消え入りそうな声で「ごめんなさい」と、答えた。山崎はそれを聞いて、すぐに夏恋に詫びを入れた。変なことを言ってすみませんと。


 時計が日付を跨いだ頃、山崎は夏恋の部屋を静かにあとにした。






 玄関のドアが閉まったのを確認した夏恋は、ドアをゆっくりとロックする。カチャと鳴る音に胸がとても痛んだ。当たり前のその日常の動作が、こんなにも辛く悲しいものとは思わなかった。

 山崎がどんな気持ちで一緒に行かないかと言ったのか、どれほど自分を守ろうとしてくれていたのか。中途半端な気持ちではなく、とても真剣だと夏恋には伝わっていた。だから、喜んで受け入れることができなかった。


「山崎さん……ううっ、ううっ。どうしてよ……どうしてっ」


 出会って間もないというのに、山崎は夏恋のためにあんな危険な場所までやってきた。たとえ身内に警視庁の人間がいたとしても、自らやって来ることはないだろう。仮に夏恋が山崎の恋人だとしても、警察に助けてくれと拝むのが精一杯だろうに。


 夏恋は玄関にそのまま座り込んで泣いた。こんなにされる程の価値が自分にあるとは思えない。自分が山崎に向けた気の利かない言葉と、無愛想な態度しか思い出せない。男性との距離のとり方を忘れた夏恋は山崎の気持ちをどこまで受け入れたらいいのか分からない。男性が好意的に思うようなことを自分はなに一つしていないのに、と。


「どうしてっ、そんなこと言うのっ。同情しているだけでしょう? 運のない可哀想な女だから、助けてやるって。守って、やるって……う、ううっ」


 鈴木(林原)聖也だってそうだ。運のない哀れな女が目の前に現れた。攫う予定もなかったのに、事の流れで仕方がなかった。ずっと悪役を演じてきたのに夏恋のせいで正義心が現れ、裏切り者だと殺された。


「私が、道路なんか渡らなければあんな事にはならなかった。まさやさんだって、死なずにすんだのにっ……ぜんぶ、私の、せい」


 夏恋は自分のせいだと責めた。最初の事件から立ち直り、人と接することにも抵抗がなくなって、調子に乗って合コンに行った。地味に生きると決めたのに、日常がうまく回り始めて欲が出た。


「行かなきゃよかった……出会わなければ、よかった」


 好きな仕事、港の現場にさえ自分の居場所はない。こんな自分を哀れに思った二人の男がお金と居場所を与えると言い出した。夏恋は二人をそんなふうにさせた自分が、嫌で嫌でたまらなかった。

 このままでは山崎までも、いつか自分のために死んでしまうかもしれない。


「いやだ……。もう、消えてしまいたい」


 夏恋は長いトンネルに足を踏み入れようとしていた。それはもしかしたら、出口のない迷路かもしれない。






 山崎は自分の部屋に帰り着いてからも、ずっと夏恋のことを考えていた。短期間で色んな事があり過ぎだ。事件の混乱も冷めやらぬうちに自分はなんてことを言ったのか。


 山崎は夏恋が行方不明になってから今に至るまで、ずっと頭の中に夏恋の存在があった。あの日、婚約者として動き始めてから山崎の中で何かが変わったのだ。初めは確かに夏恋を哀れに思った。自分がエスにしようなんて思わなければ、こんな事に巻き込まれなかったのに。そう思う反面、自分にも守りたい者が現れたという喜びも生まれた。


 俺は単なる潜入サラリーマンじゃない。サラリーマンのフリをした警察官なんだ。山崎の心の奥に眠った正義の心が目覚めたのだ。

 でも、夏恋の『ごめんなさい』の言葉に顔を殴られたような衝撃を受けた。


「俺は彼女の気持ちなんて、何一つ考えていなかった。自分だけが満足する言葉を投げてしまった。なんてことをしたんだ」


 心の何処かで想いは伝わると信じていた。あの一言で、夏恋が意を組んでくれると思い込んでいた。一人で悲しむ彼女を救いたい、守ってやりたい、きっとまたこの腕に飛び込んできてくれるはずだと。


「独りよがりもいいところだろ! くそっ!」


 山崎は握りしめた拳を自分の太腿に打ち付けた。何度も何度も打ち、鈍い音がしても痛みなど感じなかった。


「どうやったら、伝わるんだ……どうやったら、彼女をっ」


 最後に見た夏恋の瞳は生気を失ったように、暗く沈んでいた。

 もうこれ以上、彼女を困らせてはいけない。自分がいなくても、時間が解決してけくれる。


「俺を見るたびに、事件を思い出す。だったら、もう会うべきじゃない……」


 いつしか山崎の拳は緩み、だらり垂れて空気を揺らしていた。





 分かっているはずなのに、気持ちが反応してくれない。体が動いてくれない。そんな気持ちを抱えたまま時間だけは過ぎていった。



 山崎は社内の引き継ぎを済ませ、荷物をまとめた。神戸の本社に立ち寄ってから横浜に入る予定だ。このまま黙って去ればいいと思った。だけどそれを本能が許してはくれなかった。このメールに返信などいらない。せめて最後にお礼を言いたかった。たとえ自己満足だと言われても。


――夏恋さんに会えたことを無しにはできない。あなたに会えて俺は変わった気がする。あなたには、こんな気の利かない男で申し訳なかったよ。


 山崎は保存していたメールの送信ボタンを押した。


『今日10時発、のぞみで離れます。ありがとうございました。あなたに会えて、よかったです』




 夏恋は悩んだ末、会社に退職届を出した。休職するには病院の診断書が必要で、また心療所のドアを叩く気にはなれなかったからだ。

 そして、何となくこの街に住みづらさを感じて、誰にも相談せずに部屋を引き払った。荷物はとりあえず、実家に送った。何も知らされていない母親はどんな反応をするのだろうかと想像しながら。


 その日の朝だった。夏恋のスマートフォンが震えたのは。久しぶりの山崎からの着信は別れの知らせだ。いよいよこの街を去るという。そして最後の一言に夏恋の心は揺れた。


『あなたに会えて、よかったです』


 スマートフォンの時計は午前九時を指していた。今からならきっと間に合う。でも、行ってどうするのか。お礼を言って、頑張ってくださいと励ますのか。


――私が行ったところで、もう……。


 あんな大事な誘いを簡単に断った自分が、どんな顔をして見送るというのか。これ以上、彼を自分に縛り付けてはいけない。ひとときの悪い夢を見ているだけだ。自分に関わらなければ彼は間違いなく幸せになる。


 夏恋は行き先を決めないまま、ふらふらとバス停に向かった。


――最初に来たバスに乗って、それから考えよう。


 夏恋は高速バスが停車するバス停にいた。初めは実家に戻ることを考えていた。けれど、それはすぐに計画から外した。夏恋の実家は地域の繋がりを大切にする田舎町で、どこに誰が誰と住み、どこで働いているのか、家族構成はどうなのかまで知られている。高校を卒業してから家を出た夏恋が、休みでもないのに戻ったら……。


――帰りたくても帰れない場所って、あるのね。

 

 バスが来るまでの時間は無意識にスマートフォンを触っていた。同僚と撮った写真や港の写真、そして船舶免許に合格した時の通知書の画像だ。なんの感情もないような素振りでそれらを指でスクロールしてアプリケーションを閉じた。電話帳も、メールも大切な人たちとの履歴がたくさんある。夏恋はそれを見ただけで息苦しさを覚えた。


――みんなの優しさから、逃げてるみたい。みんな、ごめんね。私に会わなければよかったのにね。


 電話帳から画像と全ての連絡先を消去した。メールの受信も送信もいっきに消去する。何百通にもなるメッセージを消すのに少し時間が必要だった。そして、全て削除しますか? と、問われ『OK』を押す。最後はゴミ箱からも消してしまえば二度と戻らない。まっさらなスマートフォンになる。


――大事な人たちをゴミ箱に入れるなんて、なんて酷いことをするんだろ。ううん、皆やってることだもん。これで、私はやり直せる。


 ゴミ箱を開かずにフォルダを指定して削除ボタンを押した。確認画面が立ち上がり、完全に削除しますか? と、問われた。もう一度、『OK』を押すだけだ。

 ゆっくりと指を滑らせて、それを押す。削除の作業は機械的でいい。数秒で全てが消える。


 いつしかスマートフォンの画面は、夏恋の大粒の涙で濡れていた。








――新幹線ホーム。


 博多駅が始発である東京行きのぞみは、すでに到着していた。山崎はホームに立ち、続々と乗り込む乗客の姿を見ていた。来るわけないと、分かっているのに探してしまう。もう会わないと決めたはずなのに、諦めの悪さにため息をこぼした。


――あんなメールで彼女の気持ちが動くわけがないだろ。いや、見ていないかもしれない。


 車掌が乗り込んで出発点検を始めた。そして車内アナウンスが流れる。


『東京行きのぞみは間もなく発車いたします。ご乗車のお客様はお近くのドアからお乗りください』


 多くの観光客、仕事で利用する人たちが階段を上がってきた。出発のベルがなり始め、彼らは慌てて駆け込む。


――ゲームオーバーだ! 忘れろ!


 山崎はいちばん最後に乗り込み、ドア近くに立った。いつも冷静にドライであることを心がけてきた。名残惜しさを残さぬために淡々と務めてきたつもりだった。山崎にとってこの街は、優しくも厳しくもなかったはずだ。

 あの事件が起きるまではーー。


 ホームに柔らかな音が鳴り響く。


『東京行き、間もなくドアが閉まります』


――どうか幸せになってください。さよなら、夏恋さん。



 そんな時、息を切らしながら階段を登ってくる女性がいた。大きな荷物を肩にかけ、視線を泳がせている。


 それを見た山崎は叫んだ。


「夏恋さーんっ!」


 公共の場でこんなに声を上げたことはなかった。ホームに立つ人が山崎を振り返った。山崎は構わずドアから体を乗り出す。それを見た車掌が激しく笛を鳴らした。


『ドアが閉まります!』


 山崎は無我夢中で手を差し伸べた。これが最後のチャンスだと。


「夏恋さん! 俺の手を、どうか俺の手を取ってください!」

「山崎さん」


――ピッピッピッ! ドア閉めます。


「夏恋さんっ。俺はあなたに会えてよかった。忘れることなんてできない! ずっと、死ぬまで、俺はあなたを忘れない!」

「山崎さんっ、私っ」 

「クソっ!」


 ドアが閉まり、ゆっくりと加速が始まった。ほとんど揺れもなく線路を滑り始める。加速は止められない。もう二度と、振り返ることはできない。




◇◇◇




 山崎はデッキに尻もちをついたまま座っていた。窓の外を流れる景色など追う余裕などない。ただ、今ある温もりを力いっぱい抱きしめていた。


「苦しい、です」

「すみません。でも、我慢してください」

「やまっ、山崎さん……」

「すみません。誘拐だと思われても仕方がありませんね」


 ドアが閉まる直前。手を取ろうとしない夏恋を、山崎はむりやりドアに引き込んだ。頭で考えるよりも、体が勝手にそうしていた。


「私、ズルいです。山崎さんを、利用しようと思ってる。私のことを知らない場所でやり直したいって思ったのに、なのにそれもできなくてっ」

「利用すればいい。要らなくなったら捨てていいですよ」

「捨てるだなんて」


 山崎は抱きしめた腕を緩めて、夏恋の顔を見た。夏恋の顔にはもう涙はなかった。でも、小さな唇は震えている。


「俺も夏恋さんを利用します。俺はまだ、あなたの婚約者を装っている。それを今のところはやめるつもりはありません。俺も一人は寂しいです。だから、あなたをそばに置いて紛らわすんです。酷い男ですよ」

「どうして、どうしてそんなに私を?」

「さあ、どうしてですかね。分かったらこんなに苦しまなかったですよ」


 夏恋は山崎の顔をじっと見つめた。瞳の奥のその奥に、山崎の隠された何かを探るかのように。山崎の瞳には自分が映っていた。それも今にも泣き出しそうな、何かに怯えた自分。


「山崎さんは、死んだりしないですよね? これは本当の姿じゃないなんて言わないですよね? 私、怖いんです。あなたまで居なくなったら、もう立ち直れない。山崎さんは、山崎さんですか?」


 山崎は夏恋のその言葉を聞いて、奥歯を噛み締めた。胸が締め付けられる。心臓が痛くなる。それでも己の真の身分が潜入捜査官であることは明かせない。


「俺は俺です。それ以外の何者でもありません。俺にあなたを護らせてください。俺は夏恋さんが好きです。夏恋さんも俺を、好きになってください」


 山崎はいつもの困ったような笑顔で手を広げた。夏恋はそれを見て安心したのか、そっと山崎に体を寄せた。


「はい。あなたを、好きになります」


 夏恋の声は震えることなく、そうはっきりと答えた。


「後悔しないでくださいね。離しませんよ」

「後悔、しません」



 いつわった身分でも、努力して貫いたら、それがいつかまことになる。


 そして戦いを終えたとき、互いを癒せる隠れ家COVERTになればいい。





――COVERT 終わり――

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