十六話 第二試合 グラップの罠
時間は止まらない。そして向かう。乱れ荒れた心をもてあまし、数多くの骸がさらされた土を踏みしめて、三度目の円形闘技場へ。
観客の人数は減ったようには見えない。多少顔ぶれの変化はあったのかもしれないが、リロから聞いていた通り、ウィルガンドの試合は目玉として脚光を浴びているのだろう。
やはり特等席にはエリンがいるものの、ウィルガンドは目を合わせない。
背中に視線だけを感じながら、前回と同じ斜め前方の席にラセニアとシルファがいるのを確認し、正面側では初戦以来にして出張るファンハイトの姿があった。
対戦相手が現れる。胴衣の上に簡素な皮張りの胸当てだけをつけた、軽装の男だった。その手には得物と思われる大振りのナイフが握られている。
事前に聞いたラセニアからの情報では、この男の名前はグラップ。短剣使いであり、その身のこなしで敵を翻弄しながら急所を突くような戦いを好むという。
男はステップを踏んだりジャンプしながらナイフをジャグリングのようにくるくると回転させ、手品のように消したと思ったら靴の中から飛び出させて掴み取ったりと、観客を沸かせるパフォーマンスを繰り出している。身が軽く、奇術師か軽業師のようだ。
ナイフを注視すれば、片刃の刀身は切れ味鋭く光を反射し、S字型に湾曲しているのでえぐるように傷つけられたら容易には治らないだろう。いかにも観衆が好みそうな残虐武器だった。
開始を告げる角笛が鳴り、その契機を待っていたかのように男が飛びかかってくる。
ウィルガンドも応戦し、命を賭けた壮絶な戦いが始まったかと思われた――が、異変が起きたのはその矢先。
「ぐ……ぐぁ……がががっ……」
数合、ナイフと剣が打ち合った後、互いに一旦距離が開く。すると男はだしぬけにナイフを取り落とし、自らの身体をくねらせ掻きむしり、目を見開いて苦悶の声を上げたのだ。
突然の事態に当惑し、どよめく観衆。その間も変調をきたした男の顔色はみるみる土気色、そして毒々しい緑色へ変色していき、ついに大の字にひっくり返る。
しきりに痙攣し、白目を剥き、口角から泡を吹き、耳と鼻から血を流しながらぶくりと膨れあがった腕や足を棒のようにばたつかせ――動かなくなった。
一切の反応を見せなくなった男を見下ろし、ウィルガンドも戦闘態勢を解いたはいいものの、所在なげに立ちすくむ。そこでファンハイトが腕を上げて観客達を制し。
「中止、試合は中止だ! 医者を呼べ! 何が起こったのか調査しろ!」
そのかけ声を待っていたかのように閉ざされていた対戦相手側の柵が上がり、数人の衛兵達が揃って駆け寄って来た。
佇むウィルガンドを無視し、白衣の医師らしき人物が男のまぶたをめくったり脈拍を測ったりと容態を診る。どうだ、とファンハイトの質問に。
「し……死んでいます!」
「なんだと……何が原因だ!」
「毒です! それも即効性の恐ろしく強力な……っ」
「馬鹿な!」
馬鹿な、と言いたいのはウィルガンドの方だった。ほんの数回打ち合っただけで、突然目の前で対戦相手が死んだのである。けれどファンハイトは何かに気づいたみたいにはたと息を呑み、険しい表情でウィルガンドを指差し。
「そ……その男の剣を調べろ! 証拠を隠される前に急げ!」
唖然とするウィルガンドへ衛兵達が迫り、反論する前に剣を取り上げられてしまった。医師が厳しい目で剣身へ指を這わせ、鬼の首を獲ったみたいに叫ぶ。
「毒が塗られています! この男は毒を使っています! 毒殺です!」
今度こそ、轟雷のような声が観衆から上がった。
毒。コロシアムにおいて、その使用は必ずしも禁止されてはいない。
しかし種類によっては――たとえばただちに相手を死に至らしめる猛毒であった場合、ルールに抵触する事となるのだ。
「信じられん……誰も気づかなかったのか! この男が即効性の毒を使っていた事に!」
ファンハイトは訴えるような身振りで吼え、それから嘆かわしいとばかり頭を押さえる。
「許してくれ帝国の民よ……運営の職務怠慢を見抜けなかったのは私の不明ゆえだ。この件については追って沙汰を伝える――運営側だからと楽な処分で済ませはせんぞ!」
そして、とファンハイトが怒りを込めてウィルガンドを
「さらに許し難きはこの男! よくもこのような卑劣な手段を! 聖なるコロシアムを貶めたこの薄汚い王国の手先をおめおめと許してはおけん! そうではないか、皆!」
そうだ! 許せない! 馬脚を現したな! 恥知らず! 殺せ! 罰しろ!
ファンハイトを中心に寄せては返す波の如くウィルガンドを
「ウィルガンドがルール違反などするはずありません! 何かの間違いです!」
「安心するがいい帝国の民よ! このような非常事態を解決するため、制裁の使者が手ぐすね引いて待ち構えている! さあ、出でよ執行人! 民意の元に大罪人へ罰を下せ!」
エリンの訴えは無視され、満場一致の上でウィルガンドの処刑が決定される。
衛兵達が男を担架に乗せて運び去った後、剣闘士が出入りする二つの入り口以外にもう一つ、広場に設置されていた巨大な鉄格子が、猛獣の顎が開くように解放されていく。
その頃になれば、ウィルガンドも自らが置かれた状況が呑み込めていた。
これはファンハイトの策謀だ。まんまと罠にかかった。剣に毒など塗っていないし、あらかじめシナリオが決まっていたかのように用意も手際も良すぎる。
冤罪。身に覚えのない濡れ衣をかぶせられ、弁明すら許されない。
これから始まるのは初戦とは違い試合という形式に則りすらもされない、本当の意味での公開処刑。
ふと視線が向いた先、ラセニアとシルファは席を立ち、こちらに背を向けて闘技場を後にしようとしていた。事ここに及び命運は尽きたと見放されたか。
まず、馬のいななきが響く。次いで、車輪が地面を噛みながら回転するような音。
さほどの間を置かずして現れたのは、黒ずんだ巨大なトゲ付きの車輪が二つ据え付けられ、御者に操られた二頭の馬が車体を引いて走る――チャリオット。
「そんな……あんなものを持ち出すなんて」
エリンは絶句してしまう。戦車。合戦などで用いられる戦闘用の馬車である。
その猛威は並み居る歩兵や騎兵を一蹴し、それまでの戦の歴史をも塗り替える画期的かつ悪魔的な兵器とされた。
馬ほどには小回りが利かず重量もあるため、天候は良いか、地形に遮蔽物はないかなど起用される場所は限られるが、いかに刑罰用とはいえ罪人一人にぶつけようとするその執念は常軌を逸している。
徒歩の人間がどうこうできる相手ではない過剰戦力。
だというのにウィルガンドは取り立てて狼狽する様子は見せず、肩をすくめるだけで。
「念の入った事だ。そこまでして俺を殺したいか」
「殺せ! 容赦するな!」
ファンハイトが遮るようにわめき立てると、御者の他にもう一人乗り込んでいた兵士が両腕を上げて咆哮する。獅子を模したいかつい仮面をつけ、分厚い筋肉を見せつけるみたいに皮の腰巻き以外には上半身を裸にさらした巨漢だった。
戦車は広場をぐるりと一回りしてからウィルガンドへと前進していく。そうだ殺せ、と観客達がはやし立てる中、いよいよ両者の距離は縮まっていった。
だがウィルガンドにできる事は何もない。馬の突進なんてどうしようもないし、地面を抉り鳴動させる車輪にも巻き込まれたらアウトである。逃げてもこの広い舞台ではどこまでも追いかけてくる。仮に武器があっても打つ手がない。これが歩兵と戦車の差。
おまけに御者の横の半裸兵士は膝立ちになり、ごつい柄状のものを抱え上げていた。
クロスボウ。専用の矢をつがえ、発射器を操作し撃ち込む事で大きな破壊力を得られる射撃武器だ。
弓とは違い発射までの準備のほとんどを機械に頼るため、使い手の腕に左右されず安定した精度と威力を誇る。見る限り男の手にあるクロスボウは王国で普及されている巻き上げ機やクランクを使ったものよりも両手のみで弦を引けるよう軽量、小型化されているようで、戦車から一方的にこちらを射撃する気なのは明らかだ。
ウィルガンドが円を描くように走り始めると、合わせて男も背中の矢筒からボルトと呼ばれるクロスボウ専用の矢を取りだし、ぎっしりと上腕二頭筋を浮き上がらせながらクロスボウへ装填する。
御者の巧みな手綱捌きにより戦車の矛先はウィルガンドを向いたままトップスピードへと移行し、兵士の手から掲げられたクロスボウから矢がお見舞いされた。
とっさに地面を転がって避けるも、続けざまに戦車が体当たりをかましてくる。あんなものに当たった日には挽肉もいいところで、ウィルガンドはさらに側転して回避。
すぐ側を轟音と破壊的質量が駆け抜け、しかしすぐに旋回し、兵士が次の矢をつがえつつ全速力で戦車が突っ込んでくる。
駄目だ。馬二頭という速力の戦車を躱し続けるのはどんな手練れであっても至難の業であろう事に加え、乗り手も熟練している。
このままでは狩猟よろしく体力が尽きてコロシアムの端に追い込まれ、穿たれるか
そしてその時は意外と早く訪れた。クロスボウから一発目、二発目、三発目――都合四発目を撃ち込む際、敵は落ち着いて射程とウィルガンドの動きから微調整を繰り返していた。
すなわち、ウィルガンドが逃げようとじぐざぐに疾走し始めた瞬間、その足を矢が襲ったのである。ウィルガンドはうめき、体勢を崩して転倒した。
飛来した矢がかすめたふくらはぎから血しぶきが飛び散り肉がごっそり削がれ、ぼたぼたと鮮血があふれて止まらない。
それでも走らなければ、と無理矢理に身体を引き起こした直後、追い打ちをかけるように風を切って投げ縄が投げつけられた。
輪が頭から胴体まで通過し、兵士がにやにやしながら引くと一気に締まってウィルガンドを拘束する。
一度は止まっていた車輪が、荒々しく駆動し始めた。男の手からウィルガンドまでつながった縄が戦車の動きに吊られてぴんと張り、踏ん張りもきかずあっさりと倒れてしまう。縄を外そうともがくのを尻目に戦車は速度を上げていき、引きずられる格好になる。
不規則に暴走するため四肢や節々が硬い地面から少し浮いては落とされ、視界が二転三転天と地を交互に暴れ回る。兵士が愉快そうに
そのまま近づいていたコロシアムの壁面へとボールみたいに背中から叩き込まれた。
肉を内臓を骨を破壊する猛烈な衝撃にたまらず吐血する。とどまらず、縄を振り下ろせばウィルガンドは空中へ放り出され、重力を伴って地面へ激突した。意識が飛びそうになりながらも関係なく引き回されていく。
幾度となく振り回され、引きずられ、打ちつけられ、血反吐をぶちまけて全身が赤くまだら模様になったウィルガンドは、いつしかぐったりと動かなくなっていた。
うち捨てられた骸とも似つかわしい状態に、エリンが声も枯れよと呼び掛ける。
「ウィルガンド! ウィルガンド……っ! 死なないで……! あああ……!」
ボロ雑巾と化したウィルガンドへとどめを刺すべく、御者が戦車をコロシアムの壁へと寄せた。
これで終わりだ、と観客が目を輝かせ、情熱を込めて叫ぶ。
兵士が縄を大きく引っ張り、ウィルガンドを壁面へ打ち込み粉砕しようとした矢先だった。
だしぬけに頭をもたげたウィルガンドが自分にくくりつけられた縄を逆に掴むと、凄まじいスピードで迫ってくる壁を着地するかのように足で踏みつける。
そうして、まるで戦車と併走するかのように壁面を疾駆し始めたのだ。
驚きに兵士が硬直している間にウィルガンドはぐんぐん壁の上部へと駆け上がり、戦車と身体が並んだタイミングで勢いよく壁を蹴りつけ、中空へと身を躍らせた。
空高く舞い上がった騎士は下方を走る馬車へ飛ぶように落下していき、その車体後部へ手と片足をかけ、ぎりぎりしがみついて見せたのである。その芸当に誰もが呼吸を忘れてウィルガンドを目で追い、半数ほどが総立ちになった。
ぎょっとしたのは御者と兵士の二人である。急にウィルガンドが息を吹き返したかと思ったら、数秒後には自分達の戦車に乗り込まれているのだから。
しかし兵士もさるもの、我に返ると自らが握った縄をしゃにむに引き寄せる。
すると縄とつながったままのウィルガンドの身体も引っ張られ、体躯を傾がせて車体へと叩きつけられた。
それからわずか数瞬で縄からクロスボウに持ち替え、迅速に矢をつがえてウィルガンドの顔面へ差し向ける。
ウィルガンドは左足を跳ね上げ、そのクロスボウを戦車の外まで蹴り飛ばした。クロスボウを持っていた腕から半身までキックの衝撃が伝わり兵士はよろめくも、体勢を立て直しながらウィルガンドの胸ぐらを掴み、戦車の端から突き落とそうとする。
それに合わせ、御者も戦車を限界まで壁際へ寄せて、ウィルガンドの頭部をすりつぶそうとした。
だがその直前、ウィルガンドが蹴り上げていたクロスボウが先んじて壁面へぶつかり、同時につがえられていた矢が暴発。
戦車を引く馬の首へと突き刺さったのである。
悲痛ないななきがほとばしり、もう一頭の馬を体当たり気味に巻き込み転倒。
無論戦車もただでは済まず、三人を乗せたまま横転し、ハイスピードを保ったままコロシアムの壁面へと激突した。
肉と木がひしゃげる
もくもくと立ち上っていた土煙はやがて収まり、こわごわと見守る観衆。
見るも無惨な戦車の残骸。あの中に残ったままであるのなら、どだい生きているとは思えない。
大燭台の炎さえも心なしか勢いが弱まり、張り詰めた静けさが漂う。
と、戦車の中から、ごそりと何かが動く気配がした。木片や残骸が崩れだし、這い出すように現れたのは。
誰あろう、これだけの大立ち回りを演じて見せたウィルガンドであった。
ずたずたになった衣服の隙間から滝のように血が流れ、その手には縄の切れ端が絡まった兵士の腕だけが握られており、ちぎれた血管や骨格が垂れる様を一瞥してから無造作に放ってしまう。
半ば賭けではあったがなんとかなった、とウィルガンドは息をつく。
矢を受けた足。これでもう動けないと相手が考える心理の裏を掻いた。無駄に暴れて体力を消耗するのをやめ、受け身だけに集中し力を温存し、戦車が最大限壁際へ寄せられるタイミングを待ち飛び移って敵を倒したのである――。
くらり、とめまいがして膝を突く。右足からこぼれた血が溜まりを作っていた。次も連戦だとさすがにきつい。せめて止血くらいはさせてもらいたいものだが。
着実に疲労の蓄積するウィルガンドとは裏腹に、闘技場は異様な空気に包まれていた。 奴隷騎士は断罪されるはずだった。だが、そいつは処刑者を返り討ちにし、何食わぬ顔で生きている。
なぜ。どうして。様々な試合を観戦し目の肥えた観客達でさえ理解の範疇を超えた光景に、視線を釘付けにしながらもぴくりとも動けずにいた。まるで、ふと目を離した瞬間襲われるのではないかとでもいうような、一種の恐慌に陥りかけているのである。
しかし、何より錯乱しかけているのはファンハイトだった。
初戦以来にして悪夢の再来。
逆境と呼ぶのも生ぬるい
万が一にもあの奴隷騎士の生還を許してしまえば、失態は自分だけにはとどまらない。コロシアムの長く偉大な歴史に傷がつくのみならず、帝国そのものの敗北を認める事に他ならない。
「ど、どうあっても奴を殺さねば……陛下に顔向けができん! ――だったらコロシアムの全ての処刑人をここへ……っ」
処刑が失敗に終わった場合の形式上の手続きも段階も無視し、残るコロシアムの全戦力を総動員しウィルガンドをひねり潰さんと、ファンハイトが命令を叫ぼうとした時だった。
「待って下さい」
エリンが決然とした面持ちで声を発した。
声量が大きいわけでも、洗練された身振りが加えられているわけでもないのに、聞く者の意識を引きつける今までにはない凄みに、ファンハイトは気圧されたように指令を中断する。
エリンは何の迷いもなく壇上から足を踏み出し、ドレスをなびかせて飛び降りていた。
「お、王女が落ちたぞ!」
四肢を突っ張って不格好に着地する王女の姿に観衆の混迷は極致に達するが、エリンはどよめく彼らをよそに傷ついた騎士へと駆け寄っていく。
「エリンデール王女! 一体何のつもりですかな……!」
エリンはウィルガンドの前へかばうように立ち、ファンハイトを睨み上げた。
「ウィルガンドは生き残りました! だからもう処刑は終わりです!」
く、とファンハイトは歯を食いしばる。勝利したから処刑は終わりなど法を軽視しきった発言ではあるが、ある意味それは今ファンハイトがもっとも言われたくない一言だった。
「それはできない相談です……すでにその男は剣闘士にあらず! 勝ち負けは関係ない、死して罪をあがなうか否か、これはそういう問題なのですよ!」
「ウィルガンドは潔白です! あなたこそ間違っています……それでもこれ以上彼を戦わせようというのなら、私も共に立ち向かう……!」
「エリン姫……お下がりを。ここにいてはあなたも危険です」
ぽつりと呟いたウィルガンドに、エリンは振り返りもせずかぶりを振って否定する。
「嫌です……! あなたの死は私の死。ならば生きるも死ぬも一緒でしょう……!」
その言葉に一瞬、ウィルガンドは打たれたように硬直し、視線を落とした。
「ご、強情な……っ。であればお望み通り、二人とも覚悟するがよろしい!」
髪を振り乱し、こめかみに青筋を立て、品位をかなぐり捨て唾を飛ばしながらわめきたてるファンハイト。しかしそこに、第二の乱入者が現れた。
「覚悟するのはあなたよ、ファンハイト」
見れば、ファンハイトと向かい側の出入り口から誰かが進み出てきていた。
赤い髪の皇女と、銀髪の従者。ラセニアとシルファである。
「ら、ラセニア……! 何なんだ、今お前に構っている暇は……!」
そちらを見やったファンハイトが凍り付いた。
二人に引き立てられるようにして、一人の男が立っている。それはつい先ほどまで、ウィルガンドと向かい合い、毒死を遂げた剣闘士――グラップだった。ロープでがんじがらめに縛られ、口にも布を噛まされている。
「この男が、あなたに話があるそうよ」
ラセニアの言葉に、観客達もあっけにとられる。
あの男、死んだはずでは。なぜ生きているのだ。さっきから自分達は幻でも見ているのでは。だがファンハイトは囚われたグラップを見た途端、さっと青ざめたものである。
「し、知らぬ……そんな男私は知らんぞ!」
「本当にそうかしら。どのみちこの男に喋ってもらうだけだけど」
冷ややかに言い放ったラセニアは、グラップをさらし者のように前面へ押し立て、シルファを伴い観客の間を進んでいく。
「全て話しなさい。言っておくけど、舌を噛むなんて無意味な事はしないでちょうだい」
と、ラセニアがぐいっとグラップの口から布を引き抜く。やはりどう見ても血色は良く、健康体そのものといった風情の男は、いたずらが見つかったみたいにへらへらと笑う。
「答えなさい。あなたはどうして助かったのかしら?」
「一時的に仮死状態になる毒を飲んだんです。しばらくすれば目を覚ませますし、後遺症もないです」
「だったら、ウィルガンドはまったくの無実という事じゃなくて。一連の事柄はあなたの自作自演。そうでしょう?」
はは、とグラップの乾いた笑いが答えだった。
自作自演。敵を陥れる演技。最初から助かる事が前提だった。真相を理解し、騒然となる観衆。
「だ、そうよ。喜びなさいウィルガンド。それと無鉄砲な王女様。これじゃ処刑はとりやめ……どころか、まんまと騙された運営側は大目玉ね」
突如現れたラセニアがこともなげに無実を証明してしまい、エリンは呆然と立ち尽くすものの、その頼もしい立ち姿に徐々に表情が和らいでいった。ウィルガンドはといえば。
「どこに行ったのかと思えば……美味しいところを持っていくな」
などと呆れたように漏らしている。そしてファンハイトはいらだたしげに顔を歪め。
「ま、まったく人騒がせな! こんなくだらん真似をしたその男こそ、我らが正さねばならない悪だったというわけか……っ」
だが、ラセニアは追及をやめない。グラップの肩を扇子で小突き。
「さあ、一番重要なところよ。この罠を実行するよう仕組んだのも、毒を用意したのもあなた一人だけじゃないわよね。他に黒幕がいるはずよ。それは誰?」
「え、い、いや、それは……」
ためらいがちにもごもごするグラップ。すう、とラセニアの目線が酷薄に細くなる。
「隠すとためにならないわよ。本物の劇毒を飲まされたいのかしら」
「あ、あーっ、あれだ、ローブを羽織った男に、大金の代わりにウィルガンドを罠にかけろと言われたんで……ついその話に乗っちまったんです、へへへ」
「貴様に栄えある剣闘士としての誇りはないのか、ホーククロウともあろう者が嘆かわしい! かくなるはその男をこそ審判にかけねば!」
ごまかしている態度は一目瞭然だが、グラップが口を割らないのをいい事にファンハイトが会話の主導権を取り戻そうとしてくる。
「ラセニア、今回はよくやったと褒めてやろう! そして重ねて帝国の民には詫びたい! このような悪魔に魂を売った愚か者の企てを見抜けなかった事を! 此度の事件は隅々まで調べ上げ、必ずやコロシアムを侮辱した悪の根源を突き止めると約束する!」
力強い宣言に、わっと観客達から歓声が上がる。
「ラセニア様……お見事でした」
「……もう少しファンハイトの奴をつるし上げてやりたかったけど、無理に追い込んでコロシアムの存続を危うくするのは私も望むところではないし。この男もファンハイトに引き渡すとしましょう」
やれやれ、と首を振るラセニアは、命拾いをした騎士と王女の方へ視線を投げる。
なし崩しに処刑は中止となり、入場口の柵も開き戻ってもいい流れではあったが、エリンはきびすを返そうとしてがくりと座り込み、冷や汗をかき足首を押さえている。
「エリン姫……足をくじいたのですか?」
「だ、大丈夫です……こんなの、すぐに……ううっ」
ドレスから垣間見えるほっそりした足首は痛々しく青くなっていた。どうやら広場へ降りてくる時に痛めたらしい。素人があの高さから落ちたのでは無理もないだろう。
ウィルガンドはおもむろにエリンの身体の下へ両腕を差し込み、抱え上げた。
「ウィ、ウィルガンド……っ?」
ウィルガンドはお姫様抱っこの状態でエリンを抱え直し、何も言わず歩き出す。エリンは赤面と困惑混じりにその横顔を見つめていたが、やがて身体から力を抜いて身を任せる。
「……仲直りできたようですね」
そんな二人を眺めて呟いたシルファに、どういう事、とラセニアが首を傾げていた。
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