COVERT―隠れ蓑を探して―
佐伯瑠璃(ユーリ)
歯車は噛み合い、そして回り始めた。
第1話
出会いに必然があることを彼女は知らない。その必然を彼がひた隠しにていることも、知らない。人は何ひとつ知らないまま、生きている。明日も今日と変わらないことを望みながら。
◇
―― 東京都霞が関
出張で訪れたついでを装って、
山崎が腕時計に目を落とした時、大きな影が覆った。
―― ボスだ。相変わらず気配が薄い。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
「何飲んでる? 俺も同じものにしようかな」
「モヒートですけど、よろしければ頼みますが」
「うん、頼む」
「マスター。すみません、同じものをこちらに」
「はい、承知しました」
五十半ばになるというマスターは、昔は同業者だったらしい。だから彼らはここに集うのだ。外部に漏らしてはならない情報ばかりを、極秘に交換している。マスターがいくら口が堅いとは言え、もろもろの名は口に出さない。
「もうすっかり慣れただろ。そっちの飯はうまいよな。人もいいし、あとは彼女でもできれば文句はないだろうがな」
「文句だなんて……。確かに食は豊かですね。海も山も近いですし。まあ、彼女に関しては察してください。先輩を見習いたいのは山々ですが」
「ははっ。俺もお前くらいのときだったよ……運命の出会いってやつな。すぐ来るぞ。そのときは逃すなよ?」
「先輩みたいな出会い、あればいいですけどね」
ボスのような容姿なら、狙った獲物は絶対に逃さないだろう。しかし俺は、良くも悪くも普通だ。劣っているとは思わないが、女に困ったことはないなんて言えるレベルではない。営業職でありながら、愛想をふりまくのが苦手だ。合コンでそつなく会話を弾ませるなんて夢のまた夢。なんで俺は営業なんてやらされているんだろう。
「なんで営業なんだって、顔。お前も相変わらずだな」
「え、俺、口に出してましたかっ」
「いや、見ればわかる。まだまだだな」
「えっ、本当ですか。それ、ダメじゃないですか」
「だからいいんだけどな」
「ぜんぜん良くないですよ」
「いいんだよ。ほら、乾杯だ」
ボスはスマートにグラスを持ち上げて、俺のグラスにコツンと当てる。そんな仕草さえ真似したいと思うなんて、俺はまだまだガキなんだろう。
俺は残りのモヒートを全部喉に流し込んだ。ぜんぜんよくない。これじゃ、諜報員失格じゃないか。どんなにボスが表情を読む事に長けていても、心の声がそのまんま伝わるなんてダメだろ。こんなんじゃ、いつまで経っても大きな任務なんてやって来ない。彼女? 俺には抱えきれないだろ。とにかく今は、自分の諜報力を高めて国のために、そしてボスの役にたたなければ。でなければなんの為に身分を偽っているのか。
「それでだ。そろそろ本題な」
相馬は何気に腕時計に目を落としてから、本来の話に戻そうとした。時計はまだ19時を回ったばかりだというのに、ゆっくり座ってはいたくないようだ。
ーーそりゃ、かわいい奥さんと娘さんが待ってれば、油なんて売ってられないよなぁ。
「今回はどんな案件でしょうか」
「仕事の内容に変更はないんだが、ここの会社の女の子たちと合コンをしてくれ。特にこの子は取られるなよ? 恐らく、キーになる」
「えっ、合コン、ですか」
「お前はまだ、女のエスがいないだろ。そろそろそういうテクニックも覚えたほうがいい」
「簡単に言いますよね、先輩は」
「期待してるんだよ、お前には。別に男女の関係を持てと言っているわけじゃない。やり方はそれぞれだ。お前なりのやり方で囲えばいい」
「それが難しいんですが……」
「大丈夫だって。じゃあな、よろしく」
ポンと俺の肩を叩きスッと立ち上がると、二人分の会計を済ませ颯爽と出て行った。
本当は引き留めて聞いてみたいことがたくさんある。対人との距離の取り方とか、会社での同僚との関係づくりとか。それから、女性との接し方も。そして、なにより自分自身のあり方を。
山崎は常に見えない誰かを警戒し続けることに、疲れが出始めてたのかもしれない。相馬にもそういう時があったはずだ。それをどうやって乗り越えてきたのだろう。やはり女の存在は大きかったのだろうと想像する。しかし、心の底から全てを委ねられる誰かに、出会えるのだろうか。
ーー俺の身分のほとんどが、嘘で固められているというのに、俺はそれを望んでもいいのか。
「合コン、ねぇ……はぁ」
山崎はため息をついてグラスに手を伸ばした。が、先程すべてを込み干したことに気づいて手を引いた。いつも飲むモヒートはほとんど水に近い。だからそれが山崎を酔わすことは絶対にない。酔って良からぬことを口にするのが怖いからだ。たかが酒で、築いた信頼を失いたくないのだ。
コトンと音がして、あっという間に空のコップが新しいものに取り替えられた。山崎は思わずマスターを見上げる。するとマスターは目だけで笑いながら、山崎に言う。
「私からのサービスです。飲みきったらお帰りください」
「あ、ありがとうございます」
「いえ」
山崎はマスターの好意を無碍にはできず、いつも通りの調子で喉に通して内心で驚いた。
―― 濃いっ! なんだよこれ!
「それが本来のモヒートです」
山崎はその酒ごときで逃げてはいけないよと、本物を知らずに偽るなと釘を刺された気がしていた。
◇
―― 北部九州、国際コンテナターミナル。
「かーれーんっ!」
「ひゃっ! ……さゆりっ。驚かさないで、心臓が破れそう」
「もう、お昼休みくらいもっと気を抜いたらどう? 眉間のシワ、この年から作ってどうすんのよ」
「シワ……入ってる?」
「うん。縦に三本くらい……あっ、そうそう。いいお知らせ持ってきたの!」
「え、嫌な予感がする」
町田さゆり。ターミナルに建てられたポートラジオというタワーで船舶の出入港監視をしている。貨物船だけでなく、旅客船、定期高速船、漁船、レジャーボートなど様々な船舶の港内での混雑状況や事故が起きていないかなどを見守る仕事だ。
「失礼ね! 私たちもう25歳よ? まさかこのままオジサン化してたまるもんですか!」
「お待たせー。なになに? いいお知らせって!」
「香織さん、お疲れ様です」
吉田香織。夏恋とさゆりのひとつ上で、総務部で働いている。男の多い港の職場では、自然と年齢の近い女性社員は部署を越えて仲良くなるものだ。
「では、発表します。合コンが決定しました〜! なんと、九亜物流株式会社の営業部、噂のイケメン課。三対三の少人数制で確約取りましたっ。どうだ!」
「さゆりちゃん凄い! あそこ、船舶代理店でしょう? 業績いいし、きっとお給料もいいはずだよ」
「さすが、香織さん! 内部のこともよくお分かりで。私、やりましたぁ」
旅客よりも貨物を運ぶ代理店は儲かっているという思い込みがあった。とくに、大型のコンテナ船を持っている会社はそう思われていた。世界中の港に出入りし、多くの貨物を各港に下ろす。飛行機とは比べ物にならないほど物流費が抑えられるので、大量輸送は船に限る。工業製品から食品まで、いまや船で運べないものはないのだ。
「ねえ、その三人の中に私も入ってるの?」
「当たり前じゃない! むしろ、夏恋のためにセッティングしたようなもんだからね。放っておいたら絶対に化石化するでしょ! 香織さんも何か言ってあげてください」
「化石化って、ひどいよ」
「夏恋ちゃん、そういうの苦手だもんね。でも、どこかで少しだけでも頑張ってみてもいいと思うよ? コンピュータばかりみてたら、人の心を見失っちゃう」
「でも……」
「大丈夫! 香織さんと私がついてるからっ」
初対面が苦手な夏恋は、合コンの誘いをいつもなにかしら理由をつけて避けてきた。でも今回は社内で唯一心を許している同僚からの誘い。しかも、自分のためだと言われると断りきれない。
「雰囲気壊すかもしれないですよ?」
「知ってる」
「相手が怒って帰るかも」
「問題ない」
「そしたら二人に悪いよ」
「だったら、頑張ってみようか」
「うっ……」
もう、諦めるしかないのか。合コンのその日まで、代わりの人間を探せばいい。そんな卑怯な考えが夏恋に浮かぶ。
―― そもそもうちの部署、オジサンしかいないんだ……。
港とはそういう場所だった。若くて独身の女性は、あっという間に誰かに目をつけられて攫われてしまう。もしくは絆が深まりすぎて、気づけば家族化してしまうことも稀ではない。それが心地よいと、思い始めたら終わりだ。
―― 社内結婚は、イヤ。
「決まりね! 次の土曜日の夜は空けといて! 詳しくはあとでメールします」
この合コンが、山口夏恋の淡々とした生活を大きく揺らすこととなる。望もうが望むまいが、それはもう始まっている。止められない歯車は既に動き出していた。
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