第12話


 山崎は夏恋のスマートフォンが最後に示した位置を確認し、近くに車を止めた。周りは杉の木と、山肌が削がれた採石場と、倉庫がいくつか建つ物寂しい場所だった。到着したのが夕方だっため、車の気配も人気もなかった。いかにも、犯人が潜伏していそうな場所だ。


――こんな場所に、彼女は連れてこられたのか……。


 目の前にある倉庫は大きく、コンテナを引っ張ってくるトレーラーも余裕で入れるつくりだった。敷地の奥には使用済みであろうコンテナが置かれてある。ずいぶんと錆びて汚れているので、物置にでも使っているのかもしれない。


 山崎は車から降りて倉庫の前にやってきた。


――もし、犯人に出くわしたら……営業を装って話しかければいい。


 山崎は自分がこんなにも大胆な行動が取れる人間とは思っていなかった。当たり前の日常を報告するだけの潜入捜査官は、決して自ら危険に足を踏み入れてはならないのに。特殊部隊でも何でもない単なる営業職が何を勝手なことをしているんだと、自問する。


――ヒーローにでもなったつもりか。いったい俺に何ができるというんだ。俺にはなんの権限も与えられていないのに。


 この仕事につく前は警部だった。いや、この仕事潜入捜査をするから与えられた階級だ。そして、任務を承諾したときから自分の警察官としての身分は抹消された。ほんの一部の人間にしか知られていない己の存在は、黒くも白くもない立ち位置だ。


 山崎は倉庫の隣にある事務所の前に立ち、大きく息を吸いゆっくり吐いた。そしてインターホンを鳴らす。しかし反応はない。防犯カメラや監視カメラはないかと辺りを見回したが、それらしきものは設置されていなかった。インターホンには小さなカメラはあるが、中から訪問者を確認するだけのものだろう。


――裏に回ってみるか。


 山崎は事務所兼倉庫の裏側に回ってみる。エアコンの室外機が上に設置されていることから、事務所は二階にあると推測した。電気はついておらず、メーターも止まったままだ。


――もう居ないのか。


 建物の後ろはフェンスが張られてあり、すぐ下に川が流れていた。山崎はフェンスに手をかけ下を覗き込む。誰かが通ったあとはないか確認したのだ。フェンスの向こうは背の高い雑草が伸び、足場になりそうな石もない。それに川の流れは速く深さも見た目では分からなかった。


――ここから降りて逃げるのは無理だな。おそらく彼らは事務所以外にも潜伏場所を持っている。


 辺りはすっかり日が落ち暗闇に包まれた。道路に立っている街灯は気持ち程度で決して明るいとは言えない。こんな物騒な場所に少しでもいたかもしれない夏恋を思うと、山崎の胸は締め付けられた。


 山崎は車に戻りアプリを起動させた。しかし、夏恋のスマートフォンは未だ電源が落ちたままなのか、反応がない。


「くそ……」


 山崎のやるせない気持ちは増してゆくばかりだ。





 どれくらい時間が経ったのか。喉の渇きをおぼえた山崎は、持っていたペットボトルの水を口に含んだ。その時、山崎のスマートフォンが揺れる。


――ボスからだ。


「はい」

『おまえ、今どこにいる。山口夏恋を追っているんだろ』

「っ、そ、それは」

『そんな指示は出していない。すぐに戻れ』

「いっ、いやです」

『反抗期かよ。あれか、平凡なサラリーマン生活に嫌気がさしたか。これは本当の俺の身分じゃないってな。それとも、他に理由があるのか。おまえが山口夏恋を助けたい理由が』

「前者は違います。後者に関しては……わかりません。俺はなんでここに居るのか。でも、戻りたくないんです」

『分からない、か……』

「捜索願を出したとき、婚約者という立場で届けました。恋人より踏み込んだ関係です。その方が、動いてくれると判断しました」


 恋人という見えない繋がりよりも、婚約者という踏み込んだ立場なら受け捉え方が違う。相馬もその事はすぐに理解した。しかし、山崎がそこまで機転をきかせられる男とは思えなかった。なぜならば山崎は潜入捜査官の中でも、不器用でしれた人間だからだ。


『それで?』

「彼女のことを知るために、彼女の友人から話を聞いたり、過去のメールを読んだりしました。俺の知らない活発な彼女がいて、そして悲しみに閉ざされた過去があった事を知りました」

『流されたか。山口夏恋の事件を知って、守ってやりたい、助けてやりたい。俺が、幸せにしてやりたいって』

「分からないんです。でも、知る前と後では確かに違います。頭の中は、いつも彼女のことばかりで……っ! あ、すみません! 俺っ」


 なんてことを話してしまったのだろう。山崎は我に返り後悔をした。感情に流されてどうする。自分の立場を忘れたのか! と、項垂れる。


『おい、聞いているのか……山崎』

「はいっ。申し訳ありません」

『おまえの気持ちはよく分かるよ。けどな、今回は絡んでいる連中がまずすぎる。とにかく今は、何もするな。折を見て、連絡する』

「……はい」


 相馬が言うように山口夏恋を巻き込んだ組織は、日本国内だけでなく海外にも仲間を待つ国際的な組織だ。山崎ごときが動いてもどうにもならない。

 相馬にも部下を守る義務があった。どんなに本人が望んでも、命に危険が及ぶ可能性のある捜査はさせない。なぜならば山崎のような潜入捜査官は、刑事課が行う潜入捜査とは違うからだ。ここから先は相馬が所属する外事二課だけでは動けない。あくまでも山崎は、異質だと思われる情報を拾い上げ報告するだけの仕事。事件だと分かれば、それ相応の部署が動く。そして、山崎はまた日常に戻らなければならない。


――分かっている。だけど、大人しく家で待つなんて、できない!


 自分に関わった人が事件に巻き込まれてしまった。しかも自分がエスにしようと考えていた女性が。仕方がないと見捨てられるだろうか。あんなに誠実に自分と向き合ってくれたというのに。打算を知らない彼女を利用しようとした自分への罰かもしれない。例えそれが相馬ボスのすすめだったとしても。


――俺が、不甲斐ないからいけないんだ! もっと、うまくやれよ!


 山崎は拳をハンドルに叩きつけた。初めて山口夏恋にあった時から、自分はコントロールを見失っていたんじゃないのか。エスにする女だと割り切れていなかったからじゃないのかと自責する。


――俺は、初めから彼女の何かに惹かれていたのか。


 自分に合わなければそれで終わりにできたはず。しかし、気づけば彼女から嫌われないように踏み込みすぎず、それでいて次のチャンスを残そうと必死だった。それはまるで、恋の駆け引きのようだった。


「なんなんだよ。ぜんっぜん、分かんねぇ」


 エスにも決めきれず、恋人にもなりきれず、山口夏恋は誘拐されてしまった。


「くっ……」


 どんなに強く奥歯を噛み締めても、胸のつかえは消えない。





――夜明け前。


 夏恋はまた頭に袋を被せられ、車に乗せられた。もう夏恋に抵抗する気力は残っていなかった。されるがままシートに座り、窓に頭を預けた。もうどうなってもいい。これが私の運命だと諦め始めたのかもしれない。

 スマートフォンは連れ出される前にサウンドをオフにして、ジャケットの内ポケットに入れた。また一人の時間ができたら、自分に送られたメッセージや、過去に撮った画像を見て心の拠り所にしたかったからか。もしくは、最悪のときに身元を証明して欲しいとでも思ったのか。


――わたし、どうなるのかな。お父さん、お母さん、ごめんなさい。


 夏恋を乗せた黒のワゴン車は、高速に乗り南に向けて走り始めた。




 ピコーンッ!


 山崎のスマートフォンが何かを知らせた。スクリーンを見ると、位置情報に変化があることを知らせている。


「動いた!」


 夏恋のスマートフォンに電源が入ったのだ。すると、今度は電話がかかってきた。


「はい、山崎です」

『さゆりです! 夏恋からメッセージがきました!』

「えっ、本当ですか」

『迷惑かけて、ごめんねって……でも、こっちら返事打っても反応がなくて』

「あまりこちらからコンタクトを取らないほうがいいかもしれない。犯人に、知られたら」

『犯人! やっぱり、誘拐なんですか!』


 しかし、そのメッセージはそれは本人からではないかもしれない。山崎はそう言おうとして慌てて言葉を飲み込んだ。


――むやみに人を傷つけるような言葉は止めろ。それに、本当に本人かもしれないっ!


「今の件、警察に話してください。動いてくれるかもしれない」

『分かりました。山崎さんは』

「俺は……俺もなにか考えます。早く助かるよう、動いてみます」

『お願いします!』


 山崎は町田さゆりとの電話を切って、すぐにアプリを確認した。夏恋の位置が変わっている。


――移動しているのか! どこに、向かっている。


 途切れ途切れになりながらも、位置情報は山崎のスマートフォンに提供された。移動の速さから、車であると推測する。


「高速に乗った!」


 山崎は慌てて車のエンジンを掛けた。スマートフォンをホルダーにさして走り出す。位置情報は高速道路を南に向けて移動している。


「逃がすか!」


 山崎は追いつきたい一心で、自分の身分、立場というものを忘れてアクセルを踏んだ。山崎にとって衝動的に走り出したのは、人生で初めてのことかもしれない。


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