五話 王女との約束

 目を開けると、天井があった。染みもなく白い。清潔感がある。


「――ウィルガンド!」


 直後、だしぬけにエリンが視界に飛び込んできた。目と鼻の先にまで迫られ、まだ薄ぼんやりしていた頭が急激に覚醒させられる。


「お、王女殿下……?」

「ああ、良かった……! 目を覚ましてくれた! 神よ、本当に、本当に感謝いたします!」


 かと思えば両手で顔を覆い、ふるふると身を震わせる始末で、ウィルガンドは完全に置いてけぼりだった。


「王女殿下、私は、一体……」

「あなたは、あの後急に倒れてしまったのです……すぐにこの医務室に運ばれて、治療を受けましたが……今夜が峠だと。でも、こうして一命を取り留めてくれました」


 倒れた。治療。キーワードを並べられて、ようやくあのコロシアムで生き残った後の記憶が飛んでいる事を思い出す。

 ウィルガンドの身体はベッドに横たえられており、頭を傾ければ側面には壁、もう片方にはカーテンが引いてあった。薬品の匂いもつんとするし、医務室に担ぎ込まれたのは間違いないのだろう。医療施設や医者は無論準備されているわけだ。

 とはいえ我ながら良く助かったものである。身体には包帯が何重にも巻かれている上、動かそうとすると激痛が走る。そしてエリン王女はそんな死に体のウィルガンドにずっとついていてくれた。ようやく経緯を得心する。


「申し訳ありません、王女殿下には心配をかけさせてしまいました」

「いいのです……この二日間、私にはただ見守り、熱が出ればあなたの額を冷やす事しかできませんでした。でも、やっと……っ」


 ベッドの横の椅子に腰掛けぐす、と鼻をすするエリンの顔は赤く、疲労が見て取れる。薄くクマもできているようだ。そうか。自分は二日間もお気楽に眠ってしまっていたのか。


「王女殿下もご無事で何よりです。連中は約束自体は守ったという事ですね」


 はい、と頷くエリンにウィルガンドもとりあえず一息つく。


「死ぬ思いで戦った甲斐がありました」

「あなたのおかげで、命拾いできました。本当に助けられてばかりですね……」


 くすり、とあるかなきかの微笑みを浮かべたエリンは、ふと医務室の窓から外の風景へ目を移し。


「ウィルガンド……あなたは、覚えているでしょうか。あの日々の事を……」

「あの日々……とは」


 話が読めず首を傾げると、どこか夢心地といった口調で、エリンは話し始める。


「最初は、気のせいかと思っていました。けれど……あなたが私の前に現れ、帝国と戦っている時に、だんだんと思い出して来たのです。私はあなたを知っている。以前、会った事があると」

「私が……王女殿下に?」


 そんなはずはない。一介の従騎士に過ぎないウィルガンドが公的な場で王女と接点が生まれるわけもないというのに、一体どこで出会ったというのだろう。エリンにこうまで言われてもまったく心当たりがなかった。


「ふふ……あの頃は私もあなたも、まだ小さかったですから。ほら、覚えていないでしょうか。ジェノム公の屋敷で、二人で遊んだ事を」


 ジェノム公。遊んだ。そう言われて、脳裏をかすめる情景があった。

 金の髪の小さな少女。気品があって、たまに会って、仲良くなって、遊んだ。


「あ……あれがまさか……!」


 心の底から仰天して目を見開く。

 いや、考えてみればおかしな事ではないのだ。ウィルガンドが鈍くも、今まで気がつかなかっただけで。

 十年前。村を失い家族を失い、途方に暮れたウィルガンドがさまよっていると、国境線襲撃の報に駆けつけたジェノム公の部隊に発見されたのだ。

 ジェノム公はろくに要領を得ないウィルガンドの話に辛抱強く付き合い、生き残りの村人を捜索したが国境周辺は情報が錯綜し、数ヶ月かけても村の人間と再会する事はついになかった。

 気落ちするウィルガンドにジェノム公はその気があるならと自分の養子に迎えてくれた。努力次第では騎士の叙勲も検討してくれるという。

 騎士になれば帝国と戦える。みんなの仇が討てる。

 全ては復讐がため、だからウィルガンドは行儀作法、文字の読み書き、そして戦い方を学んだ。

 養子に迎えられてしばらく過ぎたそんな折、時々視線を感じるようになった。

 ウィルガンドの足しげく通う訓練場に、いつしか一人の少女が姿を見せるようになったのである。その存在に気づいていながらも関心を示さず、黙々と剣を振るうウィルガンドを少女は飽きもせずずっと眺めていた。

 ウィルガンドもジェノム公の姪か貴族の友人の娘かと考え、実際興味もなくいないものとして扱っていたが、日を置いて何度も何度も現れるその少女に少しずつ意識を割かれるようになった。

 最初に声をかけたのはどちらだったろう。多分少女の方ではないだろうか。半ば意地になって無視に努めるウィルガンドに、ある日突然話しかけて来たのだ。

 詳細な会話の内容は思い出せない。でも結構邪険にした気がするウィルガンドも、そうやって少女と接する内に仲良くなって、たまに訓練も忘れて屋敷を駆け回ったり木に登ったり、丘で追いかけっこしたりと遊ぶようになった。

 ささくれた心にはまぶしく刺激のある日々だった、と思う。

 でもそれが、よもや王女エリンその人だったとは。叙勲を受けて王宮務めになったらもう会う事もないだろうと、エリンという愛称だけで本名も住居も聞かなかった事がここに来て裏目に出た。


「やっと思い出してくれたみたいですね。また会えて嬉しいです」

「も、申し訳ありません……! 王女殿下とはついぞ気づかず、なんと無礼な」


 相手が少女という事すら気を払わず遊ぶ過程で投げ飛ばしたり蹴り飛ばしたり、森に置いてけぼりにしかけたりと滅茶苦茶やっていたように思う。


「いえ、気にしていませんよ。私も、夏や冬の季節頃、仕事に忙しいお父様からジェノムおじさまのところへ預けられていつも退屈だったのです。周りの大人の方は皆私を壊れ物でも扱うようで、またあなたの顔を見たいとずっと考えていました……」

「さ、左様ですか……」

「――あの、ウィルガンド」


 と、エリンが少し声を低め、照れたように口元をほころばせて見つめてくる。


「その、よければですが……私の事を、王女殿下でなく、エリンと呼んでは下さいませんか」

「……は?」

「お、お互い知らない仲ではありませんし、えっと……またあの頃のように、エリンと呼んでくれましたら、嬉しいのですが……」


 きょとんとするウィルガンドに対し、エリンはみるみる頬を赤らめて落ち着きなく視線をさまよわせている。


「い、いえそれはいくらなんでも、恐れ多いと申しますか」

「だ、駄目でしょうか……?」


 人の目もありますし、となるべく傷つけずに断ろうとしたが、不意にエリンの潤んだ瞳と視線が合い、うっと喉で言葉が詰まる。


「……で、では、二人だけの時、エリン姫、という事でしたら」


 ぱあ、とエリンの顔が輝く。本当に嬉しそうだ。なんでこんな事に悩まされているのだろう、とウィルガンドは内心げんなりする。


「……ですが」


 と、一息ついたのもつかの間、エリンが沈痛な面持ちになる。


「目覚めたばかりのあなたにこんな事を言いたくないのですが……皇帝は、私達を解放するつもりはないようです。それどころか、ある程度日をまたいだら、またいずれ命を賭けて、あの残虐な催しで戦ってもらうと」


 予想はついていた。別に皇帝は、ウィルガンドが勝てば王女の命を助けると言っただけで、それ以上の保証も便宜も口にしてはいない。

 つまり、今日を生き延びられたとしても、明日も同じようにしていられるとは限らないのだ。


「ですが……やはりこんな理不尽は許せません。もう一度直訴しましょう……!」


 弱り切ったウィルガンドを見て義憤に駆られたのだろう、息巻いて立ち上がりかけたエリンを、腕を上げてやんわりとなだめる。


「王女殿下。僭越ながらよろしいでしょうか」

「ウィルガンド……? あ、いけませんまだ動いては!」


 よろめきながらベッドを降りるウィルガンドをあわあわと押しとどめようとするも、騎士は構わず床へ膝を突き。


「どうか私を、王女殿下のために戦わせて下さい。どのような大敵が現れようと、どのような苦難が降りかかろうと、この命尽きるまであなたの剣となり戦い抜いて見せましょう」


 包帯まみれのミイラ男のような風体ではあまり格好はつかないだろうが、じっと王女の答えを待つ。静寂が落ちた。エリンの様子は分からない。ただお互いの呼吸音が規則正しく続いていて。


「……あなたが戦うというのなら、私ももう、迷いません」


 落ち着いた声音と共に、ウィルガンドの肩へ添えるように手が乗せられる。


「まだ何も指針はないけれど、あなたがともにいてくれるのなら、私も断固として帝国には屈しません。二人で生き抜きましょう。それが私の願いです」


 顔を上げれば、感極まるような、涙をこらえるような表情で、だけれど今までにない、強く煌めく光がエリンの双眸には灯っていた。


「はい。頑張りましょう」

「頑張る……そうですね。でも」


 と、エリンはウィルガンドの肩に乗せた手を頬まで伝わせる。


「私の事はエリンと呼ぶように、先ほどお願いしたはずですよ?」


 しまった、と口の端をひくつかせるウィルガンドに、エリンは笑う。空元気半分といった調子だったが、ともあれこれで一安心。


 ――そう。これでいいのだ。この程度、従順で誠実な騎士を演じるだけで安心してくれるのならおやすいご用。期せずして皇帝の懐へ潜り込み、ここまでの機会を得られたのもエリンという御輿が側にあるおかげ。

 ウィルガンドの戦いはまだ始まってすらいない。全てはここからだ。守り抜かなくては。本懐を遂げるまでの間は。

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