正義も勇気も殺してはならない

第13話

 車が走り出してしばらくすると、夏恋に被せられた袋は外された。後部座席と運転席はカーテンで仕切られており、どこを走っているのか見えない。スモークのかかった窓から見る限りではかなりのスピードで移動しているのが分かった。


――高速道路を、走ってる……。


 夏恋は自分の体を両手で抱きしめるようにして、窓に頭を預け目を閉じた。彼らはどこに向かっているのか、自分はどうなってしまうのか、それを考えると不安しか湧いてこない。じわじわと、黒いなにかに浸食されていくような恐怖が夏恋を襲っていた。


「おい、具合でも悪いのか」

「っ!」


 夏恋の体が小刻みに震えていたのだ。隣に座っていた林原が声をかけた。驚いた夏恋は肩をビクッと大きく揺らした。とにかく夏恋は死にたくなった。必死に首を横に何度も振った。


――面倒だって、思われたら殺されてしまう!


「否定してるつもりだろうが、青くなってるぞ」


 夏恋の唇に目を落とした林原は、親指の腹で確かめるようにその唇を撫でた。驚いた夏恋は硬直したまま動かない。それを見た林原は何を思ったのか、たった今撫でた親指の腹を自分の唇に乗せた。そして、夏恋を見つめながらゆっくりとその指をんでみせたのだ。すると、みるみる夏恋の唇は赤みを取り戻した。いや、唇だけではなく頬までも赤くなっている。


「ふんっ……大丈夫そうだな。いいか、何かあったら黙ってないで言え」


 夏恋は両手で自分の顔を隠した。さっきまで恐怖と不安しかなかったのに、今は羞恥が勝ってしまった。あの男はいったい何がしたいのだろうか。夏恋は林原を他の男たちとは少し違うと感じていた。本当なら今頃はいいように体を弄ばれ、飽きられて殺されて捨てられていてもおかしくない。それを阻止したのはこの男だ。男たちにとって、有益な情報など持っているとは思えない自分は、なぜ生かされ連れ回されているのか。


――どうしてっ? 私をどうしたいの!





「着いた。降りろ」


 車が止まり、ドアが開けられた。ずっと部屋の中にいたせいか、夏恋にとって太陽の日差しは痛かった。降りた場所はどこかの港のようで、潮の香りが充満している。ぼんやりとした視界の夏恋には、ここがどこの港なのか知る術はない。ただ、なんとなく漁船が停泊する様な場所ではないと感じていた。潮風に混じって、ディーゼルの独特のニオイと、高くそびえるクレーンの影があったからだ。それも、夏恋の見慣れたガントリークレーンではない。


――造船所?


 朝も早く、辺りはまだ静かだった。


「船に乗る」

「えっ」


 夏恋は引きずられるようにして、すぐ近くに停められていた小型のクルーザー船に乗せられる。いよいよ自分は海に沈められてしまうのか、絶望が夏恋を苛んでいく。


「どれくらいかかる」

「そうだな……二、三日ってところか」


 船長らしき男と風丸が話しているのを聞いて林原は確信した。


――こいつら、現場に行く気か。


 コンテナが沈んだ場所は台湾海峡付近だと調べはついていた。そんな場所まで風丸が、わざわざ出向いて引き揚げを見守るという。よほど価値のあるものが中に入っているのだろう。しかも、莫大な費用をかけて引き揚げるのだ。その資金はどこから、そして誰が出すのかも気になる。


――あいつ風丸に、そんなデカイ後ろ盾がいるのか。いったい誰がついている!


 船長と話を終えた風丸が戻ってきた。そして声高らかに言う。


「みんな聞いてくれ。俺たちはいよいよ日本を、そして世界をこの手に入れる。楽しみにしていてくれ」

「いよいよっすか!」


 目を輝かせた火口は高揚しながら喜んだ。山上は相変わらずの無口だか、心なしか口元が緩んでいた。彼らの様子から、何も知らされていないのは林原だけということが明白になる。


――なるほど、俺だけ蚊帳の外ってわけか。いよいよ腹を括れってことだな。


「じゃあ俺は、静かに勉強させていただきますよ。さすがアンタだ」

「だろ? やればできる男なんだよ、俺は」

「よし、出航だ!」


 風丸は機嫌良く笑った。男たちの話など全く耳に入って来ない夏恋はひとり、シートの端に座り丸まっている。

 夏恋はこの何日かを振り返っていた。気乗りしなかった合コンに行き、久しぶりに一対一で男性と会話をした。自分の好きな港を案内し、なんとなく悪くないかもと心を許しかけた時に、こんな事件に巻き込まれてしまった。きっとこのまま、助けてと叫ぶ機会などないまま、静かに命を終えることになる。

 そんなのは嫌だ。どうせ死ぬならせめて一矢報いたい。そんな気持ちが夏恋の中で芽生え始めていたことを男たちは知らない。


 夏恋を乗せたクルーザーは静かに港を離れ、沖に向かって舵をきった。少しずつスピードを上げて波に乗る。






 その頃、山崎はインターチェンジを降りてGPSが示す方向に車を走らせていた。山崎は信号で止まるたびに位置情報を確認する。車は市街地を走り、大型ショッピングモールを通り過ぎる。すると、すぐに海が見え始めた。山崎は焦っていた。ダウンロードしたアプリは二十四時間しか有効でないと言われていたからだ。


――どこだ! どこにいるんだ!


 間もなくその24時間が経とうとしていた。


 車はとうとう埠頭までやって来てエンジンを止めた。夏恋のスマートフォンが示す周辺地域についたからだ。


 山崎は車を降りて周囲を見渡した。この港は九州第二の大きさを持ち、古くから中国大陸との貿易も行ってきたという。近年は岸壁も整えられ、海外からやってくる大型客船が頻繁に入港している。先の熊本で起きた震災では自衛隊の護衛艦が入港し、ここから被災者を支援した。


――この港のどこかに彼女がいるはずだ。


 その時、真っ黒なワゴン車が山崎の横を通り過ぎていった。フロントガラス以外の窓はスモークで覆われて中が見えない。山崎はそのワゴン車を目で追っていた。異様な雰囲気を放っていたからだ。


「まさか!」


 山崎はスマートフォンでもう一度、アプリを起動した。残り十分と表示が出る。すると位置情報が少しずつ動いていることに気づいた。


「やっぱりあの車か!」


 すぐに追いかけなればならない。そう思い車のドアに手をかけたとき山崎ははたと気づいた。


「まて……違うっ。車じゃない!」


 山崎は走り去った車と反対方向に向かって駆け出した。山崎が目指したのは埠頭の先、岸壁のいちばん奥だ。スマートフォンのアプリが指す位置情報は、なんと海の上に浮かんでいた。


――頼む! 頼むから間に合ってくれっ。生きていてくれ!


 走り去ったワゴン車とスマートフォンの位置情報から山崎が推測したのは、山口夏恋は海に投げられたのではないか、ということだった。相馬ボスが言っていた風林火山という組織が絡んでいたら、何が起きてもおかしくはないと思ったのだ。


――生きたまま投げられていれば、なんとかなる! いや、山口夏恋は生きている。絶対だ!


 山崎は走った。人生でいちばん速く走ったかもしれない。キツイとか苦しいとか、そんなことは一ミリも感じていない。ただ、一秒でも早く夏恋のもとに行きたかった。


 山崎が辿り着いたのは埠頭の先。船が接岸できる場所まで来てもう一度アプリを見た。残り三分と表示される。これが最後の確認だ。


「なにっ! どういう事だ……嘘だろ!!」


 位置情報を示す星印が沖に向かっていく。そのスピードは人が泳ぐ速さなどではない。山崎は顔を上げ一点を見つめていた。その視線の先にあるのは白いクルーズ船だ。穏やかな内海に白波で線を描くようにして走って行く。それと同じ動きをするアプリの星。そして、アプリケーションは終了した。


 山崎は咄嗟に夏恋のスマートフォンに電話をかけた。しかし、応答したのは無機質な声で『電源が入っていないか、電波の届かない場所にいます』と繰り返し伝えるだけだ。夏恋まであと一歩というところまで来て手段が尽きてしまう。


「くそっ!」


 山崎は歯がゆさで立っていられなかった。両膝を地面につけて項垂れた。所詮、自分には人を助ける能力も運も持ち合わせていない、ただの潜入サラリーマンなのだと。


――何が公安だ! 何が潜入捜査官だ! たった一人も救えない、祈るだけなら誰だってできる。こんなんじゃ、意味がないっ!


 悔しさと情けなさは山崎の脳を沸騰させた。地味で控えめで、隠し通していた臆病な自分を今さら恨んでも恨みきれない。


 ボーッ! ボーッ!


 一隻の船が港に入ってきた。ディーゼルエンジンの独特なニオイが山崎の意識を現実に引き戻す。山崎は何気に音のする方に目を向けた。見えたのは県警が保有する警備艇だ。


――イチかバチか、やるしかない!


 山崎はボスである相馬に電話をかける。そして、ありえない、言ってはならないことを口にする。


「外事二課、山崎晶。お願いです! 身分を、身分を回復してください!」

『なんだと』

「罰はなんだって受けます。後悔だけはしたくない。このまま俺は、終われないんです!」


 これしか思いつかなかった。自分の中にある正義と勇気は今を逃したら死んでしまう。なんの為に自分は潜り続けているのか。ずっと潜ったままでいいのか。


「無理なことは承知しています。でも俺は! 罪人になってでも行きますから!」

『おい山崎! おまえ何処にいる』

「八代港です。目の前に警備艇が止まってるんです。それで追わなきゃ、彼女の命はっ」

『身分の回復は認められない』

「だったらもういいです!」

『おいっ』


 山崎は通話を切った。身分回復が無理なことは百も承知だ。けれど、何万分の一でも可能性があるならかけたかったのだ。警察官という身分で、彼らを追いたかった。そして、彼女を助けたかった。できることなら、ヒーローとして山口夏恋の前に登場したかった。


 しかしそれは、叶わない。


――俺は今日で、潜入捜査官もサラリーマンも辞める!


 そして、山崎は静かに停泊中の警備艇に近づいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る