昼前

「ああ、そうだね。田中さんだね……間違いないよ」

 〈SICマンション・タイプWB〉の管理棟。

 そのフロントのカウンターで、カワモトさんが写真を眺めながら、ゆっくりとした口調でそう答えた。

……やっぱり、ね……。

 兄と女性が並んで写る写真を受け取り、髪をかき上げる。

……写真の女性は……篠美……そして、私と同じ名字……。

 そう。

 〈篠美〉の名字は〈田中〉だった。

 そして、私と同じ名字だったから……。

 おそらく……。

「あの。先日、私がここに来た時、1401号室に案内されたんです。タカハタさんに……」

 そう言って、バッグから楕円形のプレートが付いた鍵を取り出し、カウンターの上に置いた。

「あぁ、そうなんですか。本当に申し訳ない。どうしてかな。タカハタさんには、伝えておいたんですが……」

 カワモトさんはそう言って、困惑した顔で頭を下げる。

「鞄と郵便物の入った箱、そして、その鍵を渡されたんですよね。もしかしたら、タカハタさんは私が1401号室の田中さんと同じ名字だったから、間違えたとか?」

「そうですね。その可能性はあります。箱と鞄は私が用意して、分かる場所に置いていたんですが……部屋の鍵は防犯上のこともあって、別の所に保管しているんですよね」

「1301号室の橘だと、伝えなかったんですか?」

 カワモトさんの言葉に、叔母さんが凛とした通る声で返した。

「ああ、すいません。1301号室の身内の方だと伝えました。橘さんとは伝えてませんでした。タカハタさんは、私が間違えたと思ったんですかね……」

 カワモトさんの言葉に心の中で頷く。

 おそらく、カワモトさんが言うように、タカハタさんはカワモトさんが間違えたんだと思ったのだろう。

 あの時……。

 私は、タカハタさんに……。

 私が〈田中〉とだけ伝えた。

 他に何も伝えていない。

 それに、タカハタさんは、まだ働き始めて2ヶ月も経っていない新人だと聞いている。

 ただ単に、思い込みか、勘違い、話を聞いていなかったとか、原因はいくらでもある。

……そもそも……1401号室に案内されてなければ……。

 そう。

 私はあんな体験をすることもなかった。

 〈篠美〉の家に入ることもなかった。


『知らぬが仏』


 そんな諺が脳裏を過る。

「ところで、タカハタさんは?」

「いやぁ、連絡が取れないんですよ。今日はお休みの日ですからね。部屋にもいなかったんで、どこかに出掛けてるんじゃないですかね」

 叔母さんの問いに、カワモトさんは髪の薄い頭を掻きながらそう答えた。

「そうですかぁ。お礼を兼ねて、これを渡したかったんですが……」

 叔母さんはそう言って、手に持っていた菓子折りの入った紙袋を持ち上げた。

「お礼ですか? タカハタさんに?」

 そう。

 叔母さんから聞いた話では……。

 私が1401号室で気を失った時。

 すぐに、叔母さんはその部屋に来たのだけど、鍵が掛かったままだった。

 その時……。

 その部屋を開けてくれて、なおかつ、私を叔母さんの車まで運ぶのを手伝ってくれたのが、タカハタさんだった。

 なんでも、タカハタさんは向かいの部屋である、1402号室に住んでいるみたい。

 叔母さんが1401号室の玄関ドアを叩く音に気が付き、様子を見に出てきたよう。

……そもそもは、事の元凶……だけど、助けてくれたことは……感謝、ね……。

 二人のやりとりを見守りながら、前髪を指で払い、小さく溜め息を吐く。

「そういえば、タカハタさんって……ずっとこのマンションに住んでいるんですか?」

「いえ、ずっとではありませんが……どうかしたんですか?」

「いえ……以前、五年ぐらい前のことになるんですけど、会った事がある気がするんですよねぇ」

 叔母さんの言葉に耳を疑い、耳を欹てる。

 以前に会った事がある?

 どういうことだろう?

「そうですか。確かにタカハタさんは、三年前まで、今と同じ部屋に住んでいたんですよ。泥棒に入られたとかで、他にも事情があってなのか、部屋を引き払ってしまったんですが……それが二ヶ月ほど前に戻ってきまして……賃貸として、同じ部屋に住むことになったんです。そして、この管理棟で働くことになったんですよ」

 なるほど、ね……。

 タカハタさんはあの三号棟の元住人であり、現住人であると……。

「やっぱり! 奥さんと住んでましたよね? とても仲が良さそうでしたけど、今は?」

 叔母さんの言葉に、カワモトさんは顔を曇らせる。

「そうですね、今はいないようですね。以前は、二人仲良くしてる姿をよく見かけたんですが……まぁ、色々な噂が飛び交っているみたいですね。詳しい事は、分かりませんが……」

 カワモトさんの話に、頭を過るモノがあった。

〈徘徊する妻の怨霊〉

 この〈噂〉のモチーフになったのが、タカハタ夫妻に起きた出来事なのかもしれない。

……噂といえば……。

 〈十三階の怪死者〉は……。

 1401号室に私を連れて行ったタカハタさんが、私に見せた現場。

 十三階のエレベーターホール。

 要するに、1401号室の住人が、〈十三階の怪死者〉であるということになる。

 初めは、兄だと思っていたけど……。

 兄の家は1301号室。

 そうなると、〈十三階の怪死者〉は〈篠美〉で間違いないだろうか?

「あの、カワモトさん。話が変わるんですけど……1401号室に住んでいた田中さんは、十三階のエレベーターホールで亡くなっていたというのは、本当ですか?」

「ええ、そうですよ、よく憶えてます。七夕の翌日でしたからね。急性の心不全で、亡くなっていたみたいですね。新聞配達員の青年が見つけまして、真っ青な顔でここに駆け込んできたのを憶えてます」

 カワモトさんはさらに曇った顔で答えると、カウンターに置かれた1401号室の鍵を手に取る。

「すいません。もう、仕事に戻らないといけないので……」

「あっ、ごめんなさい。タカハタさんによろしく言っておいてください。近い内にまた来ます」

 叔母さんの言葉に会釈で応えると、カワモトさんはカウンターの奥のドアを開け、中に入っていった。

「ふぅ。知りたい事は……全て知れた、かな」

 溜め息を吐くと、髪をかき上げる。

「そう。少しは気が楽になった?」

「そうね、楽になったかも……そういえば、きのう聞いた話だと、兄さんの死体を発見したのも、新聞配達員だったんだよね?」

 私の言葉に、叔母さんは苦笑を浮かべる。

「正確に言うと、死体じゃないわね。エレベーターの中で倒れている勇也を見つけたのよ。まぁ、搬送中の救急車の中で息を引き取ったわけだけど……」

 そういうことね……。

 エレベーターの中で死んでいたとなると、また〈噂〉になっていると思ったんだけど……。

 兄の死に関する〈噂〉がなかった。

 すでに曰くつきの、アノ三号棟で死んだとなると、〈噂〉になっていてもおかしくないと思ったのだけれど……。

 でも……。

 これから、〈噂〉が広まるかもしれないし、私の耳に入っていないだけで、すでに広まり始めているのかもしれない。

……何にしても……結局、兄の身に何が起こったのか……。

 分からない……。

 分かっているのは、心不全という死因だけ。

 もしかしたら、十三階で死んだ……。

 〈篠美〉の呪いかも……。

……あれ? ……もしかしたら……。

 そういえば、〈篠美〉が書いたあの異常な手紙。

 あの中に出てくる【あのおんな】とは……。

 もしかしたら、私の事を言っていた可能性もある……。

 私の家の表札は〈田中〉だし、兄と名字が違う。

 勘違いが生まれるかもしれない。

……そもそも……篠美の死の原因は?

 心不全で死んだのは確か……。

 だけど、なんで……。

 これこそ、〈徘徊する妻の怨霊〉の仕業?

 まさかね……。

 じゃあ、なんで……。

 心臓が弱かったとか?

 そう考えるのが妥当。

 でも、〈篠美〉が死んだ日は……。

 カワモトさんは七夕の翌日と言っていた。

 そうなると……アノ……。

「水香? どうしたの? ぼーっとして」

「哉子叔母さん。篠美が死んだのは、心不全だよね? でも……」

 視線を床に落とし、額に手を当てながら、そう言うと。

「そうねぇ。アノ留守電のメッセージや手紙を読む限りで、思い付くとしたら……憤死、かしらねぇ」

「憤死?」

「そう、憤死……簡単に言うと、怒りのあまり死に至ることよ」

「そんな事あるのぉ?」

 叔母さんの言葉に、思わず苦笑してしまう。

「あるわよ。歴史上の人物でも憤死してる人はいるしね。それに、憤死した人は怨霊になるとも言われてるのよ。調べてみたら?」

「……うん。そうする」

 叔母さんの言葉に、何となく納得してしまった。

……兄さんが死んだのは……篠美の怨霊のせい、かも……。

 そう。

 その可能性もある。

 なぜか、全否定できない。

 私がこの数日間で体験したこと。

 それを考えると、不思議ではないと思えたりする。

……でも……全ては……。

 憶測……。

 想像……。

 過程やきっかけはどうであれ……。

 結果は変わらない……。

「もう、行こう」

 腕組みをして私を見据える叔母さんにそう告げると、管理棟を後にした。

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