第10話
夏恋は連れ去られた翌日の朝、人気のない倉庫から頭に袋を被せられ、また車で移動した。移動距離は十分程度だっただろうか、視界が明るくなったときには部屋の中にいた。窓は厚いカーテンで覆われており、外の景色は分からない。でも最初に連れ込まれた部屋とは違い、人が生活しているニオイがした。
「拘束を外してやってくれ」
「いいんすか!」
「部屋の中くらい自由に泳がせてやれ」
「分かりました」
相変わらず互いの名前を呼ばないので、誰が誰なのか夏恋には分からない。唯一、誤って若い男がガザマルという名前を零したくらいだ。
「さて、お嬢さんの捜索願が出る前に今後の計画を練ろうか」
「この女に価値があるのかも試さないとな」
林原とリーダーの風丸は夏恋を横目で見ながら思案し始めた。火口は二人の決定に任せているようで、黙っている。厳つい顔の山上も無言で、何を考えているのか分からない風貌だ。
夏恋はこの空気の重さに潰されそうになっていた。どう転んでも逃して貰えそうにないからだ。リーダーらしき男が夏恋を使えないと言えば、間違いなく消される。助かるためには、価値ある人間だと思われるしかないのだ。
「取り敢えず、一晩、お嬢さんの身辺を調べようか」
「そうだな。おまえに任せた。俺はちょっと出てくる。取り敢えず金で女抱いてくるわ」
「そうしてくれ。今はまっとうな手口で頼む」
「はいはい。おい、おまえら二人も付き合え」
風丸は火口と山上を引き連れて部屋から出ていった。出る間際、山上が振り返り林原をキツく睨む。
「相変わらず俺は信用ないねぇ」
「ふん」
バタン! と、ドアが閉まり外から施錠された。それを確認した林原はふっと、短く息を吐いてから夏恋の前に立った。そして、ゆっくりと膝をついて夏恋の顔を覗き込んだ。
「さて、どうしようか。お嬢さんは一人暮らしだろ。誘拐されたと気づかれるまで、どれくらい時間がかかるかな?」
「……」
夏恋は自分への問いかけなのか、それとも男の自問自答なのか判断がつかなかった。ただ、男の機嫌は損ねたくないと思っている。それゆえに、下手に口を開けるのを躊躇らわれた。それに、近くで見る男の顔は、想像していたよりも整っていた。いかにも悪い奴という雰囲気はない。髭も剃られているし、髪も整えられてこざっぱりとしている。年齢は三十代後半か四十代前半のように見える。そして、四人の中でもいちばん賢そうに見えた。
――どうして……。
なぜ、こんな犯罪組織に身を置いているのだろうか。社会でも普通にやっていけそうなのにと、夏恋は不思議でならなかった。いつどこで、この人生を歩み始めたのか。人それぞれにターニングポイントがあるものだ。夏恋にだってあった。ある朝突然、世界が昨日までとは違って見えたのだから。
「この部屋は好きに使ってくれ。トイレも風呂も自由だ。寝るときは隣の部屋を使えばいい。俺はリビングで寝る」
「えっ、し、縛ったり……しないんですか」
「あ?」
「め、目隠しとか」
自由だと言われて夏恋は困惑した。囚われた者の心理なのか、自由という言葉は逆に怖くもあった。何かを試されているのかもしれない。間違った行動をしたら殺されるかもしれない。だったら拘束されて自由がない方がいい。そんなふうに思ってしまう。
「はははっ。お嬢さん、縛られたり目隠しされる方がいいの。それともそういう嗜好があるの。縛られた方が感じるとか」
林原は夏恋の顎を指で掬い上げ、恐怖で潤んだ瞳を覗き込んだ。若くて濁りのない、澄んだ瞳は林原にはキツかった。
「違いますっ!」
「ほぅ、それは失礼」
真っ赤になりながらも、はっきりと真っ向から否定する夏恋の声は、林原にはか弱くも芯の通った強い心が垣間見えた気がした。
「取り敢えず、今は用はない。自由にしろ」
林原は夏恋から離れ、パソコンに向かった。彼女に感情移入してはならないと、自分を律するかのように。
◇
四人のとても危険な男たちに、私は誘拐されてしまった。私は山崎さんと別れたあと、税関の門の前にいた。そこまでは覚えている。あのとき人影が、閉ざされた門を飛び越えて侵入したのを見た。その後の記憶がないから、そこで私は彼らの車に乗せられたんだわ。
私はあの男からできるだけ離れたくて、隣の部屋に移動した。お風呂も使っていいと言われたけれど、見知らぬ男がいるのに入れるわけがない。
――ここ、何階だろう。もしかしたら、逃げられるチャンスかもしれない!
閉ざされたカーテンを開けると窓はすりガラスで外の景色は見えなかった。私はすぐにロックを外して窓に手をかけた。指先に力を入れて横に引く。
――っ、開かない! 嘘でしょう! どうして開かないの。まさか外からロックが……。
反対側の小窓もロックを外して開くか試してみた。そしてすぐに少しの希望が掻き消されたと知る。カーテンは開けることができても、窓はピクリとも動かない。男が自由にしていいと言ったのは、逃げられる心配がないからだって今やっと気づいた。
――私、バカね。どうしよう……眼鏡もないし、スマホも取られたままだし。せめて、コンタクトにしておけばよかった。
「もう、やだ……」
今後の展開が全く読めない。私なんてなんの力もないし、彼らの役に立つ知識もない。それより彼らは何をしようとしているの? それすらも知らない。
――私のこと、誰か探してくれてる?
無断欠勤したくらいではなんとも思われないのかもしれない。何日か連絡が取れなくなってやっと、心配してもらえるレベルだろう。
――スマホも取られてるし、助けも呼べない。誰か気づいて……。お願い。
一人暮らしな上に会社ではプライベートなことは話したりしない。自宅を行き来するような友人も、彼氏もいない。実家も年に一、二度帰る前に連絡するくらいだから、私が居なくなっても誰も気づかないと思う。ご近所付き合いなんて全然していないし。
――みんなが気づいたときには、私の命は……無いかもしれない。
「うっ、ううっ」
恐怖と寂しさで涙が出た。泣いていると気づかれないように、私はベッドに突っ伏して泣いた。男たちの気分を害したら、それこそすぐに処分されてしまうかもしれないから。
――どうして? 私はなにか悪いことをしたの? 粋がってた? 調子に乗ってた? 誰かのプライドを踏みにじってた? もしかしてまだ、許してもらえてなかったの!
「私が辞めれば、よかったのよ」
夏恋は自分の身に起きた過去の事件が、今回の誘拐に関係しているのかもしれないと思い始めていた。当時、夏恋の上司だった課長は妻が犯した事件の責任をとって会社を去った。とても優秀な人材だったのにと、惜しむ声をたくさん聞いた。
事件は女の嫉妬によるものだっただけに、夏恋自身も肩身の狭い思いをしたのだ。自分は嫉妬されるような行動をしていたのかもしれない。そう思えば、あの事件の真相を口が避けても言えなかった。
未遂、で終われば大事にならないと思ったし、そう言い聞かせていればそれが真実になると思った。夏恋が自分についた嘘は、時間が経てば本当になると信じていたからだ。
◇
どれくらい時間が経ったのか。いつのまにか眠っていた夏恋はドアを叩く音で目が覚めた。
「女! 飯だってよ! 出てこいよ」
女を金で抱くと言って出ていった男の一人が、夏恋を呼びにやってきたのだ。乱暴にドアが開けられて思わず身を
「い、いりません」
「はあ!? 兄貴たちの好意を蹴るのかよ。ふざけんなよ。拒否できる立場じゃねえだろうが」
火口は凄みをきかせて夏恋を睨んだ。しかし夏恋は火口と目を合わすことなく、立ち上がった。
「すみません。いま、行きます」
「ったく、最初からそうしろ!」
夏恋はぼんやりした視界の中で、不安と戦いながらいた。いや、ハッキリと見えなくて良かったのかもしれない。相手の表情が見えない分、恐怖は半減した気がしていた。
夏恋に与えられた食事は外から買ってきた弁当とペットボトルの水だった。食欲はなかったが、残すと何を言われるか分からなかったので全て食べた。夏恋が食べ終わったのを確認した火口は、容器をむしり取るようにして奪い、ビニール袋に入れて外に出ていった。行政がするゴミの収集には出さないようだ。
火口が出て行って、また夏恋と林原の二人きりとなる。
――どうしよう。部屋に戻るタイミングが、分からない。
そうこうしていると、林原が近づきながら夏恋に話しかける。
「見えないんだろ。悪かったな、眼鏡どっかで落としてる」
「……」
「まあ、見えない方がこっちには都合がいいけどな。顔を覚えられずに済む」
林原はそう言いながら夏恋の顔を指先で自分に向けた。夏恋は驚いて目を見開く。
「そう怯えなさんな」
「は、離してください。顔を、覚えてしまいますよ」
「覚えてくれるの」
「っ、知りませんっ」
林原はひと通り夏恋の身辺を洗い終わったところだった。奥歯を食いしばり目を背けてなにかに耐える姿は、なんとも言い難い庇護欲が湧いた。そして試してみたくなる。その心に隠した傷を抉られたら、どんな反応を見せてくれるのだろうかと。
――意地の悪い性格だな。だからこの仕事が性に合っているんだろうよ。
「あんた、本当は未遂じゃなかったんだろ。なんで嘘ついた。相手の男と依頼した女を庇うような真似してさ。バカだな」
「っ! な、何のことですか!」
夏恋の反応は林原が思っていたものとは違った。もっと怯えて、やめてと発狂すると思っていた。
――なかなか気が強いな。いいだろ、とことん責めてやるよ。
「相手の罪を軽くしてやったんだって、マウントとったつもりか。それとも良くしてもらった上司へのせめてもの恩返しかよ」
「知ったふうな口、きかないで!」
「ああ、なるほど。そんなによかったか……どこの誰とも知らないチンピラの腰が」
「イヤーッ!!」
夏恋は両手で耳を塞ぎ、目を固く閉じ、体を小刻みに震わせながら床を蹴り、林原から距離をとろうともがいている。
それでも林原はやめなかった。夏恋の両手を耳から剥ぎ取り、仰向けになるように床に押し付けた。そして馬乗りになって夏恋を上から見下ろした。
「こんなふうに、ヤラれたんだろ……」
「ひっ……い、や……あっ」
声にならない声で夏恋は抵抗する。しかし、その程度で止まる気配はなかった。ぎゅっと握られた手首がそれを示している。
「お嬢さんさ。そういう甘さが、男を付け上がらせるんだろ」
「ふ、んんーー」
夏恋の眼に、あの日の記憶がフラッシュバックした。
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