フロアーⅩⅢの心象

百十 光

序章

平成21年の事――


「えーと、2880円だねぇ」

 料金メーターを一瞥し千円札を三枚渡すと、左腕に巻いた腕時計に視線を落とした。

 ルームランプに照らされたレンズの中、長針と短針がちょうど【2】の位置で重なりあい、秒針がその上をカチカチと通過してるところだった。

「はい! 120円のお釣り!」

 妙に声の通るドライバーから無言で硬貨を受け取ると、手提げ鞄を抱えて歩道へ降りた。

……丑三つ時。

 夜は完全に更け、見事な満月が空にはあった。

 辺りは虫の声すらしない不気味な静寂に包まれていて、タクシーのアイドリングが酷い騒音のように感じられた。

 すぐ目の前には見慣れたマンションのエントランスがあり、2ヶ月の出張から帰った私を迎え入れるかのように、二枚の強化ガラス製の扉が開けっ放しになっていた。

「お客さんっ!!」

 一歩踏み出すと同時に、不意に大声で呼び止められ、何事かと少し身体を強張らせながら振り返ると。

「気をつけてねぇ~」

 助手席の窓から顔を突き出したドライバーが、意地の悪いニヤケ顔でそう言った。

「はあ、どうも……」

 ぎこちなく会釈で返すと、ドライバーは顔をニヤニヤと弛めたまま運転席に座り直し、車を発進させた。

 タクシーが角を曲がるのを見届けると、軽く息を吸い込むように背筋を伸ばし、そのままマンションを見上げた。

 五号棟からなる十五階建てのマンション群。

 その内の三号棟。

 この棟の十三階、1301号室が私の部屋だ。

 当然のことながら自分の部屋は明かりが灯っていない。

 出張前にブレーカーを落としていったからなのだが……。

 そればかりか、全体を見渡しても明かりのある部屋は一つもなかった。

……深夜だから、か。

 月明かりに照らされた白塗りのマンションは静寂と暗い窓たちのせいで、人の住んでる気配すら感じさせない、異様な雰囲気を醸し出していた。

 久しぶりの我が家。

 すぐにでも出張の疲れを癒したいはずなのだが、心に芽生え始めていた、後悔と不安……。

 そして、僅かな恐怖がエントランスを潜ることを躊躇わせる。

……きっと、アノ話のせいだろう。

 先程の意地の悪いニヤケ顔が頭を過り、妙に通る声が思い出される。


『えっ?! お客さん! あのマンションに住んでるのかい?!』


……そう、車中での……。


『いや、大変だねぇ……で? お客さんは何号棟に住んでるんだい?』


……あのドライバーの……。


『三号棟!? いや、ホントかい?! まさか、十三階に住んでるとか言わないよねぇ?』


 そうだ。

 この躊躇いは……。

 この不安は……。

 さっきのタクシー内で聞いた。


「アノ話のせいだ」


 ――――――


「あのマンションの三号棟で、しかも十三階って……こりゃスゴい!」

 暗い車内の中、通りの良いドライバーの声が一際大きく響き渡る。

 深夜だというのにやたらとテンションが高く、私の疲れた心身に堪えるほどの声量だ。

「で? どうなんですかねぇ?」

「やっぱり噂になったりしてるんですかねぇ?」

「お客さんは真相を知ってたりするんですかねぇ?」

「知ってたら教えてくれませんかねぇ?」

 興奮気味のドライバーが質問を浴びせてくるが、まるで話が見えない。

 ドライバーに回答はできなさそうだが、〈噂〉と〈真相〉という二つの単語に軽い好奇心が湧いてくる。

「噂って、ウチのマンションの十三階が何かあるんですか?」

 運転席に体を傾けるように座り直すと、ドライバーに質問で返す。

「あれ? 知らない? ……ああ、そうか、やっぱりあれだからかぁ。そうかぁ」

 私の言葉になにやら一人で納得すると、通りの良い声がたちまちトーンダウンする。

 先程までの興奮が一気に冷めたようだ。

 一体、何があったんだろうか……。

 あのマンションで何かが起こったのか?

 ドライバーの冷めたテンションを他所に、私の好奇心は沸々と沸き上がる。

「何かあったんですか? 2ヶ月ほど仕事で家を空けていたんですよ。その間に何かあったってことですか?」

 ドライバーはバックミラー越しにチラリと目を合わせてくると、少し持ち直したトーンで答えてきた。

「なるほどねぇ。そんなに家を空けてたのなら知らないだろうねぇ」

「それで? 何があったんですか?」

 間髪容れずに返すと、ミラーに映るドライバーの顔がニヤリと少し弛み、調子を取り戻した良く通る声で答えてきた。

「いやいや。とりあえず簡単に話しますと、お宅のマンションで死人が出たんですよ」

「えっ?! 死人?!」

 思わず大きい声が出てしまった。

……死人……誰かが死んだ?

 先程からのドライバーの質問内容が思い出される。

〈噂〉

〈マンション〉

〈十三階〉

〈三号棟〉

〈真相〉

 色々と連想させられるキーワードがいくつかあった。

……自殺……事故……いや、殺人が濃厚、か?

 だとしたら、犯人は?

 捕まったのか?

 ニュースで報道されたのか?

……これは、もしかしたら……。

 留守中にスゴいことが起きていたのかもしれない。

 仕事の出張とはいえ、あのマンションの住人として、この件を全く知らなかったことが悔やまれる。

……携帯で調べる事が出来たら……。

 生憎、このタクシーを呼んだのを最後に、携帯電話のバッテリーは切れてしまっていた。

 傍らの鞄の中で眠っている役目の果たせない便利道具に失意の念を抱く。

 その一方、勝手な推測で好奇心と探求心が急激に高まり、同時に疑問と僅かな不安が心に生じた。

「……自殺? ……まさか、殺人、とか?」

 昂る気持ちを抑えながら、身を乗り出し、ドライバーに意味もなく小さな声で囁く。

「いえいえ。十四階だったかなぁ。そこの住人が急性の心不全で亡くなったみたいだねぇ」

「……は?」

 気の抜けた声が思わず漏れた。

〈急性心不全〉

 よくあると言えるかはわからないが、何て事のない話だ。

 好奇心が一気に失せた。

 やれやれとシートに深々と座り直すと、ミラーに映るドライバーと目が合った。

「……とまあ、これが表向きの話なんですけどねぇ」

 バックミラーに映るドライバーの顔が嫌らしく弛み出す。

 表向きと言うことは、実際は違う話ということなのか?

いや。

 そもそも、このドライバーが深い話を知っていることが疑わしい。

 法螺話じゃないのか?

「あの、本当の話なんですか?」

 失われた好奇心の代わりに疑念が湧き上がる。

「本当ですよ」

 ドライバーは明るく悪びれた様子もなく返してきた。

「いやねぇ、ワタシの知り合いに警察関係の人間がいましてねぇ――」

 私の疑りを気にする体もなく、妙なほど良く通る声で軽快に喋り出した。

「その知り合いから聞いた話なんですが、どうやら変死……というか怪死らしいんですよ」

……変死? 怪死?

 極端な見方をすれば、心不全は変死と言えるかもしれないが……。

「心不全がですか?」

「そうですねぇ。とりあえずは心不全みたいなんですよ」

 とりあえず?

 心不全みたい?

 それじゃあ、心不全ではないのだろうか?

 どういうことだ?

 疑念は相変わらずあるのだが、ついさっき失われた筈の好奇心が甦り始めた。

「まぁ、その知り合いの見解は聞きましたけど、ワタシにはどういうことなのか詳しいことはわかりませんがねぇ」

 知り合いの見解?

 警察の見解ということだろうか。

 それが、真相ではないのか?

 シートに座る姿勢がまたドライバーの方に傾き出す。

「その――」

「まぁまぁ、お客さん。一番のポイントは死んでいた場所ですよ」

 意地の悪いニヤケ顔が不快なほど通る声で私の言葉を遮る。

〈死んでいた場所〉

 新たなキーワードに私の興味が移る。

 死んでいた場所……本人の自宅ではないのか?

 自殺ではないみたいだから、飛び降りで外の地面……ということはないだろう。

 どこか別の場所か?

 それでは何処だ?

 一連の話から考えると……。

……まさか!

「そうですよ、お客さん。十三階ですよ! 自分の住居の下の階で、死んでたんですよ!」

 私の表情を読み取ったのか、ドライバーは満足気に応じる。

 だが、十三階の何処だろうか?

 私が思い付く場所は、一つしかない……。

「ホール、ですか?」

「そうです! エレベーターホールですよ!」

……やっぱりそうか。

 私の住むマンションは一棟十五階建て六十室の五棟からなる。

 部屋番号の下二桁が不吉数字を抜いた01・02・03・05とありきたりな割り振りになっている。

 下二桁01と02の部屋と03と05の部屋がそれぞれ向かい合う形で設けられ、二つのエントランスで分けられている。

 各エントランスにエレベーターが備えられ、エレベーターホールは各部屋に挟まれる形にある。

 階段はエレベーターに向かい合う形で設けられている。

 こういう造りだから、死んでいた場所が、部屋の中でないとなると、エレベーターホールしかないと思われる。

 階段やその踊り場も考えられなくもないが、この話の流れではそれはないだろう。

「死体はうつ伏せで、エレベーターのドアに片手を押し当てた状態で発見されたみたいですねぇ」

 なるほど。

 そんな状態で死んでいたのなら、変死や怪死と言っても過言ではないのかもしれない。

「そうそう、新聞配達員が発見したみたいですねぇ」

 そうか……そうなると、早朝まで発見されなかったということか。

 何時頃に死んだのだろうか。

 そもそも、なぜ十三階で死んでいたのだろう。

 心不全の症状が現れ、十四階から助けを求めに降りてきて、力尽きたのか。

 間違って十三階でエレベーターから降りて、乗り直そうとした時に心不全で倒れたのか。

 色々と考えられる。

 だから、このドライバーは興味本意とはいえ、真相が知りたかったのか?

……真相、か。

 そういえば、警察の見解はどうなんだろう。

「あの、その知り合いの見解って、どういうものなんですか?」

 私の質問にドライバーは調子を落としたように少し面倒くさそうに答える。

「ああ。見解ねぇ。なんか心臓に普通では考えられない急激な負荷が掛かって、心臓が止まったみたいですねぇ。まあ、ワタシには心不全というものがどういったものなのか詳しいことはわかりませんがねぇ。専門家ではありませんしねぇ」

 普通ではない急激な負荷。

 心不全とはどういった症状なんだろうか。

 医者でもない私にはわからない。

 ただ、心臓が止まってしまうような病気ということはわかる。

「急激な負荷ですか? その亡くなった方は心臓が弱かったんですか?」

「どうなんですかねぇ。三十代後半で、目立った病歴のない健康な人だったみたいですから、それはないと思いますねぇ」

 いやに詳しい。

 その知り合いとやらにそこまで聞いているのだろうか?

 だが、その知り合いも一介のタクシードライバーにここまで教えるとは……。

 警察の守秘義務はないのだろうか?

 いや、この話自体がこのドライバーの作り話という可能性もある。

 しかし、私の興味はまだ醒めていない。

 例え、作り話だったとしても、顛末を知るつもりだ。

 それに……。

……気になる事がある……。

 それにしても、三十代の健康な人間が心臓に急激な負荷を受けて死んでしまう。

 どれほどの負荷なんだろう。

 心臓が止まってしまうほどの出来事があったりしたのだろうか?

「何か、心臓が止まってしまうような事があったんでしょうかね?」

「さて? どんなことですかねぇ?」

 ドライバーが、なにやら上機嫌な口調で質問を返してきた。

 相変わらずの通る声に促され、亡くなった十四階の住人が受けたであろう、負荷の原因を思案してみる。

……過度の飲酒……感電……薬の副作用……ビックリする……とか?

 最後に思い付いた考えに、思わず苦笑してしまう。

「どうかしたんですか?」

「いえ……」

 軽く首を振って言葉を濁すと、ミラーに映るドライバーの顔を見据える。

「例えば、感電したとか、酒の飲み過ぎで心臓に負担が掛かったとか?」

「それはないですよ。外傷もなかったみたいですし、アルコール反応もなかったみたいですからねぇ」

 嫌味なほど上機嫌なドライバーはニヤニヤと嬉しそうに答える。

 やけに詳しいというか。

 もしかしたら、私と同じ質問をその警察の知り合いとやらに、すでにしていたのかもしれない。

「それじゃあ、もの凄いビックリするような事が起きて、ショックで死んでしまったとか?」

 半ば投げやりに返すと。

「ああ!! それですよ!! そうそう! ショック死!! ショック死ですよ!!! それがしっくりくるって言ってましたねぇ」

 私の言葉に弾かれたようにドライバーは今までで一番大きく通る声で答えた。

「ショック死、ですか……」

 ショック死。

 一体、十四階の住人に何が起きたのだろうか?

 真実……いや真相は?

 ここまで聞いたドライバーの話が法螺だったら?

 それにしても、芸が細かすぎる。

 やはり本当の話なんだろうか?

……死ぬほどのショック……。

「怖いモノでも見たんじゃないですかねぇ」

 笑い半分でそう話すドライバー。

……怖いモノ?

……幽霊とか、怪奇現象の類いか?

……死ぬほどに怖いモノ?

……まさか、な……。

「……んなわけないじゃないですかぁ」

 芽生え始めた恐怖心を振り払うように、明るい調子で答えた。

「いやいや、ありえますよ! 実際に、お化け屋敷とかでショック死した人とか、意外にいますからねぇ」

 妙に良く通るドライバーの声が、不快にしか思えなくなってきた。

……お化け屋敷でショック死って……。

 それこそ心臓の弱い老人とかの話ではないのか。

 軽く心の中でドライバーに突っ込むと……。

……気になる事が……。

 俄に焦燥感に駆られた。

 ずっと感じていた感覚だ。

 心に蟠っているモノ。

 そうだ。

 聞いてなかったことがある。

 いや、聞きたくなかったのかもしれない。

 知らない方がいいのかもしれない。

 逆に聞かないといけない気もする。

 それより、ドライバーは知らないかもしれない。

……駄目でもともとだ。

 唾を飲み込み、気を据える。

「その……亡くなった方は何号室に住んでいたんですか?」

「1401号室ですよ」

 あっさり答えてきた。

 妙に良く通る聞き取りやすい声が恨めしい。

……1401号室……。

 ウチの上の部屋だ。

 要するに、私の部屋の目の前で死んでいたということか……。

 薄々感づいてはいたが、確信に変わると、何とも言えない嫌な気分だ。

……なんで……。

 心を支配し始めているモノがあった。

 不安と疑念。

 そして、後悔と恐怖が混じったような感覚。

……聞かなければ良かったか?


『知らぬが仏』


 そんな諺が頭を過ると。

「お客さん、着きましたよ」

 ドライバーは妙に良く通る声でそう告げた。


 ――――――


「聞かなければよかった……」

 開け放たれたままのエントランスを前に後悔を口にする。

 断続的に当たる風がカタカタと扉を震わせていて、その動きがおあずけを食らって苛立つ猛獣的なイメージを抱かせる。

 私という食料の通過を急かしているかのようだ。

 この扉を潜ったら、もう二度と戻ることが出来ないのではないか。

 そんな不安が二の足を踏ませる。

 エントランス内は明かりが灯ってはいるのだが、光量の低いライトが返ってエントランス内の薄暗さを際立たせており、自然と鞄を抱える腕に力が籠った。

……突っ立ってても、意味がない。

 意を決し、エントランスを潜った。

「うっ?」

 思わず呻いてしまった。

 建物に入った瞬間。

 空気の質が極端に変わり、生暖かいのか、カビ臭いのか、一体何なのか。

 体に吸い込まれる空気が不快に感じられ、心身が汚染されていっているような。

 どこか異様な感覚に囚われた。

……何かがおかしい。

 私の考えすぎだろうか。

 あのドライバーの話に感化されているだけなのだろうか。

 心臓の鼓動が速くなっている気がする。

 別段、私に霊感などはないし、特殊な能力なども持っていない。

 どこにでもいるただの一般人だ。

 そのただの何てことない人間にも感じることができる不可解な雰囲気。

……いや、単なる思い込み……。

 鞄を抱えた状態で胸に手を当てて深呼吸をしてみる。

 吸い込まれる空気は不快なモノではなく、服越しからだが、スローテンポの鼓動が感じられた。

……大丈夫……大丈夫……。

 エントランスを潜ると、すぐ目の前に各部屋の郵便受けと、エントランスと同じ強化ガラス製のオートロックの扉がある。

 扉の横には【0】から【9】の数字と【#】、【*】のボタンが三列四行の並びであり、その下に【呼出】と【クリア】のボタンとマイクが設けられた操作パネルがあった。

 所謂、集合インターホンというものだ。

 そして、そのパネルにはボタン類の上に鍵穴があった。

 このマンションの住人はボタンで五桁の暗証番号を入力するか、鍵穴に各部屋の鍵を通すことで、このオートロックを解錠する。

 来客などの部外者は、ボタンで部屋番号を入力して呼出すことで、部屋の住人に遠隔でロックを解錠してもらうことになる。

……この扉を開けてしまったら……どうなるのだろう……。

 この異様な感覚の元凶を解き放ってしまうのではないか?

 今もなお、扉の隙間からその元凶の一部が漏れ出しているような……。

 嫌な考えが頭の中を支配し始めている。

……何もない……何もあるわけない。

 ガラス越しに中を覗いてみる。

 軽いスロープの先にエレベーターが見える。

 上を通る階段が影を作り、スロープはエントランスよりさらに暗くなっている。

 そして、エレベーターホールがただボンヤリと灯りに照らされていた。

……大丈夫……何もない。

 内部の状況を把握できたことで、少し余裕ができた気がする。

 横に視線を移すと、チラシやら何やらが溢れている郵便受けが目に入った。

 私の部屋。

 1301号室の郵便受けだった。

 およそ二ヶ月分の紙の山だ。

 嫌がらせのようにギッシリと詰まっている。

 これは容易には取り出せないだろう。

 軽い溜め息を吐くと、溢れてはみ出しているチラシ類をまとめて数枚ほど引っ張ってみる。

 一瞬、紙擦れの音がして数ミリほど引き出されたが、それ以上は無理だった。

 まるでプリンターの紙詰まりのようだ。

 これは強引にやると間違いなく引き千切れる。

 取り出し口を開ければ容易だろうが、それは受け口の反面で壁の裏側にあり、なおかつ施錠されている。

 生憎、それを解錠する鍵は自宅にある。

……今じゃなくていいか。

 やれやれと深い溜め息をついて、視線を少し上げた。

 1401号室の郵便受けが目に留まる。

 受け口が【チラシ等投函禁止】という貼り紙で封をされていた。

「田中さん、だったな」

 私の部屋の前で死んでいた人物の名。

 〈鈴木〉や〈佐藤〉のようにありふれているが、覚えやすく、忘れ難く、私には親近感がある良い名字だと思っている。

 その田中さんに何が起きたのか。

 なぜ、十三階のエレベーターホールで死んでいたのか。

 死の真相は?

……怪死……。

 苦しそうに地べたに這いつくばり、エレベーターのドアに手をついて力尽きる。

 その顔は驚愕と恐怖のせいで歪んでいる。

 その醜く歪んだ顔が1301号室に向き直り、恨めしそうな声で『助けて』と呻く。

 直接に見たわけでもない、田中さんの死に様が生々しく頭に浮かんだ。

……一体……何なのか……。

 不快と不安、落ち着かない気持ちが心に蓄積されていってるようだ。

 私はここまで想像力が豊かであっただろうか?

 ここまで思い込みの激しい人間であっただろうか?

 疲れてるせいなのか?

……そうだ……疲れてるせいだ……疲れているせい……。

 首と肩をゆっくり回し、軽いストレッチをしてみる。

 ただの気休めなのだが、何かをしていないと深みに嵌まる感じがした。

……大丈夫……休めば良くなる。

 いい感じだ、どうやら効果があるようだ。

 ストレッチに集中することで、気が紛れてくる。

「よし……入ろう」

 わざと声を出し、操作パネルに向き合う。

 慣れた手つきで記憶していた五桁の暗証番号を押す。

 しかし、反応がない。

 もう一度、押してみる。

 やはり、反応がない。

……押し間違え……か?

 暗証番号に間違いがないのなら、ピーピーという電子音と共にロックが解錠されるはず。

……もう一度。

 間違いがないように、ゆっくりと確実に番号を確認しつつ、ボタンを押していった。

……ダメだ……おかしい……。

 どういうわけかロックが解錠されない。

 記憶違いなのか?

 数百回と押したことのある暗証番号を間違えるだろうか?

 そのボタンを押す動作を体が覚えているほどだ。

 単なるド忘れか?

……いや、ちゃんと覚えている。

 番号に間違えはない。

 どういうことなのか。

 暗証番号が変わったのだろうか。

……考えていても、仕方ない。

 鞄を片手で抱えると、もう片方の手で開け、その内側のポケットをまさぐり、目当てのモノを探る。

……確かここにあるはず……。

 チャリチャリと金属音をさせて、年季が入り塗装が剥げ落ちたキーホルダーを取り出した。

 それには大小二つの鍵が取り付けてあった。

 大きいのが部屋の鍵で小さいのがトランクルームの鍵だ。

……この鍵が合わなかったら……。

 おそるおそる部屋の鍵をパネルの鍵穴に差し込んだ。

 ガリガリと特有の何かが削れるような音を立てて入りこんでいく。

……良かった……入った。

 ホッと溜息をつく。

 意外なことに鍵がすんなり入ったことで、少し安心感を覚えた。

……これで……中に入れる……。

 僅かな安心感のせいで心に隙が出来たのか。

 不意にあのドライバーのニヤケ顔が思い出された。


『気をつけてねぇ~』


 妙に通る声が耳の奥で響く。

 また、嫌な考えが過る。

 同時に不安と恐怖が心を染め始める。

 エントランスを潜った時に感じた不可解な雰囲気が全身にまとわりつく。

 先程の安心感が急激に薄れてくる。

……いや、大丈夫、何もあるわけない、考え過ぎ、思い込み、疲れてるだけ、大丈夫だ……大丈夫。

 そもそも、タクシー内で聞いた話が事実である確証はない。

 それに、田中さんは死んだのではなく、引越しただけなのかもしれない。

 いや、例え、あのドライバーの話が全て真実だったとしても、それが何だというのか。

……そうだ……何にもあるわけない……ただの思い込みだ。

「よし!」

 目を見開き、手に力を籠めて、鍵をひねった。

 鍵が右に九十度回る。

 ピーピーという電子音と共に、ロックが解錠された。

「開い、た」

 鍵を掴んだまま身構えるが、何も起こる気配はない。

……そうだ……何も起こるわけない。

 安心感が全身に行き渡っていくようだ。

 鍵を抜いて上着のポケットに入れると、ドアの取っ手に手を掛けた。

……開けても大丈夫だ。

 一瞬の躊躇の後、勢い良く手前に引いてドアを開けた。

「やれやれ……」

 少し息苦しさを覚え、大きく息を吐く。

 どうやら無意識に息を止めていたようだ。

……まだ気にしているのか。

 エントランスに入った時に感じた異様な雰囲気。

 不快な空気。

……気のせいだ。

 扉は開いているが、何かが起こる気配はない。

 シンとした静けさの中に自分の息遣いだけが響いていた。

 握った鉄製の取っ手が氷のよう感じられ、その冷たさは全身にまで及んでいるようだった。

……何もあるわけない。

 開かれた扉から恐る恐る顔を突き出し内部を伺う。

 薄暗いスロープの先に灯りに照らされたエレベーターホールがある。

 そのまま顔を横に向けると、取り出し側の郵便受けが確認できた。

 そこは階段の真下になっているせいでかなり暗い。

 電灯の一つでもあっていいぐらいの暗さだ。

 昼間でも陽の光があるとはいえ、少しの明るさを得られるぐらいで、暗さを感じることに変わりはなかった。

 おそらく、階段下の一番暗い場所に何かが潜んでいたとしても、一見しただけでは気づかないだろう。


『怖いモノでも見たんじゃないですかねぇ』


 あのドライバーの言葉が……。

……ああ……しまった‥…。

 今日、何度目の後悔だろう。

 階段下に思いを馳せ過ぎたようだ。

……怖いモノ。

 後悔と同時に落ち着かせていたはずの恐怖心が増してくる。

 その暗がりに何かがいるんじゃないか。

 暗闇に引きずり込まれてしまうのではないか。

 またぞろ嫌な感覚が心を支配し始める。

……いや……何もない……見える……何もあるわけない。

 そうだ。

 その空間に何もないことはわかっている。

 完全な暗闇というわけではないのだ。

 明かりが乏しいとは言え、目を凝らせばそこに何があるかは、かろうじてだが判別できる。

……大丈夫だ……怖いモノは……いない……。

 膨らむ恐怖心を力で抑え込むように、取っ手を強く握りしめ、暗がりを凝視する。

……あれは……ゴミ箱だ。

 その一角に、縦長の箱のようなモノが置かれていることが判った。

 このマンションの管理会社か住人が親切心で設置したと思われるモノだ。

 このマンションに入居した当時からすでに置かれている。

 住人はこのゴミ箱に不要なチラシ等を捨てている。

 定期的に中身は処分されているようなのだが、溢れて散らかっていることが多々あった。

……大丈夫だ……ゴミ箱だけだ……何も……いるわけない。

 暗くてはっきりとは判らないが、箱の周りは散らかってないようだ。

 もちろん、何かが潜んでいる気配もない。

 満足のいく視認ではないが、それでも恐怖心が和らいでくる。

 どうやら、〈アノ話〉を聞いてから、気持ちの浮き沈みが激しくなっているようだ。

……早く……ウチに帰ろう。

 部屋に入ってしまえば大丈夫だろう。

 シャワーを浴びて、ビールでも呑んで、さっさと布団に入って寝てしまえばいい。

……朝になれば大丈夫だ。

 二回ほど深呼吸をすると、五メートルほど先のエレベーターホールを見据え、後ろ手に扉を閉める。

 鞄を胸の前で抱えると、階段下を見ないように、エレベーターホールの電灯に視線を固定する。

「よしっ!」

 恐怖心を振り払うようにわざとらしく気合いを入れ、薄暗いスロープを登り始める。

 歩数にして十歩にも満たない、なだらかな廊下だ。

 一歩、二歩と踏み締めるようにゆっくりと登る。

 走ったり早歩きをしたりしたら、逆に恐怖心が増す気がした。

 恐怖心はゼロではないが、階段下を気にかけることなく行けそうだ。


カチャンっ!!


「っ?!!」

 心臓が大きくドクンと跳ね上がり、全身に寒気が走る。

 突然の金属音。

 背後からだ。

……何だ?!

 スロープの途中で凍り付いたように足を止める。

 鼓動が急激に速くなっているのがわかる。

……ヤバいんじゃないか?!

 視界の隅に暗がりが映っている。

 やはり〈何か〉が潜んでいたのだろうか。

 さっきのは気のせいで済ますことができない音だった。

 〈何か〉が発した音なのか。

……何もいなかったはずだ。

 そうだ。

 確認した時は箱しかなかった。

 それは暗くても判った。

……じゃあ、何なんだ……まさか……。

 心臓がさっきよりも強く跳ね上がる。

……箱の中。

 箱の中は確認してない。

 箱の中に〈何か〉が潜んでいたということなのか。

……いやいや、それはない……そんなはずない。

 そうだ。

 大きくもない箱だ。

 高さが一メートルもない、ただのゴミ箱だ。

 そんな箱に何が隠れることができるのか。

 子供でも無理だろう。

……人間じゃないモノ……怖いモノ……。

 嫌な思考が頭に浮かび始める。

「違う違う!」

 頭を振り、言葉で思考を切り替えようとする。

 別のことを考えなければ……。

……そうだ……エントランスだ。

 誰かがエントランスに入ってきたのかもしれない。

 恐怖心の中に淡い希望が芽生える。

 こんな夜中に訪れるような人間。

 だが、この状況なら、〈生きてる人間〉であれば誰でもいい。

……ここの住人だったら願ったり叶ったりだ。

 息を止め、耳をそばだてる。

 速い鼓動の原因が恐怖心から期待感にシフトしていってるようだ。

 しかし、どうにも人の気配は感じられない。

……違うのか?

 それでは一体、何だというのか。

 人ではないのか?

 〈生きてる人間〉ではないということなのか?

 恐怖心がさらに高まり、冷や汗が背中を伝う。

「だ、大丈夫……」

 敢えて声を出し、ゆっくりと扉に振り向く。

 ガラス扉越しにエントランスが見える。

 だが、何も、誰も、いない。

 気配すらない。

……何だったのか……あの音は……。

 先程の音を思い出してみる。

 『カチャンっ』という音だった。

 金属音だ。

……金属音……。

 閃き、ハッとした。

「そうか!」

 恐怖心が忽ち無くなり、逆に恥ずかしさが込み上げてきた。

……オートロックだ。

 そうだ。

 扉が施錠されただけだったのだ。

 この扉は閉めた直後ではなく、閉めた数秒後にロックが掛かるようになっている。

「なんだよ、バカじゃないか!」

 頭を掻き悪態をつく。

 出張によるド忘れなのか、恐怖心のせいなのか。

 この仕組みを忘れていた自分に腹が立った。

……ビール呑んで……寝よう……。

 鞄を左手にダランと提げると、エレベーターホールへ振り返る。

「あっ!」

 咄嗟に思い出し、思わず声を上げてしまった。

……そうだった……冷蔵庫には何も入ってなかった。

 出張前に部屋のブレーカーを落とすため、冷蔵庫の中は空っぽにしていたのだ。

……まったく……。

 自分に呆れる。

 疲れのせいか。

 恐怖心のせいか。

 〈アノ話〉のせいなのか。

……まぁいい……。

 とにかく、疲れているのは確かだ。

「やれやれ……」

 項垂れて溜め息をつくと、トボトボと目の前のエレベーターホールへ向かった。

「あ……」

 エレベーターの前に来ると、不快な感覚に陥り、同時に後悔が生まれた。

 見たくないモノを見てしまった。

 今の私にとって嫌なことを連想させるモノを見てしまったのだ。

……十四階……。

 目の前には縦長の【1】から【15】までの数字を表示した階層パネルと、その下に上りを示した上三角形のマークが記されたボタンがあった。

 その階層パネルの【14】の数字が点灯していたのだ。

 要するに、現在、エレベーターは十四階にあるということになる。

……1401号室……。

 否応なしに、田中さんのことが頭を過り出す。

「考えるな……」

 ホールを照らすボンヤリとした電灯の下、目を堅く瞑り、脳裏に浮かぶ、田中さんの姿を引き離そうと首を振る。

……駄目だ駄目だ……考えるな……。

 自身の気持ちとは裏腹に思考が駆け巡る。

 田中さんは十三階のエレベーターホールで……。

 私の部屋の前で死んでいた。

……心不全……ショック死……変死……。

 ホールにうつ伏せになり苦しみ力尽きる田中さんの姿が瞼に映った。

「っ!?」

 心臓がドグンッと痛いぐらい強く脈打ち、息が詰まった。

 胸を押さえ、目を大きく開き、足下を凝視しつつ後退る。

 ホールは全階層が同じ作りになっている。

 階層は違うのだが〈アノ話〉が正しいのなら、田中さんは……。

 今、私が立っていた位置で死んでいたのだ。

 だからなのか、田中さんの死体があった場所を踏んでしまっているような気がした。

……いや……ここじゃない……大丈夫だ……何もあるわけない。

 やはりというべきか、恐怖心がまた湧き上がる。

 鼓動が速くなってくる。

 ゾワゾワと身体の内側から寒気が染み渡り出す。

「何でだよ……」

 理不尽な状況に文句が零れる。

 不安定になった心の均衡。

 頭の中を支配する不快な想像。

 強張り思うようにならない身体。

 全て〈アノ話〉を聞いたせいであることは間違いないだろう。

……聞かなければよかったんだ……。

 後悔と同時にあのドライバーが恨めしくなる。

 しかし、今更どうしようもない。

……早く帰ろう。

 そうだ。

 家に帰るだけだ。

 部屋の中に入れば、こんな状況から解放されるはずだ。

 速く打ち続ける心臓を押さえ込むように鞄を両手で抱える。

「大丈夫だ」

 深呼吸をして、自分に呟くと、改めて階層パネルに視線を移す。

 十四階にエレベーターがあること。

 これは誰かの悪戯なのか。

 田中さん以外の十四階の住人……。

 1402号室の住人が使用したのか。

 または十四階に用事があった人間が使用したのか。

 何にしても、単純に考えれば最後にエレベーターを使用した人間は十四階で降りていることになる。

……1402号室の住人……。

 田中さんの向かいの部屋に住んでいる人。

 誰だったろうか。

 名前を思い出せない。

 いや、思い出す以前に名前を知らなかった。

 まさに、現代のマンション住まいの人間にみられる、近隣住民間の交流の希薄さが伺え知れる。

 そして、プライバシー保護に於ける防犯。

 全ての部屋と郵便受けに表札がないのは管理会社側の配慮であろう。

 おそらく、このマンション内で他の住人達と接する機会があるのはエレベーター内か、ホール、エントランスぐらいだろう。

 それも、軽い挨拶で終わる。

 況してや、道端で声を掛けられても、名前はおろか何号室の住人かも分からない。

 せいぜい、同じマンションに住んでいる人だと、かろうじて思い出せるぐらいだろう。

 だが、田中さんは出勤時間が重なることがあり、エレベーター内でよく遭遇した。

 名前を知ったのは、行きつけのバーで偶然会った時だ。

 その時は酒が入っていたせいもあってか、仲良く閉店まで語らい、タクシーを割り勘で乗って帰って来た記憶がある。

 だが、それ以外に交流はない。

 バーで会ったのも、その一回きりだし、エレベーター内で会っても、挨拶と一言二言の世間話をするだけだった。

 名前を憶えているのも、憶えやすく親近感がある名前だったからだ。

 だが、知っているのは名字だけであり、下の名はわからない。

「誰が、使ったんだ?」

 エレベーターが十四階でなければ、誰が使っていようが気にもしなかっただろう。

 いや、十三階だったら、もっと気にしていたかもしれないのだが……。

 それにしても、どうしてだろう。

……嫌な感じがする。

 積み立てられた恐怖心が言い様もない危機感を呼び起こしているようだ。

 エレベーターが開いた時、そこに〈何か〉が乗っているかもしれない。

 エレベーターから降りる時に……十三階で降りた時に……。

 ホールに〈何か〉がいるかもしれない。

 それとも……。

……駄目だ……考えるな。

 田中さんの姿が脳裏に浮かびそうになり、首を振って払う。

 それでも恐怖心は拭いきれず、鼓動はいまだに落ち着いてない。

……乗らない方がいいか。

 エレベーターを見ると、ドア――正確に言うと外ドア――のガラス窓に自分の姿が写っていた。

 細いワイヤーが格子状に入った長方形の強化ガラスの窓で、私の上半身が写り込むぐらいの位置と大きさで両開きのドアに一枚ずつ嵌め込まれている。

 内ドアにあたるエレベーター自体のドアにも同じ位置に同様のものが備わっている。

 これでエレベーターの内部と外部の状態がわかる様になっている。

 この階にエレベーターが停留していないため、内部が真っ暗な空洞状態になっていた。

 ドアの向こう側が暗いことで、そのワイヤー入りの嵌め殺しの窓はモノトーンに写し出す鏡と化していた。

「疲れてるな……」

 片側のガラスに写る自分の顔を見つめ呟く。

 ひどく疲れた顔だ。

 カラーでないこともあってか、ガラスに写る自分の顔に少し怖さを覚える。

 視線をズラすと私の背後に写っている階段が見えた。

……階段で行こう。

 後ろを振り返ると、すぐ目の前に聳える階段を見上げる。

 階段は上の方にいくほど暗くなり、踊り場の辺りは階段下と同じような暗闇になっていた。

 各踊り場の天井に白色の蛍光灯が備え付けられているのだが、今は点されていない。

 行きは十から十二段ぐらいだろうか。

 折り返して二から三段ぐらいと三メートルほどの廊下。

 一階層を約十五段と考えると、私の部屋までは約二百段と約三十メートルの廊下があることになる。

……上るしかないか。

 この心身疲れ果てた体で十三階まで上るのは相当キツい。

 正直、上りきれるかどうかもわからない。

 しかし、エレベーターという逃げ場のない密閉空間にいるよりはマシだろう。

「よし! 行こう!」

 鞄を右手に提げると、声を発して自らを奮い立たせ、一歩前に出る。

 階段手前の壁にスイッチがある。

 踊り場の電灯を点すスイッチで、各階の同じ位置に同様のものが設置されている。

 また、全階層が連動していて、各々のスイッチで全ての踊り場の電灯を点けることができ、切ることもできる。

 踊り場を見上げ、空いてる手でスイッチを入れた。

 チッチッと点滅し、電気が灯った、と思いきや、蛍光灯は不規則な明滅を繰り返し始めた。

 寿命なのか、かかりの悪いエンジンのように、しっかりと灯らない。

 灯った白色の明かりは心強い存在になるはずだったのだが……その不規則な明滅が、踊り場をかえって不気味に演出していた。

……何なんだよ……。

 奮い立たせていた心がたちまち萎縮し、躊躇いが生まれる。

 この階段を使用した方がいいのは確かだろう。

 だが、この状況下で……。

 この不規則に灯る、いつ切れるともわからない明かりの下を通り抜けるのは……。

 気が引ける。

 真っ暗な階段を上るのは論外だった。

「……駄目だ……」

 溜め息をついてスイッチを切った。

 階段が安定した闇のグラデーションに包まれる。

……どうする……。

 帰るべきなのは間違いない。

 だが、どうすればいいのか。

 この階段を上りたくない。

 エレベーターに乗るのも嫌な感じだ。

 家に帰らずにホテルにでも泊まろうか。

……いや……馬鹿馬鹿しい……。

 そうだ。

 ここの十三階に自分の家がある。

 エレベーターで一分足らずの場所にある。

 それなのに、一番近くても車で三十分以上かかる場所にあるホテルに泊まろうというのか。

「何を考えてるんだ……バカだ……」

 自分を叱咤し、階層パネルに向き直る。

 エレベーターに乗ればあっという間に家に着く。

 降りたら、すぐに部屋に入ってしまえばいい。

 怖かろうが何だろうが、そうすればいい。

……さっさと帰ろう。

 根拠のない勇気が湧いてきた。

 左手に鞄を提げると、右手で胸を軽く押さえ深呼吸をする。

「よし!」

 気合いを入れると、上三角形のマークを押し、階層パネルに目をやった。

 点灯していた【14】の数字が消灯すると、数秒後に【12】の数字が点灯した。

「……あれ?」

 異変に気付いた。

……おかしい……。

 【13】の数字が点灯しなかった。

 エレベーターが十三階をすっ飛ばしたのだろうか。

 いや、そんなことあるわけない。

 ランプは【11】、【10】と規則的に点灯していっている。

 【14】から【12】のランプが点灯した時よりも短いスパンだ。

 要は、ただ単純に【13】のランプが寿命か故障で点灯しなかっただけだろう。

 そうだ。

 ただそれだけのこと。

 だが……。

……もう嫌だ……。

 恐怖心が増してくるのがわかる。

 鼓動もさっきから落ち着かない。

 持ち直すことが非常に難しくなってきた。

……出よう……ここから出よう。

 振り返り、エレベーターに背を向けると、なだらかなスロープの先にあるエントランスのドアを見下ろす。

「出た方が……」

 全て偶然のことだろう。

 〈アノ話〉の出来事。

 十四階の田中さんが十三階のエレベーターホールで死んでいたこと。

 エレベーターが十四階にあったこと。

 【13】のランプが点灯しなかったこと。

 踊り場の電灯が切れかかっていること。

 偶然でなかったら、誰かが仕組んだ質の悪い悪戯だ。

 そうだ。

 そうに違いない。

 そうであってほしい。

 もしかしたら、オートロックの暗証番号が変えられていたのも、誰かの悪戯かもしれない。

……そうかも……いや……そんなわけない。

 暗証番号を変えるという悪戯ができるわけがないことはわかっている。

 鍵でオートロックを解錠することができた。

 暗証番号が変わっていたのは別の理由があるのだろう。

 このマンションに住み始めて六年ほど経つが、暗証番号が変わったのは過去に一度だけだ。

 今回の変更は私にとって、二度目の経験だ。

 一度目の変更は2~3年前。

 何号室か憶えていないが、このマンションに空き巣が入ったことが原因だった。

 防犯体制が見直され、セキュリティ強化も兼ねて、暗証番号が変更されたのだ。

 実のところ、何が強化されたのかわからない。

 目に見えたのは暗証番号の変更ぐらいだろう。

……どうする……本当に出るのか……。

 薄暗いスロープ、階段下の暗がりを目の前にして躊躇が生まれる。

 どうにも足を踏み出すことが出来ない。

……何もない……何もいない……何も起きないはず……。

 恐怖心は止めどなく湧き上がり、冷や汗が全身から滲み出てくる。

 心身が不快な感覚で支配されているのがわかる。

……どうする……何か……いるのか……どうしたらいい……。

 鞄をキツく抱きしめ、暗がりの方を凝視する。


ゴウゥゥゥンッ!


「っひぃっ!?」

 突如鳴った背後からの音に、ビクンッと飛び退き、反射的に体を強張らせる。

……何だ何だ何だ何だ……。

 頭がパニック状態になっている。

 身体の震えがひどくなり、呼吸が乱れてきた。

「……何だ……」

 恐る恐る振り返る。

……あ。

 希望の光を見た気がした。

 エレベーターのドアが開いていて、内部は煌々と白色の光で満たされていた。

 そうだ。

 先程の音はエレベーターが到着して、ドアが開いた音だったのだ。

……助かった……。

 力を振り絞り、縺れる足でエレベーターに駆け乗った。

「よかった……」

 エレベーターに乗り込むと同時に、ドアが先程と同じ音を立てながら閉まった。

……助かった……よかった……。

 私を守るように閉まったドアを一瞥すると、壁にもたれ掛かり、天井を見上げる。

 電灯から白色の光が輝いていた。

 天国からの救いの光のように感じられる。

 今の私にとって、このドアを挟んだ向こう側は、地獄のようなものになっていた。

 心臓は相変わらず速く脈打ち、呼吸は不規則だが、震えはいつの間にか収まっていた。

 エレベーターという鎧を纏ったおかげかもしれない。

 恐怖心は徐々に薄まりつつあるように思える。

……大丈夫……大丈夫……大丈夫……。

 覚束ない深呼吸を繰り返しながら、電灯からドアの横にある操作パネルに視線を移した。

 【1】から【15】までの数字が表示されたボタンが三列五行に設置されていて、その下に【開】、【閉】と記されたボタンがあった。

 そのボタン類から少し離れた上の方に【非常】と書かれたボタンがあり、その横に 【非常時に使用】等の注意書きが表示されている。

 パネルの上にはデジタルで【1】と映し出された液晶ディスプレイが嵌め込まれていた。

……何もない、よな……。

 操作パネルから視線を外し、鞄を盾にするように胸の前で抱えると、ドアに嵌め込まれた強化ガラスの窓から外部を伺う。

 スロープとその先にあるオートロックのドア、上にいくほど暗くなっていく階段が見えた。

 この位置からだと、角度的に階段下の暗がりは見ることができない。

 踊り場も同様に角度の問題で、また暗いこともあって、見ることが難しい。

……何もない……何も……いない……。

 窓から見える光景を注意深く見渡すが、何かが起こる様子はない。

……大丈夫……なのか……でも……。

 脳裏に過る嫌な予感と想像。

 エレベーターを開けたら〈何か〉が起こるかもしれない。

 〈何か〉が乗り込んでくるかもしれない。

……もしかしたら……。

 背中に寒気が走る。

 消えることのない恐怖心が、また……。

 手足がブルブルと震え出す。

 今の角度からは見ることはできないが、ガラス越しに上から覗き込めば見える位置。

……田中さんが死んでいた場所……。

 そこに〈何か〉が潜んでいるかもしれない。

……ヤバい……!

 恐怖心と危機感が一気に膨れあがる。

 今にもこのドアを開けられてしまうのではないか。

……早く動かさないと!

 焦燥感に駆られ、ドアの横にある操作パネルに手を伸ばす。

……十三階……。

 震える人差し指が【13】のボタンに触れるか触れないかのところで躊躇いが生まれ、指が止まった。

……大丈夫……なのか……。

 エレベーターを動かしていいのだろうか。

 十三階まで……自分の部屋まで行っていいのだろうか。

 何事も起きない保証はない。

 だが、〈何か〉がこのエレベーターのドアを、今にも開けようとしているのかもしれない。

「大丈夫だ!」

 声を出して自分を励まし、息を大きく吸い込むとボタンを押した。

 押した十三の数字が点灯する。


グゥゥンッ!


 動作音と同時に、一瞬の浮遊感を感じさせ、エレベーターは動き出した。

「ふぅぅぅ……」

 体に溜まった恐怖心を吐き出すかのように長く息を吐くと、液晶ディスプレイを見た。

 上三角形のマークとその下に【2】の数字が映っていた。

 ワイヤー入りの窓から外を伺うと、二階の景色が下に流れているところが見えた。

……大丈夫だ……大丈夫だ……。

 エレベーターは動き出した。

 後は十三階に到着するのを待つだけ……。

……家に帰るだけ……ただそれだけだ……。

 深呼吸をしながら鞄を床へと置き、ドアの向かい側の壁に背を預ける。

 真っ正面にホールを見ることができる位置だ。

……四階……。

 液晶ディスプレイを見ると【4】の数字が映っていた。

 恐怖心なのか、焦燥感のせいなのか、鼓動は速いままだ。

 意識的に行なっている深呼吸も上手くできない。

 手足の震えに連動するかのように、息を吐いて吸い込むという動作が小刻みに震える。

……何もない……大丈夫だ……大丈夫だ……。

 ディスプレイに映る数字が【5】に変わるのを見届け、外の光景へと視線を映した。

 五階の景色が上から下へと流れていく。

……落ち着け……大丈夫だ大丈夫だ……。

 エレベーターが十三階に近づくにつれて、恐怖心が増していってるようだ。

 さらに脈が速くなり、鼓動が強くなってくる。

 エレベーターの上昇音が響く密閉空間の中、ドッドッドッドッと、自分の心音が第三者にもはっきり聞こえてしまうぐらい、大きく強くなっているように感じられる。

「六階……」

 強化ガラスの窓に映る、造りの同じホールを見過ごして呟いた。

 エレベーターは分厚いコンクリート、外ドアの下部分、そして、強化ガラスという順に通過していく。

 何度も乗っているエレベーター。

 だが、こんなにも不安と恐怖を感じながら乗ったのは初めてだ。

 何事もなく自宅に帰れるだろうか。

 エレベーターは十三階まで到着するのだろうか。

 一階の階層パネルを思い返す。

 十三の数字が点灯しなかった。

 どういうことなのか。

 十三階では停まらないということなのか。

 操作パネルで点灯しているボタンを見る。

……そんなわけない……。

 そうだ。

 十三階を示すボタンは存在していて、反応もした。

 だから、エレベーターは動いた。

 十三階へ、自分の部屋がある階層に、そして……。

「駄目だ駄目だ!」

 田中さんの姿が頭に浮かび、それを声を出して振り払い、その場に屈みこむ。

……田中さんは関係ない……アノ話は……何でもない……。

 気を紛らわすように液晶ディスプレイを見ると【7】の数字が【8】へと映り変わった。


ううぅ……ぉぅ……ぅぅ。


「ひィッ!?」

 突然、気味の悪い呻き声のようなモノが聞こえ、思わず尻餅をつく。

……何だ何だ何だ……。

 心臓が尋常でないぐらい速く脈打ち出す。

 手足の震えが全身に及び出し、呼吸が乱れる。

「誰だ……何……」

 辺りに視線を這わせ、呼びかける。

 誰の呻き声なのか。

 このマンションの住人が呻いたのか。

 それとも〈何か〉が発した声なのか。

「ぅわっ?!」

 心臓が飛び出るぐらい大きく弾んだ。

……今の……今のは……。

 這わせていた視線が液晶ディスプレイに映った【9】の数字を捉え、そして、ガラス窓へと移った時……。

 それに気付いた。

 嵌め殺しの窓からの光景。

 変わり映えのしないエレベーターホールの風景。

 オレンジに灯る電灯。

 上りと下りの階段。

 暗く角度的に見ることが困難な踊り場。

 その光景に違和感を感じた。

 いや、〈何か〉を見た気がした。

……影……か?

 上から下へ流れる九階の景色。

 地べたに尻を着いたこの状態から見える景色。

 その景色が窓の上に映り始めた時。

 一瞬とも言える時間だが、上りの階段を下から見上げることができる。

 踊り場の辺りを見ることができる角度。

 その角度で窓の外が見えた。

 暗いこともあり、詳しくは判らないが、影のようなものが、踊り場にいた。

 いや、踊り場に行こうとしていたのだ。

 つまり、階段を上へと上っているところだったというべきか……。

……何だ……誰だ……誰だ……人なのか……?

 嫌な想像が脳裏を過った時、十階のホールが見え始めた。

 震える体を縮み込ませ、窓を見上げる。

 真っ暗な踊り場が見え、そして……。

「っな?!」

 全身が総毛立った。

……足……足か……足か?

 踊り場の暗闇に消える足のようなモノを見たような気がした。

……何だ……何でだ……何でだ……どうして……どうして……。

 考えられない。

 いま十階で見た足のようなモノが、先程の九階で見た影のものだとしたら……。

 相当な速さで階段を上っていることになる。

 普通の人間では考えられない。

 気のせいなのか。

 何かの見間違えなのか。

 恐怖のあまり幻覚でも見たのか。

 だが……。

「……十三階だ……」

 頭を抱え呟く。

 もし、階段を上っている〈何か〉が十三階を目指しているとしたら……。

 あの速さだと間違いなくエレベーターより先に辿り着く。

 十三階で待ち構えているかもしれない。

……このドアが開いたら……。

 田中さんの姿が脳裏に浮かぶ。

 うつ伏せに倒れた姿が、死んでいる顔が……。

 見たわけでもないのに、鮮明に映し出される。

……何だ……何だっていうんだ……。

 私の出張中に何が起きたのか。

 階段を上る〈何か〉は何なのか。

 田中さんに何が起きたのか。


『急性の心不全で亡くなったみたいだねぇ』


 アノ……通りの良い声が頭に響く。


『変死……というか怪死らしいんですよ』


 耳を塞ぎ頭を振って抵抗しようとするが、不快な程さらに通りの良い声が返してくる。


『怖いモノでも見たんじゃないですかねぇ』


 呼吸が不規則に荒くなる。

 心臓が破裂しそうなほど激しく脈打つ。

 手足の震えが全身にまで及び出す。

……怖いモノ……何だ……何なんだ……。

 心が恐怖と不安で満たされる。

……田中さんは……何を……何を見たんだ……。

 死ぬほど怖いモノ。

 想像がつかない。

 想像を超えるほど怖いモノなのか。

 階段を上っている〈何か〉を見たのか。

 あの〈何か〉が死の原因なのか。

 私も死ぬのか。

……どうしたらいい……どうする……どうしたら……どうするどうする……。

 震える視線を液晶ディスプレイに移す。

 【11】の数字が【12】へと変わった。

……ヤバい……どうする……止めなければ……どうする。

 操作パネルを見るが、動くエレベーターを途中で止めることができるようなボタンは見当たらない。

「あっ!!」

 操作パネルの下方に取ってのような出っぱりがあるプレートに気付いた。

 取ってはプレートを上下にスライドするためのものだろう。

 おそらく、このプレートの中にエレベーターのメンテナンス業者が利用する操作パネルがあるはず。

 それでエレベーターを止めることができると思われる。

 今頃になって気付くほど、気にもかけていないものであったが、今では最後の望みと言えるものだった。

「止め、止めない、と……」

 プレートに向かおうとする……が、腰に力が入らず、立ち上がることができない。

……どうしてだ……どうして……早く、早く止めないと……。

 体が震え、手足が思うように動かない。

……力が……立てない……立てない……ヤバいヤバい……早く止めないと……。

 鼓動が尋常ではない速さで鳴っている。

 呼吸のリズムが速くなり、乱れが激化し、息をする度に喉がヒュッヒュッと鳴り出す。

……苦しい……ヤバい……嫌だ……止めないと止めないと……早く早く……。

 一歩進んで手を伸ばせば届く距離にあるはずのプレートが遥か遠くにあるように思える。

……何でだ……何で何で……早く……早く止めないと……何かが……何かが……。

 何とか立ち上がろうとするが、足がもがくだけで尻を床から離すことができない。

……立てない……怖い、息が、震えが……力が……力が入らない……嫌だ……。

 ディスプレイに【13】の数字が表示された。

……怖い……怖い……十三階……何かが何かが……階段……何かが……何かが……嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……苦しい息が心臓が……嫌だ……死にたくない……。

 田中さんの姿が、顔が、苦しむ動作が、頭の中を駆け巡る。

 あのドライバーの不快な声が、通りの良すぎる声が、耳の奥で響き渡る。

……変死……十三階……嫌だ……怖い……ホール……怖い……怖い……何かが……怪死……心不全……嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……。

 エレベーターの上昇速度が落ちる。

……嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……開くな……開かないでくれ……死ぬ、死……死ぬ。

 震える背中を壁に押し付け、ドアを凝視する。

「し……死ぬ……死ぬっ?!」

 エレベーターが停まり、十三階に到着した。

「っひぃ! ひィっ!!」

 操作パネルの【13】の数字が消灯した。

……開くな開くな死にたくない苦しい苦しい死にたく死、死に、死、し、死ぬ死ぬ……し。


ゴゥッ!


「っイっっ!!?!!!」

 エレベーターのドアがゆっくりと、重い音を立てて開き出した。


ゥゥゥンッ!


「っっぃィっ??!!!?」

 ドアは完全に開かれた。

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