二十七話 御前試合 下 羅刹

 ――ゆらり、と怨霊のように。ウィルガンドが立ち上がっていた。


 出血する胸を押さえ、声には疲弊ひへいの色が蓄積し、剣はだらりと下がっている。それでもなお、ウィルガンドは立っていた。

 ゼディンがわずかにまなじりを上げて視線を寄越す。


「……なぜ生きている」

「哲学的な質問だな」

「理解できない。何をした。正確にお前の心臓を突き破ったはずだ」


 動揺というより、何か興味深い出来事と遭遇し、それを観測しようとしている風。


「お前の攻撃がずさんなだけじゃないのか。そんな事より自分の心配でもした方がいい」


 観客席は死んだような静寂に包まれていた。ウィルガンドが生きていたのは驚いてしかるべきだろう。だが彼らから声と呼吸をも奪ったのは、ある一点。


「ゼディンが……傷を負った……だと?」


 ファンハイトもまたそれきり絶句する。コロシアム、そして戦乱の数々。ファンハイトが知る限りゼディンが怪我をした事は、ただの一度たりともないのである。

 なのに――夢ではない。そこでゼディンは斬られた。神性すら帯びていた無敵神話が、ここに破られた。

 観客の多くは愕然と黙し、とりわけ今のゼディンを勇者ゼディンの再来とまで信じ込んでいる信奉者の中には、今にも死にそうな顔色の者もいる。


「そいつはエリンの分」


 ゼディンを指差し、ウィルガンドは告げる。

 そう。その傷はそのまま、エリンに刻み込まれた深い斬撃痕。


「そしてここからは俺の分だ」

「俺の……? 確かにお前と戦うのはこれが二度目だが、ずいぶんと恨まれたものだな」

「勘違いするなよ。お前の存在は帝国の大黒柱だ。ここで殺せば、帝国に大きなダメージが入る……!」

「復讐か。そうまで強い憎悪を持つとは、変わった男だな」

「ああ憎いな……! 憎くて憎くてたまらない! 一刻も早く殺してやりたい、生きているのが苦痛で仕方ない! ここがお前の墓場だ――!」


 ウィルガンドがまくしたてると、ふざけるな、と観客席から怒号が上がる。


「お前達王国が俺達を殺したんじゃないか! それを憎いだと? 筋違いも大概にしろ!」

「御前試合に出たからといい気になりやがって、お前なんかいつでも殺せるんだぞ!」


 本来なら復讐するべき大義があるのは帝国の方。だからウィルガンドの言い分に逆上し、次々と罵声が浴びせかけられた。それまでの人気が嘘のように、初戦を思わせる死を望む声が大合唱する。



「――黙れッ!」



 だが、会場を埋め尽くす数千人ものわめき声が。ウィルガンドの発した空間を震わせるような大喝によってかき消される。


「俺が憎いか? ああ憎め、恨め! だが貴様らの運命は変わらない。帝国は地上から消え、二度と太陽の昇らぬ不毛の大地を絶望と苦悶を抱えてさまよう事になる。今のうちにそうやって騒いでおけ――俺がこの戦いに勝利した時が、貴様らの最後だ!」



 その時、観衆は見た。騎士の影が濃く伸びて――その形が、巨大な混沌へと変貌する瞬間を。

 地面にこぼれた血に彩られたそれは全身が赤い傷と黒い肉で構成された異形。

 さながら悪魔じみた怪物とウィルガンドの姿が重なり、そこに秘められた怒りを網膜に焼き付けられる。


「ひ――な、なんだ今のは……っ」


 観客の一人が青い顔で目元をこすると、あらゆる闇を捕まえて塗り込めたような悪魔は消えていた。

 幻。なのにその場にいた誰もがその怪異にどうしようもなく魂を呪縛されていた。おそれの余り、ウィルガンドへ言い返せる者は現れない。



「自分の怒りさえ晴らせれば世界がどれほど荒廃しても良いという事か。ますます生かしてはおけないな」


――相対する、一人を除いて。


「お前も正義を気取るつもりか?」

「そうじゃない。そう命令されるだろうから先に済ませようとしているだけだ」


 ゼディンが構える。ようやく一撃は与えられたが、依然としてウィルガンドの方が深手なのは変わらない。


「前もそうだったな。完璧に演算して躱したと思ったはずのお前の攻撃が俺をかすめていた。まったく不可思議だ。憎悪と憤怒……良くは分からないが、未知の力だな」


 そう評したゼディンにとって、今までに戦った相手から受けた恨みや憎しみは興味の外であり脅威ですらなかった。だがこれは紛れもないウィルガンドの力を認めた発言なのだ。


「だったら教えてやるよ……怒りだけでここまで這い上がってきた俺のあがきを!」


 ウィルガンドの中で憤りが絶え間なく血潮を動かす。神経を研ぎ澄ませる。筋肉を躍動させる。殺意が濃縮し、凝縮され、身体の内側で炸裂する度、天井知らずに生命力が増大していく。

 破壊と殺戮を求めて滞留する衝動をぎちぎちと四肢へ詰め込み――弾けるようにウィルガンドは奔った。

 再び激しいせめぎ合いが始まる。あれだけ押されていたのが嘘のようにウィルガンドは攻め込み、闊達自在に振るわれる剣がゼディンと互角の戦いを繰り広げる。

 拳を握りしめてその様子を見守りながら、ラセニアが呟いた。


「ねえシルファ。ウィルガンドはあなたとの試合の時はフレイルを使ったのよね。今回も持って来ているのかしら」

「いえ。ゼディン将軍にそのような小細工は通用しないでしょう」

「そ、そう……でも、だいぶ動きが変わってきてるわ。これなら勝てるんじゃない?」

「ああ、絶対勝つって! 規格外っぷりならウィルもどっこいどっこいなんだ!」


 しかし予断は許されない。ゼディンはコロシアムにおいて、ほとんどの試合で最初の一撃で敵の心臓を貫き、倒している。なのにウィルガンドは生き残った。エリンを救出する際にもゼディンと戦ったというならこれは二度目の奇跡。

 前提として、ウィルガンドがずば抜けた先読みと対応力を持つゼディンと渡り合える事そのものが異常事態なのだ。

 回避も防御も不可能。それでなお生存しようとするなら、攻撃を受けた段階で反応し、急所からダメージを少しでも遠ざける他にない。

 本来なら胴体を分割されていたであろうウィルガンドは斬られながらも無意識のうちに身を引き、裂傷だけにとどめた。今回も剣で肉を抉られつつも半身を逸らし、心臓だけは傷つけられるのを避けたのである。そのどちらもでゼディンへカウンターを返し、後になるほどその威力と正確性は増していた。

 それらを踏まえ、この光景。どれだけ信じがたいか。全ての動作においてゼディンは一撃必殺の攻撃を放っているだろう。にも関わらずウィルガンドはしのぎ、あまつさえ反撃すらしている。

 人間業ではない。ウィルガンドがゼディンの思考と動きに追いついているとしか思えなかった。


「……あの二人はすでに別次元の戦いをしています。特にウィルガンド様は私と戦った時よりも、はるかに実力を底上げしている――まるで本人の言う通り、怒りが何乗にもなって力へ変換されているとしか思えないほどに」

「それなら、勝てるのよね? ウィルガンドはあいつに勝てるのよね……!?」

「頑張れウィル! 王女様の痛みを教えてやれーっ!」


 静かな観客席で目立つのもよそにウィルガンドを応援するラセニアとリロ。

 けれどシルファは戦いとは別のところで、ウィルガンドの豹変とすら呼べる戦いぶりに虫の知らせを覚えていた。あの、憎悪に満ちた視線と声音。シルファも幻視した、彼の心身に憑依しているかのようにたゆとう、おぞましい悪魔。


「気のせい、ならばよいのですが……」


 ――ウィルガンドの剣とゼディンの剣が交錯し、同時に二本の剣が回転しながら吹っ飛んでいく。


「おおおおおおおおぉぉッ!」


 いち早く体勢を立て直したウィルガンドがすかさず拳撃を叩き込む。ゼディンも呼応して腕をガードに上げるが、そこへウィルガンドの拳が打ち込まれ、骨が軋みひしゃげるような圧壊音が響き渡るとともに、踏ん張りが利かずゼディンの身体が突き飛ばされていく。

 その隙に剣を拾い上げると、ゼディンも同じように剣を取り戻している。しかしウィルガンドのパンチを受けた右腕は青く膨れあがり、少なく見積もっても骨折以上の損傷を受けていると思われた。


「ここまで奮闘するとは、驚倒すべき才能だ」


 だというのに平常と何ら変わりない調子で構え直す。片腕は使い物にならないようだが、それすらも些末事といった風情である。


「才能……? 違うな」


 ウィルガンドも剣を油断なく正眼にかざし、慎重に機を窺いながら口を開く。


「才能も経験も無関係だ。お前が戦っている相手はお前が手にかけた人々の怨念。それが俺から余計な感情をそぎ落とし、仇を殺す以外の不要な思考を食い尽くした」


 だからゼディンの動きが分かる。この身に棲まう犠牲者達の嘆きの奔流が、奴の隙を教えてくれる。無尽蔵に上昇する激情が、その弱点を突くだけの力を与えてくれる。


「簡単な話だった――力が足りないのならもっと恨んで、怒って、補えば良かった。俺は一人じゃない。死者の思いがこうまで復讐に手を貸してくれる。最近は誰かのためだの、逃げるだのとすっかりなまっていたからな」


 目が曇らされていた。一人の少女によって。不快ではなかった。そうでないという事はつまり居心地は良かったわけで、それは忌むべき堕落。拒絶すべき馴れ合い。彼女の優しい言葉と底なしの慈愛にほだされ、本質を見失ったあげく日和りなびいてしまった。


「違うんだ。俺が向かうべきはここにしかない。このコロシアムのような血と死と呪詛のるつぼこそがふさわしい寄る辺なんだ。あいつはある意味、俺の天敵だった」

「王女の事か? お前のその妄念を王女が鎮める――そう踏んでいたものだが」


 論外だ、とウィルガンドはどこか迷いを振り切るように自嘲の笑みを浮かべる。


「復讐をやめたら誰が皆の苦しみを終わらせてやれる。誰が無念を晴らしてやれる。振り上げた拳をどうすればいい。だが……惜しいと思わないでもなかった」


 だから礼を言う、とウィルガンドはゼディンを見据えた。


「お前のおかげで取り戻せた。総身を満たす狂おしい思いを。くすぶっていた火だねにべるべき憎悪を。ここで確実に殺してやるよ」


 そして肉薄する。大上段に構えた剣を振り下ろし――しかしそれはフェイク。寸前で身をひねりながらゼディンの背後を取り、その背中に斬撃を叩き込んだ。


「ば……馬鹿な! ゼディンが背を斬られた――!」


 思わず叫ぶファンハイトを皮切りに、観客席から身を切るようなうめきやどよめきが漏れる。何が起こったのか正確には見えなかったが、さらに一段スピードを加速させて回り込んだウィルガンドがゼディンを斬ったのは分かった。

 ゼディンはすぐに距離を取ったが、もはやその身はこぼれる鮮血で赤く濡れきっている。


「な、なあ……ウィルの奴、なんか様子がおかしくないか?」

「ええ……そうね。あんな風に感情をむき出しにするのは初戦以来だけれど……」


 今回もやってくれた。王国も帝国も畏怖を隠さぬゼディンに対し、無名にも等しかったウィルガンドが優勢。喜ぶべき事なのに、ラセニア達は言いしれぬ予感を覚えている。


「今のあなたを見たら、エリンはなんて言うかしらね……」

「俺の事務所に来る時もよく王女様の話をしていたのに……あんな言い方するなんて」


 冷たくよどんだ目をして、冷静に狡猾に、一撃に烈火の気迫を込めて叩きつける――これまでの試合のどれとも違う戦い方だ。

 あんな状態になったのは間違いなくエリンが傷ついてしまったからだろう。ウィルガンドを理解して受け入れ、慈しみ包み込めるエリンは側におらず、であるならたとえここで勝てても、自分達とわかり合えたウィルガンドにはもう戻れないのでは――そんな考えがよぎる。


「ウィルガンド様は瞬間的にでも拮抗を破り、ゼディン将軍へ攻撃を届かせています。ですがあのようにいつまでも身体を酷使していては……勝利できたとしても……」


 戦闘中にも精神世界を展開し数億とも数兆とも状況に対処できるゼディンへ対抗するために、ウィルガンドの脳は次から次へと身体へ指令を出しているだろう。そんなもの並大抵の人間なら耐えきれずとうに神経が焼き切れ、悪ければ二度と目覚められまい。

 ゼディンとて劣勢ながら何もしていないわけではなく、紙一重で致命傷こそ避けられながらもウィルガンドへ剣撃を食らわせている。

 ――そして彼らの戦いがどちらも譲らず、一進一退のものだったために気を取られていたがこの試合、長引いてはいないか。


「……おい、時間は今どの程度経過している……!?」


 緊張に消耗しきり、脂汗を全身にかいたファンハイトが運営の男へ尋ねる。呆然と試合を眺めていた男ははっと我に返り、時計を確認して。


「ろ、六十分です……! 制限時間を超過しています!」

「通常の試合なら延長するか中断するかだが……この場合はどうなのだ!?」


 ファンハイトの人生においての御前試合ではいまだかつて、ここまでの長期戦は経験して来なかった。それも全てゼディンが敵を瞬殺してしまうのだから仕方ないのだが、過去に前例がなかったわけではない。


「ご、御前試合で中断が認められたのは二件のみ……他はどちらかが死ぬまでのデスマッチとして処理されていますが……」

「中断できるのだな!? だったらやめだ! 今すぐ二人を止めろッ!」


 唾を吐きかけるようにファンハイトは命令する。ゼディンが負けるとはちりとも思っていない。いないのだが、この戦いは危険過ぎる。ゼディンが勝っても、あれだけの負傷である、二度と剣が握れなくなるほどの後遺症が残ったとしてもおかしくない。

 実際、高ランクの剣闘士にさえも重い後遺症のため御前試合を諦めざるを得なくなった話を耳にした事もある。ゼディンが戦えなくなる事は許されない。

 もしもそのような羽目になったら、上司であるファンハイトの責任が問われ、これ幸いと敵対派閥に失脚を狙われる事態になりかねず、それでなくてもゼディンというジョーカーが失われる事は、人生そのものの詰みといっても過言ではない。

 皮肉にもファンハイトは、不倶戴天ふぐたいてん の敵であるウィルガンドとエリンのような、代理の戦士の死が自らの終焉へつながる状況へ陥っていた。

 いや、念頭にはあったのだが、今の今まで1パーセントたりともゼディンが負ける可能性を考慮していなかった。だから何としてもゼディンを守ろうとしている。


「と、ともかく多少強引でも構わん、試合を中止させるのだ! 沙汰はまた後日に――」


 刹那。ファンハイトはぴたりと硬直し、言葉を途切れさせる。

 背後に、皇帝の視線を感じた。ほの暗い冷気と重圧に満ちた、足の先から震えが来るような、絶対者の視線を。


「へ……陛下……?」


 ゆっくりと、罰を待つ罪人のように振り返る。皇帝は変わらず玉座に腰掛けながら、けれど眼光だけを爛々らんらんと光らせて、ファンハイトを――その先にいる、死闘を続ける二人を見つめていた。


「今……いいところなんだよ」


 吐息混じりの言葉と、同時に発された禍々しい迫力に、ファンハイトはおののき、歯を鳴らしながら試合の行方を祈るように眺める事しかできない。


「ゼディン……勝て。頼む――勝ってくれ」


 何度目か。ウィルガンドとゼディンは小休止のように間合いを取り、睨み合っていた。


「……そろそろ終わらせようか」


 長く戦い過ぎた。やろうと思えば三日三晩でも剣を振り続けていられるウィルガンドだが、いかんせん相手が相手だ、消耗度合いは極大にして一秒ごとにごっそり体力を奪っていく。

 恐らくはゼディンも似たような有様だろう。血を流し、肉体を損傷し、立っているのもやっとのはず。


「――長く、生きて来た。この数千年の生で、お前が初めてだ」

「……なに?」


 かと思えば、また妙な事を言い出す。このゼディンはウィルガンドの人生で確実に最強の敵だが、その心中や思考回路はついぞ理解できそうにない。


「俺に傷を与えたのも、時間切れにさせたのも……分析できない未知の力を見せたのも」


 ゼディンの言う時間切れとは、彼が精神世界で行動できる猶予の事を意味する。

 精神世界にいる間は外界の時間は静止しているに等しいが、それでも限度は存在する。精神世界に長くとどまればゼディン自身の集中力が底を尽き、強制的に押し出されてしまうのだ。

 もしまかり間違って戦闘中にでも精神世界から排出されれば、敵に対し甚大な隙をさらしてしまうため時間切れだけは避けるべき事態。

 とはいってもそうなる前に自分から出れば問題はないし、あらかじめ精神世界にいられる時間を予備としてストックしたまま外界に戻れるほどに能力は成長している。

 その特異な精神性も手伝いまさに盤石。実質無制限――無窮むきゅう の時を精神世界で過ごせるゼディンは、現実時間にして数千年の齢を重ねていた。時間はいつだってゼディンの味方だった。

 だがこの試合において、ゼディンは精神世界で対処法の研究に限界満杯まで時間をつぎ込み、予備のストックさえも使い切ってなお、ウィルガンドを倒せずにいる。

 もう精神世界に入れるのはせいぜい残り十秒か二十秒だが、そうまで努力して有効な手立てを見いだせないという事は、その程度時間が残っていたところで結末には何ら影響をもたらさないであろう。時間切れとはそういう事だ。

 その理由といえば、やはりウィルガンドがこの場に立つ動機にある。ゼディンは闘争において、感情の介在しない理屈や論理で判断を下していた。しかしウィルガンドにはその公式が通じない。戦闘データを参照し、あらゆるパターンをシミュレートし、何度方程式を計算して攻撃しても、その度に理屈を踏みにじるが如く復讐心に身を焦がしながら乗り越えてくる。

 そこには怒りという、人間が普遍的に持ちながらも未到の可能性を示す力が介入していた。機械そのもののように正確無比な思考をする代わりに人間性に乏しいゼディンにとっては理解が難しく、また、どのタイミングでウィルガンドが爆発するのか読めないので思考にもノイズが生じる。ゼディンの言動が行動が、存在そのものがウィルガンドに飽くなき力を注ぎ込み、全能力をもって倒そうと迫ってくるのだ。

 これほど理不尽な相手はいない――もっとも理不尽と感じるだけの情は持ち合わせていないが。

 だがウィルガンドもまた潜在能力の絞りかすまで出し切り、条件は横並びのはず。後は運を天に任せる、と考えて、奇妙に思った。

 ゼディンにとって戦いとは帰結に至るまでの異物を排除し、勝つべくして勝つもの。裏を返せばそれ以外の勝ち方を知らない。

 天運。そんなものに頼るというのも初めての経験だった。


「お前の願いは、なんだ?」


 不意に、ウィルガンドが問いかける。それは同時に、この激突が最後である事を意味した質問でもあった。


「願いか」


 ゼディンは思案する素振りを見せる。

 ここにおいてもウィルガンドのセリフの端々から未知の力の正体へ迫ろうとしているかのような、珍しい長考だった。


「そんなものはない」


 二つの力の奔流が地を蹴り、衝突する。

 ゼディンの突きが、いかほどの速度も損なわれず最大限の威力を伴って見舞われる。

 対し、ウィルガンドはその一撃を側方へ身を傾ける事で、剣を握る二の腕をしたたか斬り裂かれるにとどめ――そのまま、振り下ろす。

 上段より降り注いだ刃はゼディンの顔面から下方へかけて斬り下ろされた。左の眼球を斬り潰し、左胸と肺を引き裂き、脇腹と腸をえぐり、太ももからふくらはぎまでを断裂する。

 ウィルガンドの剣が描いた軌跡から、洪水のように血しぶきが噴いた。

 だが、ゼディンは倒れない。残った右目でウィルガンドの位置を確認すると、いまだ手放していない剣を、袈裟懸けに振りかぶる。

 ウィルガンドも素早く剣を引き戻し、半身を低めてゼディンの攻撃を躱しつつ横一文字に薙いだ。振るわれた一閃はゼディンの胴体を横に切り刻み、のみならず振り抜かれていた彼の剣をその左腕ごと断ち切る。

 空へつぶてのように飛び散る鮮血と手首、そして数本の切り離された指と、ゼディンの剣が舞った。

 体重の変化に身体がついていけず、ゼディンはよろめき残る片腕を地面へつく。顔を上げた矢先、その首もとへウィルガンドが剣をつきつけていた。


「……え……終わった……の?」


 その一部始終を目撃していたはずなのに、一拍遅れてラセニアは呟く。

 かつて、ゼディンがアイウォーンを仕留めた時も、こんな風に何が起こったのか分からなかった。でも、そこにある光景は疑う余地なく現実で。


「や、やった……ウィルの奴……やりやがった……!」

「……勝負、ありです。ゼディン将軍からはいかなる反撃手段も失われました」


 そして、その命運も。御前試合において降参は認められない。それだけでなく、シルファが見る限りゼディンのあの傷は致命的なレベルに達している。恐らくただちにこの城にいるどんな腕の達者な医者が診ても、延命以外の処置を取る事は不可能だろう。

 ウィルガンドはゼディンを見下ろした。とめどなく流れる血液が、ゼディンの足下と、身体を支えるために突いた青く腫れ上がった腕の先を浸している。甲乙がここに決定した。何者にもこの結果を歪める事はかなわない。


「見事だ」

「……何?」


 死の淵に立たされているにも関わらず、大量に出血しているために顔から血の気が引いている事の他は、ゼディンの様子は平時とさして変わらない。


「どちらが倒れてもおかしくはなかった。いや――その段階に至った時点で俺は敗北していたのか。あるいはお前の執念が勝利を呼び込んだのか。このような戦いの結末も感傷も、俺には持ち得ないものだ。貴重な体験ができた……礼を言う」


 割れた唇から歯とピンク色の歯茎はぐきの破片を垂らしながら、自らの命脈を閉ざしたであろう相手に含むものもなく賞賛の言葉を投げかけている。

 その内容もまるで少し休憩に行くとでもいうような屈託もないある種爽やかなもの。

 こいつ、本当に人間なのか。ゼディンからすればその疑問はお互い様だろうが、ウィルガンドは初めてゼディンの深奥にある虚無を覗き込んだ心地がして――その精神構造に悪寒が走った。


「やめろ! 殺すな! ……殺さないでくれ!」


 その時、ファンハイトが叫んだ。今しもウィルガンドがゼディンへとどめを刺そうというように見えているのだろう、塀へしがみつくようにしながら身を乗り出し、喉から絞り出したあらん限りの声量を張っている。


「――頼む、誰か医者を呼んでくれ! ゼディンが死んでしまう!」


 その声に背を押されるようにして、観客席からも必死の叫びが聞こえてくる。


「やめてくれ、ゼディンは俺達の希望なんだ! そんなに殺したいなら俺を殺してくれ!」

「もう勝負はついただろう! これ以上はただの虐殺だ!」

「騎士ウィルガンド! あんたに誇りがあるなら、ゼディンの助命だけは認めてくれ!」


 声は暴力的なまでに一体感を増し、皆口々に許してくれと訴える。ラセニアは唖然とその様を眺めていた。


「何よ……これ」

「へ、調子のいい奴らだぜ。今までさんざんウィルをバッシングしときながらさ」

「どちらにしても、あの方々の願いはかないません。……ゼディン将軍は、もう」


 ウィルガンドが再び視線を下げると、ゼディンは横たわるように静かに目を閉じていた。

 失血死。いや、意識を喪失しただけでもしかしたらまだ息はあるかもしれない。なら。


「――やめろおおぉぉぉぉぉぉッ!」


 ファンハイトの絶叫にかき消されるようにして、どんっ、と鈍い音が響き、ウィルガンドの振るった剣がゼディンの首を斬り飛ばした。

 ごろごろと首は転がり、そして止まる。


「あ……」


 ぽかんと口を開けたファンハイトから力が抜けた。目の焦点が合わなくなり、膝が折れて、そのままずるりと倒れ込んでしまう。

 一瞬、世界が終わったかのようにコロシアムが静まりかえった。

 そして――舞台は恐慌に包まれる。


「ああああああ! 貴様ああああああ!」

「いやあああああ! ゼディン様がああああ!」

「――殺してやる! 殺してやる! 殺してやるぞッ! うおおおおおぉぉぉぉッ!」


 髪を掻きむしり、泣き叫ぶ者。わめきながら頭を地面へ打ち付ける者。だがその多くは殺意に瞳を昂ぶらせ、拳を握りしめて塀を乗り越えようとする。近くに衛兵がいればその武器を奪い、こぞってウィルガンドを血祭りに上げようとしていた。


 それが収まったのは、ごく唐突。どこからともなくその場にそぐわぬ、快活な笑い声が発されたからである。暴徒と化した観客達は紙一重で嘲笑とも呼べるその哄笑の元へ、自然と目線が吸い寄せられる。そして驚愕した。


「いやいやいや! 愉快痛快たまらない! まことあっぱれである!」


 笑声に混じり、拍手の音までもがぱちぱちと鳴らされる。

 それらを行っていたのは誰あろう、ただ一人動揺もうろたえもしていない、皇帝アーディウスその人であった。


「その他を圧倒する武力! もはや王国に収まる器ではなかろう。どれ、ゼディンを倒したるお前に、大陸最強の称号を授けようではないか!」


 一人、ただ一人。

 時の止まったような空間で笑い続ける皇帝。

 大陸最強。確かに、今のウィルガンドを上回る強者は、この広大な大陸といえどどこにも存在しないだろう。だがウィルガンドが聞きたいのはそんな戯言ではない。剣を握りしめたまま、はるか上から見下ろす皇帝を睨み上げる。


「おお、あまりに楽しませてもらったゆえに忘れるところであった。この御前試合、勝者はウィルガンド、お前だ! さあ望みを言うがよい。この皇帝の手が届くものであれば、どのような願いをもかなえてみせよう実現しよう。さあ遠慮するな早く言え」


 言え、と急かす割にはウィルガンドの答えなど待っていないかというように、腕を広げて歌うように言葉を続ける。


「おっと、その前に良い事を思いついたぞ。余から提案がある。聞いてはくれんか」

「……提案だと?」

「知っての通りたった今お前は最強の戦士となった。であればお前の守る姫君もさぞ鼻が高いであろう。名前はええと……ああそうエリン! エリンデールと言ったかあの小娘」


 たった今思い出したみたいにぽんと手を打つ皇帝に、ウィルガンドは嫌なものを覚えた。なぜここでエリンが出る。明日をも知れず床に伏せっているというのに。


「お前とエリンデールは一心同体。この二人が互いに支え合い、守り合いながら戦い抜く姿に余はいたく感銘を受けた。――そこでだ!」


 にぃ、と皇帝は口の端を吊り上げる。その笑みに込められているのはウィルガンドが顕現させたあの悪魔にも引けを取らぬ邪悪なる光。


「エリンデールを我が后へ迎える事とする。どうだ、素晴らしい提案だろう」

「……何。何を言っている」

「余はエリンデールが欲しい。エリンデールが持つお前が欲しい。両方とも手に入れるにはこれが最高の方法だ。さすがに正室ではないが……十分な待遇だろう」


 エリンが皇帝の后に迎えられれば、表立っての命の危機は遠ざかる。少なくとも、こんな命がけの戦いを何度も越えていくよりはいい。

 それにエリンは王国の象徴だ。それが皇帝のものになったと知れたら、ジェノム公らも士気をくじかれるであろう。どちらにしても帝国にはメリットしかない。エリンが子を成せば、その子と王国は代の続く限り帝国へ忠誠を誓い、隷属する事になるのだから。


「だがいかに余が勅命を出そうと、帝国内の反発までは抑えきれぬ。さて……後はお前の選択次第だ。――願いの内容はもう言わずとも分かるだろう?」

「俺に下れ、と言うのか……? 俺がお前の配下になると望めば、それがかなうと……」


 それは奇しくも、ウィルガンドがラセニアとの対談で得た答えと同じだった。皇帝の傘下に収まり、その命を奪うチャンスを窺う。エリンもろとも皇帝の内側へ抱え込まれるならもっと都合がいい。皇帝の側室の側近くにあれるなら、暗殺はより容易になるだろう。


「挙式はどこで挙げようか。やはり我が都で大々的にやろうか。ウィルガンドには仲人でもしてもらうか。おお、今から胸が躍るな」


 皇帝は無邪気とも言える口ぶりで今後の展望を話しているが、ウィルガンドが決断するまでの葛藤を楽しむように、その視線を一分たりとも外さない。

 皇帝を殺せる。ここで願えば、かなう。

 帝国と敵対していた事や、叛意はんい を覗かせた振る舞いも水に流され、いよいよ悲願が間近に迫るのだ。

 ――だが。


 ――助けて。


 耳の奥。頭の中。心の奥底で、あの声が聞こえる。

 エリンが、皇帝のものになる。届かないところへ行く。

 また、奪われる。大切な――ものが。


「う……ぐ……!」


 歯を食いしばった。エリンが奪われる。いなくなる。そう思うと――身を引きちぎられるよりもなお耐え難い苦痛が血肉を、怒りによって強靱になったはずの精神を蝕む。

 嫌だ。失いたくない。もう奪われたくない。選びたくない。息が苦しい。心臓が締め付けられる。

 刻一刻と迫られる、究極の選択。

 エリンか、復讐か。


「あぁ……うあぁ……!」


 視界が赤い。鼓膜を打つ不規則な心音が皇帝の言葉を遮り、食い締めた唇の裂け目から鉄の味が伝っていく。

 どうする。どうすればいい。


「さあ選ぶがよい! 今のお前に、かなわぬ願いなどないのだ!」


 皇帝が宣告する。

 その時、ウィルガンドの思考の一切が薙ぎ払われて、代わりに村のみんなと、エリンの姿が左右に現れて――。


 ――兄ちゃん。俺達はいいよ。お姫様を助けてあげなよ。

 ――それが正しいと思うのなら、どんな形でもあなたの選択を信じます。



「っ――!」


なぜ。なぜ笑うんだ。


 ウィルガンドは、口を開いた。

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