二十五話 憤怒の咆吼
御前試合前日、その夜。エリンを連れて西側のリアンロッドの元へ出向くと、すでにリアンロッドとリロが待っていた。
「エリン姫、お久しゅうございます」
「リアンロッド……無事で本当に良かったです」
ファランパレス落城の日を最後に、消息を絶っていた大将軍。そのリアンロッドとついに再会を果たし、二人は万感の思いを込めて見つめ合う。
「……なんかいい雰囲気だよな、あの二人」
なんとなく入り込めずにいるリロがささやいてくる。
「リアンロッド将軍はエリンにとって兄のような存在だそうだ」
エリンからはそう聞いていた。仕事も忙しい合間を縫って幼いエリンと遊び、何かと面倒を見てくれていたという。そう語るエリンからは信頼と親愛の情が感じられた。
「そんでもって、王女様の婚約者ときたもんだ」
リロが椅子の背もたれをぐりぐり軋ませて呟く。侯爵の家系に生まれ、その家長。家の格は王族にも劣らぬにも関わらず、謹厳実直だが下々の者にも気さくな好人物。
争いを好まず文武両道品行方正。絵に描いたような優等生でありながら、百戦錬磨の経験を積み清濁併せのむ海千山千の御仁である。エリンとは一回りも年が離れていながら、婚約者に選ばれた事へ反対する者はいないだろう。
「どうよウィル。ちょっとは妬いてるんじゃねぇの?」
「何言ってる」
「ウィルじゃお姫様にはつり合わないと思うしなー。諦めた方が身のためだぜ?」
喜ぶエリンを眺めていると、横合いからやけにリロが食ってかかってくる。無視した。
「陛下をお守りできなかった事は一生の不覚、悔悟の念が尽きませなんだ……しかしこうしてエリン姫の無事なお姿を拝見できて、嬉しゅうございます」
「将軍こそよくぞここまで生き延びて下さいました。父の事は……私も、整理をつけました。今はこの場を切り抜け、王国へと戻りましょう。そのために力を貸して下さい」
もったいないお言葉です、とひざまずき、涙すら浮かべ感極まるリアンロッド。
そのあたりでウィルガンドは口を挟んだ。
「では、そろそろ行動開始しましょうか。いつ帝国軍が踏み込んで来るか分かりません」
まず、ウィルガンドが囮として先行し帝国軍を引きつけている間、その二時間後にリアンロッドとエリンが出発。別ルートから脱出する算段なのである。
「あの、ウィルガンド……」
それでは、と言葉少なに言い置いて出ようとする騎士へ、エリンが小さく声をかける。
「ここを無事に出られたら――今度はちゃんとしたパートナーになりましょう。そして共に、復讐以外の道を探しましょう。約束……して下さい」
「……考えておく」
リロもまた町へ出て、噂の
地下道へ降りると、ひんやりした湿った空気と細長い水路が出迎えた。幅の狭まった通路が前後に伸びて、溝では水流がとどまる事なく行き来している。壁には間隔を保って燭台が並び、水路の光を反射しているため光源は問題ない。
地下道の構造は地図を覚え込んだので、ウィルガンドは記憶を頼りに歩き出す。エリン達より先にアンガルスを出て、できるだけ多くの帝国軍を誘導するのだ。
足音と水音だけが反響する曲がりくねった水路を急ぎ足で進んでいくと、奥の通路から何か気配がした。なんだ。掃除夫か物乞いにでも行き当たったか。
いや、それにしては十人か二十人か、数が多い。加えて鎧の金属音までもが水流に混じって聞こえて、横の通路から見る間に物々しい帝国兵達が現れたのである。
「――ウィルガンドだな?」
なぜ、とウィルガンドは驚愕する。なぜ帝国兵がここで待ち伏せている。
「捕まえろ。殺しても構わん」
情報が漏れていた。それとも動きが読まれていた。動揺のあまり思考が迷走するウィルガンドの事情など
とにかくしのぐしかないとウィルガンドも剣を抜いて構え――思い至る。
自分がこうして先回りされていたという事は、エリン達もまた、帝国兵の襲撃を受けているのではないか。
うなじから背中まで冷たいものが駆け抜けた。自分が水路に降りてどれくらい経った。まだ外まで中ほどのはずだか、時間的に二人も来ていておかしくない。
帝国兵を全滅させ、ウィルガンドは元来た道を全速力でとって返す。胸に湧くこのとびきり嫌な感じ。
急げ。早く。取り返しの付かない事になる前に。
一方で地下水路を行くエリンとリアンロッドもまた、突如として現れた帝国兵に行く手を遮られ、足を止めざるを得ない状況に陥っていた。
その数、二十以上。それでも武名轟くリアンロッドであれば彼らを倒し、死中に活を見いだす事も可能だったかもしれない。
――その場に、ゼディンの姿さえなければ。
「伏兵とは……なぜ我々の動きが分かった……!」
怯えるエリンを背後にかばいながら、リアンロッドは兵士達を率いるゼディンと対峙する。けれど頭の隅では、あまり驚いていない自分がいる。
ゼディンならばたとえ二重にも三重にも編まれた策略を、あっさり見破ってもおかしくはない――何年にも渡って知恵比べを繰り返し時には軍勢同士を激突させた経験から、それほどの相手だと了解していた。
「お前に話す必要があるのか。投降しろ」
やはりというか、ゼディンはこちらの問いに答える無駄な行為は省き、必要最低限の用件のみを返してくる。この分では時間稼ぎにもなりそうにない。
「そうはいかん。姫を害そうというのなら――我が双剣の錆にしてくれる」
リアンロッドは二刀一対の愛剣を抜き放ち、交差するように構える。作戦を察知された理由は不明だが、こうなればもはや、この身を挺してでもエリンだけは救わなくては。
そのエリンもまた、絶望的な既視感を覚えていた。押し寄せる帝国軍から王城を脱出し、ひたすらに逃げていた時――そこにもこうして、ゼディンが現れた。
結果兵士達は皆殺され、エリンも抵抗むなしく捕まった。
逃げられない。彼がいる限り、自分はどこにも行く事はできない――。
「エリン姫……ここは私が食い止めます。お逃げ下さい!」
「そんな……駄目です……貴方が殺されてしまいます……」
どのみちゼディンに見つかった時点で逃げ場はない。その重圧のみで思い知らされる。
「確かに甘い相手ではないでしょう……ですが、ウィルガンドならば、姫をお守りできるはず! 彼と合流するのです!」
ウィルガンド、とその名を聞いて、エリンの瞳にわずかに力が戻った。
そうだ。ウィルガンドなら、コロシアムの時のようにどんな窮地においても、軽々と打ち破ってくれる。だったらこんな所でぐずついているわけにはいかない。
「分かりました……ウィルガンドを呼んで来ます」
「姫……!?」
「貴方とウィルガンドが力を合わせれば、きっと何とかなります! だからそれまで――」
言いながら全力疾走のために半身を引き、一歩下がろうとした、刹那。
ゼディンが隣にいた兵士から手槍を取り上げると、やおらそれをエリンめがけて投げつけたのである。
「エリン姫!」
とっさにリアンロッドがエリンの前へ飛び出し、弾丸の如き速度で撃ち込まれる槍を叩き落とす。
驚いて身を竦ませたエリンは――次の瞬間、血しぶきが自分へと降りかかり、そして目を見開いた。
リアンロッドの背中から、剣が飛び出している。
「ぐ……あ……」
剣で貫いていたのは――ゼディンだった。槍でわざとエリンを狙い、リアンロッドの隙を誘い、目にも止まらぬ速さで接近し一撃で穿ち抜いたのである。
ゼディンが剣を引き抜くと、支えを失ったようにリアンロッドも崩れ落ちる。
「姫……不覚を取りました。……お許しを」
ちょうど心臓の部分。そこに大穴が開いている。リアンロッドの側へ屈んだエリンは、その致命傷と息も絶え絶えのリアンロッドを交互に見て、腹の底から声を震わせた。
「駄目です、死んでは……っ! アンガルスを出るんでしょう? ファランパレスを取り戻して、みんなに元気な姿を見せて、笑い合って……だからお願い、死なないで――!」
「どうか……ご無事で。新たな王となり……ファリアをお守り……下さい……」
ため息にも似た最後の言葉を残して、リアンロッドの反応は途絶えた。いくら声をかけても揺さぶっても、もう何も言わない。エリンを映す虚ろな目だけが開かれたままだ。
「あ……ああ……! そんな……嘘。嘘、嘘……嘘……!」
子供の頃から一緒だった。どんなわがままにも付き合ってくれた。婚約の話が出た時も、戸惑うどころかどこかでそうなるのだろう、と納得していた。
兄のように慕い、どんな時でも味方でいてくれた、リアンロッドが。
死んだ。目の前で。殺された。
彼の目と、あの日、父の首だけが入った袋から見えた乾いた眼球が、重なって見えて。
「ああ――あああああ! よくも、よくも――!」
リアンロッドの手から取り落とされた剣を夢中で握りしめて、泣き叫ぶようにわめきながらゼディンへと立ち向かっていた。
しかしゼディンは自らの剣を一振りすると、エリンの胸から鮮血が散る。
ふらりと何歩かゼディンの側を通り過ぎ、そのまま倒れた。
ゼディンは剣の血を拭き取り、鞘へ戻し踵を返す。
その矢先、背後から叫び声がした。
「エリン!」
ウィルガンドだった。ノンストップで疾走して来たウィルガンドは、歯を食い締めてゼディンを見やり――その手前にリアンロッドと、エリンが血を流して倒れ込んでいるのに気がつく。
声にならない声が漏れて、駆け寄った。リアンロッドは一目で絶息しているのが分かった。エリンはまだ呼吸をしていた。
弱々しい。血があふれている。
「エリン――おい! しっかりしろ!」
自分でも驚くほど声を荒げながら抱き上げた。嫌な汗が止まらない。傷口は肩から胸元まで袈裟懸けに裂かれていた。血が止まらない。傷を抑えてもあふれてくる。
「ウィル……ガンド」
「大丈夫か……くそ! 待っていろ、すぐ医者のところに連れていって……っ」
その時、ウィルガンドは聞いた。ぼんやりとした表情のエリンが小さく手を伸ばし、うわごとのように、耳元でか細く囁くのを。
「……たす……けて」
手が落ちて、力が抜けた。
意識を失ったのだ。どんどん身体は冷たくなっていく。
「その女は死んでいない。しばらくは動けないように傷つけておいた」
ゼディンの言葉に、だったら、とウィルガンドがうつむいたまま、低く呟いた。
「……どうしてエリンにとどめを刺さない。お前なら簡単だろうに」
「俺が与えられた任務は反乱分子の駆除だ。王女を殺せとは言われていない。お前も、明日俺とコロシアムで戦う予定だろう。合理的判断に基づいたまでの事だ」
いつでも殺せる。だから余計な真似をするな。暗にそう言われて。
ざわりと、髪が逆立つ。
ウィルガンドの中の――黒い何かが咆哮を上げた。
「ああ……分かった。上等だ。相手になってやる」
血液という血液が逆流し、細胞を高熱が燃焼させていく。
胸の奥にしまい込まれていた制動不能の巨大なうねりが呼び覚まされ、際限なく爆発する感情に任せてウィルガンドは顔を上げる。
「貴様だけは! 貴様だけは殺してやる! 覚悟しておけ! 明日が貴様の最後の日だ!」
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