最終章 二十四話 悪夢と希望

 何も見えない。感じられない。ここはどこだろう。


 夜ではなかった。日の光も星の瞬きもないのだからもっとどこか別の、人の理にない無明の闇。エリンは闇の中を走っていた。いつからそうしていたかは分からない。ただ息を切らし、この闇から抜け出ようとひた走る。

 行けども行けども、どこにも出口は見当たらない。たどり着けない。すると、徐々に黒い闇に燐光めいた輝きが宿る。だがそれは出口を指し示す標ではなく、凶兆をもたらす光だった。

 燐光は煌々と形を成していき、エリンを取り囲む。今までにはない激しい熱を感じた。火だ。気づけばエリンは火災に包まれた町の通りに立っていた。熱さだけではなく、焦げたような胸の悪くなる匂いも漂ってくる。

 道のあちこちに、焼けただれた兵士達が倒れていた。皆息絶えているのは一目瞭然で、ある者は胸を切り開かれ、ある者は頭を潰され、そこかしこで酸鼻を極める骸をさらしている。

 彼らは帝国の鎧を纏った兵士であり、ファリア王国の兵士達でもあった。共倒れ。でも、それにしてはあまりにむごい死に様。まるで何か圧倒的な存在に、一方的な虐殺をあまねく受けたような。

 エリンは通りの向こうにそびえ立つ城が、王城ファランパレスである事に気づいた。炎に呑まれ、今しも燃え尽きようとしている。では、ここは王城の城下町なのだ。子供の頃から親しんだ町なのに、激しい火によって食い荒らされている。


 死体の輪に囲まれるようにして、黒い影が佇んでいた。黒い服――ではない。身体全体が影の如く黒く、陽炎のように全貌を掴ませないのだ。その手には、一振りの剣。さながらこの未曾有の惨劇を作り出したかのように、悠然とそこにいる。

 エリンの深層にあるイメージが混じり合い、そして唐突に悟った。


「……ウィルガンド……?」


 恐る恐る、声をかける。黒い影は答えない。だが――突然、頭の中で割れんばかりの音が響く。

 様々な――負の感情。彼が抱える私怨と想念。怒り、痛み、苦しみ。

 それはこの城下町に転がる死者の思いすらも巻き込み、一個の生命体のように蠢動しゅんどう し、エリンへ訴えかけてくるのだ。だからそれは確かに、音だった。

 言語に絶する凄まじい怨念にまともな思考は吹き飛び、身体も内側から引きちぎられそうで、エリンは頭を押さえ悲鳴を上げた。


「やめて……やめて下さい! ウィルガンドなんでしょう? どうしてこんな……っ」


 ――許せない。家族を奪った奴らが憎い。


 逆巻く怨嗟の中に、直接黒い影の言葉が脳へ飛び込んでくる。エリンは無我夢中で叫ぶ。


「では、どうしてファランパレスまで……ファリアの兵士達まで手にかけたのですか!」


 ――行く手を阻む者は誰であろうと殺す。


 これが、ウィルガンドの胸に巣くうもの。もう自分でも制御できない、伴侶の如く抱きしめて離せないもの。

 黒い影の首から胸から腕から、血のような赤い液体が流れ出す。これはウィルガンドの心の化身だ。炯々けいけい と光る双眸からも、涙のように赤がしたたり落ちていく。

 うめき声がした。黒い影の側に倒れていた、誰か――帝国兵か、王国兵かは分からないし関係ない。なぜなら黒い影は赤に染まった剣を、横たわる兵士へ振りかざしていて。

 考えるよりも早く、エリンは飛び出していた。

 もう誰かが死ぬのは嫌だ。ウィルガンドが誰かを殺すのは嫌だ。これ以上罪を重ねたら、ウィルガンドはきっと。

 剣は躊躇もなく振り下ろされ、かばうように立ったエリンを斬り裂いていた。

 鮮血をまき散らし、がくりとくずおれる。

 血が止まらない。激痛が脳まで焼き付いて、肺にまで達した傷から逆流した血液が、口腔からとめどなくこぼれる。

 急速に身体が冷たくなり、火の粉の散る音よりも弱々しくなる心音だけが耳の奥で響く。頬を転がすようにして視線を上げると、黒い影はそこにいた。


 ――お前の絶望も持っていく。全ての恨みに、必ず報いてやろう。


「ま……って、わた……しは……」


 声にならず、あふれるのは血のあぶくだけ。黒い影は予兆もなく消え去り、エリンだけが残った。

 さっきの兵士もとうに息がなくなり、エリンは完全に意識がなくなる十数分を、じわじわと炎に焼かれながら、苦しみあえいで過ごした。



 急激に景色が暗転し、バネ仕掛けのように跳ね起きた。机を前に座っている。そしてあれだけあった痛みがない。慌てて辺りを見回すと、そこは長く軟禁され見慣れた貴賓室。

 夢。夢だ。それもとびきり極上の悪夢。興奮なのか恐怖なのか動悸が激しく、心臓で止まっていた血流が勢いよく流れ出したような心地。汗で額に髪がべっとりと張り付き、呼吸を整えるのに数分を要した。

 夢。実際にはあるはずない。ウィルガンドがあんな、と自分に言い聞かせて納得させて――では、と思った。

 夢は自分の本音を映すともいう。口先ではウィルガンドの事を信じるだのとのたまっておきながら、いかに表面上の態度が軟化し、心が通じ合ったように感じても、彼の本質は怒りに満ちた邪悪な羅刹に他ならない、と心の奥深くで思ってしまっているのだろうか。だからあのような不吉な夢を。


「あ……よだれがついてる」


 蝋燭の明かりに照らされ、それまで開かれていた本が湿っていた。これを読んだまま寝入ってしまっていたらしい。誰も見ていないけれど羞恥に頬を染めてぬぐい取る。

 隣には同じように本が山と積まれており、エリンはここのところの時間をもっぱら読書へ費やしていた。

 部屋にあるのは側仕えの侍女やウィルガンドに頼んで持ってきてもらった歴史書や地名、文化について記された資料、古くからの文献と、帝国に関する書物である。

 ここに連れて来られていくらも経たない内にファンハイトの訪問を受け、己の無知、無学さを思い知らされた。ウィルガンドは取り合わなくていいと再三言っていたけれど、何も分からないままではいたくないし、憎むばかりでは何も変わらない。

 だから少しでも帝国の事を知ろうとしていた。それが和解のために、唯一できる事だと信じて。

 続きを読もうとしたが、あんな夢の後なので集中できない。本当なら散った家臣達や王国の行く末を案じなければならないのに、近頃はウィルガンドの事ばかり頭に思い浮かぶようになっている。

 罪悪感はあるのに、日増しに彼の姿が頭から離れない――それこそ夢に見るほど。


 こん、こん、とリズム良く窓が叩かれた。エリンは本を閉じ、窓際へ向かってカーテンを開くと、そこには脳裏に描かれた存在と寸分違わぬ人物がいた。


「こんばんは、ウィルガンド」


 するりと部屋に入って来たウィルガンド。慣れた調子で椅子の一つへ腰掛け、エリンもはす向かいの机の座席へ座る。内心の動揺を押し隠すように笑顔を作り。


「今日は何のお話をしましょうか」


 そうだな、と騎士は思案する。

 第二試合以後、習慣となった夜の語らい。ウィルガンドには御前試合に向けての準備があるのに、こうして暇を見て来てくれる。

 内容は大抵が何気ないもの。世間話、雑談、時には共通の思い出である昔語りに花を咲かせるのだ。


「エリンは昔とはかなり変わったよな。性格も雰囲気も」

「そうでしょうか……?」

「おてんばだったのにだいぶおしとやかになった。屋敷にいた頃なんて毎日泥まみれになって遊んでたろ。水遊び、鬼ごっこ、かくれんぼ。時には野犬や蜂の群れに追われたり」

「懐かしいですね……ウィルガンドの剣の稽古にも参加させてもらった事もありますし」


 一緒になって無邪気に剣を振るった。もしかしたらとても迷惑だったかもしれない、と横目で盗み見ると、ウィルガンドは苦笑して。


「……前の俺は、正直あれが楽しい思い出だったのか分かっていなかった。でも今は、楽しかったと言える……と思う。エリンが思い出させてくれたんだ」

「ウィルガンド……」

「それに性格が変わったと言っても、エリンが天真爛漫なのは相変わらずだ」


 少し頬が上気する。まただ。からかうつもりのウィルガンドのセリフにも、妙に敏感に意識してしまう。話題は尽きそうで尽きないのに、気疲れする方がいつも早い。

 途切れる会話。紅潮した顔が恥ずかしくて目が合わせられない。と、そんなエリンの様子に気がついた風でもなく、ウィルガンドが少し声のトーンを下げて。


「……アンガルスに来て、そろそろ四ヶ月が経過しようとしているな」

「そうですね……」

「だが、ここでの生活も後少しで終わりだ。――御前試合の日程が決まった」


 え、とエリンは瞠目する。

 それはおかしい。御前試合とは普通、年の最後に行われる特別試合だと聞いた。なのに年末にはまだ、半年以上残っている。


「ついにジェノム公が兵を挙げたんだ。周辺の諸侯も巻き込んだ大部隊。あちこちで散発的な戦闘が起きて帝国も手が回らず、ひょっとしたら皇帝も出陣するかもしれない。だから予定が前倒しになった。御前試合はアンガルスで行われるからな」

「……いつ、なのです?」


 七日後、という返答に思わず生唾を飲む。もういくらもないではないか。

 そこまで短縮されたという事は、今の大陸を巡る情勢も予断を許さないという事。ウィルガンドの言う通り、泣いても笑ってもこの七日間が最後の猶予なのである。


「大丈夫……でしょうか。相手はあの……ゼディン将軍なのですよね」


 すがるように問いかけても、返ってきたのは分からない、という一言。それまでのウィルガンドからは考えられない弱気な言葉だった。


「そんな――臆したわけでは、ないのでしょう? 何か悩む事でも、あるのですか?」

「……分からなくなったんだ」


 ウィルガンドの表情は暗く、どんな時にも剛胆にすぎる不敵な気配は微塵もない。


「俺の中にある怒りが、とても弱くなっている。それを再燃させる方法が分からない。以前ならこんな風に思うまでもなく、燃えるような血が全身を駆け巡ってくれたのにな」


 確かに最近のウィルガンドは丸くなったというか、少なくともエリンの前で憎悪にたぎる目つきや気配を放つ事はなくなっていた。いい傾向だと思っていたのに、このような思わぬ苦悩を与えていたとは。


「……きっと、それはいい事なんです。怒りに満ちた生に駆られるよりも、もっと他の、大事な思いに気づかせてくれるきっかけになるはずですから」

「俺の思い出には何もない。怨恨以外に持ち合わせた感情なんかないんだ」

「それなら……二人で作りませんか?」


 ウィルガンドが驚いたように目を上げた。眼差しが交差し、エリンは慈母のような微笑みを投げかける。


「全てが終わったら、一緒に新しい思い出を作っていきたいです。あなたともっと、話がしたい……色々な事がしてみたい。一人では無理でも二人一緒になら、きっと――」



 ――少し時は遡り、ウィルガンドはリロを伴ってリアンロッドの小屋へ赴いていた。

 リアンロッドからの突然の呼び出し。とはいえ今の情勢を鑑みれば、彼が何事か行動を起こしてもおかしくはない、との予感もある。


「いよいよ動く時が来たようだ。貴殿はジェノム公が決起した事は耳にしているだろうか」


 ウィルガンドは頷く。耳にするどころか、ジェノム公が起ち、それによって御前試合が七日後に決まった事実はすでに衆目の知るところである。


「エリン姫をお救いできるのは今をおいて他にない――王城奪還を目前にしたジェノム公の軍がカクラ平原に布陣し、帝国の注意を引きつけているこの機以外には」


 リアンロッドの目には以前とは別人のような力強い輝きが宿っている。王女殿下を救う。一体どのような方策があるのだろうか。


「御前試合だ。モッド伯を覚えているだろうか? 彼は短絡的な男だったが、着眼点は良かった。御前試合には皇帝が必ず出席する――その時を見計らい、レジスタンスが襲撃するという噂を流すのだ」


 噂を流す。それだけで、実際に襲うわけではないのだろう。いかにリアンロッドが手塩にかけたレジスタンスといえど、ゼディン率いる親衛隊に勝ち目があるとは思い難い。


「そうすれば、皇帝の警備もより厳密になるだろう。だが翻って、その他の守りはどうしてもおろそかになる。その隙にエリン姫をアンガルスから脱出させるのだ」

「……ですがそううまくいくでしょうか。逃げるにしても城門をどう突破すればいいのか。その後の帝国軍の追跡という難問も残っています」


 貴賓室から逃がす事自体は可能だ。窓を伝って出ればいい。ウィルガンドならエリン一人担いで壁面を降りるくらい問題ないし、衛兵が巡回して来ない時間帯も頭に入っている。


「町の下には水路があり、そこを進んで外に出る。アンガルスは帝国と国境を挟んで作られた拠点だ。だから何年も篭城できるよう治水整備と灌漑かんがい 工事が行き届いているからな」

「掃除夫が出入りする小屋から下水へ降りられるぜ。鍵もほら、拝借してあるし」


 リロがポケットから鍵束をちらつかせる。テーブルの地図も地下道のものなのだろう。


「地下を進むとは考えてもみませんでした。外のどこに通じているんです?」

「近隣には森がある。出口にレジスタンスの構成員と馬を待たせてあるから、彼らとともにジェノム公の陣地まで向かう事になるだろう」

「なるほど……しかし、やはり九分九裡くぶくり追っ手に迫られる危険はあります。小隊程度ならまだしも、大部隊に包囲されれば切り抜けるのは難しいのでは」

「だから、地下道へ降りる時点で二手に分かれる。エリン姫を連れた方と、囮になる方。それぞれ別の出口からレジスタンスと合流し、変装して別々の方向から脱出するのだ」


 それならば敵の戦力も分断させられるし時間稼ぎにもなる。一石二鳥の手だ。ウィルガンドはリアンロッドの策を何度か精査してみたが、これといって欠点は見当たらなかった。


「サー・ウィルガンド。今日までよく耐えきってくれた。この作戦には貴殿の協力が不可欠。我々の力で今こそエリン姫を自由へ解き放とうではないか」


 エリンを救う。それはつまり、ウィルガンドがこのコロシアムから身を引く事に他ならない。

 ……すなわち、ここまで必死に戦い、あがき、復讐という目的のために積み上げて来た屍の上から、降りるという事。死ぬ思いで戦って、ようやく皇帝にまで手が届くというところまで来たのに、その千載一遇のチャンスをもなげうつという事。

 いつもならきっと、口実をつけて一も二もなく拒否していただろう。食い下がるようならそれこそこの場でリアンロッドを斬り捨てていてもおかしくない。

 でも、いつからだろう。このぬるま湯に浸かっているような感覚。あれだけ身内にみなぎっていた力が、霧がかって遠くに感じる。復讐をしなければならないのは分かっているのに、剣を振りたくない、とさえ思う時がある。

 それがエリンの影響によるものだとは自分でも分かっていた。めっきり威勢が萎えて、けれどそれをどうにかしようという気力が湧かない。

 戦えはするだろう。しかし柱が何本欠けたみたいだと懸念が残る。そして何よりも胸中の片隅で、このままゼディンに挑むよりも一度退き、態勢を立て直した方が――と思ってしまっている。


「……ウィルガンド?」

「あ……その。いえ……。戦う事しか知らぬ身ですが、それでエリン姫を救えるのなら」

「おお……! 貴殿なら必ずやそう言ってくれると信じていた!」


 我が意を得たりと前のめりになり、ぐっとウィルガンドの両手を握るリアンロッド。

 そうだ。これでいい。最初に決めていたではないか。コロシアムにこだわる必要はないと。

 帝国への復讐にはやはりエリンの安全が最優先。エリンさえいれば、きっと再起できる。


(守るべきものがある……だから、仕方ない。コロシアムは――諦めよう)


「皇帝に暗殺予告をする、具体的な手段はどういうものでしょう」

「地下道への入り口は西側にある。だから東側にレジスタンスの基地があると情報を操作すれば、西側に警備隊が現れる可能性は低くなるだろう」

「ちなみに俺も一緒に噂を流すぜ。情報を知れ渡らせるのは十八番だからな」


 すっかりレジスタンスの一員ぽく振る舞っているリロ。こいつの雇い主は自分なのだが、と苦笑する。リアンロッドは説明を続けた。


「レジスタンスのここまで組織立った活動は初めてだ。ゆえに虚を突ける確率も高まる」

「それまではしょっぱい悪事しかしてなかったしな。だから見逃されてた節もあるけど」

「反面、こうも大きな動きをすれば後々いっそう取り締まりが強化されるわけか……」

「その通りだ。厳戒態勢を敷かれれば身動きが取れなくなる。失敗は許されない」


 残った問題は一つ、とリアンロッドが指を立てる。


「私達のどちらがエリン姫を連れていくか、だが……ここはやはり貴殿に頼みたい。もしもの事があっても貴殿ならば、姫を守れきれるとそう思えるのだ」

「……いえ、それこそ将軍がふさわしいと思います。私は――守る戦いは不慣れですので」

「しかし……」

「王女殿下も、リアンロッド様とご一緒の方が安心されるかと。それなら私も囮として気兼ねなく暴れられます」

「そうか……ならば無理にとは言わぬが」


 目を逸らし、どことなく歯切れの悪いウィルガンドは、その後どこへ身を潜めどう合流するか、日暮れ近くまで相談しながら三人で段取りを詰めていくのだった。



 そして現在。リアンロッドと練った作戦をエリンに話して聞かせ、ウィルガンドは返事を待つ。

 エリンはこの提案に乗るだろう。王女としていつまでも捕虜の身に甘んじているわけにはいかないし、王国を思う気持ちならば誰にも負けはしない。

 ウィルガンドの目的が復讐である事はエリンも知っている。しかしどちらを優先するべきかは火を見るよりも明らかだ。

 だけども――まだ、期待してしまう。アンガルスに残ると、そう言ってはくれないだろうかと。

 くすぶるばかりの騎士に、道を示すかのように。


「……分かりました」


 しばらく目を閉じてもの思いにふけっていたエリンが、厳かに頷いて。


「――この城を出ましょう」


 その返答にウィルガンドはいくばくかの落胆と、同じくらいの安堵を覚えた。

 皇帝をこの手で討ち取る機会は遠のいた――でも裏を返せば、これでもう悩まなくて済む。


「本当に……いいんだな? 危険な旅になる……ここで待つよりもはるかに」

「ウィルガンドがそうするべきと判断し覚悟を固めたのですから、私が尻込みしては本末転倒でしょう」


 くすりとエリンは笑い、ウィルガンドは雷に打たれたような衝撃を受けた。

 確かにエリンは王国を案じているだろう。民を救いたいと願っているだろう。けれどもこの決断に当たっての大きなウェイトを占めているのはウィルガンドへの信頼なのだ。

 命を預けているウィルガンドが大丈夫と考えたから、エリンもそれを信じた。

 変わっていない。幼い頃、ウィルガンドの行くところどこへでもついて来た、打算も裏もないあの頃の少女と。

 それに引き替え自分はなんだ。ゼディンと戦わなくていい体の良い理由を盾に、尻尾を巻いて逃げ出そうとしている。これで本当に良いのかは自分の方だ。

 正しい判断と呼べるのか。エリンの命を賭けてでも踏み出して良い一歩なのか。

 分からない。単純明快であり即断即決の指針であった、無限に湧き出でるはずの憤怒は何にも応じてくれない。


 と、窓の方からぜえはあと息も絶え絶えの気配がした。振り向くと、窓枠に手をかけ、とても大変そうに身体を持ち上げてくる人物がいる。エリンが驚いて立ち上がった。


「ラセニアさん……っ?」


 そこから現れたのはラセニアだった。肩で息をしながらずるずると部屋の中に滑り落ち、駆け寄ったエリンの介抱を受けている。さらに窓から今度は、シルファまでもが身軽に入って来るではないか。


「シルファさんも……ど、どうして……!」

「そこの馬鹿に呼ばれたのよ……」


 ラセニアはエリンの使うベッドに腰掛け、扇子でびしりとウィルガンドを指す。一方のシルファは、恭しくエリンへ一礼し。


「ご心配をおかけしました、本日より復帰させていただきます。改めてよろしくお願い致します」

「あ……シルファさん、もうお怪我は治ったのですね……」


 胸をなで下ろすエリン。シルファが治療に専念している間はウィルガンドも自力でエリンの部屋を訪ねていたのだが、今日は復帰したシルファにラセニアを呼んでもらっていた。そのラセニアも所用を済ませてからこちらへ来たため、少し到着が遅れたのである。


「ずいぶん遅かったな。そこまで仕事に精を出す性格だったか?」

「お黙りなさい。上がってくるのも一苦労だったのよ。まったく人に何をさせるのやら」

「で、でも、こんなに人が来てしまっては、見つかった時にどうなるか……」

「心配無用よ。みんないきなり決まった御前試合の準備に大わらわですもの」

「ところで、シルファの事はこれからどっちの名前で呼ぶべきなんだ?」


 シルファへ水を向けると、これまで通りシルファとお呼び下さい、と答えが返ってくる。


「そうか……二人でよく話し合ったんだな?」

「はい。溜まった問題を一つ一つ、納得するまで話し合いました。それに、いまだ公にはできませんが、私は皇女としての責任を投げ出しはいたしません」

「へえ」

「ですがその前に私はラセニア様のメイドとして、今度こそ真の意味で胸を張れるよう、陰ひなたにこれまで以上に精進していく心づもりです」


 それはつまり、メイドとしても皇女としても仕事の一環として両立させるという事。パーフェクトさは譲らないというかプロ意識というか。


「さすがだな」

「ウィルガンド様は命よりも大切なものを守って下さった恩人です。私の手の届くところであればなんなりとお申し付け下さい」

「私もシルファと同じで、あなたには感謝してる。期待以上の働きよ。ますます欲しくなったわ――今の協定とは関係なしに」

「遠慮しておく」


 謙虚ね、と皇女は扇子で口元を隠す。ブラムの世話をするがてら、彼女とも数回お忍びで町へ出かけていたりするのだがどうにも掴みどころがない。宮廷仕込みの腹芸だろうか。

 積もる話はまだまだあるが、とりあえずウィルガンドは二人にも脱出計画を明かした。ウィルガンドとエリンが乗り気である事も。ただ彼女達にはこれまで多くの支援をしてもらっている。何も言わずに出て行くのはエリンが許さないだろう。

 ほとんど一方的に契約を打ち切るような話。やはりというか、ラセニアは難しい表情で唇を引き結び、シルファは表面上は特にリアクションを寄越さない。


「すまないな……裏切らないと言ったばかりなのに。――やはり俺も残って」

「やめなさい」


 ぴしゃりとした調子で、ラセニアが遮る。


「あなたが残ったところでエリンの逃亡が知れたら、有無を言わさず処刑か監禁されるだけよ。コロシアムのルールも破った扱いになる――私達にも迷惑をかける気かしら?」

「そんな……つもりは」

「逃げなさい、二人で」


 ラセニアの言葉に、ウィルガンドとエリンは揃って息を詰まらせる。


「……ま、正直心残りがないと言えば嘘になるわ。計画も台無しだし、今までの労力や気苦労、援助したお金も返して欲しいくらい」


 けどね、とラセニアはいたずらっぽく微笑んで。


「あなた達がいなければ、私とシルファはすれ違ったままで、きっとお互いを傷つけ合う羽目になっていた。元々私が決めたこの協定だってシルファとブラムの気持ちをないがしろにした独りよがりなものでもあったから……だからまた初めから、家族のみんなが幸せになれるような方法を見つめ直したいと思っていたのよ」

「ラセニアさん……」

「帝国の色々なしがらみを清算する転機かもしれないわね。だからあなた達がアンガルスを出る事が望みならば、快く送り出すにやぶさかではないのよ」


 責めも詰りもしない温かなラセニアの言葉に、エリンはうるうると目頭を熱くしている。するとラセニアから泣くのは無事脱出してからにしなさい、とその頭を撫でられて。


「今はとにかく逃げ切る事だけを考えて。後の事は後。それこそ脇目もふらずにね。城を出たら私からはもう支援してあげられないから」

「ラセニアさん……このご恩は絶対に返します。私の命にかけて」

「なあ。ここを出たら俺達は表向きは敵対する事になるが――これまで通り裏での協力関係は続行する……目的のために。それでいいよな」

「もちろんよ。首尾良く行く事を祈ってるわ。達者でね」


 エリンの部屋を後にしたラセニアとシルファは、ブラムにウィルガンド達の事を話すため庭園に向かっていた。


「本当、風変わりな組み合わせの二人よね……片や、悪魔も恐れる復讐鬼なら、差し詰めもう一方は慈愛の聖女ってところかしら」

「あの方達と知り合えた事は、私達にとって何にも代え難い出来事だったと思っています」


 エリンは囚われた当初こそ城の腫れ物扱いだった。だが数ヶ月が経過して、憎まれる側のはずのエリンと側仕えの使用人達はいつの間にか親しくなり、城下の東側に住む住人からの人気や支持する声も一向に衰えない。その柔和な物腰と穏やかな人柄のおかげだろう。


「ウィルガンド様も、以前とはお変わりになられました……復讐だけではない生き方を見つけようとしているご様子。私にはそれが、嬉しく思えます」

「それも多分、エリンがいるからね。あの人の本質を的確に射貫くような言葉を常に間近で浴び続ければ変化の一つも起きるでしょうよ。首まで復讐に浸かりきっていたウィルガンドに物怖じしないのも大した胆力……いい王になれると思うわ」


 エリンにとってもウィルガンドにとっても互いは劇薬。あの二人がどんな結末を辿るのかは誰にも分からない。

 だけれど彼らと力を合わせていけば、自分達ももっとましな未来が見つけられる。

 そう思えた。

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