昼過ぎ

「えーと……食後に一錠、ね」

 バッグから取り出した白い紙袋を手元で見下ろし、独り呟く。

 やっとの思いで我が家に到着した私は最後の気力を振り絞り、ダイニングキッチンへ直行していた。

……薬を飲んで、早く休みたい……。

 冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出すと、バッグを調理台に置いたままフラフラと隣の居間へ向かう。

「たしか、朝のが……」

 居間の中央に置かれた抽斗付きのセンターテーブル。

 それを挟むように、白地の三人掛けソファと四十インチの薄型テレビが置かれている。

 センターテーブルの上には、テレビのリモコン、女性誌が二冊、コミックスが一冊、そして、食べかけのメロンパンがあった。

……これを食べて薬を飲めば、OKよね……。

 ペットボトルと薬をテーブルに置くと、代わりに朝食の残りを手に取ってソファに横になり、深々と全身を埋めた。

「ふぅ……」

 お風呂に入った時のような安らぎを覚え、思わず息が漏れた。

 我が家に居るからか、ふかふかのソファに身体を預けてるおかげなのか、気分的に少しだけ楽になり、朦朧とした感覚が少しだけ良くなったよう。

 これで部屋着に着替えれば、さらに楽になれるんだろうけど……。

……あぁ……だるいぃ……もう動きたくない……。

 身体のだるさが極限にまで達してきていた。

 気分的に多少の余裕はできたのだけれど、身体が言うことをきかなくなってきている。

 風邪や疲労のせいであることは間違いないけれど……。

……あのタクシーじゃなかったら……。

 愛想笑いをする小太りなド新人ドライバーの顔が脳裏に過る。

 それと同時にイライラがこみ上げ、たちまち気が澱み、安らぎが消え失せていった。

……なんで、あんなに道を間違えられるの……。

そう。

 今から二十分ぐらい前。

 それは、乗っていたタクシーが目印のコンビニを通り過ぎたところから始まった……。

 私の指摘に愛想笑いと言い訳で返す小太りドライバー。

 来た道を引き返そうと曲がった道が行き止まり。

 車を何度も切り返して、やっとの思いでその道を戻ることができたのだけれど……。

 そのまま来た道を戻ればよかったのに、目的地とは逆方向に走り出す始末。

 更なる私の指摘にも愛想笑いと言い訳を返すだけで、車はどんどん目的地から遠ざかり、右へ左へと当てがないように走っていく。

 すぐに目印のコンビニまで戻れます、なんて言っていたけど……。

 私はその時、ドライバーの頬を伝う汗を見逃さなかった。

 そして、すぐに車を止めてもらった。

……この体調で、十五分近くも歩くはめになるなんて……。

 目印だった近所のコンビニからは、自宅まで歩いて二分ぐらい。

 途中下車した所から自宅まで、その数倍の時間がかかった。

 まだ私の知っている道だったから帰宅することができたけれど……。

 そうでなかったらと思うと、ゾッとする。

……お金は払ったけど、割り引いてくれてもよかったんじゃないの……。

 再び脳裏を過る小太りの顔が、癪にさわる。

「本当に、良いことない」

 深い溜め息を吐くと、ベタベタになったメロンパンをかじった。


ぎしっ!


「んっ!?」

 突如、木の軋む音が聞こえ、身体を強張らせる。

 天井の方からだと思う。

 メロンパンをかじった状態のまま、視線だけを天井に巡らせる。

 先ほどからのむかつきが、疑問と若干の恐怖心に切り替わったよう。

……柱か何かが、軋んだだけかな……。

 嫌なことを考えてしまう前にそう判断すると、もう一口かじりペットボトルに手を伸ばす。

 そして、天井を見上げたまま咀嚼し、ミネラルウォーターで流し込んだ。

……風が……強風が吹いたのかもね……。

 木造建造物にお決まりの軋み音だと思う。

 メロンパンとペットボトルをテーブルに戻すと、恐怖心を振り落とすように前髪をパサパサと払い、天井を見上げる。

……もう、築二十年以上になるからねぇ……。

 この家は木造二階建ての一軒家。

 それなりに広いお風呂と、申しわけ程度の庭が付いた4LDK。

 市街地からも近く、交通の便が充実している。

 ここに一人で暮らすことになって三年になる。

 同時に、父が他界してから三年が経つということになるわけだけど……。

 やっぱり、独りで暮らすには大き過ぎる。

……兄さんも……死んじゃったし……。

 約二ヶ月前に急死した兄の顔が思い出される。

 十年前にこの家を出ていった……ただ一人の兄。

 兄妹仲は悪いわけじゃなかったけど……。

 父が健在の時は、実家であるこの家に一度として足を踏み入れることはなかった。

 だけど、父がこの世を去ってからのこの数年は、年に数回だけど、ふらりと思い出したように帰ってくるようになっていた。

……気に掛けて、くれてたのかな……。

 毎回、何かしらお土産を持って来ては私の近況を聞きたがっていた。

 ほとんど会う機会もなかったし、この大き過ぎる家に独りで住む私を心配してくれていたのかもしれない。

……心配なら、この家に戻ってくれば良かったのに……。

 兄の部屋は家を出た時のまま残してあった。

 私の部屋の隣。

 階段を上って右にある部屋。

 この居間のちょうど真上の部屋。

 兄は帰って来た時、いつもその自分の部屋で寝ていた。

……四十九日も終わったし、少しは片づけた方がいいかもね……。

 立ち入ることが忍びなかった兄の部屋。

 私のことは色々と聞きたがるくせに、自分のことはほとんど語ることはなかった。

 そして、私も自分の事を聞かれても、語ることはほとんどなかった。

 九つ年の離れた兄。

 年が離れていたせいもあるのか、どこか距離を保っていたのかもしれない。

 兄の部屋。

 片づけと称してはいるけど、実際は兄のプライベートを覗いてみたいというのがホンネ。

……思い返してみると、兄さんの事、ほとんど知らないんだよねぇ……。

 趣味や仕事。

 交友関係。

 そして、住まい。

……そういえば、詳しい住所も知らなかった……。

 そう。

 兄の住んでいた場所すらも知らなかった。

 郊外のマンションに住んでると聞いたことがあったけど、どこにあるマンションなのかが分からない。

 どんな仕事をしているか、どこで働いてるかも知らない。

 どんな友人がいるかも分からない。

……てゆーか、私が兄さんの事を聞こうとしなかっただけ、ね……。

 兄妹の仲は悪くはなかったけど、希薄だったのかもしれない。

 髪をかき上げ、そのまま背中とソファに挟まれた後ろ髪を肩口に流すと、軽く溜め息を吐く。

……良い機会ね……絶対に何か見つけてやる……。

 身体を起こし、ソファに座り直すとペットボトルと薬を取る。

 一錠だけ取り出すと、すぐにミネラルウォーターと共に飲み込んだ。

……彼女の写真の一枚でも出てきてくれれば面白いかも!

 薬の入った袋をテーブルに放って、ほくそ笑む。

 身体のだるさは変わらないけど、恐怖心やいらつきという不快感がいつの間にか無くなっていた。

 その代わりか好奇心が湧き上がる。

……結婚はしていないと思うから……。

 恋人か、恋人候補か。

 もしかしたら、葬儀に来ていたかもしれない女性。

 何にしても、兄に親密な関わりがある女性がいたことは確かだと思う。

 亡くなる1~2ヶ月前。

 その頃、こっそり帰って来ては挨拶もなしに出て行くということが頻繁にあった。

 毎回、夜中や私の不在時ということもあってか、一度も顔を合わせることがなかった。

 実際、直接この家で会って話したのは半年前が最後。

 電話やメールでの会話は月に数回あったけど……。

……ちょっと前に流行ったオードトワレ……何だったっけ……?

 ふと鼻の奥でかすかに蘇る匂い。

 今から3~4ヶ月前。

 兄がこっそり帰ってきた証拠。

 夜中に、隣の部屋から物音が聞こえた翌日。

 私がバイトや買い物から帰った時。

 この香りが家中に漂っていた。

……この家の近くで会ってたのかな……。

 どういう関係だったかは分からないけど、そのオードトワレを付けた女性と会った後、この家に帰ってくることが度々あったのだろう。

 夜中に来た時は、寝るため。

 日中に来た時は……。

 もしかしたら、この家に連れ込んでいたのかもしれない。

「やれやれ、ね……」

 苦笑し、軽い溜め息を吐くと、ソファから立ち上がる。

 一瞬、軽い眩暈がしたが、だるい感覚は薄らいでいる気がした。

……病は気から、かな……。

 肩にかかった髪を払うと、テーブルの白い袋を手に取り、目の高さに掲げてパタパタ揺らす。

……早く風邪を治して、家捜し決行ね!

 ペットボトルとメロンパンもテーブルから取り上げると、軽くふらつく足取りで居間を後にした。

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