宵
「おぉ! いらっしゃいっ! 良く来たねぇ!」
開店から約三時間後。
厨房から出てきた店長がカウンター席に座ろうとする客を見て、歓迎の言葉を掛ける。
狐を連想させる、一重の細い目でひょろ長い体格のスーツ姿の男性。
柴崎さんだ。
レジ業務を終え、カウンターに戻ってきた私と目が合うと、柴崎さんは笑顔で手招きする。
「いやぁ、嬉しいよ! 水香ちゃんから、お呼びが掛かるなんて!」
テンション高めの言葉に営業スマイルで応えると、柴崎さんの向かいに立っている店長の横に並ぶ。
「で? 今日はどうしたの? 呼ばれなくても、今日は来るつもりだったけど!」
お酒を飲む前から、柴崎さんのテンションは最大値になっているよう。
……この調子なら、大丈夫かな……。
店長を一瞥すると、会釈をして、柴崎さんを笑顔で見据える。
「実は……教えてほしいことがあるんです」
「なになに?」
「SICマンションについてです」
真顔になって発した私の言葉に、柴崎さんは一瞬固まると、俯き視線を落とした。
テンションが一気に落ちたよう。
「えーと……アノ噂のことだよね?」
「そうです、教えてもらえませんか?」
俯いたままの柴崎さんの言葉に、身を乗り出して返す。
「……わかった。いいよ」
「ありがとうございます!」
柴崎さんに一礼すると、横に振り向き、店長の顔を見る。
「おお、ちょうど落ち着いてきた所だし、休憩入っていいよ! カウンターで賄い食べな!」
私と視線が合うと、店長は店内を見回し、そう言って柴崎さんの隣の席を指差した。
開店前に店長に頼んでおいた事。
これで全てが達成された。
「ありがとうございます! 休憩入ります!」
店長の気遣いと優しさに感謝すると、柴崎さんの隣の席に座った。
「えーと、この間、大下さんと来た時に言っていた噂のことなんですが、おそらく、私の兄が関係している……」
「……うん、それだよね」
柴崎さんは頭を掻いて、私を一瞥すると、カウンターに両手を組んで置いた。
「ちょうど、1ヶ月ぐらい前に聞いた話なんだけど――」
「はい! サービス! 飲みな!」
突然、店長が生ビールを柴崎さんの前に置き、カウンターに身を乗り出すようにこちらの様子を伺い出す。
どうやら、話の内容が気になるよう。
「あっ、すいません。いただきます」
柴崎さんは会釈して、ビールを一口飲むと、店長と私を交互に一瞥する。
「……それじゃあ、続きを……1ヶ月ぐらい前に、飲みの席で上司から聞いた話なんだけど。その上司が実家に帰った時に、親から聞いたみたいだね」
柴崎さんはジョッキを包み込むように両手を添えると、消えゆくビールの泡を見つめながら話を続けた。
「その親の話は……最近、自分の住むマンションに関する噂が広まっているということ……そのマンションが……」
「もしかして、SICマンション?」
私の言葉に柴崎さんは無言で頷くと、ビールを一口飲み、続きを話した。
「数ヶ月前、そのマンションの三号棟で変死者が出た。死因は心不全。そして、その変死者が出たのは、前に同じ三号棟で起きた、とある事件が関係している……という事らしい」
「……とある事件ですか?」
ここまでの話は私も知っている事。
その変死者は私の兄で間違いない。
そして、おそらく、柴崎さんの言う『とある事件』は……。
「……そう、事件……まぁ、胡散臭い話になっちゃうんだけど。前に、そのマンションで殺人事件があったとかなんとか……まぁ、ニュースでも見たことないし、本当にあったことなのかどうかわからないけどね。それで、その事件の犠牲者が怨霊になって、マンションを徘徊してるんだってさ」
「それで? その怨霊が人を殺したっていうのかい?」
店長がさらに身を乗り出し、野太い声で囁いた。
「そうみたいですね、上司の話では……」
店長と同じように柴崎さんは囁いて返すと、ビールを一気に飲み干した。
「本当に胡散臭い話だねぇ。どんな怨霊が出るんだい?」
腕を組み、溜め息混じりに店長が質問する。
「女性みたいですね。その三号棟に、ある夫婦が住んでいたんですが、その夫が妻を殺したそうですね。そして、そのマンションの何処かに遺体を埋めたそうです」
「なるほどねぇ、ありきたりな怪談話だねぇ、ははははは!」
店長はそう言うと、突き出た腹を揺らして笑う。
「そうそう、その妻の怨霊は、真夜中にマンションの階段を徘徊しているそうですよ。まさに怪談話ですね! ははははは!」
そう言って、柴崎さんは店長と顔を突き合わせて笑った。
……怪談話、ね……。
結局、私の知っている内容だった。
〈十三階の怪死者〉
〈徘徊する妻の怨霊〉
それぞれの〈噂〉のタイトルはこれで決定かな……。
私が知りたいのは、これらの〈噂〉の真相。
〈噂〉は所詮、〈噂〉……。
だけど……。
……兄さんは、十三階で死んでいた……心不全で……。
そう。
SICマンションの住人による話だから、信憑性も高い。
柴崎さんもそれに気付いて、前回は言葉を濁したのだろう。
実際に〈十三階の怪死者〉は真実。
それじゃあ、〈徘徊する妻の怨霊〉は?
真実?
ただの怪談?
……あれ? ……そういえば……。
先程の柴崎さんの言葉を思い出す。
『真夜中にマンションの階段を徘徊している』
階段を徘徊。
これは新しい情報かも。
「あの、その妻の怨霊ですけど……実際に見た人はいるんですか?」
後ろ髪を撫でつけ、柴崎さんを見据える。
「いるみたいだね。見た人の話によると、真夜中に白い服装の髪の長い女が、階段を上ったり下りたりしているそうだね」
すっかりテンションが戻った柴崎さんは、明るい声で返してくる。
……なるほどね……その女が怨霊なのかどうか……。
私の頭に閃くモノがあった。
〈篠美〉
階段を徘徊するその怨霊。
白い服装の髪の長い女。
それは、〈篠美〉のことなのではないだろうか。
〈徘徊する妻の怨霊〉は、明らかに怪談話。
元になったのは、愛里ちゃんが言っていた泥棒事件。
おそらく、その〈噂〉が怪談話として変化したのかもしれない。
そして、〈篠美〉の登場と、兄の死。
それが要因となって、〈十三階の怪死者〉と〈徘徊する妻の怨霊〉が関連付けられたのかもしれない。
だけど……。
……兄さんの死因は……。
心不全。
〈篠美〉に殺されたわけではない。
じゃあ、怨霊に殺された?
呪い殺されたとか?
そんな事があるのだろうか?
いや、薬や毒で心不全を引き起こすことは可能かもしれない。
そうなると、殺人?
それなら、警察が捜査しているのでは?
警察をうまく欺いたとか?
〈篠美〉にそんなことができるのだろうか?
一体……。
「水香ちゃん! お兄さんの家は分かったの?」
額に手を当てて考え込んでいると、柴崎さんが二杯目のビールを一気に飲み干して、陽気に声を掛けてきた。
「え? ああ、はい」
「何だい? 水香ちゃん、お兄さんの家を知らなかったのかい?」
そう言って、店長が料理を私の前に置いた。
この赤々とした料理は……。
おそらく、今日のオススメの【キムチ煮】、ね……。
具は……葱、にんにくの芽、豚バラ肉。
そして、白胡麻を散らしている。
おそらく、葱キムチをベースに、にんにくの芽と、豚バラ肉を煮込んだ料理。
これは想像以上に……。
……美味しそう。
白いご飯と一緒に食べるのが良さそう。
「住民票は? それで調べられないのかい?」
私が料理に見とれていると、店長が質問を続けた。
「え? あの、住民票では調べることは出来ないんですよ。本籍も現住所も実家のままだったみたいで……免許証の住所も、年金の通知書とかも実家に届いてましたし……けれど――」
「そうかい。それじゃあ、葬儀とか細かい手続きとか大変だったんじゃないかい?」
私の言葉を最後まで聞かずに、店長は胸の前で腕を組み、貫録ありげに質問を続ける。
「ええ。まぁ、でも、その辺は親戚の叔母さんが手伝ってくれたので……」
「そうかい、それで」
「店長ぉ! せっかくの賄いが冷めちゃいますよぉ!」
唇を尖らせた愛里ちゃんが店長の質問攻めを制し、私の前に茶碗と、お箸、そして、蓮華を置いた。
その茶碗には程よく白いご飯が盛られ、炊き立てのような湯気が立っている。
「おおっと! すまんすまん! 食事の邪魔はしちゃいけないな。後でそれの感想を聞かせてくれ!」
店長は賄いを指差し、そう言うと、厨房に入っていった。
「ありがと! 愛里ちゃん!」
「どういたしまして~!」
お礼を言うと、愛里ちゃんは笑顔で答えて、ホールに戻っていった。
……やっぱり、良いコよね……。
感心しながら右手で箸を取り、蓮華を左手で持つ。
「いただきます!」
そう言って、【キムチ煮】に箸を伸ばした時。
「そういえばぁ、お兄さんは2ヶ月前に亡くなったんだよねぇ?」
赤ら顔の柴崎さんが陽気に質問してきた。
お酒に強くないとはいえ、大した時間も経っていないはずだけど……。
どうやら、良い感じに酔っぱらってきてるみたい。
ニヤケ顔で随分と楽しそうにビールを飲んでいる。
何杯目だろうか、今日はかなりペースが速いよう。
「この間、四十九日を終えたんですけど……どうかしたんですか?」
箸を止め、顔だけ向けて、柴崎さんの質問に答える。
「いやぁね。それだけ経ってるならぁ、家が残ってるものなのかなぁ、と思ってねぇ……分譲でしょぉ?」
柴崎さんの言葉に、ハッとした。
そういえばそうだ。
SICマンション・タイプWBは分譲賃貸マンションだったはず。
分譲であれば、誰かが相続しなければならないはず。
そうなると、その辺の話があった時にマンションの事も出てきたはずなのだけど……。
……マンションの話はなかった……。
それじゃあ、賃貸だったのかな。
だとすると、今でも家賃が払われていることになる。
引き落としなのかな。
どちらにしても、私には分からない事。
分かっている事は、今でも兄の家が、兄の家として残っていること。
……あれ、違う……もしかしたら……。
思い返していると、頭を過るモノがあった。
賃貸だった場合、誰かが代わりに家賃を払っている可能性もある。
〈篠美〉
そう。
〈篠美〉が家賃を払っているのかも……。
それか、写真に写っていた彼女。
出来れば、写真の彼女であってほしいのだけど……。
そうではない気がする……直感的に……。
分譲だった場合も、賃貸の場合と同様の事が考えられる。
……要するに、兄さんは……。
居候だった。
その可能性があるのかも。
「水香さん? 大丈夫ですかぁ? 熱かったんですかぁ? 火傷しちゃいましたぁ?」
愛里ちゃんがカウンターに身を乗り出し、心配そうな声を掛けてきた。
どうやら、箸と蓮華を持ったまま、【キムチ煮】を見つめて考え込んでいたよう。
横を向くと、柴崎さんも私の回答をそっちのけで、店長と楽しげに話している。
「いや、大丈夫大丈夫。これから食べるところ、ごめんね、急いで食べるから」
そう言って、急いで賄いに向き直り、食べ始める。
「熱っ!」
かなり熱い。
煮込んでるから当たり前、ね……。
「大丈夫ですかぁ?! 急がなくても大丈夫ですよぉ、ゆっくり食べてください」
そう言って、愛里ちゃんはおしぼりを差出してきた。
「ありがとっ!」
「どういたしまして~!」
おしぼりを受け取り、笑顔でお礼を言うと、愛里ちゃんも笑顔で返してきた。
……本当に良いコ……出来たコ、ね……。
心の中で深々と感心すると、慎重に【キムチ煮】を食べ始めた。
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