二十三話 第三試合 下 皇女二人

 刹那。


「やめてください!」


 エリンが叫んでいた。誰よりも舞台に近い特等席がゆえ、喧噪に溶ける二人の会話もある程度聞こえていたのである。


「シルファさんがそんな事をしなくても、もっといい方法があるはずです! 誰にも言えずに手を血で染めて――ラセニアさんが嬉しく感じて、まして救われるとは思えません!」

「……たとえラセニア様に見放されても、私はこの道を貫く所存です」


 けれどウィルガンドはエリンの声がかけられた瞬間、逡巡にも似た色がシルファの双眸に混じったのを見た。

 最初に剣で斬り合った時も、そう。シルファは無感情に見えてその実、一撃一撃に思いの丈を込めて打ち込んで来ていた。

 妹への愛情と真心と、そして滅私。ある意味でラセニアと根底がひどく似通っているのに、その気持ちに反するような行いをして何も感じていないはずがない。


「遺言は聞いて差し上げます……何かあれば、どうぞ」

「……だったら忠告だが」


 ウィルガンドはかろうじて自由の利く右腕をそっと引き、服の裏へと忍ばせる。


「これからはそんな悠長な真似をしない事だ――もっと後悔するぞ」


 進退窮まったはずの騎士が何事か抵抗の素振りをしようとしているのを見て取り、シルファは急いで糸を引いた。が、迅速な対応だったにも関わらず、手応えはない。

 それどころか糸が形作る結界の感触までもが、急激に消え失せる。馬鹿な。糸という糸が次々と引きちぎられ、ウィルガンドはあっさりと自由を取り戻していた。

 そしてシルファは見る。ウィルガンドの右手で回転するそれを。長い柄。そこから伸びる鎖。そして先端に取り付けられた、星形のトゲを持つ鉄球。

 フレイル。柄を振り回し、加速をつけて鉄球を敵へ叩きつける打撃武器である。ウィルガンドはこの鉄球の威力に任せ、糸の結界をぶち破ったのだ。とはいえ強引な動きだったために自らも出血し、無傷とはいかないが。


「フレイル……一体どこにそんなものを」


 呟いて、思い出す。小太刀で斬りつけた時の硬質な違和感。そうだ。ウィルガンドは試合開始前にフレイルの柄と鎖を胴体に巻き付け、持ち込んだのに違いない。それが偶然にも鎧の役割を果たしていたのだ。


「前の試合で、まさか剣を取られた直後に死刑執行とは思わなかったんでな。これなら同じてつ を踏むのは避けられるだろ」


 騎士は唇を吊り上げる。

 迂闊。もっと早く察知するべきだった。おかげでせっかく追い込んだのに、ほとんどの糸が切られてしまった。隠し持つだけあってフレイルの鉄球は小ぶりだが、訓練された者が取り回せば護身用にとどまらない破壊力を発揮するだろう。

 しかも所持者はあのウィルガンド。直撃すれば頭部くらいは軽く粉砕されてもおかしくない。


「……充分に念を入れたつもりだったのですが。あなたのポテンシャルと機転には、つくづく戦慄させられますね」

「なあシルファ。お前の要求に皇帝を頷かせたとして、次はどうする。結局ファンハイトや対立派閥との争いは継続するぞ」

「私を公式に認めさせた後は、ラセニア様と二人で台頭し発言力を得た上で、ファンハイト様を追放する予定です。王国征伐の総司令官へ成り代われば、陛下も無視できない一大勢力を築き上げる事は可能でしょう」

「なるほど……ゼディン、ファンハイトを排除した上で新チャンピオンの座を得られれば、他の有力な将官との次の総司令官争いにも十分勝ちの目がある、と」


 でもな、とウィルガンドが厳しい視線でシルファを見据える。


「ラセニアに盲目的になるあまりかえって視野が狭くなっていないか? お前の完璧な計画に、ラセニアの意思はどこまで含まれてる。お前の言葉、提案、行動それら全てに、あの女が何の不服もなく同調すると、本当に思っているのか?」

「きっとご理解いただけます」

「どうかな。お前だって分かっているだろう。確かにあいつは家族を盲信しすぎて、無意識に理想のみを求めるようになってる。木を見て森を見ず。多分一人で部屋も片付けられない女だろうし、油断も慢心もする。……だが俺に言わせれば、お前よりずっとましだよ」

「……どういう意味です」

「ラセニアの気持ちについて考えた事はあるか。あいつが弟の面倒ばかり見るのは、一人が怖いからだ。ずっと姉妹と離ればなれで、もう二度とそんなのは御免だからなんだよ」

「それは……私も当然、同じです。ラセニア様のために――」

「それが視野が狭いって言ってるんだよ。ラセニアがブラムを大切にするのは、同時に同じくらいお前を大切に思ってるからだ。だがお前はどうだ? さっきから聞いていれば、妹の幸せばかりを口にして、自分の事は後回し。危険を承知で黙ってコロシアムなんかに出ているのがいい証拠だ。だから後ろめたい。辛いから、余計に周りが見えなくなる」


 シルファは返答せず、無言で糸を手繰った。


「お前にとっての幸せはなんだ。理想はなんだ。何をどうしたい。……そんなもの何も考えていないんだろう。ゼディンを倒すだのなんだのそれらしくうそぶいてるが、実際には暗殺どころか差し違えるつもりですらいるはずだ……自分を犠牲にして」

「……もういいでしょう。早く終わらせましょう――ラセニア様が目覚めてしまいます」

「お前は妹に依存してる。自分の幸せを押しつけて、殻に閉じ籠ってる。――妹が救いたいはずの自分を投げ捨てているようじゃ、それは滅私でも何でもない。単なる思考停止だ」


 シルファが糸を弾き、その振動が伝わって――いまだ残っていたウィルガンドの周囲の糸の、その内側に仕込まれた大量の針が発射された。

 ウィルガンドはフレイルで撃ち落とそうとするものの、負傷した左腕の反応が遅れる。鋭利な針の複数が左半身へ刺さった。


「麻痺針です。……あなたこそ、油断しましたね」

「妙に対抗心むきだしじゃないか。ずばり的を射ていていらっときたか?」


 がくりと片膝を突くものの憎まれ口を叩くウィルガンドを静かに睨めつけ、シルファは残りの糸を束ね、風にはためくシルクのように、あるいは痛烈な鞭のように操り始める。


「これで終わりです。あなたの身動きは今度こそ封殺された」

「まだ勘違いしているようだな。……勝負はついてない。――右腕と右足が動く」


 減らず口をやめないウィルガンドへ、シルファは右手に掴んだ糸の鞭を叩き込む。地面を裂き砕き、不規則に波打つ鞭は俊敏性を削がれたウィルガンドでは回避は困難。

 だがウィルガンドはフレイルを片手に踏み出し、前傾姿勢から倒れ込むように鞭を避けた。

 ウィルガンドが鉄球を打ち込んでくるが、体勢が崩れているためその軌道は限られている。これをもう一本用意した左手の鞭で絡め取り、そのまま首を薙ぐ。本当に終わりだ。

 なのに――鞭が、滑った。絡め取れない。

 なぜ、と大きく目を見開き、寸時の際に理解した。


 鉄球と鎖に、ウィルガンドが塗ったであろう血糊が。だから滑った。――防げない。


 次の瞬間、鉄球を腹部に受けたシルファは空を仰いでいた。衝撃に脳と視野が揺さぶられる。

 無理な姿勢で振り抜かれたフレイルとはいえ、その威力はメイドの細い身体を吹き飛ばすのに十分過ぎたのである。

 糸を手放し、なすすべもなく地面に叩きつけられるも、シルファの闘志は衰えない。


(私は……まだ……っ)


 もがくように起き上がろうとして、首筋に刃が突きつけられた。目線を横へ流すと、すでに自分の剣を拾って切迫していたウィルガンドが側に立っている。

 抵抗。身じろぎ。その他一切のシルファが見せる反応よりも、ウィルガンドの剣が喉笛を刈る方が早い。そう悟ってしまったシルファは全身から力を抜いた。


「……殺して下さい」

「なぜだ」

「私は負けました。このような醜態、ラセニア様に……合わせる顔がありません」

「違うな。お前が会いたくないだけだろう」


 答えに窮する。その通りだ。ラセニアがどう思うかよりも、今のシルファは自分の気持ちを優先してしまっている。けれど、ウィルガンドは軽く首を振って。


「……それでいいんだよ。余計なもので自分を飾るな。ちゃんと妹と向き合ってやれ。それで本当の意味で、心の底じゃ自分がどうしたいか考えてみるんだな」


 ラセニアもブラムも守れればそれが一番いい。だけど現実はそうはいかないから、守れるものだけ守ろうとして……いつしか自分の中の袋小路に陥っていた。どうしようもないから、楽な方へ逃げていた。シルファはだしぬけに視界が潤んできて、目を背ける。


「私には……あの子の側にいる資格はなかったのですね」

「そうは思えないな。互いの欠点を補い合う、なんだかんだいいコンビだよお前ら」

「どうして……あなたなのですか。なぜあの子に認められてしまったのですか。あなたはいつ裏切るとも知れないのに。どうして……」

「裏切らない」

「え……?」


 ウィルガンドは剣を下ろし、視線を逸らさずシルファを見つめて。


「お前も、ラセニアも、ブラムも。俺は裏切らない。約束する」


 さもなきゃ、わざわざブラムを助けた甲斐がないからな、と肩をすくめられる。シルファは思わずおかしくなって、くすりと笑みをこぼす。


「……完敗です」


 ウィルガンドも応えるようににやりと笑い、観客席を振り仰いで声を上げる。


「おい! こいつは降参するそうだ! 俺は認める、あんたらはどうする!」


 降参。降参だって、と観衆がどよめく。よもや皆殺しの奴隷騎士から出る言葉とは驚きで、それぞれに顔を見合わせあった。


「認めます!」


 静まり返った闘技場の中で真っ先に応じたのはエリンで、続いてどこからかリロの声も。


「認める、全然認める! いやーいい試合だったなー!」


 サクラっぽいわざとらしい口調にウィルガンドは吹き出しそうになったがこらえる。その言葉に触発されてか、観客達の姿勢もどうやら認める方向に傾いているらしく。


「確かに見応えあったよな」

「あのメイドを見殺しにして、ラセニア様を怒らせたくないし……」

「ああ。陛下の次に怖いからな……」


 ラセニアの謎の人徳もあってか、過半数の賛成を取り付けられたようだ。

 かくして試合はウィルガンドの勝利と言う形で終了し、御前試合への出場権利が与えられたのである。



 ウィルガンドに手を貸してもらい医務室へ向かう道中で、シルファはふと昔を追想する。初めてお互いに姉妹として顔を合わせた時。しっかりと手を握り合って、誓ったのだ。


 ――母上も、もう一人の父上も私達を裏切ったわ。だから私達だけは絶対に互いを信じ合いましょう。助け合い、信頼しあいましょう。

 ――はい。いつまでも共に……。

 ――永遠に。死が二人を分かとうとも。


 指を絡め、人生をかけて誓い合い、今も続くそれは、だけれど少しばかり形を変えて。

(私もそう思っていましたが……ラセニア様。今はもう一人、信じてもいい方ができました――)



 ところ変わって医務室。傷の処置を終えたウィルガンドが自室へ戻ろうとドアへ向かうと、伸ばした手の先でドアノブが回った。

 顔を出したのはラセニアである。ウィルガンドは何も言わず一歩身を引き、顎をしゃくって個室の一つを示すと、ラセニアはいそいそと早足で仕切りへと歩いて行く。廊下には他に、エリンとリロの姿もあった。


「ウィルガンド……無事で良かったです」


 労いの言葉に頷きを返すと、リロも顔を赤くしながら照れ隠しのように騎士を小突き。


「あ……あのさ、あんたの試合初めて見たけど、その……すげぇ、かっこよかったよ」


 ラセニアは仕切りを開き、部屋のベッドに腰掛けていたシルファと対面していた。


「話は全て聞いたわ。……こんなに弱ったあなたを見るのは初めてね」

「……言い訳も弁解もしません。ラセニア様、この度は申し訳ありませんでした」

「そうね……色々な意味で、本当にひどい目にあったわ。何があったのか聞かせなさい」


 ですが、とシルファは口ごもる。


「言い訳も弁解もしないのなら、真実のみを述べなさい」

「……それがラセニア様の望みなら」


 普段のキレのある振る舞いと違い、のろのろと緩慢にシルファは頷いて、語り出した。


「……私にとってあなたは太陽のような存在でした。闇の中にいた私を救い出し、暗雲を払うまぶしく優しい光です。あなたの側でなら、これまで無為に生き無為に人を殺め続けた私にも、生きる意味が見つけられると思えたのです」


 それまでのシルファはただ言われるままに闇の仕事をこなし、その事に疑問も覚えず惰性で動く人形も同然だった。そこへ外の世界を見せてくれたのがラセニアだったのだ。


「ですが……あなたのために命を尽くそうと誓ったにも関わらず、いつしかあなたを恐れ多くも私だけのものと錯覚し、障害を排除するという名目を掲げて偏狭へんきょうな考えに陥っておりました。今思えばそれこそが過去の自分と決別できていない何よりの証左。実際には無様な一敗地にまみれ、ラセニア様をお守りする事もできない生き恥をさらしております」


無表情の仮面がはがれたように唇を震わせる。それは悔しさか、ふがいない自分への憤りか。するとラセニアはそんなシルファを見下ろし、吐息とともにかぶりを振って。


「そんな事……ほんと馬鹿。大馬鹿よ」


 疲れたように、呆れたような言葉にシルファは身を縮こませ、うなだれるが――その小さくなった肩を、かがみこんだラセニアがふわりと抱き包んだのである。


「……それを言うなら私もよ。私も同じ、あなたが母の手から私を解放してくれるまで、言うなりのお人形さんに過ぎなかった」

「ラセニア様……」

「……あなたは私の生き甲斐そのものだった。あなたが共にいてくれれば、それだけでどんな運命をも受け入れられた。怖いものなんてなかったのに……そうでしょう、姉さん?」


 どちらからかは分からない。ただすすり泣きにも似た嗚咽が二人から漏れていた。

 ほどなくして、ゆっくりとラセニアは身体を離し、背後で様子を窺っていたウィルガンド達へ振り返る。


「恥ずかしいところを見られたわね」

「もっと大声で泣いてもいいんだぞ」

「そ、そうです……! その、私の時みたいに、今度は私が一緒にいますから……っ」


 からかい半分の騎士の言葉に、本気で鵜呑みにしたエリンが勢い込むが、ラセニアは勘弁してと肩をすくめた。と、ハンカチで目元を拭ったシルファが立ち上がり。


「この上はいかようにも罰を受けます。死ねとおっしゃられれば命を絶ちます。消えろと申しつけられるならどこへなりと姿を消しますゆえ」

「一服盛られたのですもの。当然よ」


 やれやれと応じるラセニアに、エリンがえっと仰天する。


「ラセニアさん、そんな……っ」

「手始めにコロシアムは今日限りで引退。しばらく休暇でも取ってきなさい。それでちゃんと怪我を治して、元気な姿を見せる事」


 シルファはつかの間放心したように硬直し、ラセニアは軽く手を振ってきびすを返す。


「最近は散々泣いて、もう泣き疲れたから。一流なら主を泣かせるような真似はやめてね」

 次に悲しませたら承知しないと言外に告げて去る主の背中に、シルファは深く頭を下げ。

「……はい。かしこまりました」


 本当に良かったです、とエリンがもらい泣きをしていた。リロも頭の後ろで腕を組み。


「俺は一人っ子だからよく分かんないけど、皇族の人達も色々あるんだねぇ。何にせよ、この騒動はこれで一件落着かな」

「はい。ラセニアさんもシルファさんもちょっとすれ違って思い詰めてしまっただけで、でもこうしてわかり合えて……きっとまたちゃんと二人三脚で歩いて行けるはずです」


 そして傍らのウィルガンドへ向き直り。


「なんていうか、きょうだいって素敵ですね」

「……そうだな」

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