第7話 異星人の価値


 モニターの光を鈍く反射する直径10㎝ほどの破片を手のひらで転がす。鼠色の塗装がわずかにこびりついているが、拉げねじ曲がった破片からはこれが主翼の一部だったということをうかがい知ることはできない。

 指ではじく、鈍い音がする。

 重さを確かめる、同じ大きさの鉄よりも軽いような気がする。

 表面をなでる、冷たい金属と言える肌触り。


「やっぱり魔獣の皮膚と言うより攻撃機の破片だよなぁ。ノーマッド、結果は出たか?」

『いろいろ理解不能な変質や回路の様な構造が見受けられますが、材質自体は地球で航空兵器によく使われる軽金属装甲ですね』

「いつの時代の?」

『我々の時代です。性懲りもなく何度も世界大戦を繰り返し、いまだに1000年前の兵器の延長線上から外れられていない人類のね』

「つまり、僕の時代からは数段進んでいるってことか」


 撃墜したヒュッケバインからいくつかのサンプルを集めたノーマッドは行軍を再開していた。レールガンによって木っ端みじんに砕かれた機体の残骸を回収するのはなかなか骨が折れ、再出発するころには日が傾き始めてしまっていた。

 既に空は暗くなり、地球産の戦車は星の帯に照らされながら一路ディオノスへの平原をひた走っていた。


『ええ。この強度だと、エノーモティアの汎用徹甲弾じゃ魔術防御なしでも歯が立ちませんね。貴方の時代の火器だと、ボフォース40㎜機関砲の掃射を受けてもぴんぴんしているレベルです』

「弾丸が通用しないとか、対空火器として機能するのか?それ」

『安上がりな汎用徹甲弾だったらという話ですよ。本来なら装弾筒付翼安定徹甲曳光弾と焼夷曳光榴弾の混載です。徹甲弾で装甲板をぶち抜いて、焼夷榴弾で焼き払う。この装甲を装備した航空機であっても秒で火だるまになります』

「じゃあなんで汎用徹甲弾を装填していたんだ?」

『言ったでしょう?安上がりなんですよ。汎用徹甲弾は構造も素材も単純なので粒子3Dプリンターで早く大量に作れます。2時間もあれば携行弾数一杯の1250発製造できますが、ほかの弾だとそうはいきません。倍の時間はかかりますよ。事前調査の段階ではあんな化け物攻撃機は存在せず、想定すらされていません。プリンタは万能ですが、弾薬だけ作ってりゃいいわけではないです。その主目的は車体の保守整備用ナノマシン、マイクロマシンの製造ですから』

「800年引きこもってた弊害というわけか。いや、問題はそこじゃない。問題はあの攻撃機の出どころと技術レベルだ」


 自分の時代とは比べ物にならないほどの高度科学技術で製造された戦車と互角以上に渡り合う地上攻撃機魔獣。魔術を使用してはいたが、そのほかに関しては地球人が科学と呼ぶ技術で形作られているとしか思えない。先日、アルマを救出する際に交戦した装甲車とはまったく別種と言ってよかった。


『アルマさんを助けた時に叩いた装甲車とは全くの別物ですね。詳しく調べられたわけではないですが、まだこちらのほうが解りやすい構造をしています』


 あの時の装甲車は乗員を排除したためそれなりに詳しく調べることが出来たが、その構造は不可解と言うしかなかった。

 装甲板は薄く、自らの主砲どころか殺傷能力の低いノーマッドの汎用徹甲弾に安々と貫通させられるレベルでしかない。主砲は砲身内に施条ライフリングのない滑腔砲だが、搭載された砲弾は球状の榴弾だけだった。さらに、その榴弾は非常に短い薬莢に入れられ、戦車砲弾と呼ぶよりは巨大化した拳銃弾のように見える。装薬や炸薬と呼ぶべきものは確かに存在したが量が少なく、戦闘中に観測した砲口初速を得ることは決して出来ない。

 極めつけは、動力装置だ。車輪を回転させるシャフトは車体後方に搭載されたピストンエンジンの様な機関につながっていたが燃料タンクや燃料供給ラインと呼ぶべきものが存在しない。それ以外にも、揚弾装置、装填装置、射撃式装置などが見当たらない。それに近い機構は存在するが、須らく動力を伝達するラインが見当たらなかった。


『あの装甲車は地球産の戦闘機械我々と比較すれば、1/1プラモデルと呼ぶべき代物ですね。いや、アクションフィギュアのほうが近いかもしれません。HMMゾイドと普通のゾイドみたいな関係ですかね』

「その点、ヒュッケバインはまだ僕らの理解の範疇内だな。音紋解析から、あのエンジンポッド的なものの中にはジェットエンジンに類するものが収まっていたようだ」

『奇妙なのは熱源がはっきりしないことなんですよね。この軽金属装甲や私の電子対抗手段と同レベルの技術ならば、航空機用熱核ジェットを装備していてもおかしくありません。けれど、撃墜したときに高温のプラズマも、中性子線も確認できませんでした』

「んん、どう考えても技術差がありすぎる。いや、方向性の違いと呼ぶべきか」

魔術を主に、科学を補助に使う機械ザラマリス装甲車科学を主に、魔術を補助に使う機械ヒュッケバインってところですかね。そうすると、この星にはアルマさんをはじめとするエリクシル人とは別の、魔獣と言う我々により近い技術体系が存在するという結論に達しますね』

「…不気味だな」

『貴方はどう思いますか?』

「タダの直感だが、これは遠い昔に二つに分化したというよりも、もともと別の場所で発展していたが、何かの理由でこの星に迷い込んだのだと思う」

『放散による種分化ではなく、外来種の侵入ってとこですか』

「とどのつまりは、僕らの様な。…駄目だな、情報が少なすぎる」


 手に取っていた破片をサンプルボックスに放り込み、シートをリクライニングさせて脱力する。アルマの話や状況を加味すると、外来種と呼ぶべきは魔獣の方だろう。では、いつその異物がこの世界に迷い込んだかと言えば


「やはり大災害か」

『そういうことになりますねぇ。審判の日アルマゲドンというよりもセカンド・インパクトと言うようなニュアンスだったのでしょうか?』

「何方にせよ、この星には存在しなかった異物が紛れ込んだ事象というには違いない。調べてみる価値はあると思うが、どうだろうか?」

『どうもなにも、研究テーマが一つ増えただけですよ。個人的には、エリクシル人の技術体系のほうが興味がありますが』

「あの装甲車か?」


 戦車に搭載された知生体である以上、自分と同じような戦闘機械に強い興味を覚えるのだろうか?


『エリクシル人はビークルと読んでいるようですが、あれで魔獣に対抗できるようには思えないんですよね。砲はまあいいでしょう。球状砲弾の榴弾ではありますが、速射性能は高く弾幕を張って地上走行型魔獣を面制圧出来るでしょうし、装薬の少ない弱装弾ですからタイヤ駆動であっても反動をある程度抑制できます。問題は装甲ですよ、防御能力は多く見積もってチハたんレベルですね、ありゃ』

「魔術障壁で物理的な防御能力を底上げしているんじゃないのか?」

『だとしても、エノーモティアでハチの巣になるのは可笑しいでしょう。ヒュッケバインが相手じゃ移動標的以外の何物でもないですよ』

「アルマの話では、ヒュッケバインは最も恐れられる魔獣らしい。それ以外の魔獣ならば十分対抗できるってことじゃないのか?」

『それ以外の魔獣のサンプルが欲しいところですね。…ここでもデータ不足ですか。ええい、ノアが生きていれば』


 ノアとはノーマッドが搭載されていた恒星間航行宇宙探査母船であり、本来ならばエリクシル軌道上にとどまり車間通信、惑星表面偵察など行う探索の要ともいえる。しかし、来訪から800年経過した今ではエリクシルに落着したのか、機能停止したのかはわからないが通信は途絶えてしまっている。


「ないものねだりだな、そこは地道にデータを集めるしかないだろう」

『ディオノスに着いたら、本屋かそれに類するところに立ち寄ってください。ナノマシン経由であなたが見た景色をデータ化して保存します』

「デジタル万引きもいいとこだな」

『バレなきゃいいんですよ。魔術的な犯罪に対する法整備はされているでしょうが、地球の科学技術に対する法律がある可能性は低いですし』

「外道だな」

『今さらでしょう』


 くつくつとノーマッドが笑う。悪役にしか思えない笑い方に、この声の主がプログラムで構成された人工知生体ということを忘れそうになる。


「それにしても、考察をしようにも判断材料が少なすぎる。これじゃ推察どころか憶測レベルだ。ディオノスについてアルマが起きたら、一度ゆっくり話したいな」


 ちらりと後ろを振り返ると、シートを倒したアルマが毛布にくるまって寝息を立てている。無理して魔術を行使した結果、強烈な睡魔に襲われ、そのまま寝入ってしまっている。ノーマッドによれば、バイタルは安定し命に別状はなさそうだ。疲れ切って寝てしまったと思われる。


『魔獣もそうですが、魔術についても情報が欲しいですね。特に、魔力炉という臓器について。一番手っ取り早いのは』

「やめろ、バカ」


 その先を言うことは許さないとばかりに、ユキトは腰のホルスターから引き抜いた拳銃を、床下のノーマッドのメインフレームへと向ける。拳銃弾程度ではメインフレームを保護する装甲に傷をつけることすら難しいが、彼の意思を証明するには十分だった。


『剣呑ですねぇ。確かに、エリクシル人は人間並みの知性を持つ知生体ですが、貴方と同じ起源から生まれた生命体ではありません。地球の倫理を別の惑星に持ち込む必要がどこにあるというのです?』


 気が付けば、何時ものネタにまみれたお茶らけたAIの姿はそこになかった。マシン特有の、感情や倫理と言ったものを一切合切介在させない。0と1によって形作られたかのような、ある種の昆虫の様な無機質な思考。その言葉は甘い毒のように緩やかに、だが確実にユキトの精神へと染み込んでいく。


『本当は恐ろしいのでしょう?アルマさんが。いや、この星の全てが。ナノマシンで感情を抑制はできても、その思いが発生することは防げない。人は本能的に知らないものを恐れることぐらい、私でも知っていますよ』


 図星だった。そうだ、自分は知らない。

 この星に転移した理由。この星の成り立ち。この星の環境。この星の生命体。この星の魔術。この星の人々。

 ここまでに得られた情報はマッチの火のように極小で、目の前に広がる無知という闇はあまりに広大で深く暗い。闇の中にポツンと一人たたずんでいるような気分を、ずっとナノマシンで抑制し続けている。


『今なら、アルマさんに意識はありません。彼女は貴方に助けられ、明日を生きるという夢を見ながら最期を迎えられます。彼女がどうして、どれ程の勢力に追われているのか、我々は知らない。もしかしたら、この先我々はいらぬ戦いを続けた挙句、アルマさんは失意の中で惨い死を迎えるかもしれない。それならば、これは救済とも思えませんか?末期がん患者を安楽死させるようなものですよ』

「ドクター・キリコみたいなことを言うな、貴様は」

『法外な値段を請求する気はありませんがね、で、どうします?』


 もう一度後ろを振り返ると、寝返りを打ったのか毛布にくるまった横顔がわずかに見える。それが安らかな寝顔なのか、それとも起きていてこのおぞましい会話を聞いてるのかは判別がつかなかったが、彼の答えは決まっていた。握りしめた拳銃の親指のあたりにあるセーフティーを一度なでる。


「確かに、それがベストな選択なのかもしれないな。今なら、彼女は楽に逝ける。サンプルを完全に焼却処分すれば証拠は残らないし、僕らが彼女を助けたなどという情報は外に漏れていない。そしてなにより、僕らの理解の範疇外にある魔力炉に対して決定的な情報を得られるだろうよ」

『では』

「だが、断る。だ、バカヤロウ」


 拳銃をホルスターに収め、ノーマッドに悪態をついた。


「知らないのは確かに恐ろしいさ、解らないことだらけでナノマシンがなかったら震えが止まらなかっただろうよ。けどな、そんなものの為に彼女の命を奪おうなんて考えは毛頭ない。地球の倫理を持ち込む必要がない?馬鹿を言え、地球人だからこそ、その価値観を忘れてはならんのだ。地球ではない場所エリクシルに来たからこそ、僕は地球で培った価値観を忘れない。それを失ってしまえば、僕は地球人ではなくなる」

『地球人であることの矜持、ですか。文明開闢以来、価値観の押し付けを繰り返してきた地球人貴方らしい傲慢なもの言いですね』

「なんとでも言え、地球機械ノーマッド。誇り高いなどとは口が裂けても言えない種族で、戦争と闘争ばかりの惑星だが、それなり以上の愛着はあるのさ」


 一個の生命体として異星に放り出された結果、地球人類という自我が急速に芽生えだしていることに、ノーマッドはプログラムの奥底で感嘆した。僅か1日前までは地球人であるどころか、ある国言家の人間であるという意識すら怪しかったこの若い生命は、驚くほど短い時間で自己の立ち位置を再確立し始めている。

 2万年という惑星史に対しては僅かすぎる期間で、母星はおろか星の海にまでその領域を拡大し続けた種であるということもあるが、彼自身の適応能力が並外れて高いのと、同行者の存在もその一因だろうと結論付けた。


「だから、いかなる理由であってもアルマを傷つけるのは無しだ。」

『そうですか。では、そうしましょう。私は貴方に従いますよ、車長殿』

「案外あっさり退いたな?」


「試したのか?」というユキトの視線をカメラがとらえたのか、ノーマッドは微かな笑い声を漏らした。


『いえ。もしも貴方が私の算段に乗っていたら、その時は容赦なくヤッていましたよ。まあ、その場合は適当な理由をつけて貴方を置き去りにし、エリクシル探索を続けるつもりでしたがね。新第7世代戦車にとって、人は居ないよりマシなオプション程度の存在ですから』

「だとすると、お前は僕の考えが好ましいと感じるのか?」

『人間は意志の生き物ですよ。自分の意志を世界に出力して世界を廻す、たとえそれが非合理的な価値観に基づいていたのだとしても、それを正しいと信じて突き進むのが人間です。そんな生命に作られた私がソレを尊重するのは道理でしょう?そして何より』

「なんだ?」

『自らの安心の為に、ヒロイン誰かを犠牲にする吉良吉影チックな人物が車長なんて嫌ですからね。貴方がそういった意味では主人公的な考え方の人間で助かりました』

「スタンドは出せないけどな」

『私がそれみたいなものでしょう。時は止められませんが』


 何時しか、一人と1両の会話はいつも通りのものに戻っていた。


『さて、このままだと明日未明にディオノスへ到着しますが、どうしましょうか』

「丘の裏とかディオノスから視認できない位置でステルスモードを起動し、明日の朝に侵入しよう。僕らはこの星に対して少々無知すぎる。案内役が起きるまで待つべきだろう」

『了解。そろそろ12時を回ります、後の事はやっておきますので今は休んでください』

「そうさせてもらう。……その前に一つだけ」


『なんです?』と問いかけるノーマッドのカメラに映るように、自分の上衣を引っ張った。丈夫な生地でできたカーキ色のそれは、ディスプレイに照らされて本来の色よりくすんで見える。


「なんで、昭五式軍装しか積んでないんだ?千年先の軍服はどこ行った?」

『私の趣味ですが、なにか?』

「おいコラふざけんな」

『見てくれは旧帝国陸軍の軍服ですが、光学迷彩仕様の防弾軍衣です。コートも利用すれば完全ステルスもできますよ。それに、迷彩服よりは都市に溶け込めるでしょう?』

「なんか釈然としない」

『何よりかっこいいじゃないですか!』

「やっぱそれが本音じゃねぇか!」







 子供の様な喧嘩から数十分経過し、車内には一人分の寝息と空調の音、エリクシルの大地を疾駆するノーマッドのモーター音と踏みつぶされる大地の微かな音が響きいていた。

 ディスプレイの光が落とされ、ほとんど暗闇に包まれた車内でアルマはようやく必死の思いで閉じていた瞼をゆっくりと開ける。

 危ないところだったと思う。もし、あの時彼が合理的最悪の選択をしていたのならば、昼間の戦闘で消耗していた自分はなすすべもなく殺されて、実験動物よろしく解体されていただろう。

 一つ深呼吸をする。体内に取り込まれた酸素の一部が魔力炉へと送り込まれ、ごくごくわずかに機能を取り戻す。

 彼が自分に危害を加えないと誓った時感じたのは、安堵と感謝、そしてそれを塗りつぶすほど、どす黒い羞恥だった。

 私はアチラ側だった。追われることになるその直前まで、私はアチラ側で無感動に生命を浪費し続けていたのだ。それが、このザマはなんだ。私には、安堵を感じる資格はない。彼に感謝する資格はない。そんなことが許される清廉な人間ではない。彼の安心の為に殺されても文句は言えないどころか、そうされるべき人間なのに。


『これはただの憶測で独り言ですが』


 ドキリ、と心臓が跳ねとっさに瞼を閉じ必死に寝顔を創ろうとする。ユキトの方から、何か反応はない。独り言などと嘯いているが、これは確実に自分へ向けられた言葉だ。


『ユキトさんは、多分最後まで貴女の味方です。たとえ貴女が彼を裏切ったとしてもね。私はおろか彼自身が自覚している以上に、彼の貴女の力になりたいという意志は強い』


 ありえない。一方的に巻き込んでおきながら、何故そんな結論に達する?


『あの時は地球人類としてなんて偉そうなことを言っていましたが、その本音はそんな大局的なモノじゃありません。もっと個人的な、より独善的なものですよ。例えばそう……恋とか?』


 先ほど跳ねた心臓がまた跳ね、早鐘のように脈を打つ。こんなのは狂ったゴーストの戯言だと必死に自分に言い聞かせ、寝返りを装って毛布に頭をうずめる。


『ま、彼が底抜けにお人よしなだけという可能性も大いにありますし、話し相手をこんなところで失いたくないなんて、面白味も何ともない結論かもしれません。個人的には、その結論だったらいいなってレベルのものです』


 黙れ、と心の中で叫ぶ。その一方で、ノーマッドの言う”面白味の無い結論”に不快感を感じている自分を見つけ愕然としてしまった。


『ま、何が言いたいかと言いますと貴女は彼を恐れる必要はないという事です。不審なこと不安なことは車長殿以上に山積みでしょうが、少なくとも彼は貴方の敵ではありません。安心してくれればベストですが、せめて警戒心を緩めることぐらいはしてください。同じ放浪者のよしみで、ね?』


 それを最後に、車内には再び元の環境音だけが響き始める。

 もしかしたら、ノーマッドは自分の不信感と狸寝入りをして彼の情報を漁っていることに気づいていて、あのような提案を彼にしたのかもしれない。

 緊張の糸がぷっつりと切れてしまったからか、ひどい睡魔が襲ってくる。睡眠に入る前の、ある種の靄が意識にかかり始めた。急に重くなった瞼をわずかに開けて、車長席で寝息を立てているであろう彼の方へ視線を走らせるが、シートの輪郭がうっすらと見えるだけでその顔を確認することはできなかった。

 ユキト、貴様は私にその様な意志を持ってはいけない。滅びの魔女と呼ばれた私の味方になる価値なんてない。そんな意志を向けられていい人間ではないのだ。

 ゆっくりと意識に帳が落ち始める。底の無い沼に徐々に落ち込んでいくような感覚に全身が包まれていく。

 せいぜい利用してやる。ぐらいの言葉を吐かれていたほうがどれほど楽だっただろう。それなら、私も存分に彼らを利用してやることが出来るのに。

 ああ、でも、どうしてだ。

 どうして、期待してしまうのだろう?

 どうして、安心してしまうのだろう?

 どうし…て…




 こんなにも胸が暖かいのだろう?




 そんな言葉が頭の中に浮かんだ直後、彼女の意識は幻のように掻き消えた。

 後に残ったのは2人分の安らかな寝息だけだった。












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