一日目

昼前

「田中さーん!」

 朦朧とした意識の中、私を呼ぶ声が聞こえる。

 眠るつもりはなかった。

 目を閉じて、待っているだけ。

……そう……寝てない……寝てない……。

「田中ミカさーん!」

 ミカ……田中水香……私の名前。

 フルネームで私を呼ぶ声がする。

 接客じみた高めの声で、私を呼ぶ。

 女性の声……。

 薬のような匂いが充満した場所で私を呼ぶ。

 病院のような匂いがする場所で……。

……病院……薬……病院?!

 ハッと我に返る。

 無理やり意識を戻したせいか、体調が原因なのか。

 視界がグラリと揺れ、少しばかりの吐き気を覚える。

……気持ち悪ぃ……頭痛いぃ……。

 兄の四十九日を終えた翌日。

 気が抜けたのか、体調を崩して風邪を引いてしまった。

 自宅療養で様子を見たけれど、一向に良くなる気配がなく、体調を崩して七日目の今日、慕っている叔母さんの勧めもあり、仕方なく病院に来ることにした。

「田中さーん! 田中水香さーん! いませんかー?」

 三度目の呼び声。

 バッグを手に取り、私を呼び続けていた人のもとへ、受付カウンターへと向かう。

「すいません……田中です」

 一言謝ると、カウンターの女性は微笑みで迎えてくれた。

 来院した時に受付をしてくれた人。

 ベテランのような感じを受けさせる女性だが、見た目は若い。

 綺麗というより、可愛いという言葉が合いそうな感じ。

 二十代前半ぐらいだろうか。

 二十代後半に突入した私より、落ち着いた雰囲気がある。

……やれやれ、ね……何を比べてるんだか……。

 若い働く女性を見ると、思わず対比してしまう。

 大学卒業後、未だに定職に就かず、不安定な生活を送っている私と……。

……いやいや……自業自得でしょ!

 ずっと続いている就職氷河期。

 私が大学に入る前から就職戦線は熾烈を極めていた。

 周りに合わせて私も就職活動を大学三年生の時から始めていたのだけど……。

 これといってやりたい仕事も見出せず、手当たり次第にエントリーして内定を貰っても考え直して辞退を繰り返す。

 そんな就職活動をだらだらと続けている。

 世の不景気のせいか、選り好みをし過ぎてるのか、それとも運が悪いのか。

 自分に合った仕事に巡り合えず、大学を卒業してからも就職活動という戦いに身を投じることになり、余儀なくアルバイトで身を繋ぐフリーターとなった。

 アルバイトの傍ら戦い続けて、もう二年ぐらい経つと思う。

 おかげさまで、大学在籍時から続けている飲食店のバイトも板に付いた、て言うか、付き過ぎている。

……まあ、得るモノは多分にあった、けど。

 当初は看板娘。

 今じゃお局様。

 年齢と共に状況は確実に変わってきている。

……いいかげん……定職に就かないと……。

 額に手を当て項垂れ、ため息を吐く。

「大丈夫ですか?」

 カウンターの女性が心配そうに声をかけてきた。

「あ……いえ、大丈夫です。大丈夫」

 顔にかかったダークブラウンの髪をかき上げ、ぎこちない笑顔で返す。

「そうですか、無理はなさらないでくださいね。それではこちらがお薬です。こちらの錠剤が――」

 女性が薬を手に取り、マニュアル通りに服用の説明を始めると、それを曖昧な相槌を打ちながら聞き取る。

……錠剤が食後で……朝と夜で……カプセルが夜で……三日間で……錠剤が……えーと……あぁ、なんなの……。

 思考がすっきりしない。

 決して分かり難い説明をされているわけじゃない。

 モヤがかかっているみたいにうまく頭に入ってこない。

 間違いなく体調のせい。

 いつもとは違う感覚に少しばかりの戸惑いを覚える。

……風邪は馬鹿にできないわ……。

 自慢じゃないけど、病院のお世話になったことはほとんどない。

 病人として来るのは十年振りくらい。

 自分で言うのもなんだけど、華奢な見た目とは裏腹に身体は丈夫な方。

 風邪を引いても、栄養を充分に摂って一晩ぐっすり寝れば、たいてい翌朝には治っていた。

 風邪薬を飲んだこともないし、扶養ではない個人の保険証を使ったのも初めてだった。

「――それでは、お気をつけてお帰りください」

 私は無意識に返事をしていたのだろうか。

 カウンターの女性は説明を終え、送りの挨拶を告げている。

 いつの間に入れたのか、薬の入った小さな紙袋がカウンターに置かれていた。

「あ……どうもです」

 軽く会釈をして紙袋を受け取ると、カウンターを後にした。

……熱のせい……頭がぼーっとする……。

 意識が自分のものではないみたい。

 思うように頭が働かない。

 ここのところ、色々と調子が悪い。

 兄の死とそれに伴う諸々の処理、そして今回の風邪。

 正直なところ、心身ともにまいっている。

 病院にも気力を振り絞って来たようなもの。

 薬をもらったことで安心感を覚え、力が抜けたせいなのかな。

 出口へと向かっている足取りが重く少しふらついていた。

……気持ち悪いぃ……なんでこんな目にあわなきゃならないの……。

 誰のせいでもないことは分かっていた。

 結局は体調管理が出来てなかった私のせい。

 だけど、無性に腹が立つ。

 腹が立つのは私を取り巻く現状のせい。

……風邪を引いたのは私のせい……だけど……。

 私のこの状態は……。

 この苦しみは……。

 私を取り巻く様々なバランスが崩れたことが、きっかけ。

 じゃあ、そのきっかけの要因は……。

 そう……。

 絶対に……。

「兄さんが死んだせいだ」

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