昼過ぎ-1

「うぁ……」

 思わず、呻いてしまった。

 ドアを開けた瞬間。

 中の空気が一気に流れ出て、私に纏わりつく。

 このマンションに入った時とはまた別の……。

 本当に澱んだ空気。

 本当に閉め切っていた部屋の空気。

……だけど、何だろ……。

 既視感? 兄さんの部屋だから?

 感じたことがあるような空気が……。

 いや、違う。

 これは……匂い。

 この匂いを嗅いだことが……。

……あの……匂いだ……。

 そう。

 思い出した。

 ちょっと前に流行ったオードトワレ。

 時折、私の家に充満していた香気。

 それと同じ……。

……そうなると、もしかして……。

 ホールより暗い玄関。

 おそらく、ドアを閉めたら真っ暗になると思う。

 その明かりが乏しい中であっても、謎に迫っていってるような期待感が高まり出す。

 間違いなく、兄のプライバシーに踏み込み始めている。

 その実感と好奇心が、どこか気持ちいい。

……見せ場ってやつね……。

 片手でドアを開けたまま、ホールのぼんやりとした明かりを頼りに玄関を見回した。

……やっぱり、ね……。

 目当てのモノを見つけ、思わず、ほくそ笑む。

 半畳ほどの暗い玄関。

 左側には靴箱と思われる棚があり、箱型で高さは私の胸のあたりぐらい。

 右側は壁で電気のスイッチと思われるものが二つあった。

 そして、足元に予想していたモノがあった。

 二足の靴。

 一つは革靴。

 仕事用の靴だろうか。

 そして、もう一つは……。

……ヒール……女性の……。

 明らかに女性用の靴。

 二足の靴は並んで置かれ、履きやすいように、綺麗に揃えられている。

……一緒に、暮らしてたの?

 兄と親しい女性。

 亡くなる前に、何度か実家に連れてきていたと思われる女性。

 玄関に……家中に漂っているであろう香りの主。

……でも……。

 薄暗い玄関を前に、足でドアを押さえたまま、髪を撫で付ける。

……今、何処に……。

 兄に親しい女性がいたことは分かった。

 彼女で間違いないと思う。

 だけど、疑問があった。

 その女性は何処にいるのか。

 この家に住んでいるわけではないのだろうか。

 兄の葬儀には来たのだろうか。

 そもそも、兄が死んだことは知っているのだろうか。

 すでに、兄との関係は終わっていたのだろうか。

……だけど……。

 そう。

 この漂う香気。

 玄関に置かれた靴。

 それらが示すのは……。

……まぁ……ここで考えてても、ね……とりあえず、中に……。

 靴箱に黒い鞄を置くと、足元のダンボールを持ち上げ、玄関の中に入れた。

「あっ!」

 一瞬で辺りが真っ暗になった。

 ダンボールを玄関マットの上に置いた時、ドアが閉じてしまった。

……暗ぃ……失敗……。

 何も見えない暗闇。

 後悔を胸の奥に追いやり、両手を前に出して、ゆっくりと右方向に動かす。

……確か、この辺りに……。

 手が壁に着くと、そのまま這わせるように、電気のスイッチを探した。

「あ、あった」

 手にプラスチックと思われるモノが当たり、それを手探る。

 長方形のプレートに二つの突起物のようなものが、上下に間隔を置いて備わっている。

 これは間違いなくスイッチ。

 その上側のスイッチを押してみる。


パチッ!


 弾けるような乾いた音と共に、玄関が白い光で照らされた。

……良かった……電気、通ってた……。

 安堵の溜め息を吐きつつ、髪をかき上げた。

 明るくなったことで、改めて玄関の様子が見て取れる。

 靴箱の上には、先ほど置いた黒い鞄。

 その横にピンク色の布のようなものが敷かれ、その上に水晶のようなものが置かれている。

 足元には二足の男女の靴。

 新品のように磨かれ、黒光りする革靴。

 その革靴と対称的に、少しくたびれた感がある白いハイヒール。

 長方形でベージュの玄関マットの上には、紙が大量に入ったダンボール。

 玄関の目の前にはクローゼットと思われる引き戸がある。

 そして、その引き戸の右隣と、右側の壁が途切れて奥まっている箇所。

 そこにドアがあった。

 左側には先へ進めそうな空間があり、おそらく、廊下があるんだと思う。

……それにしても……暗い……。

 そう。

 全体的に暗すぎる。

 明かりを点けたとはいえ、玄関周りしか見渡すことができない。

 身を乗り出して、廊下の先を見ようとしても、そこに何があるのか判別できない。

 外の天気は悪いとはいえ、今は昼時。

 少しでも明かりが入ってきてもいいと思うんだけど……。

 部屋中を閉め切っているのかな。

 故意に光をシャットアウトしている……。

 そんな感じがする。

……兄さんは……暗い所が好きだったのかなぁ……。

 靴箱に置いた鞄を取ると、ショートブーツを脱いで玄関を上がった。

……フローリングじゃないんだ……さてと、とりあえず……どうしよう……。

 アイボリーの絨毯の床に佇み、暗い廊下を眺め、前髪をパサパサと払う。

 目的地に到着したのはいいけど、何をするべきか戸惑ってしまう。

 調べたいことはたくさんある。

 だけども、具体的に何を調べるのか。

……まずは、明かりを……。

 やっぱり、暗いのは色々と不便。

 何より、嫌な感覚を呼び覚ます。

 思えば、このマンションに入ってから、常に暗い所にいる感じがする。

 〈噂〉の事もあるせいか、どこか精神的にも暗い感じになってきている気がする。

……廊下のだといいんだけど……。

 玄関の壁にあるスイッチ。

 下側のスイッチを押してみる。


パチンっ!


 スイッチが入ると、廊下に明かりが灯る。

 エレベーターホールと同じ、ぼんやりとしたオレンジ色で……。

……やれやれ、ね……もっと、明るくならないのかな……。

 溜め息を吐き、肩を落とす。

 玄関のような白色灯であれば、見た目にも気分的にも明るい感じに見える。

 だけど、この明かりは……心許ない……。

 エレベーターホールと同じ電球を使っているのだろうか。

 洒落た飲食店などで、ムード演出のために良く使われている類。

 もし、この家の照明、その全てに、この電球が使われているのだとしたら……。

 ムードがあるとかないとか以前の問題。

 趣味が悪すぎる。

 考えただけで、暗い気分になってくる。

 そうなると、玄関の明かりが白色灯だったのは、唯一の救い。

……兄さんに……そんな趣味がないことを祈りたい……。

 一つ溜息を吐くと、廊下を歩き出す。

……このドアは……トイレ、かな……。

 廊下の突き当たりにドアがある。

 右側は壁が続き、左側にはドア、隣に引き戸、そして、またドアと並んで備わっている。

 位置的と並びの間隔からいって、手前のドアはトイレのものだと思われる。

 それを理由付けるかのように、そのドアの横にはスイッチが上下に並んで二つあり、下のスイッチの表面に【換気】と記されている。

……これは、クローゼット? ……いや、物置かな……じゃあ、このドアは?

 トイレを通り過ぎ、引き戸を横目に、その隣のドアの前で立ち止まる。

 トイレがあり、玄関近くの二つのドアの先は、おそらく、部屋がある。

 この家の造りから考えて、廊下の突き当りにあるドアの先はリビング。

 そうなると、このドアの先は……。

……洗面所……お風呂……かな……。

 答えが気になる。

 髪をかき上げると、レバー式のドアノブを掴み、手前に引き開けた。

 ドアが開かれると、鼻の奥にまとわりついているオードトワレの匂いとは別に、柔軟剤のような香りが漂い出した。

……正解、ね……。

 廊下の淡い光に照らされ、薄暗いけど内部が窺える。

 部屋の右側には大きな鏡が備わった洗面台があり、正面には洗濯機が設置されている。

 左側には磨りガラスのドアがあり、その中は浴室と思われる。

……リビングは……どんな感じかな……。

 洗面所のドアを閉め、廊下を先に進む。

 突き当りのドアの前に着き、ドアノブに手を掛けた時、気付いた。

……この中も……暗い……。

 ドアの中央には細長い長方形のガラスが組み込まれている。

 そのガラス部分から中を見ることが出来ると思ったのだけど……。

 黒いフィルターをかけたように、真っ暗でほとんど見えない。

 何かのシルエットがかろうじてわかる程度。

……何で……こんなに、暗くする必要があるの……。

 カーテンを閉めていたとしても、少しは明かりが漏れるはず。

 もしかしたら、この家には窓というものがないのだろうか。

 日中だというのに、真夜中なのではないかと錯覚させられる。

 執拗な暗闇に、不安と恐怖が、心に芽生え始める。

……電気は、点くよね……。

 大きく息を吸い込むと、ドアを押し開ける。

「ぅぅっ」

 息が詰まり、反射的に左手で鼻と口を覆う。

 空気の密度が変わり、この家に漂うオードトワレの香りが一層際立っていた。

……香水、付け過ぎ……。

 心の中で溜め息を吐くと、覆った左手をそのままに、呼吸を浅くする。

……窓は? 空気を、入れ換えたい……。

 廊下の明かりがかろうじて届き、中の様子がなんとなく分かる。

 正面は広い空間があり、おそらくリビング……もしかしたら、ダイニングも兼ねていると思う。

 窓があると思われる正面の壁には……。

 やっぱり、暗いせいで、正確な判別ができない。

……電気のスイッチは……。

 上半身だけを部屋の中に入れるように、ドア横の壁を覗き込む。

 そこに、お目当てのスイッチがあった。

 例の如く、上下に二つ並んで備わっている。

……これかな……。

 上のスイッチを押してみる。


パチンっ!


 部屋中にスイッチを入れる音が響き、数回の明滅の後、白色の明かりが灯った。

 真っ暗な部屋が明るくはなったけど、部屋の左側がまだ薄暗い。

……もう一つ……。

 下のスイッチを押す。


パチっ!


 部屋の半分がオレンジ色に照らされ、部屋中が明るくなった。

 鞄と肩に掛けていたバッグを床に置き、部屋の中に入ると、ドアを開けたまま足早に奥に進む。

 位置的に、目の前の壁の向こう側にはベランダがあるはず。

 ベージュのカーテンが閉められていて、それを捲れば窓があるはず。

……これ……遮光カーテンだ……。

 開けようと、カーテンを掴んだ時に気付いた。

 私の家でも使っているカーテン。

 それを二重……違う、三重に使用している。

 これじゃあ、陽の光が入ってこないのも頷ける。

……早く、換気を……。

 気が緩んだのか、強さを増してくる香りに眩暈を覚え出す。

 不安のせいか、眩暈のせいか、焦燥感に駆られ、カーテンを勢いよく引っ張る。

 しかし、何かに引っかかっているのか、ビクとも動かない。

「もうっ! 何で……」

 口と鼻を覆っていた左手をおでこに移し当て、軽く溜め息を吐く。

 不快なほど濃い香気に顔を歪めながらも、大きく息を吸い込むと、カーテンの内側に潜り込んだ。

……眩しぃ……。

 外は曇り空だけど、それなりに明るかった。

 一瞬、目が眩み、片目を瞑って窓ガラスに手を付く。

 大きな窓。

 ドア窓というモノかな。

 この窓を開ければ、ベランダに出ることが出来るよう。

……何もない……。

 窓越しにベランダを見渡すが、何もない。

 物干し竿の類や、サンダル等、ベランダにありそうなモノすらない。

 コンクリートのベランダは閑散としていた。

……この窓……開く、よね……。

 空を見上げ、祈る思いで窓のクレセント錠を外す。

「良かった……」

 安堵の溜め息を吐くと、一呼吸置いて窓を開けた。

 新鮮な空気が部屋の中に流れ込む。

 風が強いせいもあり、遮光カーテンがバタバタとはためいている。

……とりあえず、このままで……。

 カーテンから出ると、部屋の中を見回す。

 幸い、風で飛んでしまったものはなさそう。

 部屋に充満した香りは消えていないけど、薄れているのは確実。

……もう、支障はない、かな……。

 心の中でホッとすると、改めて部屋を眺めた。

……リビングと……ダイニング……だよね……。

 天井には二つの照明が備わっている。

 部屋の右側の天井には、シーリングライト。

 左側の天井には、ペンダントライト。

 ドア横のスイッチは、それぞれの照明に対応していた。

 そして、シーリングライトの白色灯で照らされた空間は、おそらく、リビング。

 広めの空間で、そこにはベージュの二人掛けソファがあり、向かい合うように薄型テレビが壁側に設置され、その間には木製のセンターテーブルが置かれている。

 テレビの左側にはミニコンポや小物類が置かれたラックがあり、反対側には本棚がある。

 本棚の横にはパソコンとプリンターが置かれたデスクがあり、回転式の椅子があった。

……あれは……襖……?

 パソコンが置かれたデスクの横。

 窓の正面に位置する壁に、襖と思われる扉があった。

 その先に部屋があるのかな。

 それとも、収納スペースだろうか。

……和室? ……押入れ……?

 その部屋の内部を想像しながら、天井のペンダントライトを見上げた。

 そのオレンジ色に照らすペンダントライトの下は、ダイニング、だと思う。

 木目のダイニングテーブルと二客の椅子。

 壁側には細めの食器棚。

 キッチンとダイニングを仕切るように壁があり、その一部がくり抜かれ、カウンターキッチンのようになっている。

 部屋のドアの横には抽斗の付いた電話台があり、その上にはファクシミリが置かれていた。

……あの受話器は……。

 電話台の上の方。

 壁に、白い受話器が設置されていた。

……インターホン、かな……。

 ふと、このマンションの入り口が思い出された。

 オートロックの扉。

 暗く重苦しい雰囲気。

 不快な感覚が心に広がり出す。

……悪趣味な、マンション……。

 やっぱり、このマンションには良いイメージを抱けない。

 首を振って不快な想像を払い、後ろに振り向いた。

 カーテンが不規則にはためき、その度に新鮮な空気が室内を循環する。

 先程、開けた窓はリビング側のモノ。

 ダイニング側にも、窓があるようで、同じく遮光カーテンで覆われている。

 カーテンの大きさから察するに、一般的な窓のよう。

……とりあえずは……。

 部屋のドアの方に戻り、その近くに置いた黒い鞄と私のバッグを、片手に一つずつ拾い上げる。

 前髪に息を吹き掛けながらダイニングに向かうと、両手の荷物をテーブルの上に置き、椅子に腰掛けた。

「ふぅ」

 テーブルに肘を着き、額に手を当てて、溜息を吐く。

……やっと、一息つけた感じ……。

 一息つける場所を探していたわけじゃない。

 だけど、何だろう……。

 疲れているのか、身体がだるい感じがする。

 気を張り過ぎてたのか、精神疲労も生じているよう。

 兄の家に来ただけなのに、色々とダメージを受けている。

……やれやれ、ね……。

 頬杖を突いて、ぎゅっと目を閉じる。

……このまま座ってても、意味がない……。

 疲れている場合じゃない。

 これから、何をしようか。

 何をするべきか。

 何をしに来たのか。

 探しに、調べに来た。

 兄のプライバシー。

 兄の彼女。

 兄の死。

 〈噂〉と兄の関係。

 実家の兄の部屋。

 〈開かずの間〉と化した部屋。

 その部屋の鍵。

 鍵……。

……そうね……アノ部屋の鍵を、探してみようかな……。

 鍵を探していれば、他の事に関する情報を見つけることができるかもしれない。

 そもそも、アノ部屋の鍵を見つけることが、当初の目的。

 そのために、兄の家に来ようと思ったのは確か。

 一度、深呼吸をしてから目を開けると、立ち上がった。

……さてさて、どこから探そうかな……。

 内部を確認していない部屋はまだある。

 襖の部屋。

 玄関近くの二部屋。

……まずは……この部屋から……。

 鍵という小さなモノを探すことになる。

 一部屋ずつ、鍵がありそうな所を探してみるのがよさそう。

 最初は、今いる部屋から……。

 リビングとダイニング、そして、キッチン。

 鍵のありそうな所は……。

……家捜し、スタートね……。

 髪をかき上げると、ほくそ笑んで、部屋の中を見回す。

……鍵のありそうな所は……。

 食器棚、電話台、本棚。

 それぞれ抽斗の中が怪しい。

 この中で、鍵を仕舞うとしたら……。

……電話台、よね……。

 電話台の前に立つと、一呼吸置いてから、抽斗を開けた。

 中には、一冊の本が入っていた。

……説明書、ね……。

 電話台の上にあるファクシミリ。

 その説明書だった。

 本を取り出し、抽斗の中に手を入れて漁ってみても、何もなかった。

……簡単には、見つからないよね……。

 抽斗を戻すと、ダイニングに振り返る。

……気を取り直して……。

 ダイニングテーブルを横切り、食器棚の前に来た。

 三段作りの木製の食器棚。

 上段はガラスの嵌めこまれた観音開き。

 中段は二つ並んだ抽斗。

 下段はスライド式の戸棚。

「ある、かなぁ?」

 自信なさげに呟き、中段の右側の抽斗を開ける。

 中には、スプーンとフォーク、箸にナイフ。

 所謂、テーブルウェアが入っていた。

 鍵はない。

……だよね……。

 軽く溜め息を吐き、左側の抽斗を開ける。

 割り箸とシュガースティック、コルク抜きが中にあった。

 やっぱり、鍵はない。

……まぁ、期待はしてなかったけど……。

 予想はしていたけど、がっかりしてしまうのは否めない。

 気分を変えるつもりで、首を振って髪をかき上げると、リビングにある本棚に向かった。

……ない……あったら奇跡……。

 本棚の一番下に抽斗があった。

 しゃがむと、期待も持たずにそれを開ける。

「ほらね」

 予想通りの悪い結果に、思わず、声を出してしまう。

 抽斗の中は、本で埋まっていた。

 コンピューター関係の本だろうか。

 私にはわからない用語が表紙に書かれていた。

……さて、どうしよう……。

 屈んだまま、左手を額に当て、思案する。

 この部屋で、抽斗のある家具。

 その抽斗を全てチェックしてみたけど……。

……やっぱり、細かく探さないと、ダメかな……。

 正直、一人でこの家を隈なく捜索するのは、骨が折れすぎる。

 時間がかかりすぎる。

 今日中に終わらせるのは、間違いなく無理。

……夕方から、バイトだし……。

 今日も出番。

 遅刻するわけには行かないから、十五時頃には、ここを出ないと……。

……そういえば……今、何時かな……。

 顔を上げ、時計を探そうと、見回した時。

……あれ? ……何だろ……。

 気になるモノがあった。

 本棚の側面。

 パソコンの置かれたデスクのある側。

 そこから板状のモノが少しだけ突き出ていた。

……これって……。

 立ち上がり、デスクに片手を着いて、本棚の側面を見る。

……写真! ……写ってるのは……。

 本棚の側面にはコルクボードが打ち付けられ、そのボードに写真が数枚ほど貼られていた。

「兄さんと……」

 写真を見ると、思わず笑みが零れた。

 感情が昂るのが分かる。

 さっきまでの、落ちた気分が高揚する。

 嬉しさが込み上げる。

……やっと、ご対面ね……。

 ふぅと息を吐くと、回転式の椅子を引き寄せ、腰掛ける。

「彼女、ね……」

 デスクに片肘を突き、写真を眺める。

 コルクボードに貼られた写真は全部で六枚。

 全ての写真に、兄とその彼女が写っている。

 様々な写真。

 笑顔で写る彼女。

……でも……ちょっと、ね……。

 込み上げていた嬉しさとは別に、少しばかりの落胆が芽生える。

 私の抱いていたイメージと違い過ぎた。

……地味、かな……。

 見た感じで、年は兄と同じぐらいかな。

 黒髪のロング。

 だけど、どこか無理をしているような髪型。

 光の加減のせいなのかな。

 厚いメイクが微妙な感じ。

……何となく……納得、かな……。

 鼻の奥で香るオードトワレ。

 兄のため……。

……多分……兄さんが好きな香り、ね……。

 その纏わりつく香りに彼女の性格を垣間見た気がする。

 そして、写真に写るその表情とは裏腹に、暗そうな性格をイメージしてしまう。

……尽くすタイプ……必死、と言ったら大袈裟、かな……。

 二人が並んで立っている写真。

 二人の顔がアップで写っている写真。

 二人が並んで歩いている写真。

 二人が向かい合って座っている写真。

 二人が建物を見上げている写真。

 二人が顔を向い合せて、アップで写っている写真。

……何だろう……。

 写真を見ていると、何か、違和感を覚えた。

 全ての写真に写る彼女は、笑顔を浮かべ、幸せそうな感じに見える。

 単純に考えれば、恋人と一緒にいるんだから、当然のことなのかも。

 だけど……。

……兄さんは……。

 兄の表情は、どこか違う。

 彼女と同じ感情を抱いてるのかどうか……。

 満面の笑みで写っている写真もモチロンある。

 だけど、全ての写真に笑顔で写っているわけではなく、どこか上の空に見えるモノもある。

 どこかそっけない表情や、彼女やカメラから、わざと視線を外しているようなモノもある。

 いつ撮った写真なのかわからないけど……。

……彼女のこと……好きじゃない? ……好きじゃなくなっている?

 これらの写真から、二人の感情にすれ違いが生じてきていることが分かるよう。

 根拠のない、勝手な憶測。

 だけど、何かが、引っかかる。

……もしかして……。

 兄の死に顔が頭に浮かぶ。

 何とも言えない表情。

 ぎこちないような、不自然な……。

 安らかに見えなくもなかったけど……。

 心不全で……。


『……まだ残ってるみたいだな……中々、な……』


 ふと、アノ中年男の言葉が思い出される。

 エレベーターで十三階に止まった時。

 『まだ残ってる』と言っていた。

……何が……何が、残ってるの……。

 デスクに両肘を突き、頭を抱えて、大きく息を吸い込む。

 あの時……。

 中年男はホールの床を見ていたと思う。

……何を、見ていたの……。

 頭の中に浮かぶ、様々な単語。

 どれも、不快なイメージしかない。

 床にあったモノ。

 残っていたモノ。

 パッと見では分からなかった。

 分かり難いモノ。

 その場所にあるべきではないモノ。

 なくしたいモノ。

 掃除しきれていないモノ。

……まさか、でも……何で……違うの?

 兄の死因。

 心不全。

 だけど……。

 一つの単語が頭から離れなくなっていた。

……いや……違う……考え過ぎ……。

 勢いよく立ち上がり、心に広がり始めた不快感を、首を振って払う。

「……違う」

 呟くと、額に右手を当てて、深呼吸する。

 目を閉じて最悪なイメージを心の奥に押し込める。

……兄さんは……死ぬ時に……嘔吐した……そのはず……。

 そう。

 ホールには吐瀉物の名残があったのかも……。

 中年男の態度から察するに、私に嫌味を言っていたのかもしれない。

……そう……兄さんは嘔吐して……心不全で、死んだ……。

 心の中でそう決めつけると、写真に向き直る。

……この彼女は……何処に……。

 彼女に会うことが出来れば、何かが分かるはず。

 鍵の在り処も分かるかもしれない。

 もしかしたら、鍵を持っているということも考えられる。

……名前は……。

 コルクボードに貼られた写真から一枚を取る。

 二人が並んで立っている写真。

 その写真を裏返してみる。

……何も、ない……。

 写真の裏に何か書かれているかと思ったのだけれど……。

 真っ白で、何も書かれていない。

 一応、他の写真も捲ってみたけれど……。

 やっぱり、何も書かれていない。

……二人の名前か、イニシャルでも書いてあればなぁ……。

 溜め息を吐いて、手にした写真を眺める。

……名無しの、彼女……とりあえず、拝借、ね……。

 写真を持ったまま、ダイニングに向かい、テーブルに置いてある私のバッグを開ける。

 写真を中に仕舞うと、代わりに携帯を取り出した。

……十二時、四十九分、ね……。

 あと二時間と少し。

 バイトまでの時間。

 今日の捜索に残された時間。

……さて……次は……。

 携帯をバッグに戻し、リビングに振り返ると、歩き出す。

 パソコンの置いてあるデスク。

 その横にある襖。

 その先を調べてみよう。

……和室、だと思うんだけど……。

 洋室的な造りのマンションの一室に、和室がある。

 よく見かけるけど、この家もその例に漏れないのかも……。

……和洋折衷というのかな……。

 襖に手をかけ、中に思いを馳せる。

 軽く息を吸い込んで、静かに開けた。

……当たり……。

 室内の空気が漏れ出て、例のオードトワレの香りが少し増す。

 嗅覚が麻痺してきているのか、気にはならなくなってきてるよう。

 大きく息を吐き、室内を眺める。

 リビングからの明かりに照らされた室内。

 薄暗いながらも、中の様子が分かる。

 予想通りの和室。

 天井には、和様な照明。

 床は畳。

……寝室?

 部屋の中にベッドがあった。

 畳の上にベッド。

 大きさから見ると、ダブルベッドかな。

……だけど……これだけ?

 そう。

 部屋の中には、ダブルベッドしかなかった。

 頭側に簡易棚の付いた、洋風なダブルベッド。

 和洋折衷というには程遠い。

 他には何もない。

 箪笥も戸棚もない。

 ベッドが壁際に横たわっているだけ。

……質素、っていうのかな……。

 中に入り、照明からぶら下がったヒモを引っ張る。

 スイッチが入り、数回の明滅の後、白い明かりが室内を照らした。

 その明かりの中、室内を見回す。

……押入れ、それと、充電器……。

 部屋の奥がベッドの頭側になり、右側の壁にベッドの縁がぴったりとくっついている。

 ベッドと奥の壁には少しスペースがあり、その壁に押入れと思われる襖があった。

 ベッドの簡易棚には、携帯の充電器があり、そのケーブルは左側の壁にあるコンセントに繋がっていた。

……この和室が、寝室……。

 綺麗に並べられた二つの枕。

 整えられた布団。

 毎回、ベッドメイキングをしているよう。

 兄が綺麗好きだったというイメージはない。

 そうなると……。

……大したものね……。

 毎朝、ベッドを整えている姿を想像し、心の中で兄の彼女に拍手を送った。

……あの押入れの中は……。

 ベッドの脇を抜け、左の壁伝いに進んで、充電器のケーブルを跨いだ。

 この家の造り上、奥の襖の先は収納スペースと考えるのが妥当。

……この先に……部屋があったりして……。

 鼻で笑い、襖に手を掛け、ゆっくりと開けた。

……やっぱりね、予想的中……。

 上下に分かれた収納スペース。

 上の段は布団や毛布などで一杯になっている。

 下の段には、プラスチックの透明な収納ケースが無駄なく綺麗に収められていて、その中には衣類が入っていた。

……この部屋にもなさそう、ね……。

 残念と肩を竦めて、押入れを閉め、部屋を後にした。

……残す所……あと二部屋……。

 リビングに戻り、開いたままのドアから廊下を眺める。

 その先にある部屋。

 玄関近くにある二部屋。

 そこに、鍵があるといいんだけど……。

……まずは、一息……。

 ダイニングに戻り、テーブルに置いた私のバッグから、ペットボトルを取り出す。

 自宅近くのコンビニで買ったレモンティー。

 一緒にメロンパンも買ってあるけど、それはまた後で食べることにしよう。

……そうだ……そういえば……。

 レモンティーを一口飲んだ時、テーブルに置いてある黒い鞄に気付いた。

 兄の鞄。

 兄が落とした鞄。

 おそらく、死んだ時に持っていた鞄。

……もしかしたら、この中に、あるかも……。

 この鞄の存在をすっかり忘れていた。

 兄の荷物であるなら、鍵がある可能性が高い。

 部屋の捜索も無駄ではなかったし、収穫も少なからずあった。

 だけど……。

 探しモノは早く見つかるに越したことはない。

……仕事用、かな……。

 サラリーマンが持っているのを、よく見かける。

 黒い手提げ鞄。

 あまり収納できなさそうな作り。

 書類を入れるぐらいかな。

……さてさて、何が出てくるかな……。

 鞄を引き寄せて、ダイニングの椅子に腰かける。

 ペットボトルを手元に置くと、鞄を開けた。

……これは……書類……。

 鞄の中は紙で埋まっていた。

 会社の書類だろうか。

 クリアファイルにまとめられた書類。

 クリップで留められた書類。

……間違いなく、仕事用ね……でも、これだけなんて……。

 出てくるのは、紙の束。

 グラフやら、数値表やら、専門用語やらで、正直、読むのが面倒。

 この書類を読み解ければ、兄の仕事内容が分かるのだろうけど……。

……兄さんの仕事のことは……今は、いい……。

 よしっと勢いづけてイスから立ち上がると、鞄を逆さまにして、中身をテーブルの上にまき散らした。

……書類……書類…………ん?

 紙の山がテーブルに散乱し、その上に、少し重みのあるモノが鞄から落ちてきた。

 黒い小さな平たい箱のようなモノ。

……これは……。

 それが何なのか、すぐに分かった。

 同時に、嬉しさと達成感が湧き上がり、思わず笑みが零れる。

……携帯、ね……。

 鞄を置いて、その携帯を手に取った。

 興奮のせいか、鼓動が速くなっているよう。

 深呼吸をしてから、そのディスプレイを覗き込む。

 しかし、その小さな液晶画面は真っ暗で、何も映し出されていなかった。

……そうだ……電源、入れなきゃ……。

 やれやれと溜め息を吐き、携帯の電源を入れる。

……あれ? ……電源が……。

 電源が入らない。

 画面は真っ暗のまま。

 うんともすんとも言わない。

……うそ……壊れてる?

 いや、バッテリーが切れていると考えるのが妥当かな。

 兄が落とした鞄の中にあった携帯。

 少なくとも、2カ月近くは、充電されていないということになる。

 バッテリーが切れているのは当然の事かも……。

……充電しないと……充電器は…………そうだ、あった……。

 思い立ち、兄の携帯を持ったまま、早足で和室に向かう。

 開けたままの襖を抜け、点けっぱなしの照明の下、ベッドの枕元で立ち止まる。

……あった……充電器……。

 目当てのモノを掴むと、そのプラグを携帯の電源コネクタに差し込む。

……あれ? ……何で? ……あれ?

 どういうわけか、コネクタに差し込まれない。

 プラグが合っていない。

 携帯を調べてみても、電源コネクタに問題はない。

 充電器のプラグにも異常はないよう。

……この携帯の、じゃない……?

 充電器を枕の上に放り投げると、溜め息混じりにトボトボと和室を出た。

……この携帯の充電器は? ……何処……?

 この携帯が兄のモノだとして、これに和室にあった充電器が合わないとなると……。

 普通に考えて、さっきの充電器は兄の彼女のモノ。

 そうなると、この携帯の充電器は別の場所にあるということになるかな。

……今までに……あったかな……。

 電話台の横に立ち、手にした携帯を顎に当てて、この部屋に入ってからのことを思い返す。

 玄関、廊下、洗面所、リビング、ダイニング、和室。

 念入りに調べたわけではないけれど……。

 今の所、和室以外で携帯の充電器は見かけていない気がする。

……残りの部屋、かな……。

 電話台の横にある、この部屋のドア。

 今は開けっ放しになっていて、その先を顔だけ出して覗き見る。

……まずは、あの部屋から……。

 廊下の突き当たりにドアがある。

 その部屋に行ってみよう。

……ついでに、鍵も見つかればいいけど……。

 携帯を胸の前で握り、空いた手で後ろ髪を撫でつけながら廊下を歩き、突き当りの部屋を目指す。

……あ……この箱……。

 玄関の前を通った時、気付いた。

 玄関マットに置かれた箱。

 チラシが大量に入ったダンボール箱。

……後で、いいかな……。

 箱を素通りし、突き当りの部屋の前で立ち止まる。

 右手には玄関。

 左手には残り一つの部屋のドア。

 振り返ると、廊下の奥の部屋で、小さくはためく遮光カーテンが見えた。

……さて、あるかな……ありますように……。

 ドアに向き直り、念じながら、ドアを押し開けた。

「ぅわっ……」

 またオードトワレの香りがすると思ったのだけれど……。

 今回は、違った。

 澱んだ空気。

 埃臭い。

 そして、埃っぽい。

 何日も開けることなく、放置していたような……。

 そんな空気が漂っている。

……やっぱり……暗い……。

 片手で口を覆い、部屋の前で中を眺める。

 相変わらずの暗い室内。

 玄関の明かりが室内を照らし、内部の状態が、シルエットで分かる。

 この部屋も、遮光カーテンで閉め切っているのだろう。

 窓があると思われる場所がカーテンで覆われ、光が遮られている。

……スイッチは……。

 右手だけを部屋に入れて、手前の壁を探る。

 部屋の天井にあるのは、シーリングライトだと思う。

 おそらく、部屋のスイッチは……。

……あった……。

 予想していた手触り。

 長方形のプレート。

 突起物は一つ。

 電気は一つということかな。


パチッ!


 スイッチを入れると、シーリングライトが白く点滅し始めた。

……あれ?

 数秒経っても、明かりが安定しない。

 点いたと思ったら、すぐに点滅を繰り返してしまう。

……故障? ……電球、切れかかってる……?

 空気の澱み具合から察するに、この部屋はかなりの間、放置されていたんだと思う。

 電気に不具合が生じても、不思議ではないのかも。

……まぁ……でも、この部屋は……調べるまでもないかな……。

 点滅する室内をざっと見回したけれど、気になるモノはなかった。

 実際は、部屋の中はモノで一杯なのだけれど……。

 山になったダンボールの箱。

 所狭しと置かれた家具。

 物置なのかな。

 使用しなくなった家具や、小物などをまとめて置いているのだろう。

 古い箪笥や、食器棚、飾り棚など、大小さまざまな家具がある。

 決して、大きいとは言えない部屋なのに、うまく収められている。

 この部屋に、目当てのモノはあるのかな……。

 部屋の放置具合から、その可能性は薄いと思う。

「さすがにない、よね」

 そう呟いて、電気のスイッチを切ると、ドアを閉めた。

……この部屋に、あったとしても……今日は無理……。

 ゆっくりと探す時間があれば、この部屋に手をつけることは可能かもしれない。

 だけど、今日はバイトがある。

 あまりのんびりはしていられない。

 残り時間は、二時間ぐらいかな。

 この後、細かく探していくとしたら、出来て二部屋がいいところ。

……まずは、最後の部屋……。

 左に振り向いて、目の前にあるドアの前に立つ。

……この部屋に、ありますように……。

 携帯の充電器。

 鍵。

 これらがこの部屋にあれば、百パーセントではないけれど、目的が達成される。

「お願い」

 携帯を額に当てながら、呟いて、ドアをゆっくりと押し開けた。

 内部から、あのオードトワレの香りが濃厚に流れ出す。

 特に香りが強い気がする。

……もう、慣れた……。

 大きく息を吐き、内部を窺う。

……まずは、電気……。

 やはり部屋の中は暗い。

 玄関からの明かりだけでは光量が足りない。

 すぐに右側の壁をまさぐる。

……スイッチは、と……。

 すぐに探していたスイッチが手に当たった。

 迷うことなく、照明の電源を入れる。


パチンっ!


 乾いた音と共に、シーリングライトが点滅し、点灯した。

 白い明かりで照らされた室内。

 髪をかき上げ、一歩だけ部屋に入る。

……え? ……何だろう……何処かで……。

 部屋の中を見た瞬間、違和感を覚えた。

 いや、既視感と言った方がいいかもしれない。

 何だろうか。

 どこかで見たような光景。

 この部屋の作り。

 家具の配置。

 どこかで……。

……何、この感覚……。

 思い出せそうで、思い出せない。

 もどかしい感覚。

 どうしてなのか、認めたくない、思い出したくない。

 困惑と拒絶が入り混じったような感覚。

……この部屋に、何が……この部屋は……。

 片手を胸に当て、深呼吸をする。

 鼓動が手に伝わる。

 いつの間にか、脈が速くなっていた。

……嫌な感じ……だけど……。

 この部屋には何かある。

 そんな気がする。

 既視感を感じたから……。

 この光景を実際に……。

…いや、そうじゃない……ありきたりなだけ……。

 そう。

 家具の配置も……。

 部屋の作りも……。

 よく見かけるモノ。

……そう……一般的な、部屋……。

 目を堅く瞑り、一度だけ頷く。

……大丈夫……。

 深呼吸すると、ゆっくりと目を開け、部屋の中を見回した。

……隅々まで、探そう……。

 ドアの前に立つと、目の前に本棚があり、左手にクローゼットと思われるスライド式のドアがあった。

 本棚にはコミックスがぎっしりと陳列されている。

 右を向くと、奥行きある室内を見渡せる。

 右側にはパイプベッドが壁に寄せて置かれ、部屋の奥が頭側になっている。

 フレームのみのパイプベッドには布団が敷かれ、綺麗に整えられている。

 使った形跡が全くないようにも見えた。

 そのベッドの先にはカーテンで覆われた壁があり、そこに窓があるんだと思う。

 窓の手前、部屋の左奥には、薄型テレビが低めの台の上に置かれていた。

 そして、ベッドの横……本棚の隣には、机と回転椅子があった。

……これ……学習机、よね……。

 真新しい、使用感のない机。

 書斎机というより、子供が使用する学習机と言った方がしっくりくる。

 棚のない平面の天板。

 抽斗が全部で四つある。

 平長い抽斗が一つ。

 その抽斗の右に小さい抽斗が一つ。

 その下に、同じ大きさの抽斗が一つ。

 一番下に大きめの抽斗が一つ。

 平長い抽斗の下は空間があり、回転椅子が収納されていた。

……写真立て?

 机には写真立てが置かれているだけで、他には何もなかった。

 机に近づき、その右角に置かれた写真立てを手に取り、代わりに、手にした携帯を中央に置いた。

……彼女……。

 収められた写真には、兄の彼女が写っていた。

 バストアップで、微笑を浮かべている。

……あぁ……相性悪いかも……。

 軽く身震いをして、写真立てを置いた。

 私がリビングで兄の彼女の写真を見てから感じていたこと。

 部屋を捜索している中で垣間見た、彼女の性格。

 写真から感じられる佇まい。

 外見。

 現時点で、私は彼女のことを好きになれそうじゃない。

 いや、苦手と言った方が良いのかも……。

……兄さんの判断は……正解、かも……。

 兄が私と彼女を引き合わせなかったのは正しいと思う。

 そうなると、兄は私の事を少なからず理解していたのかもしれない。

……兄さん……私は……。

 意識的にゆっくりと呼吸をする。

 よくよく考えると……。

 私は兄の事を理解していない。

 思い返せば、兄との思い出もあまりない気がする。

 この兄の家に来ても、わからないことだらけ。

 興味本位で兄の事を知ろうとした。

 兄のプライバシーを探ろうとした。

 分かったことはいくつかあるけれど……。

……本当に知りたいことは……。

 そう。

 何一つ、分かっていない。

 兄の死についても……。

 〈噂〉との関係についても……。

 実家の〈開かずの間〉の鍵も……。

 兄が何を考えていたのかも……。

……兄さんは……一体……。

 私の中で、兄の存在がどんどん希薄になっていっている気がする。

 兄の事を、理解できるのだろうか。

 このまま捜索を続ければ、全てを知ることができるのだろうか。

 〈開かずの間〉の鍵は手に入れることができるのだろうか。

 そもそも、鍵はこの家にあるのだろうか。

 兄が持っていたとしたら……。

 死んだ時に持っていたとしたら……。

……違う……遺品にはなかった……。

 思い返せば、兄が死体で見つかった時、所持品は財布と腕時計だけだった。

 その時点で手にすることが出来た兄の遺品はそれだけ……。

 その時に着ていた兄の服はスーツ。

 そのスーツのポケットに入っていたのが財布。

 他には何もなかったよう。

……見落としたのかな……。

 だけど、その時の服は、死に装束として一緒に火葬されている。

 調べようがない。

……やっぱり……この家に……あるのかな……。

 言うなれば、この家にあるモノは全て、兄の遺品。

 実家の〈開かずの間〉にあるモノもそう。

 そして、鍵も遺品。

 遺品探しのために遺品を探している。

……なんだか……嫌な感じ……。

 改めて、亡くなった人の家にいることに気付いた。

 死んだ人のモノに触れていることに、嫌気を感じ始めた。

 おそらく、この部屋は見た感じ、兄の部屋。

 兄のプライベートルーム。

 部屋にあるモノは全て、兄のモノ。

……兄さんのモノ……なのに……。

 どうしてだろう。

 なぜか、不快感が湧き上がってくる。

 心に拒否反応が生じ始める。

……何? ……この違和感……。

 兄が死んでいることを、改めて思い知ったから?

 兄の事をよく知らなかったから?

 兄の事が分からないから?

 兄の彼女のモノに触れてしまったから?

 二人のプライバシーに踏み込んでしまったから?

……いや、いまさら……何よ……。

 そう。

 もう踏み込んでしまった。

 私の好奇心も抑えられない。

 何かしらの結末を迎えないと、私が先に進めない。

「探そう……」

 髪をかき上げ、ふぅぅと大きく息を吐いて、気持ちを改める。

……まずは……抽斗……。

 机の平長い抽斗を開けてみる。

 中には一冊のノートが入っていた。

 そのノートをパラパラと捲ってみるが、真っ白で何も書かれていなかった。

 未使用のノート。

 それ以外は何もなかった。

……次は、上から……。

 隣の抽斗を開けてみるが、何も入っていない。

 その下の抽斗も開けてみるが、こちらも何も入っていない。

……何なの……何かないの……。

 少し苛立ち、その気持ちをぶつけるように、一番下の抽斗を勢いよく開けた。

……これは……。

 抽斗の中には小さな箱が一つだけあった。

 透明なプラスチックの箱で、中に小瓶が入っているのが分かる。

 首を傾げながら、その箱を手に取った。

……香水……。

 箱の中の小瓶はピンク色で洒落た細工がされている。

 表面にはラベルが貼られ、内部には液体が封入されていた。

……未使用の……香水……このラベル……。

 この家中に漂う香り。

 その正体が目の前にあった。

 ちょっと前に流行ったオードトワレ。

 その現物を手に持っていた。

……何で、こんな所に……。

 ストックだろうか。

 それにしても、何でこの部屋に……。

 兄の部屋ではないのだろうか。

 兄がこの香水を使用していたのだろうか……。

……まさか、ね……。

 嫌な想像が頭を過り、首を振ってそれを払う。

……この部屋は、兄さんの部屋じゃないのかな……。

 手にした箱を戻し、抽斗を閉めると、机の上に置いた携帯に視線を落とす。

 この部屋を調べた限り、この携帯の充電器はなかった。

……兄さんのじゃない、のかな……。

 この携帯はもしかしたら、会社のモノかもしれない。

 仕事用の鞄の中に、書類と一緒に入っていたから、その可能性も考えられる。

……だけど、それでも……。

 この携帯を調べてみる価値はあると思う。

 携帯のタイプから判断するに、私の携帯の充電器が対応しそう。

 とりあえず、自宅に帰るまでは、この携帯の調査は保留かな。

……さて……どうしよう……。

 携帯は自宅に帰ってから調査再開となるのだけれど……。

 肝心の鍵が見つからない……。

……やっぱり、ないのかな……。

 気落ちしそうになり、前髪を手で払って、紛らわせる。

 まだ、探してない箇所はたくさんある。

 細かく探せば見つかるかもしれない。

……だけど、一息ついてから……。

 大きく伸びをすると、机から携帯を取り、ドアを開けたまま部屋を出た。

「あっ……これ……」

 部屋を出た時、玄関マットに置かれた箱が目に入った。

 チラシやらが入った箱。

 郵便受けの中身が入った箱。

……一応、調べてみようかな……。

 箱の中に手にした携帯を入れ、そのまま持ち上げ、ダイニングへと向かった。

……まずは……腹ごしらえ、かな……。

 ダンボール箱をダイニングテーブルの上に置くと、ツーウェイバッグから、袋入りの型崩れしたメロンパンを取り出す。

 そして、兄の携帯をバッグの奥に入れた。

……いただきます……。

 椅子に腰かけると、メロンパンを袋から出し、かぶりつく。

 ちょっとした至福の時。

 レモンティーを二口飲み、メロンパンと飲み込む。

……さてさて……何があるのかなぁ……。

 身を乗り出して、ダンボール箱を手前に引き寄せると、中身を漁った。

 デリバリーピザのチラシ。

 家庭教師の案内。

 不動産関係のチラシ。

 餃子屋のチラシ。

 家電量販店のチラシ。

 デパートのチラシ。

 またデリバリーピザのチラシ。

 様々なチラシが箱の中にはあった。

……やっぱり、調べるだけ……無駄かな……。

 メロンパンを一口かじり、咀嚼する。

 この箱の中に、兄の彼女に宛てた、何かが届いていると思ったのだけれど……。

 一緒に暮らしていたのであれば、彼女宛に何かが届いててもおかしくない。

……予想は外れ、かな……。

 レモンティーを飲みながら、箱の中身を適当にかき混ぜた時。

「これは?」

 チラシの山から、青い封筒が二つ出てきた。

……何だろ……コレ……。

 何か気になる。

 二つの封筒共に。

 切手も貼られていない。

 宛名も書かれていない。

 封はされている。

 だけど……。

「えっ?!」

 思わず、声を上げてしまった。

 封筒の裏側を見た時。

 好奇心と期待感が一気に膨れ上がった。

……コレって、もしかして……。

 封筒の裏側、その片隅に。


【篠美】


 そう書かれていた。

「しのみ、かな」

 二つの封筒どちらにも書かれた単語。

 おそらく、人の名前。

 この封筒の中身が気になる。

 手紙だろうか。

 だとしたら、兄に宛てた手紙。

 そうなると……。

……開けちゃおう、かな……。

 中身を見れば、何か分かるかもしれない。

 兄の事。

 彼女の事。

 他の何かが……。

「開けよう」

 呟き、封筒の先を破いた。

……手紙……。

 中から、畳まれた一枚の白地の便箋が出てきた。

 深呼吸すると、縦書きに書かれた内容を目で追った。


【 三回目の手紙です。

  お仕事忙しいみたいですね。

  体を壊さないように、気を付けてください。

  伝えたいことはたくさんありますが、

  今回はここまでにします。

  ちゃんと休養を摂ってくださいね。      篠美 】


 私の予想は的中したよう。

 お世辞にも綺麗とは言えない筆跡だけど、これは兄に宛てた手紙。

 そして、おそらく……。

……もう一つは……。

 便箋を封筒に戻し、テーブルの上に置いた。

 そして、もう一つの封筒を取り、中身を出す。

 中には、白色の便箋が一枚入っていた。


【 最近、会う機会がありませんね。

  お互い、仕事をしているから、仕方ないことかもしれませんけど。

  やっぱり寂しいです。

  ごめんなさい。

  今回は、ここまでにします。      篠美 】


 これらは、彼女が兄に宛てた手紙。

 そして、彼女の名前は〈篠美〉だと思う。

……他にもあるはず……。

 一つ目の手紙に、【三回目の手紙】と書いてあった。

 少なくとも、あと一つはあるはず。

 テーブルに身を乗り出して、箱の中身を漁る。

「あった」

 青い封筒を一つ見つけることができた。

 すぐに封を切り、中から便箋を取り出した。


【 初めてですね。

  あなたに手紙を送るのは。

  今時、手紙なんて古くさいかもしれませんね。

  ごめんなさい。

  色々と伝えたいことがあったんですけど、

  いざとなると書き出せないものですね。

  今日はここまでにしておきます。

  また、手紙を書きますね。

  それでは、お体に気をつけて。      篠美 】


 篠美さんは手紙で兄とやりとりしていたのだろうか。

 手紙の内容にもあったけど、古くさいというか、古風な感じがする。

……他にもあるかな……。

 完全に人のプライバシーを覗き見している。

 いけないという気持ちはあるのだけれど……。

 好奇心が優先され、罪悪感が翳り、躊躇がなくなる。

「こんなに……」

 箱の奥に手を入れ、底の方から掬い上げると、青い封筒がたくさん出てきた。

 一つを取り、便箋を取り出した。


【 また手紙を書きました。

  今日は、雨が降っていて、いつものウォーキングは中止にしました。

  その代わり、ストレッチ運動を多めにしました。

  もちろん、階段の上り下りは欠かしていません。

  体調管理はたいへんですね、痛感します。

  今回は、ここまでにしますね。

  それでは、お仕事頑張ってください。

  また手紙を書きます。      篠美 】


 他愛もない内容。

 交換日記みたいなものなのかな。

 兄はこんなことを彼女としていたみたいね。

……ちょっと、恥ずかしいかも……。

 初々しいというか、新鮮というか、何というか。

 どういうわけか、読んでいるこっちが恥ずかしくなってくる。

 頬をぽりぽりと掻いて、軽く溜め息を吐いた。

……まだまだありそうね……。

 箱の奥から発掘した複数の青い封筒。

 その中から、底の方にあるのを一つ取り上げた。

 封を切り、便箋に目を通す。

「なに……これ……」

 その内容を目にして、驚愕した。


【 どうして会えないの

  どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして

  あの女のせいあの女と一緒にいるのね一緒なのね

いつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつも

あの女のせいあの女のせいあの女のせい女のせい女のせい女のせいおんなのせい

あの女のせいあの女のせいあのおんなのせい女のせい女のせい女のせい女のせい

あの女のせいあのおんなのせいあのおんなのせい女のせい女のせいおんなのせい

許さない許さない許さないわたしといっしょわたしといっしょいっしょいっしょ

ゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさないゆるさない

あいたいあいたいあいたいあいたいあいたいあいたいあいたいあいたいあいたい

あいたいあいたいあいたいあいたいあいたいあいたいあいたいあいたいあいたい

あいたいあいたいあいたいあいたいあいたいあいたいあいたいあいたいあいたい

ごめんごめんごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい

ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい

ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい

ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい

ごめんなさいごめんなさいゆるせないゆるせないゆるせないあのおんな 】


 思わず便箋をテーブルの上に落とした。

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