夜半前

「おつかれさまでーす!」

 店先で愛里ちゃんと別れると、家に向かって歩き出す。

 今日は自転車ではなく、徒歩での帰宅。

 マンションからそのままバイトに来たため、自転車は自宅に置いてある。

……歩くと結構、距離があるのよね……。

 バイト先から家までは自転車で十分前後。

 歩きだと、その倍はかかる。

……やっぱり、自転車だけでも取りに帰ればよかった、かな……。

 街灯が点々と灯る、人通りのなくなった路地。

 普段なら、自転車で颯爽と通り過ぎる道。

 その静寂で暗い風景を横目に不安を覚える。

……そういえば……一昨日は途中まで愛里ちゃんと一緒だったんだよね……。

 一人で歩いて帰っていることに、心許なさを感じる。

 同時に、自転車の心強さを改めて認識した。

……仕方ない、かな……。

 溜め息を吐いて、髪をかき上げると、空を見上げた。

……綺麗な満月……いや、ほんのちょっと欠けてる、かな……。

 それでも、今夜の月は中秋の名月だったはず。

 そして、日中の天気が嘘のように、空には雲がない。

 おかげさまで、名月を拝むことができる。

 そのせいか、私の心が少しばかり和むよう。

……そういえば、あの手紙に……。

 肩に掛けたツーウェイバッグを一瞥すると、大きく息を吸い込む。

 そして、〈篠美〉の手紙に書かれていたことを思い出す。


【三日後が満月ですから】


 単純に考えると、兄が死んでからの満月の日を調べることが出来れば、その三日前が件の手紙が投函された日ということになる。

 これで、〈篠美〉があのマンションに訪れていた日がわかるかも……。

……帰ったら調べよう……それと、携帯……。

 そう。

 私のバッグの中にある携帯。

 バッテリーの切れた、兄の携帯。

 だけど、確認したわけじゃない。

 もしかしたら、兄の携帯じゃないかもしれない。

 それでも、調べる価値は充分にある。

……携帯に、写真の彼女や、篠美の情報があるかもしれないしね……。

 さらに、バッグの中には、封の切っていない青い封筒が何通か残っている。

 それらも調べれば、何かが分かるかもしれない。

「あっ……」

 ふと、頭を過るモノがあった。

……あの部屋……本当に……兄さんの家、なのかな……。

 柴崎さんが言っていたこと。

 私の憶測。

 賃貸なのか。

 分譲なのか。

 ただ居候していただけなのか。

 それとも……。

……他に何かあるかな……。

 居候だったのなら、話は簡単。

 兄自身の家はないという事……。

 賃貸なら、家賃を無駄に払い続けている可能性もある。

 この場合、マンション側から、こちらに何か報告があってもいいと思うのだけれど……。

……分譲だとしたら……。

 分譲ということは、持ち家ということになる。

 借り物ではなく、兄の物。

 兄が死んだとなると、やはり、相続等の話の時に絡んできたと思うのだけれど……。

……カナコ叔母さんに任せっきりだったから、ね……。

 そう。

 五年前に他界した母の妹。

〈橘哉子〉

 まだ三十代だというのに、市内で会社を経営しているキャリアウーマンで、私が尊敬する人物の一人。

 物心ついた頃には、すでにお世話になっていて、何かと手助けをしてくれる。

 兄が死んだ時は、葬儀や色々な手続き等を叔母さんが一手に引き受けてくれた。

 そのおかげで、大した負担もなく色々と乗り越えられたと言っても過言ではない。

……まぁ……最近、風邪を引いてしまったけど、ね……。

 苦笑して前髪を指で払うと、バッグから自分の携帯を取り出す。

……夜中だけど、大丈夫よね……。

 日付が変わりそうな時間帯。

 土曜日のこの時間帯でも、おそらく、叔母さんは仕事をしていると思う。

 一つ息を吐くと、携帯のアドレス帳から叔母さんの番号を呼び出し、コールする。

……哉子叔母さんなら、何か知ってるかも……。

 月明かりに照らされた夜道。

 静まり返った住宅街。

 電話の呼び出し音だけが、耳の奥で響いている。

「……珍しいわね、電話を掛けてくるなんて……どうかしたの?」

 八回目のコールで電話が繋がった。

 凛として聞き取りやすく、大人の色香を感じさせる声色。

 その叔母さんの声を聴き、どこか安心感を覚える。

……声を聴くのは、久し振り、かな……。

 叔母さんと連絡を取る時は、ほとんどメール。

 最後にメールをしたのは三日前。

 病院に行く時。

 直接に会ったのは、約2ヶ月前。

 兄の葬儀の時。

「あの……兄さんのことなんだけど……」

「兄さんって……勇也?」

 叔母さんの言葉に、髪をかき上げ、一呼吸置いて答える。

「……そう……その、兄さんが住んでた家のことなんだけど……」

「勇也が住んでた家? ……マンションのこと?」

「そう! それっ!」

 思わず大きな声を出してしまった。

 周囲を見回し、誰もいない事を確認すると、軽く溜め息をついた。

「……どうしたの? マンションがどうかしたの?」

「あ、えーとね……あれ? そういえば、哉子叔母さん?」

「ん? なに?」

 ふと、疑問が浮かんだ。

 どうして、兄の家がマンションだと知っているのだろう。

 やっぱり、何か知っているのだろうか。

 ただ単に、兄から聞いていただけかもしれない

 どちらにしても、確認してみよう。

「兄さんの家がマンションだってこと、知ってたの?」

「ん? 知ってるも何も、私が勇也に貸していた部屋だからね」

「えっ?!」

 またまた大きな声を出してしまった。

 思いがけない事実。

 居候でも、賃貸でも、分譲でもなかった。

 いや、賃貸であったかもしれないけど……。

 あの部屋は叔母さんの家。

「哉子叔母さんの家ってことだよね?」

「うーん、まぁ、名義は私だし、正確に言えばそうなるけど……だけど、あのマンションの部屋。もともとはミズノ姉さんのために買ったモノだから、私が住むためではないわ」

 〈ミズノ〉とは他界した母の名前。

 〈水乃〉と書き、私の名前はこの母の名前から一文字取って付けられている。

 その母のために叔母さんが買ったマンション。

 いつ頃、買ったモノなのかな。

「そのマンションの部屋は、何年前に買ったの?」

 髪を撫で付けて、叔母さんの返答を待つ。

「うーん、何年前だろぉ……水乃姉さんが離婚して、すぐにだったから……十年ぐらい前じゃないかなぁ」

 母が離婚して、すぐに……。

 そうなると、十一年前になる。

 両親が離婚した日を忘れる事はない。

 私の十四歳の誕生日から、一週間と一日経った日。

 誕生月の翌月の初め。

 その日に、両親は離婚した。

 あの時は何が何だかわからず、ふさぎ込んでいる時期があったけど……。

 その時も、叔母さんは私の助けになってくれた。

 兄が死んだ時といい、何だかんだで叔母さんに助けられているよう。

……もっと……しっかりしないと、ね……。

 一つ頷き、軽く息を吸い込んだ。

「じゃあ、兄さんはいつからその部屋に?」

 考えられるのは、母が死んでから。

 兄が実家を出たのが十年前だから、それから母と一緒に暮らしていたと考えることもできる。

「いつぐらいからかなぁ。一年近く、水乃姉さんと一緒に暮らしていたと思うから……六年ぐらい前かなぁ」

 兄は六年ぐらい前からあのマンションに住んでいる。

 一年程、母と一緒に暮らしていたということになる。

……なるほど、ね…………あれ?

 肝心な事を確かめていないことに気付いた。

 叔母さんはマンションと言っているけど……。

 〈SICマンション〉のことだろうか?

 念には念を入れないと。

「あの、哉子叔母さん? マンションの名称なんだけど、SICマンションだよね?」

「え? ……んーと……確か、そんな感じだったと思うけど……」

「タイプWBだよね?」

「タイプ? ……そうだったかなぁ、覚えてないなぁ。ところで、そのマンションがどうかしたの?」

「あ、っとね。その兄さんの家に行ったんだけど、ちょっと気になる事があってね……」

 叔母さんの突然の返しに、少しばかり動揺してしまう。

 話すべきかどうか……。

 もしかしたら、写真の彼女や〈篠美〉の事を知っているかもしれない。

「気になる事って?」

「……うん、あのね。兄さんに彼女がいたみたいなんだけど、知ってる?」

「勇也の彼女? ……知らないわねぇ、彼女がいたんだ?」

「うん、そうみたいなんだけど……じゃあ、篠美って名前に聞き覚えはある?」

「しのみ? んー、ないかなぁ。彼女の名前なの?」

 どうやら、叔母さんは知らないみたい。

 隠しているわけでもなさそう。

 そもそも、隠す必要はないのだろうけど……。

「彼女の名前かどうかわからないんだけど、ちょっとね……」

「そぉ……あのマンションには水乃姉さんが死んで以来、一度も行ってないからねぇ。勇也があの部屋で、どんな生活を送っていたかはわからないわ。交友関係もね」

 私の心を読み取ったかのように、叔母さんが答える。

 要するに、叔母さんは兄さんについては何も分からないという事。

「そうなんだ、わかった。ありがとう、それじゃあ――」

 意気消沈して、電話を切ろうとした時。

「あっ! 水香っ! せっかくだから、後で会おうか? 四十九日の時は会えなかったからね。それに、家に帰ればマンションに関しての書類があったと思うから、何か調べることができるかもしれないしね」

 叔母さんの言葉に、嬉しさが込み上げてくる。

 これは願ってもない展開。

 正直、一人で家に居たくなかった。

 また、叔母さんに助けてもらうことになってしまうけど……。

 〈篠美〉のことを考えると、それどころではない。

「ありがとう! じゃあ、どうしたらいい?」

「そうねぇ。あともう少しで仕事を切り上げられるから、それから水香の家に行くわ。遅くなると思うけど、いい?」

「大丈夫! 私も調べたいことがあるから、起きて待ってる!」

 心なしか、テンションが高くなっている。

 気持ちが明るく軽くなったよう。

……この際、哉子叔母さんが家に来たら、全てを話そう……。

 そして、協力してもらった方が良さそうね。

「じゃあ、また後で連絡するわ」

 そう言って、叔母さんは通話を切った。

 同時に、辺りが静寂に包まれる。

……あ、ここは……。

 いつの間にか、T字路に突き当たっていた。

 人の気配がない、暗い住宅街。

 一昨日、愛里ちゃんと別れたT字路。

 携帯をバッグにしまい、左側の路地を何気に眺める。

 その日、愛里ちゃんが小走りで入っていった暗い路地。

 私の家とは反対方向の路地。

 街灯が一つしかない、とても暗い道。

 暗闇が大半を占める風景。

 見ているだけで、気分が落ちてくる。

 愛里ちゃんはこの道を一人で……。

……あれ?

 何だろう。

 違和感を覚える。

 何かに気付いた。

 一つだけある街灯。

 その陰に……。

……誰か、いる?

 嫌な考えが頭を過り、心臓が強く弾んだ。

 恐怖心が一気に膨れ上がる。

 全身に寒気が走り、鼓動が速くなる。

……篠美がいる?!

 街灯を凝視しながら、震え出した手を必死に制御して、バッグのサイドポケットをまさぐる。

……ない……スプレーが……嘘……そうだった……どうしよう……。

 目当てのモノが入ってないことに気付いた。

 マンションのあの部屋に落としてきたことを思い出し、愕然とした。

……どうしよう……逃げないと……。

 そう思い立つと同時に、震える脚に力を籠め、地を蹴り、走り出した。

 自宅のある方向に。

 道の先に見えるコンビニの明かりを目指して……。

……追いかけてくる? ……追いかけてきてる?! ……追いかけてきてる!!

 振り返る事ができない。

 そんな余裕はない。

 ただ、足音が……。

 走る音が……。

 私以外のモノが……。

 静寂に包まれた住宅街に走る音が谺する。

……逃げなきゃ……怖い……殺される……私が何をしたっていうの?!

 肩に掛けたバッグが邪魔になり、走るリズムが狂う。

 呼吸が乱れる。

 胸が苦しい。

 息が切れ、自分の荒れた息遣いに、不安を覚える。

 さっきまでの明るい気持ちが一変して、ただ恐怖だけが、心を支配していた。

……もう少し、もう少しで……。

 道の先にコンビニが見えた。

 そこまで、あと少し……。

 苦しさを堪え、走る速度を緩めずに救いの明かりを目指した。

……あれ? ……もしかして……。

 少し大きな通りに出て、コンビニを目前に、気付いた。

 足音が……。

 追いかけてくる足音が止んでいる。

……あきらめた、の?

 コンビニの入り口を前に立ち止まり、思い切って振り向いた。

「……いない」

 誰もいなかった。

 見渡してみても、暗い路地が続くだけで、誰も何もいない。

 何処にいったのだろう。

 私を追いかけていたのは、誰?

 気のせいだったのかな……。

……誰もいないよね……。

 胸で息をしながら、辺りを注意深く見回す。

 警戒しながら何度も深呼吸を繰り返し、呼吸を整える。

……さて、どうしよう……。

 明かりのある場所に来たからなのか。

 追跡者がいなくなったからなのか。

 少し心が落ち着いてきたよう。

 コンビニ店内を一瞥すると、店員がレジの前で欠伸をしているのが見えた。

……このまま……帰ろう、かな……。

 ここから家までは、歩いても二分ぐらい。

 コンビニに入って、無為に時間を経過させるのは良くない、かな。

 追跡者が見当たらないこの時に、家に帰った方がいいのかも……。

 それに、家に帰って、叔母さんを待っていた方が安全。

 場合によっては、警察を呼ぶのもいいかもしれない。

……そうね、よし!

 心の中で気合をいれると、バッグを掛け直す。

 そして、深呼吸をして髪をかき上げると、家に向かって走り出した。

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