四日目

昼前

「ここ、ね」

 バスを降りると、髪をかき上げて、目の前に建ち並ぶ白地のマンション群を見上げた。

〈SICマンション・タイプWB〉

 道路の向こう側に聳え立つマンション群の名前。

 ここからでは、そのマンション群を横から見る形になる。

 正面からではないけれど、その姿を間近に見て、何か感慨深いモノが湧き上がる。

……やっと、スタート地点、ってところかな……。

 肩に掛けたツーウェイバッグから携帯を取り出すと、ディスプレイに表示されたデジタル時計を見る。

……十一時、四十二分……バスで三十分かぁ……。

 自宅から近くのバスターミナルまで、徒歩で約十五分。

 自宅から〈SICマンション・タイプWB〉までは、およそ四十五分かかることになる。

 郊外だから、妥当な所要時間かな。

「さてと」

 携帯をバッグに戻すと、近くの横断歩道に向かう。

……どのマンションだろう……兄さんの部屋があるのは……。

 道路向こうのマンション群を横目に、木々が生え並ぶ歩道を歩く。

 自然が残る住宅街。

 マンション側の歩道にも木々が植えられている。

……住みやすそうなんだけど……。

 後ろ髪を撫でつけ、空を見上げるが、生憎の曇り空。

 木々の緑が濃いせいもあり、視界が薄暗い。

 だけど、天気が良ければ、気持ちの良い散歩ができると思う。

……雨が降らなければいいんだけど……。

 低い確率だったけど、朝の天気予報で雨が降る可能性があることを言っていた。

 一応、備えはしてある。

 バッグの中にある折り畳み傘を思い浮かべ、使わないで済むように祈った。

……あれは、何号棟かな……。

 横断歩道の手前で立ち止まると、赤く点る直立不動のシルエットを一瞥し、目の前のマンションを眺める。

 そのマンションの奥に二棟、間隔を空けて左に一棟。

 ここからは、四棟のマンションが見ることができる。

 目の前のマンションとその左のマンションの間のスペース。

 木々の隙間から、車が数台停まっているのが見える。

 おそらく、駐車場があるんだと思う。

 〈SICマンション・タイプWB〉は、五棟からなるマンション群だから、あと一棟あるはず。

 この位置からは、他のマンションの影になって見ることができない。

 多分、左のマンション。

 その奥にあると思う。

……例の棟は……どれだろ……。

 アノ〈噂〉の現場となる棟。

 夫が妻を殺し、そのマンションのどこかに埋めた……と噂される棟。

 そして……もう一つ……。


『……の噂……知ってますかねぇ?』


 耳の奥で、アノ声が響き出す。


『……何ヶ月か前に……』


 不快な感覚を引き起こす声が…。


『……十三階の……』


 目を逸らしたくなるニヤケ顔が、脳裏に浮かぶ……。


『……エレベーターの……』


 あの時の体調を再現させられるように、気分が悪くなってくる。


『……変死というか、怪死……』


 マンションの〈噂〉が……。


『同じ棟で、以前にですねぇ……』


 そう。

 昨日、思い出した記憶の断片。

 あのタクシー内で聞いた話。

 憶えてる限りの話から推測すると……。

〈殺された妻が埋められているマンション〉

〈十三階で怪死者が出たマンション〉

 この二つの〈噂〉は……。

……同じマンション、同じ棟で起きた事……そして、もしかしたら……。

 首を強く振り、嫌な想像と不快な感覚を霧散させる。

「違う……」

 そう呟くと、額に手を当て、むりやり思考を切り替える。

……そうだ……まずは、管理棟を探さないと……。

 昨日、電話で聞いて知った。

 管理スタッフが常駐している、管理棟というものがあるらしい。

 そこのフロントに行けばいいみたいなんだけど……。

 管理スタッフとは、所謂、〈管理人さん〉のことだと思う。

……カワモトさん、だったよね……。

 その管理人の名字。

 私を兄の部屋に案内してくれるであろう人。

 事情説明に時間がかかったけど、最後は快く応じてくれたのが、好印象。

 電話から聞こえた声の感じからすると、六十代位かな。

 少し気の弱そうなお爺さんが想像させられた。

「あっ!」

 青信号が点滅しているのに気付くと、軽く息を吸い込み、早足で道路を横断した。

 道路に面して並立するマンション群。

 手前のマンションを見上げながら歩みを進める。

 白地の外壁に、複数の窓とベランダの柵がある。

 窓の数を縦一列に下から数えると、十五個あった。

 十五階建てということかな……。

 マンション全体を眺めるように、顔を下ろす。

 このマンションは一棟に二つの入り口があるよう。

 一番手前のマンションに差し掛かり、その入り口の一つを眺め、立ち止まる。

「5の、B……」

 髪をかき上げ、そう呟いた。

 ガラス製の扉に表示された記号。

 【B】があるということは、【A】もあるはず。

 二つある入り口を、【A】と【B】で分けているということかな。

 そうなると、5という数字は〈五号棟〉を表しているのかも。

……これが五号棟なら……隣は……。

 単純に考えれば、このマンションの隣は〈四号棟〉で、さらに隣が〈三号棟〉ということに……。

 そして、このマンションの向こう側にあるのが〈二号棟〉か、もしくは、〈一号棟〉、ってところかな。

……管理棟は……おそらく……。

 〈三号棟〉であろうマンションの奥に、現時点での目的地があると思う。

 ここから対角線上の位置にあることになる。

 マンション一棟の大きさと、駐車場と思われる空間を考えると、それなりの距離がある。

 自宅から近くのコンビニまでと同じくらいはあるはず。

……けっこうな広さ、ね……。

 髪をかき上げると、深く息を吐き、隣のマンションに向かって歩き出す。

 弱い風が吹き始め、髪が戦ぐ。

……やっぱり……Aだわ……。

 この〈五号棟〉のもう一つの入り口の前に立つと、頬が少し緩んだ。

 さっきのと同じ作りの扉。

 同じ位置に記された記号。

 一見しただけでは、違いは分からない。

 唯一の違いは、記号の一つが【B】ではなく【A】ということだけ。

 予想が当たり、少し嬉しい気持ちになる。

 嬉しい気持ちを仕舞うように前髪をパサパサと払うと、再び歩き出した。

……物置、かな……。

 〈五号棟〉を通過すると、物置のようなものがマンション側面に寄り添うように、いくつも並んで設置されていた。

 そして、屋根付きの駐輪所がそれらと並んで併設されている。

 〈四号棟〉と思われるマンションの方にも、同じものがこっちと対称的に備わっている。

……そういえば、反対側にも……。

 〈五号棟〉のこっち側とは逆の面にも、同じものがあった気がする。

 そうなると、この隣のマンションの反対側にも同じ設備があるのかもしれない。

 さらに、その設備に挟まれるように、車が一台通れるような通路があり、駐車場の方へ繋がっていた。

 その駐車場の奥に、〈一号棟〉と〈二号棟〉であろうマンションが見えた。

……管理棟、ではなさそうね……。

 やはり、管理棟は予想した位置にありそう。

 この位置からでは見ることはできないけど、何となく、一階建ての小さな建物が想像される。

……まずは、隣の棟を……。

 少し強くなった風が髪を横に流して乱れさせる。

 顔を背けるように俯くと、片手で後ろ髪を押さえながら、隣の棟の一つ目の入り口へ向かった。

……当たりね……。

 目の前の扉には、この入り口が〈四号棟〉の【B】であると表記されていた。

 こうなると、次の入り口は【A】ね。

 そして、この隣のマンションは〈三号棟〉ということになる。

……作りはみんな同じみたいね……。

 髪をかき上げ、マンションを見上げる。

 全ての棟が白地で、同じ設計。

 〈SICマンション・タイプWB〉には、変わり映えのしないマンションが五棟あるということ。

……あとは、管理棟ね……。

 軽い深呼吸をすると、〈三号棟〉と〈四号棟〉の間にあると思われる通路を目指し、歩みを進める。

 〈四号棟〉の【A】の入り口を一瞥し、管理棟を眺めることができる通路へ向かう。

「想像通り、ね」

 マンションの間にある通路に着くと、管理棟を望んで呟く。

 白地の小さい建物。

 一階建てで、一つの棟の一階層を四分の一にしたぐらいの大きさ。

 周りのマンションの子供みたい。

……うわっ? 何これ?

 ビル風というものなのかな。

 通路を歩き、駐車場の方に進んでいくほどに風が強くなる。

 歩みが鈍くなるような強い風。

 まるで、私を先に行かせないかのように、押してくる。

……やれやれ、ね……とりあえず、スカートじゃなくて良かった……。

 心の中で呆れと安堵が混じった溜め息をすると、バッグと乱れる髪を手で押さえ、管理棟へと向かった。

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