三日目

昼過ぎ

「分譲、賃貸、ね……」

 ディスプレイに映し出されたページを眺め、独り呟き前髪をかき上げる。

……三時、十五分、ちょい過ぎ……。

 掛け時計を見ると、背凭れに身体を預け、欠伸をしながら何気なく室内を見回した。

 床には脱ぎ捨てられたままの服。

 ベッドの脇には空き缶が一つ。

 カーテンが開かれた窓からは陽が射し込み、布団が乱れたベッドを照らしていた。

 時刻は、もう昼過ぎでおやつの時間。

 予定では、このホームページを調べるのは昨夜のはずだった。

 それが、バイトで疲れたせいか、病み上がりだったせいか、お酒を飲んだせいか。

 その全てのせいなのかな……。

 昨夜は、シャワーを浴びて独りで祝杯を上げたところまでは良かったと思う。

 その後、一息つこうとベッドに横になったのが失敗だった。

 一度だけ瞬きしたつもりだったのだけれど……。

 目を閉じ、開けた瞬間。

 照明が必要ないくらい、辺りが明るくなっていた。

 半日近くの爆睡。

 それに、夜用の薬を飲むのをまた忘れた。

……食後の薬はさっき飲んだけど……。

 ドレッサーに置かれた白い紙袋を一瞥すると、大きく伸びをし、パソコン画面に向き直る。

 フルウィンドウの画面には、遠目に写されたマンション群の画像と宣伝文が表示されている。

【選べる! マルチタイプマンション! あなたのタイプがきっと見つかる!】

 この宣伝文句にあるように、〈SICマンション〉はこの街に複数あるみたい。

 他地域にもいくつかあるみたいだけど……。

 兄が住んでいたのはその内の一つのタイプ。

 〈SICマンション・タイプWB〉というのが正式名称らしい。

……特定できて良かった……。

 兄が一年生の時に通っていた中学、私が通っていた幼稚園。

 そのヒントがあったおかげで、この〈タイプWB〉に絞ることができたのだけれども……。

 正直、この複数あるタイプから探すとなると、かなり骨が折れたと思う。

 マンション側に聞いてみるのもいいけど、タイプを絞れてない状態だと時間がかかるはず。

 それより、一応は個人情報となるから、取り合ってくれないかもしれない。

 こうなると、手っ取り早いのは大下さんや柴崎さんに聞くこと。

 だけど、二人の連絡先は知らない。

 どちらかが店に来るのを待つしかないということになる。

……そして、無駄にやきもきした日々を過ごすはめになっていたであろう、かな……。

 何にしても、マンション側には一度、問い合わせをしてみるつもりだけど……。

……一日でも早く終わらせて、就活再開よ!

 ふぅっと強く息を吐くとマウスを手に取った。

……さて、問い合わせ先は、と……。

 マウスを操作し、画面をスクロールさせる。

 ページ下方に【お問い合わせ窓口】という枠に、電話番号とファックス番号が記載されていた。

……ココに連絡すれば、教えてもらえる、かな……。

 兄が住んでいた部屋。

 このマンション群の何号棟なのか。

 そして、何号室なのか。

……とりあえず、控えとこ……。

 電話番号をドラッグしコピーすると、メールウインドウを起動させ、本文入力枠にペーストする。

 さらに、〈SICマンション・タイプWB〉の住所も同じようにドラッグ、コピー、ペーストする。

 アドレスリストを開き、自分の携帯アドレスを指定すると送信した。

 数秒後、ベッドの方から、私のお気に入り映画のテーマ曲が流れ、すぐに止まった。

……これで、OK!

 回転式のイスから立ち上がると、ベッドに向かい枕元に置かれた携帯に手を伸ばす。

 突然、携帯からお気に入りアーティストの曲が流れ出した。

 心臓が縮こまり、伸ばした手がビクっと固まる。

「はぁ……ビックリした……」

 着信だった。

 着信メロディを奏でる携帯を手に取ると、ディスプレイを覗き込む。

 【後藤愛里】と表示されている。

……愛里ちゃん……何だろう……。

 ベッドに腰を下ろすと、髪をかき上げ、通話ボタンを押した。

「もしもし?」

「あっ!! 水香さんっ!! 今っ! 大丈夫ですかぁ?!!」

 大声で話す愛里ちゃん。

 思わず、携帯を耳から遠ざける。

「大丈夫だけど……どうしたの?」

 何やら、電話の向こう側が騒がしい。

 音楽や、電子音、掛け声のようなモノ。

 それらの音が混ざり、かなりの騒音になっている。

 私の声が掻き消されているのではないだろうか。

「すいませんっ!! もう一度、お願いしますっ!!」

 騒音に負けじと、愛里ちゃんは大きな声で話す。

……やっぱり……これじゃあ、聞こえないよね……。

 周りの音から察するに、ゲームセンターにでもいるのだろう。

 とりあえず、その場から移動してもらった方がよさそう。

 大声で会話する気にもならないしね。

「愛里ちゃんっ! 静かな場所に移動してっ!」

 先程より大きめの声で返すと、ベッドに仰向けになった。

「はいっ! そうしますっ!」

 愛里ちゃんはそう言うと、通話を切らずに移動を開始したよう。

 周りの騒音、衣擦れの音、足音、携帯から色々と聞こえてくる。

 やがて騒音が小さくなり、そして、風が吹くような音がすると、足音が止まった。

「……もしもし? 水香さん? 聞こえます?」

 外に出たのかな。

 後ろの方で車が走るような音がしているけど、愛里ちゃんの声は問題なく聞こえる。

「大丈夫、聞こえるよ……ところで、何か用事があったの?」

 寝返りを打つと、目にかかった髪をかき上げる。

「ああ、すいません。あのですね……例の噂、教えてもらいましたよぉ」

「噂……?」

「そうです! 噂っ!」

 愛里ちゃんの言葉に、一瞬、疑問符が浮かぶが、すぐにわかった。

〈マンションの噂〉

 昨夜、話した〈噂〉のこと。

 詳しい内容が分かったということかな。

 友達に聞いてみると言っていたけれど、こんなに早く連絡が来るなんて……。

……流石は看板娘! 仕事が速い!

 心の中で絶賛すると、身体を起こし、ベッドの上で胡坐をかく。

「マンションの噂だよね? ……どんな話?」

「その前に、重大な事が分かりました!」

 愛里ちゃんはテンション高く、私の返しを待たずに話を続ける。

「そのマンション……どうやら、SICマンションらしいですよ!」

「えっ?!」

 ピンと背筋が伸び、思わず高い声が出てしまった。

「何回も聞き直しましたから、間違いないです! ……私もビックリしました。まさか、水香さんが言っていた、SICマンションのことだったなんて……」

 〈SICマンション〉……どのタイプの〈SICマンション〉だろう?

 〈WB〉だろうか。

 いや、聞いても分からないと思う。

 とりあえずは、〈噂〉の内容を聞いてみよう。

「良かった! 私が知りたかった噂だったのね……で、どんな話なの?」

 私の言葉を受け、愛里ちゃんは少しトーンを落とした口調で話を始めた。

「はい、えーとですね……仲の良い夫婦が住んでいた部屋に泥棒が入って、そして、その夫婦はマンションを立ち退いてしまった。ここまでは話しましたよね?」

「うん、泥棒の被害にあってから、妻の姿を見た人はいなかったんだよね?」

「そうです。じゃあ、その理由……噂の一つを話します――」

 私の返しに、愛里ちゃんは更にトーンを落として答える。

 その鬼気迫るような口調に、思わず息を飲んだ。

「――部屋が引き払われ、夫が出て行く時でも、他の住人がその妻を見掛けることはなかった。離婚したとか、引きこもりになっていたとか、色々な噂が流れるわけなんですけど、いつからか、こんな噂が流れるんですよ……夫が妻を殺した、と……そして、その妻の死体をマンションのどこかに、埋めた、と――」

 身じろぎもせず、携帯を痛いほど耳に押し付け、一言も聞き漏らさないように愛里ちゃんの話に集中する。

……やっぱり、どこかで……。

 私の記憶に……。

 愛里ちゃんの言葉が……。

 呼応する。

 引っかかりが……。

 分からないけど、何か……。

 何か、引っかかるものが……。

「――真夜中、そのマンションを徘徊しているそうです……自分の死体を探す、妻の幽霊が――」

 愛里ちゃんの芝居がかった話し方。

 その効果のせいなのか。

 少しばかりの不快感を覚える。

……いや、違う。

 何か別の要因。

 耳の奥に響き始めるノイズ。

 何か、思い出せそう。

 〈噂〉は……その〈SICマンションの噂〉は……それだけじゃないはず。

 そう。

 それだけじゃない……。

 ノイズが……違う……。

 違う……声? ……声……そう……。

「以上ですっ!」

 愛里ちゃんの声に、一瞬、身体が強張る。

 さっきまでの暗い口調とは打って変わった、明るくはっきりとした声。

 その愛里ちゃんの声で、現実に引き戻された。

 だけど……。

……そうだ! ……分かった……。

 取れた……引っかかりが……。

 どうやら、記憶も一緒に引き戻されたよう。

……思い出した、みたい……。

 あの時の事を……。

 全てを憶えているわけじゃないけど……。

 だけど、キーワードはいくつか思い出した。

「ありがとう! ところで愛里ちゃん? 噂って、他にもあるよね? その夫婦の話以外の噂も、あるよね?」

 愛里ちゃんにお礼を述べ、続けて質問を投げかけると、前髪を掬いながらゆっくりと息を吸い込んだ。

 おそらく、愛里ちゃんは知らないと思う。

 一応の確認。

 そして……。

「他の噂ですかぁ? ……うーん……知らないですね」

「じゃあ、この噂を教えてくれた友達は、どこで、この噂を知ったの?」

 予想通りの返答に、間髪容れずに質問する。

 何やら、電話の向こうでサイレンの音が近づいてきてるよう。

 それに伴うように、愛里ちゃんは声を張り上げる。

「うーん、どこで聞いたんですかね。わからないです! ……すいませんっ! でもっ! そのマンションっ! 友達ん家の近くにあるみたいですよぉ!」

 徐々に大きくなるサイレンと重なるように、愛里ちゃんの返答を聞いた。

 思いがけない答。

 〈噂〉の出所を知ることができるかも、と思っていたのだけれど……。

 そのマンションのタイプを特定できるかも……そして、おそらく……。

「その友達は、どこら辺に住んでるの?」

 サイレンがフェードアウトしていく。

 その音が充分に小さくなるのを待ってから、次の質問をした。

「えーと、どこだっけ……うーん……すいません、後で聞いておきます」

「そっか、お願いね」

 もどかしさが込み上げてくるけど、どうしようもない。

 今すぐではないけど、手がかりとなる情報は得られる。

 愛里ちゃん次第だけど……。

「そういえば、水香さん? 次の出番って、明日ですよね?」

「うん、そうだね。どうかした?」

「いえ、私も明日が出番なんですよぉ。あっ! でも、友達の住んでる場所はこの後すぐに教えますね! メールでいいですかぁ?」

 もどかしさが薄れ、期待と不安が混じった感覚が湧き上がる。

 ゆっくりと髪をかき上げ、その感覚を噛みしめる。

「ええ、メールでお願い。ありがとう! 助かるわ!」

「いえいえ、何かお役に立てたみたいで良かったです! それじゃあ、お疲れ様でーす!」

「お疲れ~」

 定例の挨拶を交わして電話を切ると、携帯をおでこに当てて項垂れる。

……とりあえず、愛里ちゃんのメール待ち……。

 あの看板娘の事だから、すぐにメールが来ると思う。

 そして、おそらく……その内容は……。

 私の記憶と……。

「わっ!」

 突然のサスペンス調のメロディ。

 それを奏で出した携帯を落としてしまった。

 メールが届いたよう。

 そのままディスプレイを覗き込むと、愛里ちゃんからだと分かった。

「たいしたものね……」

 本当に仕事が速い。

 思わず息が漏れる。

 感心しながら携帯を拾うと、前髪を撫で付けて、メールを開いた。

……やっぱりね……そう……。

 愛里ちゃんの友達。

 〈噂〉の舞台となる〈SICマンション〉の近くに住む友達。

 その住所が記載されている。

 詳しい住所ではないけど、この情報だけで分かる。

……同じ、ね……。

 何となく、そうなんじゃないかと思っていたけど……。

 確信した。

 柴崎さんが言っていた〈噂〉は……。

 愛里ちゃんが教えてくれた〈噂〉は……。

 同じマンションの〈噂〉ということ。

 そして、柴崎さんが言い澱んだ〈噂〉は……。

 おそらく……。

……あの時……聞いた……。

 不快な感覚と共に甦る。

 耳の奥で響き出す。

 あの声……。

 妙なほど通りの良い……声……。

 その耳鳴りのように不快な声が発した言葉……。

 語った話……。

〈噂〉

 ちゃんと聞いていたわけじゃない。

 だけど、耳に残っていた……話の断片。

……SICマンションの噂……。

 あの時……。

 病院に行く時……。

 その時のタクシー。

 そのドライバーが話していた……。

……全部は聞いてなかった……全てを憶えてるわけじゃない、けど……。

 妙に声の通るタクシードライバーの顔が思い出される。

 バックミラーに映るニヤケ顔が、不快感を掻き立てる。

 不快な声で……。

 不快な〈噂〉が……。

 その〈噂〉の断片が思い出される。

……夫婦の話だけじゃない……。

 そう。

 この記憶は……この断片は……。

 〈SICマンションの噂〉は……。

「もう一つ、ある」

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