「ありがとぉございましたぁ!」

 高めのトーン。

 二週間ぶりの接客モード。

 調子は変わらないよう。

 お客様を店先まで送ると、店内へ戻った。

 今日はかなり暇。

 開店から三時間が経つのに、さっきのお客様でまだ五組目。

 しかも、店内の客数がゼロになってしまった。

……平日だけど、珍しい日ね……。

 個人営業の居酒屋ながら、カウンター席が九席、四人用小上がりが十五卓、二人用テーブル席が二卓、四人用テーブル席が三卓と中々に広め。

 それでいて、普段はかなり繁盛している。

 今日は、暇だけど……。

 店内の広さもあってか、営業中に客がいないと、こんなにも寂しい感じになるものなのかな。

 店内に流れる落ち着いたBGMが閑散とした雰囲気を際立たせている。

「いやぁ、暇だねぇ~、まぁ、水香ちゃんのリハビリにはちょうどいいんじゃないかい? ははははは!」

 カウンターの中に立っている恰幅の良い店長が、その突き出た腹を揺らし、他人事のように野太い声で笑う。

「私はいいのかもしれないですけど……店的にはヤバい、じゃないですかね?」

「そうですよぉ、ヤバいですよぉ」

 私の言葉に賛同する可愛らしい高めの声。

 黒髪サラサラのショートで目のぱっちりした娘がトレイを片手にカウンター奥の厨房から出てきた。

 バイト仲間のエリちゃん。

 胸元の名札には【後藤愛里】と書いてあった。

「お客さんが来ないと、ヤバいですよぉ」

 真面目な性格のせいか、冗談が通じないのか、それとも芝居なのだろうか。

 愛里ちゃんは店長の発言に唇を尖らせている。

 だけど、その仕草が妙に可愛らしい。

 ふと、初対面の時に〈アイリ〉と呼んで、膨れっ面で指摘されたことを思い出した。

 その時も、同性ながら可愛いと感じてしまった。

……天然か、計算……どちらにしても、流石だなぁ……。

 このコは店の現看板娘と言っても過言ではないと思う。

 この店のオープン当初にオーナーである店長の奥さんが言っていたことを思い出す。

『アルバイトは女性のみ! 可愛いも綺麗も、とにかく容姿の良い女のコが居れば、男性客は確実に確保できる! 後は美味しい食べ物があれば、女性客も間違いなく来る! まぁ、より良い接客も必要だけどね』

 この店の普段の盛況振りをみれば、間違ってはいないみたい。

現に、同性の私から見ても、このエリちゃんはかなり可愛い。

 そればかりか、あと五人いる他のバイト仲間も粒揃い。

 今でもオーナーが面接をしているみたいだから……。

 どうやら、経営理念は変わらないよう。

……すでに古株だけど、私もまだまだ負けてられないわ!

 美への決意を新たにする一方、〈就職〉という二文字が頭に過り、内心で苦笑する。

「水香さ~ん……水香さんが休んでいる間、常連さんが寂しがってましたよぉ」

 トレイを片づけて愛里ちゃんが私の傍に立った。

 私は背が高い方ではないけど、並ぶと愛里ちゃんを少し見下ろす形になる。

「そうなんだぁ……でも、愛里ちゃん達がいるんだから問題ないでしょぉ?」

 思わず、探るような返答をしてしまう。

 自分のここでの立ち位置を再確認したいのかもしれない。

「そんなことないですよぉ、水香さんがいないと大変なんですからぁ……ですよねぇ? 店長ぉ?」

「そうだね~。水香ちゃんにはかなり助けられてるからね~。この店にはなくてはならない存在だね~」

 店長と愛里ちゃんに持ち上げられて、少しこそばゆい。

 お世辞だったとしてもやっぱり嬉しい。

 頼られてるとなると、なおさら。

「私をおだてても、お客さんは来ませんよ!」

 前髪をパサパサと払いながら返し、照れ隠しをする。

……やれやれ、ね……居心地は良いけど、いつまでもフリーターじゃいられないよね……。

 この店にオープニングスタッフとして働き始めて六年が経っている。

 この店だけでなく、掛け持ちで色々なバイトをしてきて、経験にはなったけど……。

 就職という言葉が再び頭に過り、少し気が重くなる。

……定職に……就かないと……。

 思わず、溜め息が零れる。

 同時に、その溜め息を隠してくれるかのように、入り口の引き戸がガラガラと音を立てて開いた。

 本日、六組目のお客様のご来店。

「いらっしゃいませぇ~!」

 私と愛里ちゃん、そして店長の声が見事にハモリ、出迎えの言葉が店内に響き渡る。

「いらっしゃいませぇ! 何名様ですか?」

 愛里ちゃんが小走りでお客様に駆け寄り、接客を開始する。

 それを横目に、カウンターの端に重ねられているトレイを取りに行く。

「お客さん来たねぇ。今度から、お客さんが来ない時は、水香ちゃんをおだてればいいかもね~」

「たまたまですよっ!」

 カウンターに立つ店長のからかいに苦笑しながら応え、トレイを手にする。

「二名様! テーブル席にご案内しまぁ~すっ!」

「ごゆっくりどぉぞぉ~!」

 愛里ちゃんの言葉に店長が景気良く返した。

……テーブル席、二名ね。

 手にしたトレイにおしぼりとコップを二つずつ載せ、片手で持つ。

 空いた手で水差しを取り、コップに水を注ぐと、テーブル席へと向かう。

「常連さんですよぉ」

 案内を終えた愛里ちゃんが、すれ違い様に耳打ちしてきた。

……常連? ……誰だろう……。

 先のテーブル席に座るスーツ姿の男性のお客様に視線を移すと。

「あっ! 水香ちゃんっ! 復活したんだっ!」

 こちら向きに座っていたその常連客は、私と目が合うや否や、テンション高めの声を上げる。

……柴崎さん、か……。

 この店がオープンした時からのお客様で週に三回は利用してくれている。

 一重の細い目が特徴的な、ひょろ長い体格で、どこか狐を連想させられる。

 歳は私より一コか二コか上だったと思う。

 学生の頃の柴崎さんを知っていることもあり、私服ではないスーツ姿を見ると、何だか焦燥感が湧き上がるよう。

……あれ?

 柴崎さんの声に反応するように、その向かいに座るお連れの男性客が振り向いた。

 その顔を見た時。

 違和感を覚えた。

 少し彫りが深く、手入れをちゃんとしてそうな、スーツ姿が似合う中々のイケメン顔。

 この店で見るのは初めての顔……。

 だけど、どこかで会ったような。

 ピンときそうでこない、心に何か引っかかるモノを感じた。

「お久しぶり、でいいんですかね? 一応、復帰しました」

 違和感を抑え、水とおしぼりをテーブルに置きながら、柴崎さんに挨拶をする。

「いやぁ、聞いたよ。お兄さんの事、大変だったでしょ? もう大丈夫なの?」

「大丈夫です! ご迷惑おかけしましたぁ」

 トレイを片手に、束ねられた後ろ髪を撫でつけ、笑顔で返す。

「いやぁ、良かったな! 大下っ! 初来店で水香ちゃんに会えるなんてよっ!」

 身を乗り出して柴崎さんは、向かいの男性客の肩をバシバシと叩く。

 『大下』と呼ばれたその男性はぎこちない笑顔を浮かべている。

……大下、さん……どこかで……。

 先程から抑え込んでいた違和感が膨れ上がってきたよう。

 やっぱり、どこかで会っている。

 いや、見たことがあると言った方がいいのかもしれない。

 一度でも会話を交わしていれば、覚えている自信がある。

 だけど、はっきりと思い出せない。

「大下さん、ですか? 田中水香です。よろしくお願いします」

 胸元の名札を持ち上げ、笑顔で自己紹介をする。

「どうも、大下です。よろしくお願いしま、す……」

 落ち着いた、誠実そうな口調。

 しかし、私の名札に目を移した時。

 一瞬、訝しげな表情を見せた。

 どういうことだろう。

……やっぱり……。

 心にできた引っかかり。

 もう少しで、取れそうな気がするんだけど……。

「とりあえず、生ビール二つ!」

 柴崎さんが二つ指を立てて注文してきた。

「あ、生ビール二つですね? ありがとうございます! すぐにお持ちしますね!」

 席に備えついていた注文票に、これまた注文票に付属しているペンでオーダーを書き込むと、一礼してから席を離れた。

……大下さん……もしかしたら、私の事を知ってるのかもしれない……。

 カウンターに戻ると、軽く息を吸い込み、お腹に力を込める。

「生二つ入りましたっ!」

「ありがとぉございまぁ~す!」

 私の威勢の声に、店長と愛里ちゃんによる感謝の叫びが返ってくる。

 店内を活気づかせるマニュアル通りのやり取りだけど……。

 お客様が一組しかいない状態だと、どこか空回りしているような雰囲気になる。

「生っ! 作りまぁす!」

 愛里ちゃんがビールサーバーに向かい、ジョッキにビールを注ぎ出す。

 私は持っているトレイに小鉢一つと小皿を二つ載せると、店長が立っているカウンター内側の調理台へと向かう。

 調理台の上には大きなステンレス製のボウルが置かれていて、その中は茹で冷ました枝豆で一杯になっていた。

「お通しもらいます」

 店長に一声掛けてから、ボウルから小皿に一掴みずつ枝豆を振り分ける。

「柴崎さんかぁ。お連れが一人だけとは珍しいねぇ」

 店長がテーブル席の方を眺め呟く。

 そういえば、確かに珍しい。

 柴崎さんといえば……。

 いつも一人で来店し、カウンター席に座って、店長やバイトのコたちと会話をしているか、大人数で宴会をしているかのイメージしかない。

 複数の場合、五人以下での来店は年に一度あるかないかだと思う。

 況してや、二人だけでの来店なんて、私の知る限りでは初めてかもしれない。

「そうですね……珍しいですね」

「あちらの方は同じ会社の人なのかな?」

「さぁ、どうですかね……」

 首を傾げながら、テーブル席に視線を移す。

 柴崎さんが笑顔で向かいの大下さんと話しているのが見える。

 友達か同僚か、他人ではないことは間違いなさそう。

「ビール出来ました! お願いしまぁす!」

 愛里ちゃんがトレイにジョッキを二つ載せてきた。

 ビールが七に対して泡が三と、良い感じで注がれている。

「ありがとう! それじゃあ、運びます!」

 重くなったトレイを持ち上げ、テーブル席へと向かった。

……さて……とりあえず、大下さんが何者なのか……。

 少し探りを入れてみようかな。

「お待たせしました! 生ビールお持ちしました!」

 テーブル席に到着すると、片手でトレイを持ち、上手く重心を捉える。

 一つずつジョッキを手渡しすると、小鉢をテーブル中央に置いて、お通しを二人の前に一つずつ置いた。

「こちらお通しです! こちらの小鉢に殻を入れてください」

「ありがとぉっ!」

 柴崎さんが軽い感じに返してくるのに対し、大下さんは無言で会釈をしてきた。

「それじゃあ、とりあえず、乾杯っ!」

 二人はジョッキを軽くぶつけ合わせると、ゴクゴクと喉を鳴らしながら、中身を半分近くまで飲む。

……さてさて、どうしようかな……この引っかかりを解消できたらいいな……まずは注文を……。

 トレイを脇に挟み、注文票と付属のペンを手に取ると、その場に膝立ちする。

 視線が少し、二人を見上げる形になった。

「ご注文はありますか?」

「ああ、そうだった……え~と、どうする?」

 柴崎さんはジョッキを置くと、メニュー表をテーブルの上に置き、眺め出す。

 どうやら、まだ決まっていないみたい。

 それならば……。

「大下さんは、柴崎さんのお友達ですか?」

 大下さんを見上げ、質問したのだけれど…。

「そうそう! コイツとは中学校と大学が一緒で、今でも連絡を取り合ってる仲なんだわ!」

 柴崎さんが少しテンション高めに答えてくる。

大下さんはそれにぎこちない笑顔で頷く。

「そうなんですかぁ。それにしても、柴崎さんが二人だけで来店されるなんて、珍しいですよね?」

 視線を柴崎さんに移し、質問を続ける。

「そういえば、そうかもなぁ。本当は一人で来る予定だったんだけど・・・コイツが今日、こっちに帰ってきたっていう連絡をくれたから、それならと思ってね」

 なるほどね。

 『帰ってきた』ということは、地元から離れていたってことかな。

 だとすると、私は何処で大下さんと会った、または見たのか。

 わからない。

……あぁ、モヤモヤするぅ……思い切って聞いちゃった方がいいのかな……。

 好きな人に告白するわけでもないのに、妙な緊張感と不安感が心に生じる。

……とりあえず、営業トークから入ろう……。

 軽く息を吸い込み営業スマイルを作る。

「そうですかぁ! これからもご贔屓にお願いします!」

「いえ、こちらこそ……あの、ところで……聞いてもいいかな?」

 大下さんの視線が私の胸元に移る。

「はい? なんですか?」

「おいおい~連絡先でも聞くつもりかぁ?」

 柴崎さんが冷やかしめいた声を上げる。

「いや、そうじゃないって……あの……」

 大下さんは払うように軽く手を振り、柴崎さんに反論すると、神妙な面持ちで私に向き直った。

 大下さんの表情のせいなのか、どういう訳か、鼓動が速くなってきているよう。

「もしかして、田中さんは……ユウヤ先輩の妹さん、なのかな?」

 大下さんの言葉に、ドックンと心臓が跳ね上がる。

 脳裏に、曇り空で薄暗く静まり返ったあの光景が……。

 フラッシュバックした。

……あの時だ……。

 そうだ。

 わかった。

 先程の違和感が……。

 心の引っかかりが……。

 解消された。

……思い出した……やっぱり、この人を見たことがあった……。

 あの時に……。

〈ユウヤ〉

 そう。

 私の兄。

 〈勇也〉の葬儀の時に……。

「……え、ええ……そう、です……」

 思わぬ展開に動揺してしまい、返答が覚束ない。

「そうか、やっぱり……この店に入って、田中さんを見た時、どこかで会ったかなって思ったんだよね。それで、名札を見て気付いた。先輩の葬儀、喪主がこの漢字だったと……」

 そう言って、大下さんは私の胸元にある名札を指さした。

「えっ?! お前、水香ちゃんのお兄さんの葬儀に行ったのか?」

 柴崎さんの驚嘆の声に、大下さんは無言で頷く。

……私もビックリよ……まさか、ね……。

 大下さんは兄の葬儀に来ていた。

 そして、その時に会っていた。

 それにしても、兄とはどういう関係だろうか。

 兄の方が明らかに歳は上。

 友達というからには、おそらく柴崎さんと同い年の可能性が高い。

 兄と接点があるとしたら……。

 仕事絡みかも……。

 だとしたら、葬儀に来ていたのも頷ける。

「あの……兄とはどういう関係ですか?」

 一つ息を吐くと、大下さんを見据える。

「ああ。先輩には今の会社に働き始めた時に、お世話になったんだよね。飲みにも良く連れて行ってもらってたなぁ……」

……同じ会社に勤めてるってことかな……だとしたら、分かるかもしれない……。

 思わぬチャンスが巡ってきたよう。

 兄の家。

 マンションの住所が分かるかもしれない。

「あの、大下さんは兄と同じ会社に勤めてるってことですよね? ……兄が住んでいたマンション。住所って、調べることできますか?」

 期待感が風船のように膨らみ出す、ペンを握る手に力が籠る。

「いや、同じ会社ではないよ。取引先の会社だよ」

「え?」

「違うのかよっ!」

 柴崎さんが代わりに突っ込んでくれた。

 だけど、どういうことだろう。

 膨れ上がっていた期待感が一気に萎んでいくのが分かる。

 でも、どうして……。

「だけどよぉ。お前、先輩って呼んでるじゃねえか」

 また代わりに、私の疑問を柴崎さんがぶつけてくれた。

 この調子なら傍観していてもいいのかもしれない。

「ああ、すまん、紛らわしかったな。先輩は同じ大学の出身なんだよ。しかも、中学も一年生の時だけ同じ所に通ってたんだってさ。それもあって、良くしてもらってた……だから、〈先輩〉って呼んでたんだよね」

「なんだよ、そういうことか……って、同じ学校ってことは、俺とも同じ学校ってことか!」

「そうなるよな」

「水香ちゃんのお兄さんは俺の先輩ってことになるよな!」

「そうだな」

 柴崎さんの少しテンション高めの話し方に対して、大下さんの落ち着いた受け答え。

 そのやり取りがどこかおかしく、面白い。

 なんか良いコンビみたい。

「俺も葬儀に行くべきだった……ゴメンね、水香ちゃん」

「いえいえ、知らせてなかったんですから、仕方ないですよ」

 柴崎さんが両手を合わせて謝るのを、笑顔で返す。

「ところで、田中さん。先輩の住所を調べてほしいの?」

 大下さんはそう言って、私を見据える。

 そうだ。

 兄の住所。

 それを知ることができるのかな。

 心臓が強く高鳴る。

 期待感が再び、膨れ上がる。

 それと同時に、不安感が心に芽生えてきた。

「はい。兄の住所が分からないんですよね……聞いたことがなかったので……」

 視線を手にした注文票に落とし、後ろ髪を撫でる。

「そうか。残念ながら、詳しい住所はわからないし、調べるのは難しいと思う」

「そうですか……」

 大下さんの言葉を受け、期待感は消え去り、不安感が失望へと変わった。

「なんだよ、知らねぇのか。はぁ~」

 柴崎さんが大袈裟に溜め息を吐く。

 それを見て大下さんは苦笑し、私に向き直った。

「だけど、どこのマンションかは分かるよ」

「えっ?!」

 鼓動が一瞬で速くなるのが分かった。

 失望が希望に一転する。

 目の前が少し明るくなったよう。

「以前、車で先輩を家の近くまで送ったことがあるんだけど……確か、SICマンション、だったかな。知ってる? SICマンション」

 聞いたことがない。

 何処にあるマンションだろうか。

 インターネットか何かで調べることができるだろうか。

「知らないです。でも、調べてみます! ありがとうございます!」

 頭を下げて礼を述べると、垂れてきた前髪をかき上げる。

「おいおい、SICマンションって……」

 柴崎さんが細い目を見開き真顔で呟く。

「何だよ? どうした?」

 大下さんと私の視線が柴崎さんに向けられる。

「それって、俺たちが通ってた中学の近くにできたマンション群のことだよな?」

「そう! ……知ってたのか?」

「知ってるも何も、お前……あのマンションって……」

 柴崎さんは一瞬、見開いた目をさらに大きく開いたかと思うと、私を一瞥し、ジョッキの中身を一気に飲み干した。

……なに?

 明らかに怪しい仕草。

 マンションが何かあるのだろうか。

「マンションがどうかしたのか?」

 大下さんが枝豆の殻を小鉢に投げ入れ、質問する。

「あっ、いや、何でもない……そのマンションの、ちょっとした噂をな、聞いたことがあっただけだわ」

「どんな噂ですか?」

 空かさず、私が質問する。

「いやいや、大したものじゃない。よくある噂話みたいなもんだわ、巷にあるような噂だわ」

 よくある噂話とは何なのか。

 巷にあるようなとは一体……。

 マンションの噂じゃないの?

 意味がよくわからない。

 どうやら、しどろもどろになっているよう。

「耐震偽造とか?」

「そうそう! そんな感じ! 当時、学校から建設中のマンションが見えてただろ? それが、あっという間に完成してたしな!」

 大下さんの言葉に飛びつくように、柴崎さんは捲し立てる。

……怪しすぎる……。

 これは何かある。

 柴崎さんは何か隠している。

 マンションの噂。

 兄の住んでいたマンション。

〈SICマンション〉に何が……。

……あれ? そういえば……どっかで……。

 ふと、頭に浮かび、一瞬で消えたモノがあった。

〈マンション〉

〈噂〉

 この言葉をどこかで……。

 何だろうか。

 気のせいだろうか。

 心の片隅に何かモヤがかかったよう。

「水香ちゃ~ん! 賄いできたぞぉ~! 休憩入りなぁ~!」

 突如、店長の野太い大声が店内に轟く。

「あっ、はぁ~い! いま行きまぁ~す! ……すみません! 注文聞いてないですよね!」

 我に返り、慌てて注文票とペンを構える。

「いや、まだ決まってないからいいよ。後で注文するから、休憩入ってきていいよ」

 柴崎さんはそう言って、無理矢理な笑顔を浮かべる。

 細い目がさらに細くなり、不気味な表情になっていた。

「じゃあ、すみません。失礼します」

 注文票を戻すと、トレイを片手に一礼して、席を離れた。

「学校で思い出したけど、知ってるか? ……あの――」

 席を離れると、柴崎さんはすぐに話題を切り替えたよう。

 柴崎さんが言っていた〈噂〉が気になるところ。

 何にしても、思わぬ所で兄の家に関する有力な情報を手に入れることができた。

……SICマンション、ね……そして、その噂……。

 さらに探りを入れたい所だったけど、さっさと賄いを食べなければ、後が支えてしまう。

 厨房に向かうと、カウンター横に待機している愛里ちゃんと目が合った。

「今日は、塩豚丼ですよぉ!」

「ホントぉ?! うれしっ!」

 愛里ちゃんが満面の笑顔で今日の献立を告げてくると、それを上回る笑顔で返した。

 献立を聞いて、テンションが急激に高まったよう。

〈塩豚丼〉

 この店の人気メニューであるタレ豚丼。

 それの裏メニュー。

 胡麻油でしっかり焼いた厚切りの豚バラ肉に、自家製塩ダレに漬け込んだ輪切りの葱がたっぷりと盛られた丼モノ。

 先に葱とご飯を良い感じに混ぜ、豚バラ肉と一緒に食べるのが絶妙。

 この店で私が一番好きなメニュー。

 それでいて、賄いには滅多に出ないメニュー。

……店長の気遣い、かな。

 店長に対する感謝の気持ちと共に、さらに高まるテンション。

 美味しいモノはいつでも気分を良くする。

 ウキウキ気分で厨房に着くと、塩豚丼とお吸い物が載ったトレイを受け取る。

「お食事っ! いただきまぁ~す!」

 声高々に休憩室を兼ねた更衣室へと向かった。

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