丑三つ時

「大丈夫……」

 そう声に出して自分に言い聞かせると、スタンガンを前に向けながらエレベーターを降りた。

……早く、部屋に……。

 ぼんやりとしたオレンジ色に照らされたエレベーターホール。

 暗い階段を一瞥し、1401号室の前に来ると、ホールを警戒しながらインターホンを押した。


ピンポーンッ!


 インターホンのスピーカーマイクから呼び出し音が鳴り、ホールに響き渡る。

……開けてもらわないと……。

 叔母さんに、メールで事前に伝えて置いたこと。

 マンションの兄の家に来てほしいという事。

 もし、先に着くようなことがあったら、戸締りは完璧にしてもらうこと。

 もちろん、鍵だけでなく、チェーンロックもしてもらうように伝えてある。

……あれ?

 数秒待っても、ドアが開く気配がない。

 首を傾げ、もう一度、インターホンを押す。


ピンポーンッ!


 呼び出し音を聞きながら、ホールを見回し、スタンガンを持つ手に力を籠める。

……うそ……なんで……。

 十数秒待っても、何も起こる気配がない。

 耳を澄ましてみても、中で人が動くような音も聞こえてこない。

……いないの? ……なんで?

 このままだと、中に入ることが出来ない。

 呼び出し音に気付かないのだろうか。

 インターホンが故障していて、中では呼び出し音が鳴っていないのだろうか。

 それとも……。

……違う……もしかしたら……。

 最悪な状況が頭を過り、それを振り払うように首を強く振って、レバー式のドアノブを掴んだ。

……どこかに……そう……車にでも……。

 大きく息を吸い込むと、ノブを下ろした。


ガチャッ!


 濁ったような金属音をさせて、レバー式のドアノブが最後まで下りた。

 どうやら、ドアには鍵がかかっていなかったみたい。

……開いてる……じゃあ……。

 ドアを引いて開けると、中から白い光が漏れ、アノ甘い香気が漂い出した。

……慣れた、けど……。

 鼻腔にまとわりつく甘い香りに顔をしかめながら、家の中に入る。

 後ろ手にドアを閉めると、髪をかき上げながら視線を床に落とした。

 白い光に照らされた玄関。

 そこには、黒い革靴と白いハイヒールが……。

 二足分の靴が、散らばっていた。

 日中に見た時は綺麗に揃えられていた靴。

 たぶん、散らばっているのは、私のせい。

 日中に来た時。

 この玄関を飛び出した時。

 その時に、これらの靴を蹴飛ばしてしまったような気がする。

……仕方ない、よね……それに……。

 この二足の靴以外に、他に靴は見当たらない。

……やっぱり、哉子叔母さんは……。

 おそらく、この部屋にはいない。

 考えられるとしたら、自分の車の所。

 叔母さんが、使用したエレベーターを一階に戻すというような、マナーを心掛けているかどうかはわからないけど……。

 私が来た時。

 エレベーターは一階にあった。

 忘れ物でもしたのだろうか……。

 そういえば、マンションの書類を持って来てくれると言っていた。

 それを車に忘れ、取りに行っているのかもしれない。

……とりあえずは……。

 後ろのドアに振り返ると、鍵を掛け、チェーンロックも掛けた。

「一安心、ね」

 そう呟くと、スタンガンをバッグに仕舞い、代わりに私の携帯を取り出す。

 発信履歴から叔母さんの番号を呼び出して、発信した。


ツーっツーっツーっ


 聞き慣れた話し中の音。

 叔母さんに電話した時は、ほとんどがこの音になる。

 コール音が鳴りさえすれば、たいていは繋がるのだけれど……。

……家で掛けた時は……運転中だったのかな?

 叔母さんは多忙な人。

 比較的に、遅い時間は繋がりやすい。

 それでも、今ぐらいの時間でも、電話を使用することは多々あり、電話を掛けても繋がる事の方が少ない。

 だから、叔母さんと連絡を取る時はメールが基本になっている。

……メール、しとかないと……。

 携帯のメール機能を開き、文章を作成する。


【 兄さんの部屋に着いたよ! 完璧な戸締りをしちゃってます! 戻ってきたら、電話してね! 】


 ふぅと息を吐きながら、メールを送信した。

「さて……」

 前髪を払うと、ショートブーツを脱いで玄関を上がった。

……香水のあった部屋、ね……。

 玄関前にある部屋のドアが開けっ放しになっていて、白い光に照らされた内部が窺える。

 その部屋にある、香水のあった机を一瞥すると、廊下に視線を移す。

 ぼんやりとしたオレンジ色の明かりが灯った廊下。

 その先にあるドアは閉まっていて、そのドアのガラス部分から白い光が射し込んでいる。

……あれは……。

 オレンジ色に染まる廊下を歩き、その床の隅に落ちているモノに気付いた。

 小さいスプレー缶。

〈痴漢撃退スプレー〉

 日中に落としていった護身用アイテムだった。

……篠美は、いなかったのかな……。

 スプレー缶を拾い上げ、バッグのサイドポケットに仕舞うと、目の前のドアを眺める。

……あの時、このドアが閉まったのは……。

 そう。

 日中にこの部屋から逃げ出す時。

 大きな音を立てて、このドアが閉まった。

 その時は、振り返ることもできなかったけど……。

 今、考えてみると……。

 ドアが閉まったのは……。

「……風のせい……」

 そう呟くと、ドアに向かって歩き出す。

 実際、その可能性はかなり高い。

 〈篠美〉が閉めたのかもしれないけど……。

 本当に、その場にいたかどうかも定かじゃない。

……それに、今も……。

 ドアノブに手を掛け、軽く息を吸い込む。

 おそらく、この先の部屋は窓が開けっ放しになっている。

 叔母さんが閉めてなければだけど……。

「ふぅっ!」

 ドアが開かれると、風が通り抜け、部屋の奥にある窓に取り付けられたカーテンがはためいていた。

 案の定、ドアを開ける時、押し返されるような重みを感じた。

 外は風が吹いていた。

 それに、ここは十四階。

 地上とは違って、強めの風が吹き込んでくる。

 その風のせいで、このドアは閉まったのかもしれない。

……これなら……多分……。

 部屋の中に入ると、ドアを風が当たりやすい角度まで閉める。


バタンッ!


 予想通り、風に押されてドアが閉まった。

……やれやれ、ね……。

 肩を竦めて苦笑すると、オレンジの明かりに照らされたダイニングに向かった。

「忘れてた……」

 そう呟くと、バッグをテーブルの上に置き、椅子に腰かけ、片手で頬杖を突いた。

 ダイニングテーブルの上には、飲みかけのレモンティーと食べかけのメロンパンが置かれていて、その傍にチラシの入ったダンボール箱が置かれていた。

……チラシ……あっ、手紙……。

 ふと、頭を過るモノがあり、それに付随して閃くモノがあった。

 チラシが大量に入った……。

 青い封筒の入っていた箱。

 〈篠美〉からの手紙。

 そして、その内容。


【三日後が満月】


 調べるのを忘れていたけど、だいたいはわかる。

 思い返せば、兄が死んだ日も満月だった。

 満月の周期は約一ヶ月。

 今月の満月は、兄が死んでから二回目の満月になる。

 そして、郵便受けの近くに置かれていた箱。

 おそらく、不要な郵便物を捨てるためのゴミ箱。

 ダンボール箱に入れられた郵便物は、兄が死んでからのモノ。

 生前、兄が手紙の入った青い封筒だけを、郵便受けに残していたとは考え難い。

 そうなると、〈篠美〉が兄の郵便受けに手紙を投函するようになったのは、兄が死んでからということになる。

……篠美の……満月の件が書かれた……手紙は……。

 約一ヶ月前に書かれたモノ。

 兄が死んでから、約一ヶ月後に書かれたモノ。

……なるほど、ね……。

 改めて考えてみると、見えてくるモノがあった。

……まだ……わかりそうなのが、ある……。

 アノ……。

 異常な内容の手紙。

 そして、私がこの家から逃げ出すきっかけとなった……。

 私が勘違いをした手紙。

 この二つの手紙の内容。


【あのおんな】


【部屋の鍵を掛けないのですね】


 そう。

 〈篠美〉が鍵を掛けたのは、この家ではなく、〈私の家にある兄の部屋〉のことだった。

 そして、〈篠美〉はこのマンションの郵便受けに手紙を投函している。

 この家に入ることが出来るのならば、わざわざ郵便受けに手紙を入れる必要はないと思う。

 そうなると、〈篠美〉はこの家に侵入したことはないのかもしれない。

 だけど、エントランスのオートロックは通り抜ける事は可能だと思う。

 エントランスにある集合インターホンの類は、鍵がなくても、暗証番号を打ち込むことでロックを解除できたりする。

 実際、元カレの住んでいたマンションもそうだった。

 〈篠美〉が何らかの方法で、その暗証番号を手に入れたのかもしれない。

……そして、アノ……。

 そう。

 アノ手紙に書かれていた言葉。

 【あのおんな】は……。

 これまでの事を考えを踏まえると……。

〈写真に写っていた彼女〉

 そう考えると、しっくりとくる。

……こんな感じ、かな……。

 前髪をパサりと払うと、バッグをまさぐる。

……哉子叔母さん……まだかな……。

 バッグから私の携帯を取り出すと、液晶画面を覗き込む。

……あと五分で、二時……。

 時刻を確認し、着信とメールの受信がないか調べたけど、叔母さんからの連絡は入っていなかった。

……どうしようかな……。

 全ては私の憶測なのだけれど……。

 〈篠美〉がこの家に侵入していないと考えると、心に余裕が出てくる。

 どこか、明るい気分にもなってくるよう。

……そうだ……ロックを……。

 ふと、思い付き、バッグから兄の携帯を取り出す。

「あっ……」

 写真が……。

 兄の携帯を取り出した時、写真も一緒に掴んで出してしまった。

……兄さんの彼女……。

 写真をテーブルの上に置き、眺める。

 兄と並んで立つ彼女。

 〈篠美〉が【あのおんな】と憎んでいる女性。

 もしかしたら……。

 この人は……。

 もう……。

……いや、大丈夫……何事もない、はず……。

 嫌な考えが頭を過り、目を瞑り、首を振って払う。

……彼女は無事なはず……。

 写真を手に取り、そこに写る二人の姿を一瞥するとバッグに仕舞った。

……あれ?

 何か、違和感を感じた。

 写真を見た時だろうか……。

 何なのだろう……。

 何に違和感を感じたのかな……。

 何か、気付いたような。

 気のせいのような……。

 また、写真をバッグから取り出し、再び眺める。

……幽霊でも……写ってた、とか?

 改めてみても、何も見つからない。

 気のせいだったのかもしれない。

……なんか気になる……でも……それより、今は……。

 写真と私の携帯をバッグに仕舞うと、髪を撫で付けながら兄の携帯を操作し、暗証番号を入力する。

「0207から、だっけ……」

 独り呟き、暗証番号を入力すると、エラー音が鳴った。

……やれやれ、ね……解除、出来るのかな……。

 いきなり憂鬱な気分に陥ると、頬杖を突いて、無造作に暗証番号を打ち始めた。

 時折、吹き込む風にはためくカーテンの音。

 それ以外に、携帯のエラー音が部屋の中で響き渡る。

……哉子叔母さん、遅いな……。

 そう思った時。

 【0214】と打ち込んだ直後。

 今までのエラー音とは違う音が、携帯から鳴り響いた。

……うそ……解除したの?

 髪をかき上げ、液晶画面を覗き込む。

 どうやら、携帯のロックが解除されたよう。

……なるほど……0214、ね……。

 0214。

 月日に直すと……。

 二月十四日。

 世間で言うところの、バレンタインデー。

 しかし、私や兄にとっては、チョコ以外に思いつくモノがあった。

……母さんの……命日……。

 そう。

 今から、五年前の二月十四日に、母は他界した。

 そして、その二年後に……。

……父さんの命日じゃなくて、よかった……。

 今から、三年前……。

 母が死んだ二年後の十一月十日に、父は他界した。

 もし、暗証番号が父の命日だったとしたら……。

……1110、ね……。

 あと九百回近く暗証番号を打ち込み、エラー音を聞き続けなければならない所だった。

 考えただけでゾッとする。

……良かった、解除できて……。

 苦笑すると、溜め息を吐いて液晶画面を覗き込んだ。

……あれ……そんな……。

 着信が大量に入っていると思ったのだけれど……。

 予想外のことに、少しばかり、がっかりとした気持ちになった。

……何も、ないの?

 兄が死んだ日の前後……。

 もしかしたら、写真の彼女から連絡が入っているのではないかと思ったのだけれど……。

 着信履歴と発信履歴を見てみると、それぞれ五十件以上、履歴が残っている。

……だけど……。

 着信履歴の一番初めには、私からの着信履歴。

 そして、その後は五十件近く、様々な人からの着信があるだけで、頻繁に連絡を入れている人はいないよう。

 発信履歴も同様に、頻繁に連絡をしている人はいないよう。

 履歴を見る限り、一番、履歴を残している人は……。

……内山真悟、って人かな……。

 発信と着信、それぞれ五十件近くある履歴の中で、一番出てくる名前。

 そうは言っても、着信も発信も、共に五~六回ぐらいなんだけど……。

……でも、気になるのが……。

 着信履歴で……。

 私からの着信の次……。

 私の前に、着信を入れている人。

……いや、人じゃないけど……。

 二番目に新しい着信。

 それは、【留守番電話センター】からの着信だった。

 約二ヶ月前の着信。

 日付は、兄が死んだ日の前日。

 この日の二日後に、私は兄の死を知らされた。

……兄さんの携帯に、留守電を残した人は……。

 単純に考えれば、三番目に新しい履歴を見れば分かる。

「内山真悟、ね」

 履歴を確認し、髪をかき上げながら、そう呟いた。

……どんなメッセージを……残してるんだろ……。

 好奇心と探究心が湧き上がる。

 兄の死に関係する内容かもしれないけど……。

……聞いた方が、良さそう……。

 嫌な想像が頭を過るが、好奇心がそれを打ち消した。

「よし!」

 軽く息を吸い込むと、携帯を操作し、【留守番電話センター】に発信する。

 センターに繋がると、ガイダンスが流れる。

 どうやら、二件のメッセージが残っているよう。

……まずは……。

 一件目。

 兄が死んだ日の前日。

 その午後十時三十七分のメッセージ。


『お疲れ様です。内山です。会社に戻ったら連絡ください。お願いします……』


 会社の同僚。

 そんな感じの、メッセージ。

 〈内山真悟〉は兄と同じ会社で働いている人なのだろうか……。

 何か、知っているかもしれない。

……明日、連絡を取ってみよう……。

 続いて、二件目のメッセージが流れる。

 日付は今から約3カ月前。

 七夕の日。

 私が兄の死を知った日の、ちょうど一ヶ月前。

 その午後、十一時五十四分のメッセージ。

……あれ?

 無音というか、無言が続いている。

 時折、衣擦れのような音が聞こえるけど……。

……何なの……悪戯電話?

 不安感が心に芽生え始める。

 しかし、興味は失せていなく、受話口から耳を離せない。

……気付かずに、発信しちゃったとか?

 私も経験があり、稀にあること。

 バッグやポケットに入れて置いた携帯が、何かにぶつかった拍子に、電話を掛けてしまうということ。

……どれくらいで、気付くんだろ……。

 ガイダンスによると、一つのメッセージの再生時間は三分。

 このメッセージがいつまで続くのか……。

 この発信者が三分の間に気付くのか……。

 しょうもない探究心が湧き上がる。

 受話口から耳を離さずに、流れる音に意識を集中させる。


『……ぅ……っ……ぅ』


 衣擦れの音が止まり、女性のものと思われる息遣いが聞こえ出した。


『っく……っひ……ぅぅ……ひっ……っく……ごめっ、んなさっい』


 嗚咽と絞り出した声。

 どうやら、女性が泣きながら話しているみたい。


『ぅぅぅ……しの、み……しのみ、です。ごめん、なさいっ。けいた……を……あのみせに、わす……て……どうし、て……っぅ……どうして、たんじょうび、だった、のに……わたしの……っぅ……わたしの……っっぅぅ……たんじょうぅっ……へやの、てが、み……てがみ、よん……かったの…………っっどうして……どうして、どうして、まってたまってたのにぃ……あのみせであのみせで……ずっとまってたのにずっと、ずっとまってたのにぃぃ……ゆるさないゆるさないぃあのおんな、ゆるさないあのおんなぁ、あのおんなあのおんなぁっ!いっしょにいるのねっ! いっしょいっしょ! ゆるさないぃぃゆるさないぃぃぃっゆるさないぃぃぃぃっっ! いまからいまから! いくわ! いくわ! いまからいくわ! あなたのいえに! まっててね! まっててねっまっててねぇぇぇぇぇっっ! ゆるさないからぁぁぁぁゆるさないからぁぁぁぁゆるさないからぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっあのおんなぁぁぁぁぁっっゆるさな』


「……う、そ……」

 全身に寒気が走る。

 先程までの明るい気持ちが一変し、恐怖感が湧き上がる。

 頭の中が真っ白になり、金縛りにあったように、身体が硬直する。

 携帯を耳から離せずに、呆然とする。

……篠美からの……メッセージ……。

 初めて聞いた……〈篠美〉の声……。

 その言動。

 発する言葉。

 全てに不快感を覚える。

……なに……なんなの……なんなの…。

 頭の中で、〈篠美〉の声が響き渡る。

 兄に対する恨み言が、耳の奥で谺する。

……嫌……なに……篠美……なんなの……。

 何も、考えられない。

 疑問符がぐるぐると脳内を駆け巡り、不快感が増してくる。

……ダメ……ダメ…………落ち着こう…………落ち着かなきゃ……。

 携帯をテーブルの上に置くと、額に手を当て、何度も深呼吸をして気持ちを落ち着けようとする。

……大丈夫……大丈夫……ここは安全……安全……。

 心の中で自分に言い聞かせ、不快感を抑えようとする。

……そう……ここは……安全…………そのはず……。

 呼吸を意識的ゆっくりとさせ、呼吸を整えようとしている時。

 ふと、頭の中で留まる言葉があった。


〈七夕〉


 〈篠美〉は今日が誕生日だと言っていた。

 そして、メッセージは七夕に録音されている。

「……ちょっと、まって……」

 そう呟くと、立ち上がり、兄の携帯をテーブルから取り上げて操作する。

 着信履歴を開き、〈篠美〉がメッセージを残した日。

 その着信履歴を探す。

……あった……。

 七夕。

 その午後、十一時五十三分に着信が入っている。

 登録されていないのか、番号だけが残っていて、発信者の名前は表示されていない。

……携帯からじゃ、ない……。

 そう。

 その番号は固定電話から発信されたモノ。

 市外局番を見ると、どうやら、同じ市内から掛けられたモノであることがわかった。

……どうしよう……掛けてみよう、かな……。

 電話番号という、〈篠美〉に関する情報が手に入ったことで、幾分か気持ちに余裕が出来てきた。

 電話越しとはいえ、〈篠美〉とコンタクトを取ることが可能。

 うまくいけば、今回の件に終止符を打てるかもしれない。

「よし!」

 一つ気合を入れると、携帯を覗き込む。

……繋がれば、いいんだけど……。

 そう。

 もう、かなり遅い時間。

 ほとんどの人が寝ている時間。

 普通だったら、迷惑になる時間。

 それに、この番号が今も使われているかはわからない。

 お決まりのガイダンスが流れてくる可能性も充分にある。

 繋がったとしても、〈篠美〉がその場にいないということも考えられる。

 今までの流れ的に、その場にいないという可能性が最も高いと思う。

……だけど……。

 携帯を握る手に力が籠る。

……前に、進むため…………掛けよう……。

 決心し、その〈篠美〉の番号に発信しようとした時。


トン……トン……トン


 ドックンと、一度、心臓が強く弾むと、すぐに速く脈打ち出す。

 廊下の方から……。

 何か硬いモノを軽く叩くような……。

 ノックのような音が聞こえた。

 動きを止め、耳を澄ませて、閉まった部屋のドアを見据える。


トン……トン


 また、同じ音が廊下の方から……。

……もしかして……叔母さん?

 思い付くと、バッグから私の携帯を取り出し、操作する。

……電話すればいいのに……。

 着信やメールが入っていない事を確認すると、二つの携帯を重ねて持ち、部屋のドアに向かう。


トン……トン……トン……トン


 ドアノブに手を掛けると、また同じ音。

 ドアの向こう側から聞こえる。

 おそらく、玄関のドアをノックする音。

……インターホン、使えばいいのに……故障してるのかな……。

 軽く息を吸い込むと、ドアを開けて廊下に出て、後ろ手にドアを閉める。

……話したいことだらけ、ね……。

 前髪を指で払いながら苦笑して、玄関に向かう。

「今、開けるからね」

 ドアに向かってそう声を掛けると、ショートブーツを踏み台にして、チェーンロックを外す。

 そして、ドアの鍵に手を掛けると同時に――。

「わっ?!」

 持っていた携帯から着信メロディが流れ出した。

 私のお気に入りアーティストの曲。

「……哉子叔母さん?」

 携帯の画面に映し出された名前を確認し、そう呟く。

……どうしたんだろ……。

 首を傾げながら、通話ボタンを押して電話に出た。

「もしもし?」

「あっ! 水香? どこにいるの?」

 叔母さんの声。

 今となっては、その声を聞くだけで心強さを感じる。

 しかし、少しばかり怒り気味のよう。

「あぁ、ごめんごめん……今、開けるから」

「え? 開ける? ……何を?」

「何って、玄関の鍵を……」

「玄関の鍵? どうして?」

「え? だって、開けないと……哉子叔母さん、入れないでしょ?」

「入れないって、何を言ってるの?」

 どういうこと?

 話が噛み合わない。

 叔母さんは何を言ってるの?

「だって、メールで送ったでしょ?」

「そうよ、メールを見たから、電話を掛けたのよ……水香、大丈夫?」

「大丈夫って……」

 叔母さんは何を言ってるの?

 意味が分からない……。

「水香……今、どこにいるの?」

「どこって……兄さんの家……」

「勇也の家? ……マンションの?」

「そう……哉子叔母さんが買った、家……」

「本当に? 本当にそこにいるのね?」

 何かがおかしい。

 叔母さんの発する言葉。

 何を言ってるの?

 何を確認してるの?

「本当……どうして?」

「SICマンションよね」

「そう……」

「タイプWBよね」

「そうよ……」

「三号棟ね?」

「そうよっ! どうしてっ?!」

 哉子叔母さんの言葉に、思わず声を荒げてしまった。

 同時に呼吸が乱れ、息苦しくなる。

「水香……あなた、どこにいるの?」

 落ち着いた、諭すような声。

 安心感を与えてくれるゆっくりとした口調。

「……私はずっと……その勇也の家で待ってるのよ」

「っっ?!」

 叔母さんの言葉を聞いた瞬間。

 全身に寒気が走り、言葉を失った。


トン……トン……トン


 またノックの音がした。

 それも、玄関のドアからではなく……。

 廊下の方から……。

「うそ……」

 どういうこと?

 なんで廊下から?

 このドアからじゃないの?

 なんで?

……まさか、ここには……居ない、はず……。

 この家の鍵も持ってるの?

 侵入できるの?

 いつ……入って来たの?

……もしかし、て……。

 日中の出来事が頭の中を閃き走る。

……あの時……鍵を……。

 このマンションから逃げ出した時。

 この家の鍵は掛けていない。

 そして……。

……エレベーター……。

 この部屋に初めて来た時。

 エレベーターにタカハタが乗って、下に降りて行くのを見届けている。

……でも……。

 私がこの部屋を出た時。

 エレベーターは十四階にあった。

 タカハタが、エレベーターを十四階に移動させたというのは考え難い。


トン……トン……トン


 廊下から……。

……そんな……まさか…………う……そ……。

 ノックの音が……。

「どうしたの? 水香?」

「ノックが……廊下から……」

 携帯から聞こえる叔母さんの声。

 頭の中がぐちゃぐちゃになり、その声が遠くに聞こえるよう。

「ノック? 何を言ってるの? 水香! あなたどこにいるの!」

「だから……兄さんの家……1401号室……」


トン……トン……トン……トン


 廊下から、ノックの音が……。

 壁を叩くような音が……。

「なんで……1401号室って……水香っ!」


トン……トン! …………ドン! ……ドン! ……ドン!


 ノックの音が……。

 徐々に強く……。


ドン! …………ドンッ!! …………ドンッ!! ……ドンッ!! ……ドンッ!!


「水香っ! 上ね?! 上の部屋にいるのねっ?!」

 恐怖のせいなのか、意識が朦朧としてくる。

 その意識の中、遠くの方に聞こえる叔母さんの声。

 その言葉に何か思い付くモノがあった。

「ここは……この部屋は……」

 兄の携帯を操作し、発信すると、その場に崩れ落ちた。


ドンッ!! ……ドンッ!! ……ドンッ!! ……ドンッ!! ドンッ!! ドンッ!!


 廊下の方から聞こえる。

 壁を叩く音。

 強く、怒りを籠めたように、壁を殴っているような……。


トゥルルルルルルルルルルッ


 リビングの方から聞こえる電話のベル。

 どうやら……。


トゥルルルルルルルルルルッ


 いつの間にか、壁を叩く音が止んでいる。


トゥルルルルルルルルルルッ


……やっぱり、ね……。

 思い付いた事。

 正しかったみたい……。

……この部屋は……。

 1401号室は……。

 〈篠美〉の家。

 そして……。

 この下の部屋。

……1301号室が……。

 兄の家……。

 〈橘勇也〉の家。

……そう…………。

 薄れゆく意識の中、アノ甘い香りが濃くなった気がした。

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