昼頃-2

「あの……何号棟なんですか?」

 管理棟を出た先、道路と駐車場に挟まれた敷地内の通路。

 街路樹をざわつかせる強めの風が吹く中。

 スタスタと先を歩く中年男に思い切って尋ねる。

「あのマンション」

 中年男は、一番手前のマンションを見ながら、そっけなく答える。

 〈四号棟〉の隣のマンション。

 管理棟の目の前に位置する建物。

 この通路の先にある駐輪場と物置を傍らにする棟。

〈三号棟〉

 見たわけでもなく、確定ではないけど……。

 棟の並びから考えて、間違いないと思う。

「三号棟、ですよね?」

 風に流され顔に掛かった髪を、首を振って払い、中年男に確認する。

 私の言葉に中年男は無言のまま、少し頷くような素振りを見せた。

……やっぱり……それにしても……。

 なにやら、さっきより風が強くなり、雲の色が濃くなってきてるよう。

 抱えた黒い鞄を顔の前に掲げ、風除けにする。

……兄さんは〈三号棟〉に住んでいた……じゃあ、何号室なのかな……。

 鞄の影から中年男を一瞥し、〈三号棟〉を見上げる。

 いくつものベランダがあり、風に揺れる衣服や布団がいくらか目についた。

……ちょっと、安心……。

 思い返せば、このマンション群に到着してから誰も見かけることがなかった。

 敷地内で初めて遭遇したのが、目の前を歩く中年男。

 時間帯のせいなのかな。

 昼食の用意でもしているのか。

 怪しい天気のため、外出を控えているのか。

 今、マンション群の敷地内を移動する人間は私と中年男の二人だけだった。

……何だか……変な感じ……。

 寂しいというか、心許ないというか、何だか不気味な雰囲気が漂っている。

 通り過ぎた駐車場には車が数台停められていて、敷地に面した車道には車が走っている。

 確かに、マンションには住人が存在していて、敷地外にも人はいる。

 だけど、何だろう……。

……不安感? ……期待感? ……後悔? ……使命感?

 胸の奥で生じている理解し難い感覚。

 〈三号棟〉に近づくに連れて……。

 兄の部屋に近づくに連れて、その感覚が大きくなってきているような。

 死者のプライベートを調べようとしているからなのか。

 だけど、疚しい気持ちとは違うような気がする。

……兄さんの死……愛里ちゃんから聞いた……タクシーで聞いた……。

 やはり〈噂〉を聞いたせいなのかな。

 〈噂〉を聞いてなければ、こんな感覚に囚われることはなかった。

……もしかしたら、兄さんは……。

 鞄を胸の前に下ろし、首を振って頭に浮かんだ嫌な思考を払う。

……余計な事……考え過ぎ……。

 駐輪場を横目に、中年男に気付かれないように軽く溜め息をついた。

「ここだ」

 マンション正面に周り、中年男が入り口の前で立ち止まる。

 そのガラス製の扉には【A】が記されていた。

 この入り口の先に兄の部屋がある。

……SICマンション……タイプWB……三号棟のA……。

 部屋は何号室なのか。

 あともう少しで分かる。

 そして……。

……兄さんは……ここで……。

 マンションを見上げ、大きく息を吸い込むと、中年男に顔を向ける。

 中年男は私を一瞥すると、ダンボールを片手に持ち直し、扉を開けて中に入っていった。

 鞄を左手に提げると、閉じかけた扉を押さえ、中年男の後に続いた。

……暗い……。

 中に入って最初の感想。

 天井を見上げると、照明が付いているのは確認できたのだけれど、明かりが灯っていない。

 日中だからか、省エネのためなのかな。

 曇り空も相まって、日中だというのにマンションの中はかなり暗い。

 それに、湿度が高いのか、通気性が悪いのか。

 重たい空気が漂っていて、息苦しいような不快な感覚に陥る。

 正直、第一印象ではここに住みたいと思えない。

……嫌な雰囲気……。

 呼吸を浅くして、顔を下ろす。

 目の前には郵便受けがあり、その横にガラス製の扉があった。

 扉の横には数字などが設けられたパネルがある。

 おそらく、インターホンだろう。

 そうなると、この扉はオートロック。

……防犯、ね……。

 鞄の取っ手を右腕に通して提げると、左手で髪をかき上げ、中年男に視線を移した。

 中年男はダンボールを片手に持ったまま、インターホンと思われるパネルの前に立ち、上着のポケットをまさぐっている。

……何だろ……鍵でも出そうとしてるのかな……。

 中年男から視線を外し、髪を手櫛で整えながら、郵便受けを眺める。

 オートロックの扉の先にある、全ての部屋。

 101号室から1502号室までの郵便受けが並んでいる。

 どうやら、この〈三号棟のA〉は一階層に二部屋という造りのよう。

 外から見た様子から、〈三号棟のB〉の方も同じ造り。

 おそらく、他の棟も同じだと思う。

……兄さんのは……どれだろ……。

 郵便物が溜まってはみ出ていたり、テープで口が塞がれたりしているものがいくつかある。

 そのどれかだろうか。


チャリっ!


 乾いた金属音。

 音のした方、中年男に顔を向ける。

 ポケットをまさぐっていた中年男の手には、楕円形のプレートが付いた鍵があった。

 中年男はそれをパネル上方に備わっていた鍵穴に差し込み、回した。


ピーピー!


 電子音が鳴り、それと重なるように、鍵が開くような音がしたような気がする。

 中年男は鍵を引き抜き、手にしたダンボールの中に放ると、扉の取っ手を掴み、手前に力強く引いた。

 扉が開かれると同時に、空気の流れを感じ、さらに息苦しさが増した様な不快感を覚えた。

……何だろ……何か、変な感じが……。

 生暖かいような、澱んでいるような、嫌な空気。

 ずっと閉め切っていた部屋を開けたような。

 異様な雰囲気。

……気のせい? ……それとも……。

 注意深く、空気を吟味するように、鼻で大きく息を吸い込んでみる。

 鼻腔に、無味で……強いて言うなら、建物自体のにおいがする空気が広がる。

……やっぱり、気のせい……緊張してるのかな……。

 大きく息を吐くと、閉じ行く扉をすり抜け、中年男の後を追った。

「……暗、ぃ……」

 扉を抜けた直後、思わず立ち止まり、声を出してしまった。

 だけど、それも仕方がないと思う。

 今いる場所が……。

 オートロックの扉を抜けた先が……。

 本当に暗い。

 危機感のようなものを感じてしまう暗さ。

 明かりがない……いや、明かりはあるにはあるけど、後方のガラス扉から射し込む、僅かな自然光だけ。

 太陽の出ている天気の良い日ならまだしも、今日のような雨が降りそうな曇り空では、大した明かりにならない。

 それでも、頼りない自然光のおかげで、目の前のスロープとその先のエレベーターが、先を進む中年男越しに確認できた。


カチャッ!


「っ?!」

 突然の背後からの金属音に驚き、咄嗟に振り向く。

 一瞬、心臓が止まったような気がした。

 鼓動が速くなり、鳥肌が立っているような、不快な感じがする。

……ロックされた、のかな……。

 前髪を払い、深呼吸をして、心を落ち着かせる。

……大したことじゃないのに……やれやれ、ね……。

 前に向き直ると、ちょうど中年男がエレベーターの前に到着するところだった。

 それを見届け、ふと横を向くと……。

……これは……懐中電灯が必要じゃ……。

 漆黒の闇が広がっていた。

 いや、漆黒は言い過ぎかもしれないけど、目が慣れないと何も見えないような暗闇。

 真っ黒な空間がそこにあった。

 おそらく、この空間は階段下。

 エレベーターの向かいに階段があるんだと思う。

……何で、照明がないの?

 先ほどの郵便受けの位置から考えると、この階段下でオートロックの扉側に、取り出し口があるはず。

 この位置には照明があってもいいと思うんだけど……。

 髪をかき上げ、上方を見回しても、照明器具は見当たらなかった。

 溜め息を吐いてエレベーターの方を振り返ると、中年男がダンボールを両手で抱え、こちらを向いて仁王立ちしていた。

……早く来い、ってね……。

 軽く息を吐き、横の暗闇を一瞥して、スロープを上る。

 エレベーターに近づき、辺りを見回すと、両側に部屋があるのが分かった。

 エレベーターの前の空間。

 エレベーターホールというものかな。

 そのホールを挟むように、各部屋のドアが向かい合っていた。

……101号室と102号室、ね……。

 視線を上にあげると、ライトの様なものが天井に付いているのに気付いた。

……電気……点かないのかな……。

 エレベーターの前に着き、中年男の横に並んで、天井を見上げる。

 やっぱり、天井に付いているのは電灯だと思う。

 間違いない。

 何で、点いてないのか。

 やっぱり、省エネ……それとも、電球が切れてるのか。

 おそらく、前者だろうけど、何とかならないのかな。

……暗すぎる……何か、嫌な感じ……。

 明かりがほとんどないことが原因なのか。

 暗く、異様な雰囲気のせいなのか。

 それとも……。

 嫌な想像が頭を過り、耳障りなノイズが耳の奥で響いた。

……違う、はず……そうじゃない、でほしい……。

 鼓動が速くなり、寒気が走る。

 不安や後悔が心に染み渡り、不快な感覚が身体を蝕んでいってるような。

……確認……そのために……いや……それだけじゃないけど……。


ゴウゥゥゥンッ!


「わっ?!」

 突然の音に、声を上げてしまった。

 何の音なのかはすぐにわかった。

 エレベーターのドアが開いた音。

 考え事をしていたせい。

 気付くのが遅かった。

 なにやら鼓動が速くなっているけど、驚きより恥ずかしさが大きな原因。

 何だか、顔が熱くなってきてるよう。

 恥ずかしい気持ちを胸に、視線だけ中年男の方に向けてみる。

……お構い、なし……。

 中年男は私に目もくれずにエレベーターに乗り込んだ。

……良かった、かな……いや、逆に気まずいかも……。

 ふぅと息を吐いてエレベーターに乗ると、操作パネルの前にいる中年男より奥に立った。

……何階、なのかな……。

 中年男がボタンを押すと、ドアが閉まり、エレベーターが上昇を始めた。

 この位置からだと、中年男の影になり、操作パネルが見えない。

 中年男が何階を押したのかが分からない。

 操作パネルの上には液晶画面があり、現在の階層がデジタル数字で映し出されている。

……三階……。

 どうしようか。

 とりあえず何階かわかればいい。

 とりあえず、それだけでも知りたい。

……あの階じゃなければ……。

 息を吸い込み、操作パネルが見える位置に移動しようとした時。

「現場、見るか?」

 中年男が呻くような声でそう言って、咳払いをした。

「え?」

 思わず、聞き返してしまう。

 現場?

 どういうこと?

 頭に疑問符が浮かぶ。

「だから、現場……アンタの身内が死んでいた場所」

 覇気のない中年男の声。

 その言葉を聞き取った時。

 心臓がドッグンと強く弾み、全身が総毛立った。

 鼓動が速くなるが、血の気が失せるように寒気が走る。

「……え、あの……死んでいた場所って……?」

「見るか?」

 そう言って、中年男は私の返事も待たずにボタンを押した。

……死んでいた場所? 

 兄さんが死んだ場所?

……やっぱり……もしかして……そんな……嘘……。

 予想はしていた。

 だけど……。

 本当に……。

 鞄を胸の前で抱きかかえ、液晶画面を一瞥し、視線を足元に落とす。

……十階……まだ……やっぱり……兄さんが……あの……。

 耳の奥でアノ声が喚く。

 霊安室で見たアノ顔が脳裏に映る。

 〈アノ噂〉が……。

 〈アノ噂〉も……。

……事実なの? ……嘘よ……何で……。

 嫌な想像が頭の中を駆け巡り、不本意な憶測を肯定させる。

 不安、後悔、そして、恐怖心までもが心に広がり出す。

……十二階……。

 液晶画面を見ると、ドアの下方に視線を移し、息を飲んで見据える。

……そろそろ……十三階……。

 エレベーターの上昇速度が落ちる。

 鼓動が速くなる。

……着いた……。

 エレベーターが停まった。

 鞄を抱える腕に力が籠る。


ゴウゥゥゥンッ!


 ドアがゆっくりと、重い音を立てて開いた。

……十三階……兄さんは……ここで……。

 ドアが開いた先。

 エレベーターホールに。

 動くことなく息を止め、視線だけを漂わせる。

 どういうわけか、照明が点いていて、ホールをぼんやりとしたオレンジ色に照らしている。

 しかし、照明の色や光が弱いせいもあり、薄暗い。

「ここだ……まだ残ってるみたいだな……中々、な……」

「えっ……?!」

 疲れた口調の中年男の言葉に、声を上げる。

 中年男を一瞥し、その視線を辿る。

……床に……何が……。

 中年男の見ている先。

 床。

 ホールの床。

 何が。

 何があるの?

 何が残ってるの?

……何を言ってるの? ……どういうこと……。

 〈噂〉は……。

 通りの良い不快な声が囁く。

 目を見開いた柴崎さんの顔が思い出される。

 電話口の愛里ちゃんの言葉が甦る。


ゴウゥゥゥンッ!


 ドアが閉まり、エレベーターが再び上昇を始める。

……何なの……何なの……違うの……どうして……。

 頭の中がごちゃごちゃになってる。

 落ち着いて……。

 整理しないと……。

 でも……。

「着いたぞ」

 中年男がそう言うと、エレベーターが停まった。


ゴウゥゥゥンッ!


 ドアが開くと同時に、中年男はエレベーターを降り、ホールの中央にダンボールを置いた。

「この部屋だ」

 そう言いながら、ぶっきらぼうに顎で左側を指す。

 そして、エレベーターに乗り込み、ドアを押さえ、私を見据える。

 その視線は、早く降りろと言っているよう。

……着いたの? 兄さんの部屋に……それより、さっきのは……どうしたら……訳わかんない……でも……そう……。

 鞄を左手にダラリと提げると、右手を額に当て、深く溜め息を吐く。

 そして、エレベーターを降り、オレンジ色に染まる薄暗いホールに出る。

……どうしたら……このままじゃ……ダメ……。

 意を決し、軽く息を吸い込んで、振り返った。

「あの、十三階で……このマンションで、何があったんですか?」

 私の言葉に、中年男は訝しげな表情をすると、ゆっくりと俯いた。

「……詳しいことはわからない……鍵は後で返せばいい」

 呟くようにそう言って、中年男はドアを押さえた手を外した。

「え? ……あのっ! ちょっと!!」


ゴウゥゥゥンッ!


 重い音を立ててドアが閉まり、エレベーターは下降していった。

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