昼過ぎ-2

「なん、なの……」

 全身から血の気が失せる。

 総毛立ち、寒気を覚える。

 先程までの明るい気持ちが一転し、恐怖へと変わる。

……何なの……何があったの……女って……。

 兄は何をしたのだろう。

 彼女に何があったのだろう。

 あの女とは……。

……浮気?

 目を瞑り、大きく息を吐く。

 兄が浮気をしたのだろうか。

 他の女性と会っていたのだろうか。

 だから、彼女の怒りが、この手紙に表れているのだろうか。

 兄はいつから……。

……ん? ……あれ……ちょっとまって……。

 何かがおかしい。

 違和感を覚える。

 青い封筒に入った手紙。

 ダンボール箱の中に入っていたモノ。

 郵便受けに入っていたモノ。

 兄が死んでから、溜まり出した郵便物と考えるのが妥当。

……そうなると……まさか……。

 写真に写った彼女の笑顔が頭に浮かぶ。

 この手紙の差出人は兄が死んだことを知らないということになる。

 一緒に住んでいる彼女が知らないということは考えられない。

 況してや、こんな手紙を送ることも考え難い。

……いや、でも……。

 兄と彼女……いや……〈篠美〉が、すでに別れていたとしたら……。

 〈篠美〉が兄に未練があり、これらの手紙を投函していたのだとしたら……。

……この内容は異常……尋常じゃない……。

 読むだけで、戸惑いと恐怖が湧き上がる。

 明らかに常軌を逸した内容の手紙。

 〈篠美〉の兄に対する、狂気と言える執着心が感じ取れる。

……じゃあ、あの女とは?

 兄の次の彼女?

 浮気相手?

 〈篠美〉と別れる原因となった女……。

 誰?

……でも……そうなると……。

 別れた彼女の写真をいつまでも飾っていることに違和感を覚える。

 写真に写る彼女は〈篠美〉ではないと考えるべき、かな。

 だとすると、手紙の中の【あの女】とは、写真に写る彼女のことになるのかも。

……それなら、この手紙は……。

 写真の彼女から兄に宛てたモノではない。

 だけど、兄の部屋の郵便受けに入っていたモノ。

 兄に宛てられたモノであることは間違いないと思う。

……じゃあ、誰から送られたモノなの?

 両肘をテーブルの上に突き、頬を抱えて、便箋を凝視する。

……元カノ……ストーカー……誰かの悪戯……。

 この手紙。

 筆跡が読み進める程に乱暴になっていく。

 最後の【あのおんな】という文字が他の文字より、二回りぐらい大きく、筆圧が強いよう。

 何にしても、良い気分にはなれない。

 兄にこういう手紙を送る人が存在する。

 それは、事実。

……他の手紙は……。

 レモンティーを一口飲み、数回、深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。

 箱の中から、上の方にある青い封筒を一つ取って、中を開ける。

 髪をかき上げると、便箋に目を落とした。


【 こんばんは。

  今日は天気も良く、月が綺麗です。

  三日後が満月ですから、その時も天気が良いといいのですが。

  ところで、最近、会う機会が全くありませんね。

  帰りも遅いようですね。

  次の満月を一緒に見られるといいんですが、ごめんなさい。

  今回はここまでにします。

  ご自愛くださいね。      篠美 】


 普通の内容。

 先程の手紙とは大違い。

 異常な内容を書くとは、到底思えない。

 それに、この手紙……。

 もしかしたら、何かが分かるかもしれない……。

 キーワードが一つある。


【三日後が満月】


 この言葉。

 正しいのであれば、この手紙が投函された日が分かるかも……。

……帰ったら、ネットで調べてみよう……。

 軽く息を吐いて、メロンパンをかじると、レモンティーで流し込む。

 続けて、箱の中から封筒を一つ取り、中の手紙を読んだ。


【 何通目になるでしょうか。

  手紙を送るのにもすっかり慣れたようです。

  そういえば、最近気付いたんですが、あなたは部屋の鍵を掛けないのですね。

  下の玄関に鍵が掛かっているとはいえ、不用心ですよ。

  代わりに施錠しておきましたけど、泥棒でも入ったら大変です。

  実際、過去のことですがマンションに泥棒が入ったそうですよ。

  お仕事が忙しいとはいえ、しっかり、防犯対策してくださいね。

  今回はここまでにします。      篠美 】


 兄は不用心のよう。

 そういえば、たまに実家に来た時も、鍵を掛け忘れて、帰っていたと思う。

……やれやれね……兄さんは……あれ?

 ふと、違和感を覚えた。

 今の手紙の内容。

 そう。

 何か引っかかる言葉が……。

……そんな……嘘……。

 閃くモノがあった。

 同時に、嫌な想像が頭を駆け巡り出す。

 心臓が強く脈打ち、再び全身に寒気が走り、逃げ出したい衝動に駆られる。

 もしかしたら……ここにいたら……。

……鍵を掛けない……。

 考えたくないけど、考えなければいけない。

 当たってほしくないけど。

 もしかしたら……逃げないと。

……代わりに施錠……。

 呼吸を浅くし、息を潜める。

 ゆっくりと立ち上がり、辺りを慎重に見回す。

 もしかしたら……危険。

……篠美は……彼女……元カノ……それとも……。

 髪をかき上げ、ゆっくりと深呼吸する。

 辺りに注意を配りながら、テーブル上の手紙と、箱の中の青い封筒を私のバッグに移す。

 もしかしたら……。

……篠美は……この家に……。

 先程の推測と、嫌な想像がリンクする。

 考えたくない答えが……。

 正しくないかもしれないけど……。

 もしかしたら……。

「今も……住んでる、の?」

 風が止み、カーテンのはためく音が止まった。

 室内が静寂に包まれ、重苦しい雰囲気が立ち込める。

 どうしようもない程の、寂しさと不安が湧き上がり、すぐさま恐怖へと変換されていく。

「まさか、ね」

 後ろ髪をゆっくりと撫でつけると、声を出し、静寂を破った。

 胸に手を当てると、ゆっくりと深呼吸をして、荒くなりそうな呼吸と鼓動を抑える。

……考え過ぎ……そんな感じはしない……。

 テーブルの上を良く見ると、薄っすらと埃が溜まっている。

 おそらく、他の家具も同様。

 この家に入った時の空気感も……。

 現在、人が住んでいるようには見受けられない。

……だけど……篠美は……。

 【代わりに施錠した】と書いている。

 だとすると、この家の鍵を持っているということになる。

……やっぱり……でも……。

 写真の彼女?

 それか、元カノ?

 どちらにしても、この家の合鍵を持っている存在。

 〈篠美〉は兄と親密な関係であったということ。

……でも、そうじゃなかったら……。

 自分の推測に身震いし、思わず周りを見回す。

 明かりの灯った室内。

 遮光カーテンが再びはためき出し、その音だけが辺りに響いている。

 一度だけ強く瞬きをして、小さく溜め息を吐く。

……篠美は……。

 ストーカーかもしれない。

 それに、この家に侵入していると思う。

 かなり危険な存在。

「もしかして……」

 ふと、玄関に置かれた靴が思い出された。

 くたびれた感のある白いハイヒール。

 履きやすいように、綺麗に揃えられた靴。

 部屋中に漂う甘い香気。

 鼻の奥でオードトワレの香りが強みを増し、呼応するように、不安と恐怖、焦燥感が心に広がり出す。

……篠美は……今、この家に……居るかもしれない……。

 この家の何処かに、潜んでいるのかも。

 私の動向を窺っているのかもしれない。

 思えば、部屋中を隈なく捜索したわけじゃない。

 クローゼットの中も。

 パイプベッドの下も。

 浴室も。

 トイレも。

 探してない所はまだまだある。

 身を潜めることができる場所はいくつもある。

……どうしよう……いや……でも……まだ決まったわけじゃ……。

 そう。

 〈篠美〉がこの家にいるとは限らない。

 私の単なる憶測……想像。

 確認したわけではない。

 だけど……。

……確かめたくない……。

 前髪を払い、額に手を当て、床に視線を落とす。

 万が一、〈篠美〉に出くわしたら……。

 あの手紙を書いた、狂気の女が目の前に現れたとしたら……。


『……まだ残ってるみたいだな……』


 不意に、アノ中年男の声が、耳の奥で響き出す。

 ホールの床を見ながら、発した言葉。

 思い出したくない言葉。

 それに連動して生じる、不快感を呼び起こす憶測。

……嘘……違う……兄さんは……。

 頭に紅いイメージが浮かぶ。

 ホールの床がそのイメージで染まっていく。

 床に倒れた兄が……。

 その傍らに立つ、顔の分からない女……。

「……篠美……」

 兄は……。

 心不全……。

 そのはず……。

 でも……。

……兄さんは……殺され、た……?

 いや。

 そんなはずはない。

 殺人は大事件。

 そうだとすれば、ニュースになっているに違いない。

 それに、警察の人も私にそう伝えているはず。

……じゃあ、何なの……。

 警察が隠蔽している?

 兄は何か大きな陰謀にでも巻き込まれたの?

 それとも……。

……何考えてるんだか……話が、飛躍し過ぎ……。

 髪を撫で付け、大きく息を吐いた。

……とりあえずは……。

 そう。

 あれこれと考えている場合ではない。

 〈篠美〉が何処かに潜んでいるかもしれない。

 その可能性がある限り、この場から立ち去ることが先決。

「バッグに……」

 私のツーウェイバッグ。

 そのサイドポケットに忍ばせているモノがあった。

……痴漢撃退スプレーが、あったはず……。

 バッグのサイドポケットをまさぐり、目当てのモノを探す。

 数年前に買ったモノだけど、まだ使えるはず。

 数ヶ月前に初めて使った時は、効果が絶大だった。

……あった……これがあれば……。

 小さいスプレー缶を取り出すと、右手に構える。

 ノズルを前に向け、噴射ボタンを押してみた。


プシュっー!


 液体が噴射され、鼻を刺激する臭いが漂い出す。

 いきなり襲ってくるような事はないかもしれない。

 話で解決できればいいのだけれど……。

 用心するに越したことはない。

「よし!」

 バッグを肩に掛けると、スプレーを前に構えて、ゆっくりと歩き出す。

 耳を澄まし、周囲を警戒しながら、忍び足で歩く。

 しかし、遮光カーテンのはためく音が強くなり、耳障りになってきていた。

……スタンガンでもあれば……。

 廊下を歩き、前方に構えた小さなスプレー缶を一瞥し、小さく溜め息を吐いた。

 自分の部屋の机に保管してある、黒く如何にもな造形のモノ。

 その未だ使われた事のない、護身用アイテムを思い浮かべ、その心強さを想像する。

……やっぱり、常に持ってないと……。

 護身用なのに、持ち歩いていないことに後悔する。

 手軽さでスプレーを携帯しているとはいえ、スタンガンもバッグに入れることは出来る。

 多少、邪魔になるかもしれないけれど、今後はバッグに忍ばせておいた方がいいかも。

……嫌な、予感がするしね……。


バタァンっ!!


「きゃぁっ?!」

 廊下の半分ほどを過ぎ、玄関のドアが見えた時。

 突然、後ろのドアが大きな音を立てて閉まった。

 心臓が跳ね上がり、思わず叫び声を上げ、弾みでスプレー缶を落としてしまった。

……何、何、何?!

 鼓動が速くなり、気が動転する。

 急激に寒気が走り、全身が震え出す。

……篠美?! ……いる?!

 振り向くことが出来ない。

 身体が硬直し、足が竦む。

 前方を凝視し、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死に堪える。

 耳を澄まし、物音に集中しようとするが、自分の荒くなった呼吸に遮られる。

……逃げなきゃ、逃げなきゃっ!!

 唇を噛み、拳を握る。

 乱れた呼吸ながらも、大きく息を吸い込み、息を止める。

 そして、次の瞬間。

「っっ!!」

 全身に力を籠め、床を蹴り、走り出した。

 玄関に向かい、ショートブーツを拾い上げると、そのままドアを開けて外に出た。

「あっ!」

 薄暗いホールに出ると、エレベーターがこの階に止まったままであることに気付いた。

……良かった!

 息を切らし、下りのボタンを連打しながら、1401号室のドアを凝視する。

「早くっ!」

 ほんの数秒のはずなのに、とてつもなく長く感じられる。

 今にも、1401号室から、〈篠美〉が飛び出してくるのでは……。

 嫌な想像が頭を駆け巡る。


ゴウゥゥゥンッ!


 重い音を立てて、エレベーターのドアがゆっくりと開いた。

 エレベーターに飛び乗ると、すぐに一階のボタンを押し、閉じるボタンを連打する。

「早く早くっ!」

 両サイドから閉じ行くドアを一瞥し、ホールに視線を移す。

 〈篠美〉が飛び乗ってくるのではないだろうか。

 私をエレベーターから引きずり出そうとするのでは……。

 どうにも、嫌な思考を払うことが出来ない。


ゴウゥ!


 エレベーターがゆっくりと閉まり出す。

「早くっ!」

 まだドアは閉まりきっていない。

 〈篠美〉がこのドアを開けてくる可能性はある。

 兄のように、ホールで……。

 鼓動が尋常じゃない程、速くなっている。

 生きた心地がしない。


ゥゥンッ!


 ドアが完全に閉まった。

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