夜半過ぎ-1

「5660円です」

 初老のドライバーが穏やかな口調で料金を告げてきた。

 手にした携帯から二百六回目のエラー音をさせた後、バッグから財布を取り出す。

「ロック、解除できませんね」

 笑顔でそう言うドライバーに、五千円札と千円札を一枚ずつ渡すと、携帯をバッグに入れた。

「やっぱり、簡単にはいきませんよね」

 苦笑を浮かべ、ドライバーにそう答える。

「340円のお釣りです……ロックの解除、頑張ってくださいね」

 ドライバーに作り笑いで返すと、硬貨を受け取り、それを財布に入れてタクシーを降りた。

……こんな夜中に、来る事になるなんて……。

 溜め息をしながらバッグに財布を仕舞い、目の前のマンションを見上げる。

〈SICマンション・タイプWB・三号棟〉

 十五階建てのマンション。

 この十四階に兄の家がある。

 そして、叔母さんとの待ち合わせ場所。


バタンっ!


 ドアの閉まる音に振り向くと、タクシーが走り出した。

 タクシーが角を曲がるのを見届けると、バッグから私の携帯を取り出し、時刻を確認する。

……一時……三十六分、ね……。

 もう少しで丑三つ時。

 タクシーの走行音が聞こえなくなり、辺りは静寂に包まれた。

 髪をかき上げて空を見上げると、見事な名月が浮かんでいる。

 パッと見は満月だけど、目を凝らすと、僅かに欠けているのが分かる。

「不気味、ね」

 マンションに視線を移し、そう呟いた。

 中秋の名月に照らされた白塗りのマンション。

 見上げたマンションの窓には、どれも明かりが灯っていない。

 そのせいか、人の気配も全く感じられない。

 目の前のマンションは、日中に来た時とはまた別の、異様な雰囲気を醸し出していた。

……やっぱり、気が引ける……。

 自宅での出来事。

 日中での出来事。

 この数日間の出来事。

 思い返すだけで、不快感が湧き上る。

 このマンションを見るだけで、思い起こされる。

〈篠美〉

 この名前。

 私にとっての、恐怖の代名詞になりつつあるよう。

……でも、このままじゃ……。

 そう。

 このままでは何も変わらない。

 何も分からない。

 逃げるだけではいけない。

 知らないといけない。

 〈篠美〉は何者なのか……。

 兄との関係は……。

 そして、〈噂〉……。

 全てを知らないと……。

……前に、進めない……でも……。

 地面に視線を落とし、大きく溜め息を吐いた。

 自分の限界を感じていた。

 精神的に参ってきている。

 疲れと、病み上がりのせいもあると思う。

 だけども……。

……兄さんのせい……。

 そう。

 全ては、興味本位で兄の事を調べ始めたせい。

 ゲーム感覚で始めた事。

 今では、兄に関わるモノ全てが、私の心にダメージを与えている。

 克服するために……。

 兄に関わるモノを、解き明かさないと……。

……でも……私一人では……もう……。

 顔を上げ、大きく息を吸い込み、エントランスを見据える。

 二枚のガラス製の扉が開けっ放しになっていて、風が吹く度に、その扉がカタカタと震えていた。

……私みたい……。

 苦笑し、溜め息を吐くと、携帯をバッグに仕舞った。

……まずは……哉子叔母さんに、会おう……。

 前髪を指で払うと、バッグを掛け直し、エントランスへ歩き出した。

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