第23話

 それから私は自宅に戻った。

 警察の事情聴取や念の為にとすすめられて、病院で検査をしてもらった。何かをしている間はそれだけを考えていればいい。だからある意味楽だった。久しぶりの自宅は当たり前だけど何も変わってなくて、ベッドに突っ伏したらそのまま眠ってしまった。


『うっ、くっ……』

『まさやさん! しっかりして!』


 ダダダッ、ダダダッ……パーンッ、パーンッ


『すまない……巻き込んで、しまった』

『あなたも警察官なんでしょう? 帰りましょう! 早く!』

『俺はっ……、犯罪組織のっ、人間っ……だ』

『嘘つき! あなたは警察官です! 私たちを悪い者から守る、警察官なんです。まさやさん!』


 どんなに私が彼の身分を正そうとしても、彼はそれを否定する。苦しそうな顔をして、自分は悪い人間だと言う。違うのに! あなたは、自分を犠牲にして国民を守った人なのに!



 目を開けると、自分が泣いていることに気がついた。

 事件の詳細は口外しないようにと偉そうな人から約束をさせられた。特にコンテナから現れた軍人のことと、自衛隊がそれを処理したことは伏せるようにと。国家機密に値するという理由だった。もちろん私はそれらを話す気はない。


――早く、忘れたい。


 きっと仕事に追われていれば忘れられる。一時も気を許せないベッセルコントロール。狭い湾内をすれ違う多くの船が目に浮かんだ。あんな事があっても、私は海を嫌いになってない。


――大丈夫、私は戻れる。大丈夫、すぐに忘れられる。


 夏恋はスマートフォンを手にとってメッセージを打った。


『もう私は大丈夫ですから。山崎さんは、気にしないでください』


 私のスマートフォンはいつの間にか山崎晶という名前で埋まっていた。何気ない朝の挨拶や、体調を気遣ってくれる内容だった。


 唯一、現場に近い場所にいた人。彼は私を婚約者だと嘘をついてまで、助けに来てくれた人。ずっと手を握りしめてくれた人。私を傷つけまいと、言葉を探して黙ってしまう優しい人。


――私には、もったいない人……。





 私は事件から一週間ほどで会社に復帰した。これでやっと、以前の生活に戻れる。ほんの少しだけ晴れやかな気分で出勤した。



「夏恋! よかった! お帰りっ」

「夏恋ちゃん!」

「ひゃっ、さゆり。香織さんも」


 社員証を入口でチェックしたところで、さゆりと香織さんに抱きつかれた。さゆりなんて、職場はここから離れた市内の港にあるのに。


「心配したのっ……死ぬほど、心配したっ」

「ごめんね。ほんとうに、ごめんね」

「ちがうの、ごめん。謝らないでよ……。心配するのは当たり前。友達だもん。香織さんも私も、何にもできなくて悔しかったの」

「夏恋ちゃんが無事に、帰ってくることを祈るしかできなくて……ううっ」

「香織さん。二人とも泣かないで。ほら、私、元気だよ」


 私の復帰を手放しで泣いて喜んでくれる二人には、本当に感謝している。二人がおかしいって気づいてくれなかったら、私は誰にも知られないままあの海で命を落としていたかもしれない。


「あんまり無理しちゃだめよ。疲れたら言うんだよ? 夏恋、頑張りすぎるから」

「そうよ。総務的なことのバックアップは私がするから、体もだけど心もね? 大事にして」

「はい。何かあったら二人に泣きつきます。また、よろしくお願いします」


 前回の事件のときは、しばらく通院したりして総務のみんなにはお世話になった。さゆりも私が引きこもらないように、外に連れ出してくれた。


――迷惑ばかりかけて、ごめんね。


 だから私は余計に強がっていたのかもしれない。今度は大丈夫だから! 乗り越え方を知っているから! と。


「おはようございます!」


 久しぶり過ぎて声がうわずってしまった。そんな私の声にみんなが驚いて振り向いた。


「山口! 心配したぞ! よく戻ってきた」

「長崎課長、そして皆さん。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。また頑張りますのでよろしくお願いします」

「迷惑なんて言うな。おまえは被害者だろ? なあ、あんまり無理するなよ。仕事なんてどうにでもなる。きつくなったら休んでいいんだ」

「ありがとうございます。でもっ」

「そうだ! 山口に紹介する。新しくうちのチームに入った杵築きつきくんだ。コンテナ管理部で働いていた。うちの仕事も理解しているよ。な? だから肩肘張るな。のんびりでいいんだ」


 突然、新しく入った人を紹介された。紹介された杵築さんは私の顔を見てにっこり愛想よく笑う。


「杵築です。大変な目に遭われたと聞きました。ご無事で良かったです」

「ご心配下さりありがとうございます。山口、です。よろしくお願いします」


 仕事の感覚を取り戻すために、私はしばらく全員の動きを見ながら書類に目を通した。私が不在にしていた半月で、入港する貨物船の名前がずいぶん変わっていた。出入港の順番も入れ替わったりしていて、モニターに浮かぶ光を目で追うのに時間がかかった。


「上海からの船、入ります。その5分後にシンガポール行き出します」

「了解」


 杵築さんはなんの違和感もなく、私が座っていた席で船をさばいた。彼の指示に従って、無線士がクレーン部とコンタクトを取った。その光景を私はテレビでも見ているように、眺めていた。


――私はどうしてここに居るの? 


 なんとなく疎外感を感じてしまう。そんな自分にゾッとした。いつの間にか被害者癖がついてしまったんじゃないかって。杵築さんの補充は間違っていない。業務はいつ、誰が穴を開けるか分からない。そしてその空いた穴を経営者は埋めなければならない。24時間止めることのできない国際コンテナターミナルは、社員の不慮の事故や病気に影響してはいけない。この海の向こうで、たくさんの人が荷物を待っているのだから。


 上司の無理をするな、のんびり行こう。その言葉に悪気はない。むしろ、私のことを思っての言葉だって知ってる。それでも、おまえがいなくても大丈夫だよと言われた気がして悲しい。



 こんな風に私の時間は過ぎていった。それは何日経っても変わらなかった。すれ違う人はみんな「大丈夫か?」「無理はするな」と言ってくる。あまりにも私は心配をかけすぎたよね。それも一度ならず二度も。


――私がいない方がみんな安心したりして……なーんてね。


 どんどん自分は運の悪い可哀想な人になってしまう。私の顔色を見ながら仕事を振ってくる同僚を見ると、泣きたくなる。


――そんなに私は壊れそう? 大丈夫だよ。大丈夫なのに。


 私は唯一と思っていた居場所を失くした。そして、自分でも気づいていなかった心の拠り所までも失いかけていた。それは唯一、私のことを近くで見ていてくれた人だったのに。





「えっ、転勤?」

「ああそうだ。それで沈静化をはかることになった。横浜なら俺の目も届くし、それで」

「でも」

「例の記者が動き出したらしいんだ。今回の件は絶対に漏らすなと国から言われている。なんだ、いつもなら静かにはいって言うお前がどうした」

「いえ、命令なので従いますよ」


 山崎はボスである相馬と会っていた。あの事件は公安だけでなく防衛省も動く騒動となり、相馬が所属する警視庁だけの問題ではなくなった。それに、中立左派のジャーナリストがどこからか嗅ぎつけて動き始めたという。潜水艦の救難信号傍受と救難艦の出動が何処からか漏れたという噂だ。


「苦労かける」

「やめてくださいよ。苦労はお互い様でしょう。俺は何もなかったように生きていくだけの簡単な仕事です」

「なあ、聞いたか。今日、黒服が彼女の自宅に行く」

「え……」


 警視庁の公にされていない謎の組織が夏恋の自宅を訪ねる。鈴木(林原)聖也の遺言を伝え、回復された彼の身分と共に財産の全てを引き継ぐために。


「おまえいいのか。彼女のこ事、このままで」

「いいのかって、なんですか。俺にはどうこうする権利なんてないんです」 

「彼女は恐らく鈴木の財産は放棄するだろうと言われている。彼女にはあまりにも重すぎる。見ず知らずの男の隠された身分を知らされるなんてな」

「っ……」


 目の前で男の死に直面し、いきなりその男の人生を背負わされるのだ。まだ若い夏恋には酷すぎる。


「彼女はこれからもあの事件と戦いながら生きていくことになる。忘れたくても忘れられない。誰かと共有したくとも、法律が許さない」

「俺が側にいても同じです。忘れさせてあげたくても、俺を見るたびに思い出すんですっ。残酷ですよ!」

「その残酷さを分かち合えないのも、残酷だ」


 相馬はそう言い残して席を立った。



――なんなんだよ! 俺もいつか、アイツみたいに彼女を悲しませるかもしれないってのに!


 ドンッ!


 山崎は拳をテーブルに叩きつけた。

 本当は彼女のもとに今すぐ飛んでいきたいのに、強く抱きしめたいのに、その資格は自分には無いと思ってしまう。


――もっと、いい男が、他にっ!


「クソッ!」 


 かかったブレーキは思った以上に重く、それを解除する勇気が足りない。夏恋の今にも泣きそうに笑う顔が浮かんだ。山崎は叩きつけた拳をいっそう強く握りしめる。


 すると、一通のメールが山崎のスマートフォンを揺らした。


『晶、解放しろ。眠ったお前の、本能を』


 相馬からだった。


「勝手な事ばかり言いやがって!」




 次の瞬間山崎は、駆け出していた。

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