第11話

 気づくと夏恋はベッドに寝かされていた。丁寧に掛け布団がかけられ、枕元には水が置かれてあった。そして、男たちに奪われたはずのスマートフォンも隣に置かれてある。


――私のスマホ!


 体も気分も重いが、夏恋はなんとかスマホを手に取り起き上がる。電源は入っており、電池は満タンだった。


――あの男が、充電したの?


 林原の顔が浮かんだ瞬間、ハッとした。自分はあのあとどうなったのか。慌てて目を落とし確認したが、服もズボンも乱れた様子はない。着ていたジャケットはハンガーで壁にかけられていた。スマートフォンを奪われる時に引きちぎられたシャツのボタンさえも、元通りだった。そして、いちばん気になる体に関してはなんの違和感もなかった。


――どうして!


 男たちの目的はいったい何なのか。ますます分からなくなった。自分を辱めるために誘拐したのだと思っていた。そういえば、男たちは夏恋がコンテナターミナルで働いてることを知っていた。使えるかどうか身辺を調べるとも言っていた気がする。


――もしかして、大変な事件に巻き込まれたとか? この人たち、何やってる人なの!


 夏恋が襲われた場所は税関が管理する建物の門の前だった。それはたまたま通っただけで、いつもの帰宅ルートではない。とすると、計画的に攫われたわけではないはずだ。


――まっすぐ歩き続ければよかったんだ。どうして私はあの時、道路を渡ってしまったのだろう。


 たまたま居合わせて、なにか彼らに都合の悪い事が起きて攫われてしまった。そう考えると、自分の運の悪さにため息すら出なかった。

 夏恋は手にしたスマートフォンのロックを解除した。スクリーンにはたくさんの着信の知らせと、メッセージが溜まっていた。それらを一つずつ確認する。


(夏恋、大丈夫? 体調悪いの? さゆり)

(夏恋ちゃん、大丈夫? なにか必要なものがあったら連絡してね。 香織)


 最初は病欠だと思っていたのだろう。体調を心配する文面だった。でもだんだん緊迫したような言葉に変わっていた。


(返事して! 電源入れたらすぐに電話ちょうだい! さゆり)

(心配しています。 香織)

(夏恋! どこ! お願い、無事でいて)


 読みながら夏恋は涙を流した。音沙汰なく姿を消した自分を心配してくれる友人がいる。それだけで救われた気がした。まだ一日しかたっていないのに、何かを感じてくれたのだ。

 夏恋はすぐに返信しようとメッセージを打ち込んだ。そして、発信を押す。


「送れない……」


 何度か試したが送信ができません。SIMカードが確認できませんと弾かれてしまう。


「やっぱり」


 そう簡単にいくはずがない。外部へ連絡を取られるようなバカなミスをあの男がするわけなかった。通信手段を絶たれても、手元にスマートフォンが戻ってきただけよかったのだ。夏恋はそう言い聞かせた。

 何十件の着信には会社とさゆりの名前が残っていた。そして、その中の数件に山崎晶の名前もあった。


「山崎、さん? 心配して、くれてるの」


 夏恋を最後に見たのは山崎になる。真面目な彼のことだから、駅まで送ればよかったと心を痛めているかもしれない。そう思うと胸の奥が苦しくなった。


「あなたのせいじゃ、ないから……わたし、運が、なかったの」


 また、涙が溢れてきた。

 ほんの少しだけ、夏恋は山崎に心を許していたのかもしれない。男の人が苦手になって初めて、隣に立たれても、偶然に手が触れても嫌ではなかった。


――どうしよう。私、みんなに迷惑かけてる。


 あの時も会社の上司、同僚に迷惑をかけた。事件のあと、周りの気遣いに夏恋は苦しんだ。自分一人のために多くの人が心を痛め、悲しんだ。また、同じことをしていることに情けなさと申し訳なさがこみ上げる。

 やっと取り戻した自分の居場所が、また見えなくなった。地道に積み上げた信頼が音をたてて崩れていく。困ったように笑いかけ、痛々しい表情で語りかける仲間たちが夏恋の頭に浮かんだ。


「もう、ムリ……」


 涙でスマートフォンの画面が霞んだ。今になっては些細なメールのやり取りも愛おしい。自分が送った最後のメールは山崎に宛てたものだった。


(はい、大丈夫です。では、後ほど)


――もっと、可愛らしく返せばよかった……なんて、ね。


 目を閉じると、夜のコンテナターミナルが瞼に浮かんだ。頬を撫でる潮風と、山崎のまっすぐな眼差し、それに不思議と山崎の香水の匂いまでもよみがえる。自分は彼にどんな印象を残したのだろう。あれが最後になるなら、もっと違った態度を取れたかもしれないのに。

 スマートフォンの画面が暗転し、これで終わりだと告げられた気がした。


 せめて、「いい子だったよ」とそんなふうに思われてこの世を去りたい。


 夏恋の涙はしばらく止まることはなかった。





 その頃、男たちはコンテナをどうするか話し合っていた。林原は税関と警察に知られたのを理由に諦めることを提案した。風丸らは、夏恋を引き合いにしてでもコンテナを取り戻すと言う。


「そんな綱渡りのような作戦、うまくいくとは思えない。あの女と交換するとしても、警察の特殊部隊が指を咥えて見ているわけがない。危険だ」


 林原がそう言うと風丸は鼻で笑った。


「ふん。この道に足を突っ込んだ時点で危険にさらされてるんだよ、俺たちは。特殊部隊とドンパチやれるなら本望だろう。なあ」

「俺は、兄貴たちの決定に従うっす。さいあく流れ弾に当たって死んだって、悲しむ者はいねえし」


 山上は相変わらずものを言わないが、風丸の意見に従うことは予想された。山上は初めから、林原のことをよく思っていなかったからだ。


「失敗したら、二度とチャンスは訪れないぞ。たとえ成功したとしても、正体が知られたらずっと追いかけられる。そんな状態じゃ、次の作戦にも移れない」

「そんなに力まなくたって、コンテナは戻ってくる」


 風丸は林原の言葉に耳を貸さなかった。しかし、林原も諦めない。危険な橋を渡って踏み外しでもしたら、積み上げてきた全てが水の泡になる。コンテナひとつ分の武器なんて、折を見て再密輸で補えるからだ。


「ガワだけ手に入れても、もう一つは海の底だぞ。まさか、引き揚げるなんて言わないだろうな」


 林原が言う海の底とは、コンテナ船が海に落下させたツイの荷物のことだ。差し押さえられたコンテナの中身は武器。そして、落とされたコンテナの中身は弾薬と麻薬が詰められていたのだ。


「そのまさかだって言ったら、どうする」

「なんだと」


――バカだろう。アレがどれほど深く沈んだか知らないのか! 引き揚げるにしても莫大な金がかかる。


「もう、動き出してるだろうよ」

「まて、どうやってあげるんだ。その資金は誰が出す。そこまでする価値があのコンテナにあるとは思えない。たかが弾薬と麻薬だ。代わりはいくらでもあるだろう」

「ふはははっ!」


 風丸は林原を見下したように声高らかに笑った。向こう見ずで無鉄砲な風丸が何かの自信に満ち溢れ、林原も知らない何かを掴んでいるように感じた。


――まさか……!


「弾薬と麻薬だけなら諦めるさ。というか、コンテナ落下は偶然の事故じゃないしな」

「嘘だろ」

「俺もやるときはやる男なんだよ。おまえが思ってるほどバカじゃないってことさ。あそこでわざと落としてもらったんだ。しっかりと、日本の経済的排他水域EEZでな」


 林原は目を剥いた。そしてすぐに勘づく。


――この男のバックに、誰がいる!


 林原は動揺する心を落ち着かせるように、いっそう低い声で会話を続けた。


「スペシャルチームでも雇ったのか」

「そいつは見てのお楽しみだ。俺たちにはその現場を見届ける。楽しみだろう? 引き揚げが終わったら、差し押さえられたコンテナは俺たちが何もしなくても戻ってくると思うぜ? ふはははっ」

「だったら、あの女はもう用無しだろう」


 そこまで手を打ち、採算があるとみているのなら山口夏恋を引き合いにする意味はない。


「万が一の備えってやつだ。おまえがいちばん分かっているだろう? 保険はあちこちに掛けておくもんだってな」

「まさか、あの女も連れて行くのか」

「当たり前だろう。今更どこかに捨てて騒ぎ立てられるのは困る。殺されないだけありがたく思ってもらわないとな。明朝、移動する。有明の港から出発だ。気持ちを切り替えろ」


 風丸は林原の肩をトントンと励ますように叩き、準備はぬかるなと言い残して山上と部屋を出ていった。火口は見張れと言いつけられたのだろうか、部屋にそのまま残った。


――嫌な予感がする。


 林原は一人、考えていた。自分の知らない何かが、あの沈んだコンテナの中にある。これまで全てを把握し、うまく風丸をコントロールしていたつもりだったのに。初めて林原は危機を覚える。


――もう潮時なのかもしれない……。



 深夜。準備を整え終えた林原は、呑気にイビキをかいて寝る火口を横目に、夏恋が籠もった部屋に足を踏み入れた。

 夏恋はベッドに入らず、突っ伏した状態で眠っている。よほど疲れたのか、顔にかかる髪を払っても目を開けない。


――泣いたのか。まあ、一般のお嬢さんならそうなるよな。


 林原は泣いて腫らした夏恋の瞼を見て、ほんの少しだけ胸が痛んだ。まだ自分にも人を想う気持ちが残っていたのかと自嘲した。林原は夏恋の足元に投げられたスマートフォンを持ち上げ、バッテリー部分を開けた。


――これでどうにかなるなんて、俺もずいぶん落ちたな。まあ、やらないよりはマシだ。


 林原は作業を終えると、静かに立ち上がる。どう転んでも、これが最後になると確信しながら。


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