夕方
「水香さぁん? どうかしたんですかぁ?」
バイト先の居酒屋。
その休憩室を兼ねた更衣室。
通話を終え、携帯を額に当てて、深く溜め息を吐いた時。
いつの間に入って来たのか、愛里ちゃんが下から覗き込むように声を掛けてきた。
「ん、借り物のことで……ちょっとね……」
凭れかかったロッカーから身を起こし、髪をかき上げて、答える。
「借り物ですかぁ? DVDを返し忘れたとかですかぁ?」
愛里ちゃんがロッカーを開けながら首を傾げる。
「まぁ、そんな感じ……」
「そうですかぁ、延滞金はバカになりませんよぉ」
軽い笑みで愛里ちゃんに応えると、ロッカーを開けて荷物を中に入れる。
……タカハタ、ね……。
確かめるように、先程の通話内容を思い返す。
通話をしていた相手はカワモトさん。
SICマンション・タイプWBの管理スタッフ。
昨日も電話で話した人。
〈タカハタ〉はそのカワモトさんが、教えてくれた名前。
まぁ、聞いてもいないのに、話してくれたことなんだけど……。
……あの中年男の名前……私を部屋まで案内したオッサン……。
ロッカーに入れたツーウェイバッグに携帯を入れ、代わりに楕円形のプレートが付いた鍵を手に取り眺める。
……1401号室……。
そう。
ちょっと前に気付いた。
借りていた兄の部屋の鍵。
それを返すのを忘れていたことに……。
そのために、さっきまで、あのマンションの管理棟に電話をしていた。
その時に、カワモトさんが教えてくれたのが、あの中年男のこと。
どうやら、働き始めて二ヶ月も経ってない新人の管理スタッフらしい。
不手際があったなら申し訳ない、とカワモトさんは言っていたけど……。
私はそれに対し、何も問題なかったと答えた。
……正直、あの中年男とは、もう関わりたくない……。
肝心の鍵については、近いうちに返してくれればいいということだった。
……また、行かないと……。
マンションの映像が頭に過り、不快感が湧き上がる。
鍵をバッグに戻し、ハンガーに掛かった制服を掴み、深呼吸をする。
……行かないと……ダメ……。
あの後。
マンションを出た後、家に帰らずに、そのままバイト先に直行した。
時間的にかなり余裕があったのだけれど、誰もいない自宅ではなく、知っている人がいる場所に居たかった。
店長は私が随分と早く店に来たことに驚いていたけど……。
それに、その店長に頼みたいことがあった。
……あのマンション……絶対に、真相を……。
SICマンションのことを考えると、嫌な気分になる。
同時に心にモヤがかかる。
逃げ出したい、関わりたくない、怖い。
そんな気持ちにさせられる。
だけど、この心のモヤと不快感を取り払わないと……。
……先に、進めない……。
不快感と比例するように、探究心、好奇心、それだけではなく、使命感のようなモノが湧いてくる。
……義務感、かも……。
とにかく、あのマンションの事。
兄の事。
〈篠美〉の事。
〈開かずの間〉の事。
〈噂〉の真相。
全てを知らないと、気が済まなくなってきてる。
「水香さん? 大丈夫ですかぁ?」
制服に着替えた愛里ちゃんが、心配そうにこちらを見つめる。
「大丈夫よ、ちょっと疲れ気味なだけ……」
肩を竦めて、苦笑で答える。
「無理しないでくださいね……先に行ってます」
そう言って、愛里ちゃんは更衣室を出て行った。
……疲れ気味、ね……。
確かに疲れてる。
病み上がりということもあると思うけど。
特に精神的疲労が大きい。
……薬もちゃんと飲んでないし……。
白い紙袋が頭に浮かぶ。
今日は朝食の後に錠剤の薬を飲んだだけ。
昼の薬は忘れていた。
……風邪は治ってる、かな……。
身体が丈夫なおかげか、完治している気がする。
だけど、油断は禁物。
『病は気から』ともいう。
この精神疲労が原因で、風邪をぶり返す可能性もある。
……寝る前の薬だけでも、ね……。
一度も飲んでいないカプセルの薬を思い浮かべると、前髪を指で払い、制服に着替え始める。
……そういえば……。
店に着いた時、店長に頼んでおいた事。
その結果がどうなったのか……。
……色々と気になる事だらけ、ね……。
とりあえず、今は仕事をこなすこと。
もしかしたら、その仕事中に何かが分かるかもしれないし……。
あのマンションについて……。
だけど、今は……。
「よし!」
着替えを終えると、髪を後ろに束ね、一つ気合を入れて更衣室を出た。
「おぅ、水香ちゃん! 柴崎さん、来るってよ」
更衣室を出てカウンターに入ると、店長が厨房から出てくるや否や、そう言った。
「そうですか! ありがとうございます!」
笑顔で一礼し、顔に掛かった前髪を払う。
そう。
店長に頼んでいた事の一つ。
それは、柴崎さんと連絡を取ってもらい、店に来てもらうようにする事。
後は……。
「柴崎さんに用があるんですかぁ?」
「まぁ、ちょっとね」
先にカウンターに入っていた愛里ちゃんの問い掛けに曖昧に答えると、奥の壁に掲げられた【今日のオススメ】を確認する。
「えーと、キムチ煮、ね」
声に出して、ブラックボードの文字を読み上げる。
自信ありげにでかでかと書かれた料理名。
間違いなく、店長が書いたモノ。
そして、店長の創作料理。
……料理の腕は本物なんだけど……。
正直、どんな料理なのかすぐに思いつかない。
最後の文字が【炒め】なら分かるけど、【煮】とは……。
それに、ただキムチを煮ただけのモノなのか……。
店長のことだから、そんなはずはないと思うけど……。
毎度の事とはいえ、【今日のオススメ】の料理名にいつも不安を覚える。
……美味しければ問題ない、かな……。
苦笑して、店長に視線を移す。
「美味いぞぉ! どんなもんなのかは、注文が入ってからのお楽しみだねぇ」
私の物問いたげな視線に気付いた店長が、ブラックボードを一瞥し、自信満々の笑顔でそう答えた。
「店長もイジワルですよねぇ、毎回の事ですけどぉ」
「だよね」
愛里ちゃんの耳打ちに困り顔で応え、店長を一瞥する。
実際、どんな料理なのか分からないと、お客様に説明が出来ない。
仕方がないから、お客様には、『料理が来てからのお楽しみです』と満面の笑顔で答えるようにしている。
クレームに繋がりかねない対応だけれども、料理が美味しいせいもあり、文句を言われた事は一度もない。
……繁盛店になるわけ、ね……。
店長の奥さん……オーナーが言っていた言葉を思い出し、心の中で頷いた。
「さて、開店しようかねぇ」
壁に掛かった時計を見ながら店長が呟き、厨房に入る。
それを見届けると、入り口に向かい、横の壁に掛けてある暖簾を取って外に出る。
愛里ちゃんが私に続いて外に出てくると、すでに出されていた行燈に電気を入れた。
「今日は忙しくなりそうですね」
愛里ちゃんが道行く人々を眺めながら、そう言った。
「土曜日だしね……閉店まで混みそうね」
暖簾を掛け終え、そう答えると、愛里ちゃんが笑顔で振り向き胸の前で拳を握る。
「頑張りましょうねっ!」
愛里ちゃんの気合の一言に笑顔で頷くと、二人で店の中に戻った。
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