夜半過ぎ-3

「階段も、ね……」

 階段を見上げ、そう呟く。

 十数段の階段。

 上にいくほどに暗い。

 踊り場の辺りは、真っ暗と言っていいぐらいに何も見えない。

 明かりがないと、この階段を使用するのは危険だと思う……。

……この階段を……。

 不意に、脳裏に過る言葉があった。


【階段の上り下りは欠かしていません】


 〈篠美〉の手紙に書かれていた言葉。

 この階段を〈篠美〉は上り下りしていたのだろうか……。

 エレベーターを使わずに、この階段で……。

 兄の家に……。

……ダメ、考えたら……。

 〈篠美〉がこの階段を上っていく姿を想像してしまう。

 見たこともないのに……。

 その姿が……。

 厚めのメイク……。

 黒髪のロングで白い服装の……。

 甘い香りを漂わせて……。

 踊り場の暗闇に消えていく姿を……。

……違う……。

 想像と……。

 鼻の奥で甦るアノ匂い……。

 それらを振り払うように、額に手を当てて首を振る。

……違う、違う……。

 そう。

 柴崎さんから聞いた。

 〈徘徊する妻の怨霊〉

 そして……。

 写真に映る兄の彼女……。

 それらが、想像に投影されただけ……。

……考え過ぎ……。

 溜め息を吐き、踊り場の暗闇を一瞥すると、後ろに振り返る。

 胸に手を当てて、目の前のエレベーターに近付く。

 速くなっている鼓動を手に感じながら、階層表示ランプを一瞥し、エレベーターのガラス窓を覗き込んだ。

……故障、じゃないよね……。

 窓の向こう側が暗い。

 だけど……。

 階層表示は【1】が点灯していた。

 一階にエレベーターがあるということ。

……これも、省エネ?

 髪をかき上げる自分の姿を、鏡と化したガラス窓に見てから、上りのボタンを押した。

……やっぱりね!

 ボタンを押した直後、エレベーター内に明かりが灯る。


ゴウゥゥゥンッ!


 明かりが灯ると同時に、低く重い音を立てながらドアが開いた。

……大丈夫、よね……。

 後ろを振り返り、周りを見回す。

 ホール。

 スロープ。

 その先のエントランス。

 そして……。

 階段。

……行こう……。

 異常がないことを確認すると、バッグを掛け直しながら、エレベーターに乗り込んだ。

「……はぁ」

 エレベーターに乗り込み、溜め息を吐くと、ドアが閉まった。

……溜め息ばかりしてる……。

 そう。

 兄の四十九日の後……。

 風邪を引き、病院に行ってから……。

 その時から……。

 いや……。

 もっと前からかも……。

 二十代後半に突入してから、かも……。

 それとも、兄が死んでから……。

 わからない、いつからだろう……。

……今年は……滅入ることばかり、かな……。

 また溜め息を吐くと、操作パネルに向き直り、【14】と表示されたボタンを押した。


グゥゥンッ!


 一瞬の浮遊感と同時にエレベーターが動き出し、ガラス窓に映る景色が変わり出す。

……まずは、哉子叔母さんに会って……。

 今のこの状況。

 〈篠美〉の存在。

 兄の家について。

 叔母さんには、色々と話したいことがある。

……何か、分かるかも……哉子叔母さんなら……。

淡い期待を胸に、前髪を指で払い、操作パネル上の液晶画面に視線を移した。

……四階……。

 現在の階層を確認すると、バッグから1401号室の鍵を取り出し、それに取り付けられた楕円形のプレートに視線を落とす。

……兄さんの……そして……。

 プレートに書かれた数字を見ていると、不快感が湧き上り出す。

 同時に、息苦しくなり、鼓動が速くなってくる。

 1401号室という部屋に嫌悪感すら覚え始めているよう。

……何とか、しないと……。

 バッグに鍵を仕舞いながら首を振り、大きく息を吸い込み、気持ちを落ち着けようと試みる。


ううぅ……ぉぅ……ぅぅ。


「えっ?!」

 突然、気味の悪い呻き声のようなモノが聞こえ、全身が総毛立ち、思わず声を上げてしまった。

……何、何?

 咄嗟に周囲を見回し、声の出所を探す。

……どこから?

 エレベーターの中からではなかった気がする。

 外から聞こえたような……。

 思い立ち、ガラス窓から外を窺う。

……何も…‥ない……。

 ただ、エレベーターホールの景色が下に流れて行くだけ。

 異常はないように思える。

……怨霊、とか?

 あの、〈噂〉の……。

 殺され埋められた妻の怨霊が……。

 呻き声を上げながら、階段を徘徊しているのだろうか……。

……まさか、兄さんは……。

 頭に過った想像に寒気を覚え、恐怖が心に染み渡り出す。

……怨霊に遭遇して……。

 兄の家は十四階。

 そして、死んでいた場所は十三階。

 もしかしたら、十四階でエレベーターを降りた時。

 階段を上る怨霊に遭遇してしまったのでは……。

 そして……。

 家に入ることができず、階段を使って……。

 逃げた……。

 だけど、十三階のエレベーターホールで追いつかれ……。

 殺された……。

……いや、まさかね……そんなこと……あるわけない……。

 首を振り、苦笑して髪をかき上げると、天井の照明を見上げた。

……さっきの声……あれは……。

 違う気がする。

 改めて考えてみると……。

 人の声ではなかったような……。

 呻き声とかではなく……。

 何かが擦れたような……。

 ワイヤーか何かが軋んだような音。

 そんな気がする……。

 怨霊のわけがない。

……そう……そのはず……。

 心の中でそう決めつけ、大きく息を吸い込みながら、現在の階層を確認する。

……十三階、ね……。

 ガラス窓に十三階の景色が映り、下に流れて行った。

 兄が死んでいたエレベーターホール。

 あっという間に通過してしまったよう。

……次ね、十四階……。

 大きく息を吐きながら、バッグの中に手を入れ、スタンガンを掴む。

 エレベーターの上昇速度が落ち、ガラス窓の上方から十四階の景色が映り出す。

「大丈夫、大丈夫……」

 そう呟きながら、スタンガンを取り出し、大きく息を吸い込んだ。


ゴウゥゥゥンッ!


 低く重い音を立てながら、ドアが開いた。

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