四話 エキシビションマッチ

 エリンとともに謁見の間から出ると、先ほども二人を先導した銀髪のメイドが待ち受けていた。


「ウィルガンド様。恐れながらコロシアムまでの案内をさせていただきます。会場までは少々入り組んでおりますので」


 ウィルガンドがエリンを見やると、そちらにも案内役の兵が来ており、二人はここで一度別れるようだ。


「ウィルガンド……どうか気をつけて」

「必ず勝利して参ります」

「いえ……生きて下さい。私はもう、家臣を一人も失いたくないのです。だから、絶対に生き延びて。死んではいけません」


 悲壮な表情で訴えるエリンへ安心させるように頷いて、ウィルガンドは背を向けた。


「どうぞこちらへ」


 そうして振り返る事なく通路を歩き始める。が、数メートルも進まない時、廊下に一人の女が立っているのに気がついた。

 赤い髪の女だった。機能的であり同時に気品さを醸し出すコートを着ている事から、少なくとも貴族以上の身分である事が見受けられる。

 女はじっとウィルガンドを見つめているだけで特に口を開くでもない。

 だからウィルガンドも一瞥を投げただけで、素通りした。角を曲がるまで背中に視線を感じながら。

 やって来たのと今度は逆に階段を幾度も下り、地下へ。

 肌寒い空気と、等間隔に並ぶ燭台の明かり。石畳にこつ、こつと足音がダイレクトに反響する中、メイドは黙々とウィルガンドを連れて進んだ。

 少々、という口ぶりとは裏腹に地下はかなり曲がりくねった構造となっており、できるだけ道筋の把握に努めていたウィルガンドでさえ投げ出したくなるくらい横道、小部屋が多い。初見で放り出されでもしたら出られず下手をすると餓死者が現れるかもしれない。

 どうしてここまで複雑なのか、という疑問にはやはり、コロシアムなるものの存在が関係しているのだろう。その証拠に、なだらかな下り坂を歩いているとどこからか人々の歓声めいた叫びが分厚い壁を突き抜けるように響いてくる。

 発生元は恐らくこの上。ウィルガンドはまさにコロシアムの真下へ来ているのかも知れなかった。

 血糊めいた赤銅色のドアをメイドがためらいなく開けると、そこは少し開けた広間。

 しかし試合会場というわけでもなく、人の姿はないしろくに手入れもされていない黒ずんだ染みだらけの椅子が雑多に置かれているのみ。部屋の隅には割れた空箱や損壊して使い物にならなくなった剣や槍といった武器のがらくたが放置され、錆の匂いがひどい。

 そして目前には一台の昇降機。ではここはひょっとして控え室、だろうか。

 ウィルガンドが立ち尽くしていると、メイドは服のポケットをまさぐり、一本の鍵を取り出した。


「手枷を外す鍵です」

「ありがたいな。さすがに腕の自由が利かないとちょっとばかり苦労しそうだったんだ」


 ウィルガンドの皮肉にも耳を貸したふうもなく、失礼します、と断りを入れてメイドが手枷を外してくれる。錠前と重りの役割を果たしていた枷は無機的な音を立てて床に転がり、アザだらけになったウィルガンドの腕が露わになる。


「そしてこちら、ウィルガンド様の得物となります。お持ち下さい」


 メイドが椅子の側へ行くとその上に一つだけ、蓋のされた箱が置いてある。それを開けると布に巻かれた長物がしまい込まれており、くるくると布を外して出て来たものは。


「これは……」


 意表を突かれる。ひょこりと顔を出した、すっかりなくしたと思っていたそれは、ヴェンデルで振るっていた自分の剣だった。よもや、帝国に回収されていたとは。


「……いいのか? こんな武器を俺に渡して。あんたらは俺に死んで欲しいんだろ?」

「皇帝陛下はフェアな勝負をお望みです。この戦いはコロシアムの観客はもちろん、そうでない全帝国民が注目しています。挑戦者が間抜けな有様では陛下自身の沽券にも関わりますゆえ」


 そういう事か。こんな場所に引っ張り出して来ておいてなおもフェアとは。つくづく性根の歪んだ皇帝である。


「ルールを説明させていただきますと、ウィルガンド様と対戦相手が立ち会い、どちらか生き残った方が勝利となり……」


 メイドが丁寧に解説してくれているが、剣を引き抜いて刀身を見つめていたウィルガンドは突如、ぐらりと視野が傾く感覚がした。

 目がかすむ。周囲の音が遠くなる。平衡感覚が消し飛び、天井が床に床が天井へ逆転する。メイドの声が逆再生のように聞こえる。とっさに歯を食い締めた痛みで倒れるのまではこらえたが、急激に噴き出た脂汗にメイドが小首を傾げた。


「……どうかなさいましたか」


 いや、とウィルガンドは振り向かずにかぶりを振る。


「まぁ、要するに敵を倒した方が勝ちなんだろ? よく分かった。わざわざ説明どうも」

「……はい。それでは失礼いたします。ご武運を」


 メイドが騎士の足下に滴る血溜まりへ目を落としていた事には気づかず、ウィルガンドはああとだけ応じ、控え室の正面にある昇降機を睨む。


「もたもたしていられないな……」


 数日間の眠りから覚めてから、これまで何度も立ちくらみはあった。その度に耐えて来たものの、もしも試合中にあの発作が来たら命取りというレベルではない。

 ウィルガンドが乗って昇降機のレバーを倒すと、歯車が回るような振動と作動音を立てて、緩慢に上昇し始めた。上がれば上がるほど、遠かった人の声が近づいて来る。

 歓声、怒声、意味の通らぬ絶叫。近づく狂気めいた声を聞きながら、やがて昇降機は停止する。左右後ろは冷たい壁に覆われ、アーチ状にくりぬかれた通路がただ前方へ続いていた。

 ウィルガンドは床から土へと変わった地面へ踏み出す。先には、柱ほどの太さの鉄柵。歩み寄って行くと、人々のわめき声よりも大きく破壊的な音を張り上げ、鉄柵が上がっていく。こぼれ気味だった日の光がまばゆくウィルガンドを照らし出した。



 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!



 出迎えたのは眼もくらむ光と、それすらも塗りつぶす割れんばかりの殺せコール。

 ウィルガンドは控え室とは比べものにならない広大な広場にいた。一面地面以外に何もなく、円形に切り立った壁がぐるりと囲んでいる。

 強いて挙げれば背後の出入り口と、正面側にある同じような出入り口。後は広場の左方にのみもう一つのアーチと、一回り巨大な鉄格子が下ろされている。そして段々になったすり鉢状の観客席に、隙間一つなく埋まった人々がこちらを見下ろしていた。

 これが全員帝国の人民。侵略が開始してから十余年。わざわざ砂漠の向こうから移り住んでくるとはご苦労な事である。四方にはコロシアムの照明となる大燭台が燃えさかっていたが、今ここに充満する熱気は炎を軽く上回っていた。



 王国の騎士を殺せ! 王女を殺せ! 引き裂け! 八つ裂け! 悶え苦しんで、死ね!



 まるで一つの生き物であるかのように、罵声が、怒号が、殺意の雄叫びが、一心にウィルガンドへ向けられている。

 そうだ。忘れてはならない。ここに上げられた自分はただの道化。彼らを満足させ、充足させるための生贄。


「……ふざけるなよ」


 かすかにこぼれた呟きはやむ事のない叫びにかき消される。

 もういい。たくさんだ。こんな茶番はさっさと終わらせてやる。

 と、会場の熱が臨界を突破するタイミングを見計らったように、観客席側のコロシアムの奥から、アーディウスとファンハイトが連れ立って現れる。


「陛下!」

「おお、皇帝陛下!」


 アーディウスは歓びに沸き返る観客達の声をまるでそよ風のように受け流し、天蓋付きの一際豪奢な玉座へ悠々と腰掛ける。

 そこはちょうどコロシアムの真ん中、真正面から全体を見渡せる位置だった。


「親愛なる帝国の民よ」


 ささやきかけるような声量。なのに皇帝がただ一言発しただけで、狂熱に浮かされていた観客達は嘘のように静まりかえった。誰もが口を閉ざして皇帝に注目し、その一言一字すら聞き逃さないようにしている。


「知っての通り、我々は悪しきファリア王国を滅ぼした。最上なる完膚無きまでの成果というやつだ。しかし、全ての悪の根が絶えたわけではない。帝国軍は今も各地で抵抗を続ける王国残党を狩り出している最中であるし、日和見の大陸諸国の動向にも注意を払っている。皆には今しばらくの辛抱をしてもらわねばならんが、どうか余に付き合ってくれるだろうか」


 おそらくは同意を意味するのだろうが、およそ言葉になっていないわめき声がとどろく。ウィルガンドは耳をふさぎたくなったが、次にファンハイトが進み出たのを見てもう少し耳を傾けてやる事にした。


「湿っぽい話はここまでにしよう。今日集まってもらったのは他でもない! 我々を苦しめた王国が滅び、その記念すべき日として! ここにファリア王女、エリンデール姫をコロシアムに招待した!」


 演者の如く両手を振り上げ、民衆を引きつけるような高らかな声音で語ったファンハイトは、すう、と指を上げてこちらを――いや、ウィルガンドのさらに背後を指差す。

 つられて振り返り、絶句した。壁の上、皇帝達と真逆の位置。大勢の帝国の人々に囲まれ、最前列の一段高い観客席にエリンの姿があったのだ。

 特等席。こういう事か。王女は注目が集まったのにすくみ上がり、ウィルガンドへ何事か呼び掛けているが、観客達の声がうるさくて届かない。

 とはいえ彼らも一応のルールはわきまえているのか、ただ一人アウェーの壇上にいるエリンに危害を加えようとはしなかった。


「エリン王女がこの素晴らしい催しを喜んでくれている事はきっと私が保証しよう! 何せそこに立つのは彼女の忠実なる騎士、ウィルガンド卿であるからだ!」


 観衆の視線が一斉にウィルガンドへ移る。


「王女は言った! 王国は当然なる滅びの憂き目に遭ったが、我が頼もしき家臣が劣っていた訳では決してないと! では試してもらおう! 賭けたのは己が命! その言葉に偽りはないか、もう我々に何一つ嘘を吐いてはいないか! 真の勝利者はどちらであるか! ウィルガンド卿の武勇、そして我らの誇る一人の戦士! さあ入場していただこう!」


 正面の鉄格子が上がっていく。同時に燭台が一層燃え上がる演出が挟まれ、派手な光に包まれて奥から一人の男がやって来た。

 ウィルガンドはその男に見覚えがあった。剃り上げた禿頭に刺青の入った屈強な体躯。握られた巨斧。肉食獣じみた眼光。確か、谷底に落ちた後、追っ手として対峙した。


「恐怖をもたらし襲い来る王国軍を恐怖もろとも打ち砕く、その名はルヴァンダル曹長! 皆の者、ウィルガンド卿との決闘を買って出た彼の輝かしい勝利を願い、喝采を!」


 空気が弾けるかと思うほどの拍手喝采が埋め尽くした。だがルヴァンダルはそれを尻目に、不敵な笑みを浮かべてこちらへ距離を詰めてくる。


「よお、騎士さんよ。調子はどうだい」

「まあまあだな」


 世間話でもするような調子でルヴァンダルが尋ねて来た。適当に答えると、ルヴァンダルはそいつはいいとばかり、自身の得物をぐるりとぶん回す。

 鋼鉄製と見られる両刃のバトルアックス。以前の交戦とは打って変わり、片手斧とは比較にならぬ破壊力を備えているのは間違いない。もう手を抜く必要はないという事だろう。


「てめぇを捕らえた手柄でこの特別試合に選ばれたんだ、せいぜい楽しませてくれよ」

「ご期待に添えるといいが……」


 応じながら、血の巡りがおかしいのかウィルガンドは早くも足下がおぼつかなくなってきていた。息が一向に整わない。皮膚の裏側が冷たい。思考もどこか鈍く、現実感が薄い。


「長々と語るのはこれくらいにしよう! 役者は揃った! 観客も待った! 後は互いの命を賭けた戦いを繰り広げるのみ! 生きたくば敵を殺せ! 絶望に包囲された舞台で生存権を奪い取れ! この場に集った者全員が、歴史の変わり目、そして新たな幕開けの目撃者となるのだ!」


 皇太子の面の皮の厚さにもはや呆れていると、彼の口上が途切れた瞬間、角笛が天高く鳴り響く。

 寸時、ルヴァンダルから濃厚な殺気が放たれる。試合開始の合図だった。

 先に仕掛けたのはウィルガンドである。身体の状態からして長期戦は自殺行為。限界が来る前に勝負をつけるべく、一足飛びに踏み込んで剣を薙ぐ。


「おっと」


 ふざけた調子でルヴァンダルが半歩後退し、胴体へ届く寸前で躱す。そうして両腕を引き、剣を振り切ったウィルガンドへバトルアックスの一撃を見舞った。

 反射的に身をひねって避けるが、地面に叩きつけられた両手斧が振動を発し、元々怪しかった足下が揺らされる。ともすれば膝をついてしまいそうになるのをこらえ、ウィルガンドは連続して斬りつける。


「どうしたどうした、とろとろしやがって、ずいぶんのろいじゃねぇか!」


 しかしそんなもの問題にならないとばかり、鍛え上げられた体躯が生み出される豪腕が岩をも砕く斧を振るう。

 速度もあり、暴風のような勢いのバトルアックス。ウィルガンドの必死の攻撃はあっさりと跳ね返され、逆に下がるのを余儀なくされる。かすめるだけで粉砕されそうな威力のそれに、機動力の落ちたウィルガンドは翻弄される一方だ。


「もらったァ!」


 攻め手を封じられ、回避に徹する他ないウィルガンドの腹部をルヴァンダルの蹴りが襲い。ウィルガンドは身体をくの字に折り、こみ上げて来た胃液を吐き出しながら吹っ飛ぶ。


「圧壊しろ!」


 頼りなく起き上がろうとするウィルガンドを破砕するべく、ルヴァンダルが大振りの一撃を振り下ろす。


「――ウィルガンド!」


 鮮血を飛散させて打ち砕かれる騎士の最期が鮮明に思い浮かび、上の席で祈るような格好で見つめていたエリンは、心が耐えきれず顔を覆う。過熱していく観客達も、ついにウィルガンドの死が見られるとこれまで以上に熱狂して。


 しかし、ルヴァンダルの斧がウィルガンドを捉える事はなかった。


「なっ……!」


 バトルアックスは瞬時、皮一枚のところで半身をずらしたウィルガンドによって避けられていた。それだけでなく、腰溜めに構えられた剣の切っ先が、ぎらりと光り。

 下段から打ち込まれた刺突が、ルヴァンダルの肩の薄皮を削ぐ。ルヴァンダルは慌てて身を引き、さらなるウィルガンドの追撃から逃れた。


「ぐ、て、てめぇ……!」

「勝ったと思ったか? あいにくしぶとい方でな」


 口から垂れる反吐や血液を乱暴に拭い、構え直すウィルガンドにルヴァンダルの頭に血が昇っていく。観衆もルヴァンダルの手抜かりに、一気にテンションが下がってブーイングを発していた。


「図に乗るなよ、死に損ないが……。これまでは遊んでやってただけだ。だがもういい。長引かせても興ざめだ、そろそろ終いにするか……!」


 宣言通り、間髪入れず襲いかかったルヴァンダルは息をもつかせぬバトルアックスの乱撃を浴びせる。

 ウィルガンドは直撃すれば四散確定の乱舞攻撃をすんでのところで回避し続け、綱渡りのような状況下でも反撃するなど技の冴えを見せるものの、善戦むなしく追い込まれていく。


「駄目です、ウィルガンド……逃げて下さい」


 絞り出すようにエリンが漏らすも、すでにウィルガンドは逃げる事すら難しくなっていた。とっくに体力は切れ、全身の傷が開いている。足が言う事を聞いてくれず、単純なはずの斧の軌道についていけない。


「ひねり潰してやる!」


 何度目かの怒号を上げたルヴァンダルの斧が、ついにウィルガンドの剣を衝撃とともに打ち払う。そのまま大きくよろめいたウィルガンドを、改めて握り直された斧が袈裟懸けに斬り裂いた。鮮血が花のように散り、地面へぶちまけられる。

 胸から腹までの肉を深々とえぐられたウィルガンドは目を見開き、その場にぐったりと倒れ込んだ。


「やった!」


 身を乗り出し、一部始終を手に汗握って観戦していたファンハイトの声にかぶさるように、津波の如く観客の歓声が響き渡る。

 四方の燭台が、徐々に闇の濃さを増す天をも突けよと燃え上がる。その明かりに照らされ、エリンは泣き崩れた。涙を拭う気力も壊れたように、うつぶせのウィルガンドを見つめている。


 ルヴァンダル! 観客から声援が叫ばれる。ルヴァンダル! ルヴァンダル!


 ルヴァンダルはたっぷりと血糊の付着したバトルアックスを掲げ、余韻に浸っていた。


「コロシアムなんぞくだらねぇと思っていたが……中々どうして、悪くねぇ気分だ」


 嘲笑に歪む口からそう呟いた時だった。

 ずる、と背後で土を擦るような気配がした。振り返る。


「――な……」


 ウィルガンドが、立ち上がっていた。剣を杖のように地面へ突き立て、方角を見失った魚のように頼りなく、体幹を左右にふらふらと。

 目を疑う。危篤。死に際。半死半生。およそ瀕死の身を押して挑み、なおかつこれだけの致命傷を受け、立ち上がれるほどの力がまだ残っているだと。

 ぽたぽたと一秒おきに血液を流しながら、うつろな目のウィルガンドに気圧される。観衆も驚きに一時声を収め、今は騒然とした状況になっていた。


「てめぇ、まだ生きて……!」


 バトルアックスを構えるルヴァンダルに、だけれどウィルガンドは茫洋とした視線を向けている。

 いや、落ち着け。間違いない。死にかけている。これはただの灯火。消えかけの蝋燭の最後のきらめき。


「ウィルガンド……」


 消え入るようなエリンの声が届いたのかどうか、ふとウィルガンドが小さく、何事かを呟く。


「……なぁ」

「――あぁ?」

「知らない、か……? 誰が、俺の村を、襲ったんだ……? なんで、燃やした、んだ……?」

「何を言ってやがる……!」


 意識が混濁しているのか、ほとんど独り言めいた言葉になぜか、ルヴァンダルは得体の知れない迫力を覚える。


「十年、前……帝国が、国境を、襲ったんだ……。俺の村も、焼かれた……。みんな、死んだ。……みんな……だから……」


 一瞬、ウィルガンドの視線に焦点が戻る。何の感情も見て取れない。なのにどこか、瞳の奥で何かが陽炎のように揺らめいていて。


「知って、たら、教えて、くれ……誰が、やった、んだ……?」

「十年前、だと……ああ」


 言われて思い出した。知らず、ルヴァンダルは笑う。


「国境か。懐かしいな。ちょうど俺も参加してたんだぜ、襲撃部隊によ」

「……なに……?」

「戦争ってのはよ、その一発にありったけの衝撃力を込める最初の一撃が肝心なんだぜ。今は利権がどうたらでちんたら侵攻してるみたいだが、あれは派手だった! 帝国の力を見せつけるために、近隣の村だの町だの、一斉に襲ってよ。見せしめ、恐怖、帝国の武力……そのための犠牲になったんだよ、てめぇの村は」


 運が悪かった。たまたま国境の近くにあった。――ただそれだけで。

 ウィルガンドが頭でも殴られたみたいにぐらりと傾ぐ。両手で剣にすがりつき、かろうじて立っている有様だった。そこへ、ルヴァンダルが間合いを詰めていく。


「まさかよぉ、生き残りがいたとは思わなかったぜ。全員ぶっ殺すつもりで殺したってのに。まぁ、それでそんな執念深く立ち向かってくるのは分かった。ああ理解した。でももういいだろ――」


 総身に殺意をみなぎらせ、ルヴァンダルは騎士めがけ斧をフルスイングする。

 ウィルガンドは緩慢な動きで剣を持ち上げ、バトルアックスの刃を止めたものの、それが限度。みるみる押し込まれて片膝をつき、潰されるのをぎりぎり堪え忍んでいた。


「み、んな……」


 うわごとのように漏らすウィルガンドの左手が、剣の柄からずり落ちる。力が入らない。

 ぎちぎちと鉄を削る凶暴な音を立てながら、目の前にバトルアックスが迫っている。少しでも力を抜けば、今度こそ頭部を両断されるだろう。


「てめぇもあの世に送ってやる! 喜んで迎えてくれるだろうよ!」


 ウィルガンドの脳裏に、父と母が、弟の姿が蘇り――黒く霧散していった。

 刹那、獲物目指して突き進んでいたバトルアックスの動きが、止まる。


「あ……?」


 ルヴァンダルは最初、いぶかった。力を緩めたつもりはない。なのに急に、斧がそれ以上進まなくなったのだ。

 一体、何が。それが、自分で止めたのではなく、止められたのだと認識したのは、凄まじいまでの勢いで斧が押し返され始めてからだった。


「な、なんだと……!」


 声がしていた。うめくような、喉を潰すような声。同時にウィルガンドの右手が上がり、剣が、それに押された斧がルヴァンダルの方へと接近してくる。

 ――馬鹿な。こいつ。俺の斧を。片腕だけで。

 ウィルガンドは首をもたげて顔を上げた。絶望。憎悪。怒り。沸々とした呪わしい烈火を瞳に宿して。

 五感を占めるのは殺された過去。焼き払われる村。逃げ惑う人々。追い回す兵士達。 

 血の海に横たわる家族。焦げた匂いが、血生臭さに混じって漂った。

 こいつ。こいつが。こいつが村のみんなを。


「お――おおおおおおぉぉぉぉォォォッ!」


 慟哭めいた狂獣の咆哮が雷鳴の如く空間を断ち割ってほとばしり、動かなくなっていた左腕が跳ね上がったかと思うと柄へかかる。

 体中の血管が裂けるような憤怒が湧き上がるまま、バトルアックスを力任せにはじき飛ばしたかと思うと、返す刀で真下からルヴァンダルの片腕を斬り飛ばした。


「が……ァああああああぁッ!」


 驚愕と愕然の苦悶をルヴァンダルが発する。だが素早く残った片手だけで無理矢理バトルアックスを握り込むと。


「血祭りに上げてやるッ!」


 斬り飛んだ腕から間欠泉のように血が噴くのも構わずウィルガンドへ斧を打ち下ろす。

 ウィルガンドはルヴァンダルの懐へ潜り込むようにそれを避けると、がら空きの胴体へ猛撃を叩き込んだ。

 縦一直線の斬り下ろし、横へと薙ぐ斬撃。さらに逆からの薙ぎ払い。逆袈裟からの斬り上げ。次々とつながる怒濤の連撃が止まる事なくルヴァンダルへ刻み込まれ、一撃ごとに両者の身体が鮮やかな赤へ染まっていく。

 ずん、と剣が重くルヴァンダルの脇腹へめり込んだ。ルヴァンダルは目を剥き、斧を取り落として離れようとするも、ウィルガンドは意に介さず剣を深く進入させていき。


「おおおおおおおおおおおッ!」


 足を踏みしめ、ルヴァンダルを持ち上げていた。

 身体をねじりながら一回転させて遠心力を加え、ルヴァンダルの体内で肉を血管を筋繊維を剣一本に引きちぎらせながら、次の瞬間大きく投げ飛ばす。

 中空に舞った時、ルヴァンダルはすでに絶命していた。だらんと四肢を慣性と重力に操られ、縦横に鮮血をぶちまけて地上へと血の雨を降り注がせる。


「ひっ」


 身を乗り出していたファンハイトのすぐ側の手すりにルヴァンダルの身体が激突し、血しぶきと肉片が飛び散った。

 骨格までもが潰れて原型を失った身体は壁にどっぷりと血糊を付着させながら落ちていく。沈黙が支配した。あるのは喘鳴ぜんめい のような呼吸音を漏らすウィルガンドと、火の粉の爆ぜる燭台の音。

 飛び交っていた叫喚が嘘のよう。残酷な場面はいくらでも見慣れていたはずの観客ですら、この凄惨極まりない有様に声もなく、誰もが身じろぎすらできなかった。


 ただ、一人を除いて。


 ぱち、ぱちと手を叩く音がする。あまりにマイペースなリズム過ぎて、直接目で確認するまでそれが拍手だと気づける者は少なかった。


「見事、いや見事だった」


 含むところの一切ない賞賛の言葉。コロシアムで行われた殺し合いの結末、生き残った勇敢なる一人の闘士を称える言葉。それを告げたのはアーディウスだった。

 動じた風のない皇帝の反応を皮切りに、観客も次第に我を取り戻していき――前触れなく沈黙したのと同じように、受けた衝撃を発散するかの如く唐突に雄叫びが上がった。


「……ウィルガンド、ね」


 試合前、廊下でウィルガンドとすれ違った赤毛の女が、観客席の最上段から舞台に佇む騎士を見下ろしていた。

 小さく呟きを漏らしたかと思うと、熱気冷めやらぬ会場を一顧だにせず、傍らに控えている銀髪のメイドを従えて立ち去って行く。


「ち、父上! こんな結果認めて良いのですか! 奴が勝利するなど、許されるわけが……っ」


 それは観客も含めた多くの者が思っていたはずだ。下手をすれば不平にとどまらず暴動に発展すらしていただろう。だからこそ皇帝が率先して場を収めたというのに、ファンハイトは狼狽のあまりまったく気が回っていない様子。


「良い。勝負は時の運。窮した獲物が狩人を狩る側に回る事もあるだろう」

「これでは私の面目も丸つぶれです! い、今でこそ観衆も受け入れていますが、いずれはこの失態も知れ渡るでしょう……!」

「それがどうした。こんなもの所詮は余興。奴が生き残ったならば、また舞台へ引きずり出す事も可能であろう」


 玉座の間でアーディウスに始終向けられていた怨嗟の視線。帝国への底知れぬ憎悪と、人間らしい理性を底の底まで捨て去った激昂ぶり。なのにそれらと同時に共存する狡猾さ。


「奴もまた復讐に囚われし者……どこまであがいて見せるか見物よ」


 誰もが想像だにしていなかったウィルガンドの大番狂わせ。

 しかしアーディウスは一人、くつくつと喉の奥で哄笑を立てていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る