第24話

 長かった一日が今日も無事に過ぎだ。一日が短いと感じていたのはもう過去の事。新しく来た杵築さんは仕事のできる人で、混雑する時間帯も慌てることなく、うまく貨物船を退避させたり順番を整えていた。それを誰もが信頼しているのを肌に感じた。まったく危なげのないものだったから。

 それにせっかちで口の悪いトレーラー部も彼の指示におとなしく従うのを見たら、負けた気分になった。


「ただいま。はぁ……疲れた」


 現実に打ちひしがれている場合じゃない。しっかりしなくちゃ! そんなふうに自分に気合を入れ直したころ、玄関のベルが鳴った。


「はい」

「山口夏恋さんですね。警視庁の者です」


 モニターを覗いたら黒いスーツの人たちが数名立っていた。警視庁という言葉に鼓動が速くなる。聞いてはいたけれど、まさか本当に来るとは思わなかった。


 玄関のドアを開けると有無も言わさず、彼らは狭い我が家になだれ込んだ。男性五人と女性が一人。女性職員が混じっているのは、私を気遣っての事だと思う。


「大勢で申し訳ありませんが、さっそくご説明させていただきます」

「お構いできませんが、どうぞ」


 六畳ほどの狭いフローリングの部屋に真っ黒い集団が収まった。私の隣には女性職員が座った。そして、機械のように淡々と持ってきた書類を読み上げていく。

 鈴木聖也警視の遺言に従い、彼の財産を私に相続するという内容だった。


「警視庁公安部外事ニ課、鈴木聖也警視は長年に渡り日本に関わるアジア諸国の犯罪組織及びテロ活動の抑制に関わる活動に従事しました。残念ながら殉職という形になってしまい、大変遺憾であります。本人の遺志に従い、身分の回復と遺産の全てを山口夏恋氏に相続することを、ここに報告します」


 何を言っているのか分からなかった。私は彼の人生を何一つ知らないまま、彼の全てを与えられようとしている。たった一週間程度の時間を過ごしただけの、それも強引に奪われた時間。その僅かな時間の中で彼は私に何を思ったというの?


「こちらと、こちら。そして、こちらにサインと拇印をお願いします」


 数枚の書類を広げられた。ぼやけた視界では何が書かれているのか分からない。どうせ見えても、きっと私にとっては難しい漢字と言葉の羅列に過ぎないと思う。


「大丈夫ですか?」


 女性職員が私の背中に手を置いた。私はまた泣いているみたい。


「大丈夫、です」


 私は彼から貰うべきではない。貰えないよ……。こんな紙切れでなんの慰めになるの? 家族のいない彼は私に押し付けたことで安心したのかもしれない。だけど、私は困る。あなたの歴史も残されたお金も、抱えて生きる自信がない。


「では、お願いします」

「お話は聞かれていると思いますが、遺産は相しません。寄附、したいです」

「はい、承知しました」


 名前を書くだけなのに震えが止まらない。私は字もうまく書けなくなってしまったの? そこに山口夏恋と書くだけなのに。ミミズが這うような動きで署名し、促されるがままに拇印を捺した。


「我々はこれで失礼しますが、何か質問はありますか?」

「あの、ロボット軍人はちゃんと消えたんでしょうか。もう、現れたり、しないですよね」

「自衛隊が処理しました。警察、海上保安庁との連携が再確認できた充実した合同訓練でした」

「ごっ、合同訓練……えっ」

「他になければこれで」


 彼らが去っても、私の体はいうことを聞いてくれない。全ての手続きは終わったはず。これで私は事件から解放された。頭はしっかりしているのに動けない。だって、あの壮絶な出来事が訓練という言葉で上書きされていたから。事件ではなく、訓練だったと。それに乗じた犯罪組織のテロ未遂と片隅に記載されただけ。


――国の為にひとりの警察官の人生が終わったのに、国の為に嘘で塗りつぶされて葬られるなんて。


 私はフロアに座り込んだまま、ぼうっと彼らが去った玄関を眺めていた。






 俺はいったい何をしたいのか分からないまま走った。警視庁の人間が大勢押しかけて、機械的に淡々と述べる事実を彼女は一人で受けとめられるのか。それを思うといてもたってもいられなかった。


――俺に何ができるんだ! 彼女の痛みを、俺は分かってやれるのか!


 自問自答は続く。答えが出ないまま彼女の自宅についてしまった。理性を求められる俺の職務に、今さら本能を出せだなんて勝手すぎる。本能ってなんだよ!

 ドアの前に立ちインターホンを押した。反応はない。出掛けているのかと諦めようとしたとき、ドアに違和感を感じて手を伸ばした。


 するとカチャと、乾いた音がしてドアが開いた。


――鍵が開いている! 何かあったのかっ!


「夏恋さん!」


 俺は彼女の無事を願いながらドアを開け、許可も得ずに部屋に駆け込んだ。電気が煌々とついたまま、俺の方をぼんやりとした顔で見つめる山口夏恋がそこに居た。意識があるのかと疑いたくなる表情をしている。部屋からは彼女以外の匂いが混じっていた。ああ、警視庁やつらが来たのかとすぐに分かった。


「夏恋さん? 夏恋さんっ」


 俺は腰を下ろして彼女の顔を覗き込んだ。目は開いているのに、中にある瞳は閉ざされているように見える。いったい、どれほどの衝撃を受けたんだ。


「夏恋さん!」


 俺は彼女の細い肩を抱き寄せた。簡単にもたれ掛かってしまう細い体を、俺は強く抱きしめた。冷え切った彼女の心に少しでも火を灯したい。温もりを与えたい一心で。


「すみません! 来るのが遅くなってしまいました。夏恋さんを一人にしてしまって。辛かったでしょう、悲しかったでしょう。俺っ」

「痛い……です」


 ハッとして、腕の力を緩めた。小さなかすれた声で彼女はそう言った。


「すみません。いきなりこんな事をして」

「痛いのっ……ここが、とても、痛い!」

「えっ……か、夏恋さん」


 痛いと声をあげて心臓がある場所を山口夏恋は拳で叩き始めた。


「痛いよ……苦しいよ……助け、て」

「きゅ、救急車……っ!」


 俺は慌ててスマートフォンを取り出そうとした。それを山口夏恋は制する。首を横に振りながら、そうじゃないと訴える。


――ああ、そうか。俺はなんてバカなんだ! 彼女は心が痛いと、言っているんだ。


「俺になにか、何かできることないですか。夏恋さんの為に、俺にっ、できること」


 情けないくらい俺の声は震えていた。俺は人がこんなに傷ついた姿を見たことがなかった。どうしたら慰めになるのか分からない。


――こんなに傷ついた彼女に、何ができるかなんてっ、聞くやつがあるか!


「もっと……」

「え? もっと、なに」


 彼女がなにか言おうとしている。俺はそれを聞き逃さないように、顔を近づけた。


「もう一度、言って? 夏恋さん」

「もっと、もっときつく抱きしめてください。あなたの匂いをもっと、ください」

「くっ」


 俺は山口夏恋を腕の中に閉じ込めた。誰からも見えないくらい抱き込んで、胸に収めた。小刻みに震える振動が俺の心をひどく掻き乱した。


「山崎さっ……もっと、強く」

「夏恋さん! 夏恋さん!」


 壊れてしまいそうな細い体を、俺は求められるがままに抱きしめ続ける。

 強く、強く。


 彼女を一人にできない。ずっと近くで守ってやりたい。俺の人生をかけてでも……。

 なのに俺は九州から離れようとしている。大切なものと国家を天秤にかけて、最後は国家を選ぶ男だ。そんな男に彼女を幸せにできるのか? また、振り出しに戻る。


 どれくらいそうしていたか、俺は山口夏恋が眠りに落ちるまで抱きしめていた。





 夜も深まり始めた頃、夏恋は目覚めた。いつもと変わらない風景にほっとして体を起こした。何気に目を向けた先に男の背中がぽつんとある。テレビもつけずにその影はじっとしていた。


「山崎さん」


 夏恋が声をかけると、山崎がゆっくりと振り返った。あの困ったようなぎこちない笑みを浮かべて。


「良かった。大丈夫そうですね。あっ、ちょっと目が、腫れてるけど」

「腫れてる? やだ、恥ずかしいっ」


 夏恋は思わず手で顔を隠した。目が腫れてるなんて、不細工に決まっていると言いたげに。


「いや、すみません! その、ちょっとですよ。瞼、ぷっくりしてるけど可愛いですよ」

「かっ、かわいいって。そんなわけありませんっ」

「すみません」


 山崎はなんの慰めにもならないつまらない言葉を投げてしまった自分を責めた。どうしてこんなに言葉選びが下手なのだろうと。


「ふっ……ふふふっ」

「夏恋さん?」

「山崎さんのそういう不器用なところ、ちょっと可愛い」

「えっ」


 クールな顔をして抑揚のない言葉を発するのに、その言葉は決して冷たいものではなく、ぎこちないその反応にも温かみを感じる。彼だけだった。初めの一声が「大丈夫?」ではなく「大丈夫そうですね」と言ってくれたのは。


「あの、来てくれてありがとうございました。大丈夫だって思っていたんですけど、思っていた以上に大丈夫じゃなかったです」

「そりゃ、そうですよ。普通にしていたら絶対に会わない人たちですから」

「ふふっ。山崎さんは、なんでも知ってるんですね。やっぱり男の人って憧れるんですか? 警察とか、消防とか」


 白かった夏恋の頬に少し赤みがさしてきた。それを見て山崎はようやくほっとする。


「どうなんですかね。俺の場合、あの人が警視庁の人間だから」

「親戚のお兄さん、でしたっけ。相馬さんて方」

「ええ、まあ」

「私、沖縄で酷いことを言ってしまいました。警察は犠牲者を組織的に作ってるって。本当にすみませんでした」


 夏恋の詫びに山崎は胸が痛んだ。その組織に自分も加わっていることを当然、夏恋は知らない。夏恋なりにそういう人たちがいるんだと、頑張って受け入れようとしているのが分かった。でも、夏恋が本当に理解する必要はないのだ。


「それがあの人の仕事なので。自分で選んだ仕事です。覚悟の上で勤務しているはずですよ」

「そう、ですよね。亡くなったあの人もそうだったんでしょうね。私には一生、理解できそうにありません」

「忘れたいですか?」

「えっ?」

「夏恋さんは今回の事件のこと、消し去りたいですか?」


 夏恋のこれからの人生に、事あるごとに影響を及ぼすであろう今回の事件。山崎はあえてそれを夏恋に問いかけた。


――そんなこと聞いてどうする。忘れたいと言われたら、忘れさせられるとでも思うのか。


「今はまだ、分かりません」

「そうですよ、ね。すみません」


 なぜか山崎は焦りを感じていた。何でもいいから夏恋の意志、または要望が欲しくてたまらなかった。それは自分がもうすぐこの土地を離れてしまうからかもしれない。何かを変えたいのに、変えられない苛立ちを必死で隠しながら。


「俺、転勤が決まったんです」

「てん、きん」

「はい。横浜の支店に移動します」

「えっ」


 突然の報告に夏恋の思考はまた止まりそうになる。立て続けに起こる出来事を処理することを脳が拒んでいる。


「時間が、あまりなくて……そのっ、俺と一緒に、横浜に行きませんか!」

「え、山崎さん?」


 二人は見つめ合ったまま、時を止めた。

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