八話 ウィルガンド対ファンハイト
エリンはペンを置いた。長い時間机に向かい続け凝り固まった全身をほぐすように、大きく呼気を漏らして四肢から力を抜く。
目の前にあるのは一枚の文。夜を徹して何度も書き直し、校正を繰り返し、ようやく完成を見た手紙だった。
「後はこれを……ですが」
深呼吸し、窓から差し込む日差しに浮き立った気分はしかし、みるみるしぼんでいく。
問題はここからだ。どうやってこの手紙を届けたらいいのか、皆目見当もつかない。
手紙の内容は自らの無事と近況をジェノム公に宛ててしたためたものである。そしてこの帝国で見聞きした情報、父王の救出を願う事など、自分や国王に代わって軍の全権を委任する旨を記してある。
ジェノム公は聡明な人物ではあるが、同時に従兄弟であるギネモン、それに昔からエリンの面倒をずっと見ていてくれた事もあり、たとえ諸侯をひとまとめにできても帝国との決戦には踏み切れないかも知れない。
だからこそこの手紙。個人よりも国を。私情よりも大義を。自分には構わず帝国を打倒し、国王を救って欲しいとの思いをできるだけ込めたつもりだ。
でも、肝心の伝達方法が分からない。そもそもファリア同盟はどのような局面を迎えているのか。エリンに付く侍従、侍女に問うても何も答えてはくれないし、外出の許可も与えられていない。ジェノム公は無事なのか、あるいは同盟はすでに崩壊しているのか。
ファリアの民達は帝国の蹂躙を受けてどのような憂き目にあっているのか。自分の他に王城を脱出した家臣達はどれだけ生き延びているのか。皆、路頭に迷い、理不尽な弾圧を受けているのでは。それに父は。自分はどうなってもいい。だが父だけは助けて欲しい。
(父様は……ファリアに必要な方です)
いや――そうじゃない。エリンはただ、心配なのだ。父がどこでどうしているのか。ひどい目に遭っていないか。ちゃんと温かな食事が取れているのか。会いたい。また一目、再会を果たしたい。それさえできれば、何年でも何十年でも帝国の捕虜に甘んじよう。
唇を噛む。今は耐え忍ぶ時。耐えて耐えて、いつの日かもう一度ファリアに日の光を。
そう決意を固め直した時、ドアがノックされた。何だろう。朝食は済ませたし、昼食にもまだ早い時間だ。どうぞ、とエリンは手紙を片付けながら声をかけた。
「失礼する」
入って来た人物を目にしてエリンは立ち上がった。自然と眉が顰められ表情が硬くなる。
「ご機嫌麗しゅう……というほどでもないですかな、王女殿下」
馬鹿にしたように鼻を鳴らしたのは皇太子ファンハイト。後ろ手にドアを閉めて、薄く笑いながら歩み寄ってくる。
「一体……何用でしょうか」
「用というほどでもないのですが。あなたが我が帝国の歓待を受けて早数日。いかがお過ごしか伺いに参った次第で」
「……私をアーディウス皇帝に会わせて下さい。お話ししたい事があります」
「それは残念ながら叶えられぬ要望ですね」
ファンハイトは愉快そうに口角を歪めた。
「確かにあのコロシアムを経てあなたの身柄は一旦の保証を得ましたが、だからといって全ての自由までもが返還されたわけではありません。まことに不便を強いる事にはなりますが、王女殿下におかれましてはしばし、この貴賓室にて辛抱願いたいところです」
「……ここを出るという事は、私に死ねというのと同義ですか」
「それはあの騎士の働き如何ですな。ほら、あの、ウィル……ウィル……」
「ウィルガンドです」
エリンは唇を引き締め、決然とした面持ちでファンハイトを見据えた。
「どうしてあなた方帝国は、ファリア王国を、そして大陸を狙うのですか。多くの者の命を奪う、このような残酷な行いをなぜ……それほどまでに戦争から得られる利益を欲するというのですか」
「おやおや、今度は詰問と来ましたか。意外と積極的なのですね、王女殿下は」
「答えて下さい!」
叫びにも近いエリンの声に、ファンハイトは降参というようにおどけて両手を挙げた。
「仰るとおりこの戦争はとても残酷です。ですが利益うんぬんというより、これは帝国、ひいては帝国の民全ての悲願でした。我々はみな、血を流してでも大陸へと進みたかった」
「どうして、そんな……ファリア王国は誰も、帝国との戦いなど望んでいなかったというのに」
「ええ、それはそうでしょうね。だって帝国と戦う事になれば、自分達の罪を全てさらけ出す事になるのですから」
罪、と聞いてエリンは目をしばたたかせた。
「罪、とは……? ただ必死に今を生きて、平和を保とうとしていた私達に、何の罪があったというのです」
「――己の罪を忘れている。それすらも罪なのです!」
ファンハイトはくるりとマントを翻し、聴衆に向けて演説を始めるように身振りを加えて歩き出す。
「かつて遡る事二千年前。群雄割拠を迎えた大陸に一人の英雄が立った。その名をファリア。彼は優れた武勇と知略で大陸を統一し、ファリア王国を建国した。……ここまでは王女殿下も良く聞かされた話では?」
「は、はい……城の学者も、教会の神父様も……皆そのように英雄ファリアを称えていました」
「ファリア王はさらに自らの勢力を伸ばすため大陸各地に諸侯を配置し、彼らにその地の統治をさせました。それこそが現在にまで続くファリア同盟の始まりです。おかげでファリア王国は現在に至るまで散発的な内乱、小競り合いはあれど、まぁまぁ平穏な暮らしを続けていられた」
「……良く、ご存じなのですね」
帝国の人間なのに、と付け加えそうになり、エリンは慌てて口を閉じた。
「それは当然でしょう。帝国の民が突然、砂塵に覆われた不毛の地に出現したとでもお思いですか? であれば、その認識こそが罪の始まりと忠告しておきましょう」
「まさか……え、そんな……っ」
そこまで言われて、エリンの脳裏にかすめるものがあった。ファンハイトの言葉。罪。それらが意味するものは、もしや。
「お気づきになられましたか? その通りです。ファリア王は間違いなく英雄でした……彼を受け入れた諸王国にとっては、ですが」
ファンハイトが向き直り、息を呑むエリンをひたと睨む。
「ただ王の支配を良しとしなかった者もまた、存在したのです。まだ国の名も持たなかった彼らは生まれた地を守るべくファリアと戦い……敗れました。そして」
「……追放され、砂漠の向こうへ……?」
ファンハイトの重々しい頷きと、部屋を覆う暗い空気が、それが真実であると何よりも物語っていた。
「それが二千年前。今の暦をご存じでしょうか。新ファリア歴1982年。しかし実際には、抵抗勢力を大陸から追いやり、改めてファリア同盟を結成したその年にこそ、この年号がつけられたのです。それ以前はただのファリア歴。追放されし民族がまだこの地で息づいていた時代です」
「で、ですが……私は一度も、そのような話を聞いてはいません……っ」
「それはそうでしょう。当時のファリア王とその取り巻き連中によって、その戦いは歴史ごと闇に葬られたのですから。流された多くの血とともに。この真実を知る者は追放されし民族――我々と、王国内でもごく一部、ファリアを戦神だの英雄だのと奉る教会最高位の教皇程度ではないでしょうか。下手をすると、ギネモン王すら知り得ぬ事でしょうね」
エリンは二の句が継げなくなった。物心ついた時から帝国は怖い、王国を狙っている、だから国交を断絶しているという欺瞞の裏に隠されていた事実。王国建設という大陸黄金期のベールに包まれた、血塗られた歴史。
ファリア王による治世と平和を享受した国々と、それを拒んだ者達の苦悩と絶望。つまりはそれが答え。今のこの状況と、唐突に不条理に始まったと思われた帝国との争乱の。
「でも……けれど!」
もはや余裕も平静もなくし、エリンは言いつのる。
「たとえそれだけの悲しみと大義があなた達にあったとしても、それでも二千年をも過ぎて新たに大地に根付き、帝国という大きな国を作り上げたあなた達にとって、ファリア王国を攻める必要が本当にあったのですか……っ?」
「ありましたよ。当たり前じゃないですか」
何を今さらという顔で、ファンハイトが肩をすくめる。
「帝国という名前は聞こえはいいですが、その実態は苦しみ悶え、安寧を求める人々に指標を示し、彼らの暴走を水際で食い止めるためのものに過ぎません。あなたは知らないでしょう。砂漠に追いやられた我々が、どのようにして生き延びて来たのかを。一体どれだけの犠牲と苦渋を味わい、今日まで命をつないで来たのかを」
ファンハイトは語る。砂漠の向こうには何もなかったのだと。資源も土地も、身を寄せる場所も、雨も太陽の恵みも。
「過酷、という言葉ではとても言い表せないところでした。あそこでは人は生きられない。乾いた大地に体力を奪われ、砂嵐に五感を遮られ。彼方まで続く荒野に枯渇した土はどれほど手を加えても作物を育てられず、かろうじて作り出せた品はどこよりともなくやってくる猛獣どもに根こそぎにされる。草木は枯れ岩は柔く水場も乏しく、家は崩れ土地は荒れる一方。その過酷極まる地にて、我らは時に協力し合い、時に奪い合い、荒みきった心身にいつか故郷の土を踏める事だけを望みに生きて来ました」
やがて生み出されたのが帝国。その存在意義は故郷の奪還。そしてファリアの血筋を受け継ぐ者どもへの報復。
「我らはもはや後がありませんでした。奪うか死ぬか。全ての食料は底を尽き、選び抜かれた精鋭に未来を託して戦争の幕を上げた。その結果どうでしょう。すでにファリア直系のギネモン王、エリンデール王女は捕らえられ、残るは諸侯を一掃する総仕上げのみです」
それが帝国の本来の目的。復讐という大義と土地を切り取る実利を兼ねた、これはそういう戦争だったのだ。
「私達に、正義はないと言いたいのですか……? でも、私達だって、今を生きているんです。戦争なんて手段に出ずとも、お互いに対話で答えを見つけていければ」
「そうでしょうか。現に今の今までファリア王国は誰もが帝国の事など、気にも留めなかった。それどころか肥沃な大地を狙う悪魔か何かのように、恐れるばかりだったでしょう」
それは、とエリンは口ごもる。
「この際なのではっきり言いましょう。あなたのそれは全く綺麗事です。正論だけで世界は何も変わらない。ただできるのは遠き先祖が犯した罪業を省み、悔い改めて裁きを待つ事だけです」
「で、でも……! まだ、何もかも終わったわけではありません! きっとお父様やジェノムおじさまが、なんとかしてくれるんです……っ」
いやいやというようにかぶりを振った拍子に、腕が机の引き出しを引っかけて中の手紙が顔を覗かせる。
「ならばなぜ諸侯は動かないのです。この期に及んで」
サディスティックな笑みを浮かべて、ファンハイトは机へ歩み寄り、手紙を取り上げる。
「あ、そ、それは……!」
「王女殿下ももっと大人になる事ですね。もう世界は王国を見捨てたのです。いまだジェノム公は沈黙し、諸侯は一切の動きを見せていない。もはやゼディンを動かさずとも、このように」
やめて、と懇願するエリンの前で、ファンハイトはその目の前で手紙を引きちぎった。
「……まぁたやすく支配は完了するでしょうね! これが我々を弾圧した王族の末路!」
ざまあみろ。とっておきに歪んだ笑いを浮かべるファンハイトの背中へ、だしぬけに声がかかった。
「ずいぶんご機嫌じゃないか」
「……っ?」
瞠目して振り返るファンハイトと、紙くずと化した手紙を前に崩れ落ちていたエリンも、聞き慣れた声に顔を上げる。
貴賓室のドアの横にいつの間に寄りかかって腕を組む、ウィルガンドの姿があった。
「きっ、貴様は……! い、一体どこから入った!」
「別に、そこからだよ。王女殿下の部屋にしては警備が甘いんだな」
ウィルガンドの露骨な嘲りに、ファンハイトはこめかみに青筋を立てる。
「にしても、理詰めで相手を追い詰めていくその弁舌は鮮やかなもんだ。何かあればすぐ暴力に訴える帝国の人間とは思えない。お前はむしろ、ファリアの王族に似ているよ」
「なんだと……!」
瞬間、ファンハイトの眼球が血走り、噛み締めた歯からぴしりと音が響く。
「ま、嫌がらせ以外に用がないんならさっさと出て行ったらどうだ。あまり王女殿下の部屋を荒らすもんじゃない」
「わ、私に指図するな、奴隷騎士風情がっ!」
立て続けの挑発に対しこれまたヒステリックに声を荒げるも、皇族としてのプライドは残っていたのか一応エリンへは振り返り、一礼。
「……それでは王女殿下、これにて失礼させていただきます。何事かを企むのも結構ですが、あまり我らに手間をかけさせないでいただきたい」
しっかり嫌みを残し、壁側へ移動したウィルガンドの横を通り過ぎようとした刹那。
「……エリンに指一本触れてみろ」
その耳元で、ウィルガンドが小さくささやく。同時に廊下へ出たファンハイトは凍り付いたように硬直した。
「――二度と彼女の前に現れる事ができないようにしてやる」
「な……な……ッ」
血の気を引かせ、顔を引きつらせたファンハイトが振り返るや、ウィルガンドは容赦なくドアを閉めた。
「ウィルガンド……来てくれたのですね」
「もう一度参上する、と約束しましたので」
ウィルガンドはへたり込んだままのエリンの側へ行き、片膝を付いてかがみ込む。
「大丈夫ですか。手を貸しましょう」
はい、と力なくエリンが手を伸ばすので、ウィルガンドはそっと引いて立ち上がらせてやった。
「どうやって……ここまで来れたのですか? 窓は……あっ」
振り向いてエリンも気づいたようだ。窓は開いていた。
何の事はない。出がけに王女の顔を見ておこうと思い立ったウィルガンドは鉤縄を使わず直に壁をよじ登り、窓を開けて侵入したのである。
その時点でファンハイトがエリンをねちねちいじめているのを目にし、身を低めて音を立てずに部屋を回り込みドア前に立ち、驚かせてやったという寸法だ。
「ありがとうございます……また助けられてしまいましたね」
「エリン姫のためなら火の中水の中です」
なのに、エリンの顔色は優れない。机の椅子に腰掛け、うなだれてしまう。
「私は……間違っていたのでしょうか」
「何がでしょう」
訥々と、エリンの口から紡がれるファンハイトとのやりとり。帝国はファリアを自分達を追い出した侵略者として憎んでいた事。ファリアが帝国を敵視する資格はない事。
「自信が……なくなってしまいました。帝国には不干渉、専守防衛が王国の方針だったというのに、その実ずっと彼らを裏切り、傷つけ続けていたとは……私は一体どう償えば……どう罪を濯げばいいのか……」
ウィルガンドはため息をつきたくなるのをこらえて王女を見下ろした。
もとより博愛主義だとは思っていたが、まさかこれほどとは。それとも大げさな演出で主張を信じ込ませるファンハイトの話術が巧みなだけか。
「エリン姫。僭越ながら私見を述べさせてもらってもよろしいでしょうか」
「あ……は、はい……?」
深い憂いを帯びる表情のエリンへ、ウィルガンドは淡々と話し始める。
「まず前提となりますが、あの皇太子が語った事柄の全てが正しいという根拠は今のところ皆無です。奴が言っていたのはもっともらしくこじつけた現実、現状だけ。エリン姫のおっしゃる通り、始めに対話で国家間の接触を試みる事が最低限のモラル、人としての教養というものなのに、それすら行わず突然国境線を攻めた事実が、帝国の後ろ暗い面を露呈させています」
「で、ですが……交渉をしている余裕がないほど、帝国は追い詰められていたのです。それこそ、冬が来る前に攻めなければ、国が滅びてしまうほどに……」
「この城を見てそう思えますか? 帝国領は過酷な地とのたまいながら、十年もだらだら時間をかけてコロシアムを城に建設し、物見高い帝国の民を連れてきた。本当に追い込まれているのならまず、ファリアを完全に占領してから娯楽なり移民なりすれば良かった」
「それは……」
「攻撃と言っても国境襲撃の最初だけ。帝国は死をも恐れぬとうそぶきつつ、裏では諸侯との取引を通じ、これまた長く時間をかけて支配を強めている。その間帝国領はどうなっているのか、滅んでいるのか終わっているのか、帝国の人間の誰かが一度でもその状況を悲壮ながらに口にしましたか」
「いえ……私の出会った人は、誰もそんな……」
「もしも帝国が潤沢な資源資材、食料人員を整えた万全の態勢の上に宣戦布告すら省き、不意打ちを仕掛けて来たのならもうそれは復讐でもなんでもない、単なる領土侵犯、侵略行為です。要するにファンハイトの言う事を全部真に受ける必要はない。真相が隠蔽されているなら探せばいい。ただしそれは、まず眼前の脅威を払ってからです」
上っ面の励ましでは効果はない。だからこそ思ったままを伝える。
結果的にそれなりに客観的な意見になったようで、ようやく頭が冷えて来たらしいエリンは物思わしげだが、ゆっくりと、何度も頷いた。
「そう……そう、ですよね。まだ何も確かな事はないんです……今は、振りかざされる凶刃からファリアの民を守らなくては」
「さらに言えば、ファンハイトは王国の情勢に関する重要な情報を漏らしました。少なくともジェノム公は無事。恐らく来たる決戦に向けて兵力を温存しているのでしょう。あの人の事ですから、水面下で諸侯を一つにまとめ上げようとしているに違いない――これは奴の口を滑らせた姫の手柄です」
「そうですね……私も、諦めないと心に決めたばかり。このくらいでへこたれてはいられません」
気休め程度の詭弁だがエリンには覿面に効果があったようで、床に落ちた手紙の残骸を拾い上げながら、先ほどよりも格段に生気の戻った眼差しで振り返る。
「お力になれたようで何よりです」
――もっとも。仮に王国側に全面的な非があり、帝国こそに真の大義が掲げられようとウィルガンドには関係ない。帝国だけはどんな手段を用いてでも殺し尽くす。必ず。
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