三話 コロシアムへの誘い

 数日が経過した。その日は先日の悪天候が嘘だったかのように空気は乾き雲一つなく、地平線の彼方まで空は晴れ渡っている。

 アンガルス城へ続く街道を、隊列を組んだ小隊が帝国旗を掲げ進んでいた。列の中央には鉄格子のはまった檻が二頭の馬によって牽引されている。

 ウィルガンドは日光の差し込む鉄格子を、目をすがめて見つめた。

 ここのところまともに太陽を見ていない。ただ暗い場所に押し込められているだけで気が滅入るのだとこの数日で気がついた。

 ルヴァンダルとの交戦の末敗れたウィルガンドと王女は、もろともに帝国軍に囚われた。

 その場で殺されなかったのは彼らの上司ゼディンの達示があったからだが、この状況を見る限り救われたのかそうでないのか微妙なところである。

 重傷を負ったウィルガンドは何日も目を覚まさなかったため、王女だけ先に帝国軍の拠点、アンガルス城へと送られる事になった。

 アンガルス城。王国へ攻め入った帝国軍が利用している前線基地である。

 元は賊を警戒するため国境に建設された城砦だったが、帝国に占拠された後度重なる増設、改修工事が施され現在では要塞のような防衛機能を得ているらしい。

 すでに王女は到着しているだろうか。彼女は虜囚とはいえ王族、さすがに手ひどい扱いはされていないと思いたいが、相手が忌々しい帝国ではどうなったものか。

 救いに行けるならすぐにでも行きたい。しかし、どう力を込めても腕にはめられた手枷と、四肢につながれた鎖を引きちぎる事はかなわなかった。この鉄格子を抜ける算段もついていない。

 アンガルス城への護送に耐えられる程度の最低限の手当ては受けているものの、体調は万全とは言い難い。身じろぎするだけで全身に激痛が走り、一際強いダメージを受けた左腕は感覚が鈍く、握力は低下している。

 ろくな食事も取れておらず、天気は快調な割に日に日に寒気が増していた。

 浅い眠りと身体を蝕む疼痛とうつうに耐える時間を交互に過ごしていると、やがて大きな城壁が見えて来た。

 うず高い胸壁に、各所へ設置された見張り塔。周囲に張り巡らされた掘に、ただ近づくだけで喉首へ刃を突きつけられるような圧迫感を放つ巨大な門。

 指揮官が門塔に向かって呼び掛けると、物々しい音を立てて跳ね橋が降り、固く閉ざされていた門扉が地響きにも似た金属音を発しながら口を開けていく。

 ウィルガンドにはその光景が地獄の入り口に感じられた。


「――降りろ」


 兵士に檻の鉄格子を外させ、四肢の鎖を解かせながら指揮官が命じてきた。是非もなく、ウィルガンドは何日かぶりに自分の足で地面を踏みしめる。

 一瞬、立ちくらみを覚えたがなんとかこらえ、城門へと進む隊列に従って歩き出す。手枷をはめたまま、城までまっすぐ貫く舗装された道路を進んだ。

 城下町の様子は物静かで、時刻的に昼食時だろうに賑やかさは感じ取れない。それでも道の片側には、まばらに人の姿はあった。

 兵士達が横切ると、仕事の手を止めこわごわとこちらを見守る男。顔を伏せそそくさと家へ戻っていく子供連れの女。物見高い町人がささやかに人だかりを成している事もあったが、どちらかといえば警戒する空気の方が強い。

 それはウィルガンドに向けられたものなのだろうか、あるいは兵士達へなのか。かつての王国の人間が、帝国に制圧されてからの感情は決して明るいものではないのだろう。

 遠くに見える城内へはまだ距離がある。一歩また一歩と歩を進めている内に、包帯で巻かれた傷口が熱を持ち、血が流れ出していた。

 幾筋にも分かれた血液はぽつ、ぽつ、と道に血痕を残している。監視窓から番兵達の視線を受けながら何重にも連なった堅固な城壁を抜け、城内へと入る。

 入り口のホールにはあらかじめ連絡がいっていたのか三名の兵士が待ち受けており、そこで一度ウィルガンド護送の人間は交代となった。


「ついてこい」


 兵士達の後に続くも、別段地下牢や処刑場に案内されるでもなく、むしろ螺旋階段を上がって上階に向かい、良く磨かれた大理石に豪華な赤絨毯の敷かれた回廊を歩かされている。一体どこへ連れて行かれるというのだろう。

 着いた場所は、貴賓室と思われる装飾の入った豪華なドアの前だった。先頭に立つ兵士が失礼する、と中へ声をかけ、返事も待たずに金箔の張られたドアノブを引く。

 内装はソファー、衣装棚、机、風景画、ベッドなどどれも高級感漂う品が並び、かなりの身分の人間がもてなされるだろう部屋だと分かる。

 中には一人だけ、ぽつんとソファーに腰掛けていた人物がおり、ウィルガンドは思わず呟いていた。


「――王女殿下……」


 所在なげにうつむいていたエリンはその声を聞くなり顔を上げ、驚きに染まった目で振り返ってくる。


「あ、あなたは、ウィルガンド……!」


 次には弾かれたみたいに立ち上がり、こちらへ駆け寄って来た。思わぬ再会に硬直するウィルガンドとは違い、表情は安堵に歪み、かすかに涙を浮かべてすらいる。


「よく、よくご無事で……! 私はもう、ほとんど諦めかけていて……っ」

「この通り、無傷とは言えませんが命はあります。神の思し召しでしょうな」

「そう、ですね……」


 軽く嗚咽を漏らし、すがりつかんばかりだ。ウィルガンドはとりあえずエリンをソファーへ座らせ、自分も向かい側に腰を下ろす。

 ちら、と視線を流すと兵士達は廊下へ出て、見張りに立っているようだ。


「王女殿下、私をここへ呼び出したのはもしやあなたが……?」

「はい……あなたが生きていらっしゃると一縷の望みをかけて、兵の方にお願いしたのです。ぜひもう一度会わせて欲しいと。自由を全て奪われても、それだけかなうのなら何もいらないと」


 少しは落ち着きを取り戻したらしく、真摯な眼差しのエリン。ウィルガンドは尋ねた。


「何もされませんでしたか? 私の事などより、王女殿下の身に災いが降りかかる方がよほど辛い」

「いえ……私は大丈夫です。ただ、この部屋に押し込められただけで……他には何も知らされていません」


 何も音沙汰がないとは、どういう事だろう。といってもあの合戦があったのはついこの前であるし、帝国も戦後処理に追われて王女の身柄を放置せざるを得ないだけなのか。

 帝国の思惑に考えを割かれていると、エリンの方から遠慮がちに話しかけて来る。


「あの、お礼を言わせて下さい……。助けに来て下さり、ありがとうございます」

「いえ。力及ばず、王女殿下をお救いする事はかないませんでした。そのお言葉は受け取れません」

「そんな……あなたがいなければ、私はあの崖から落ち、そのまま死んでいたでしょう。それだけでも、感謝してもしきれません」


 エリンは調度品の置かれたテーブルへ目を落とし、少し間を取ってウィルガンドを見る。


「……私はあの時、谷底へ落ちて……それからどうなったのでしょうか。一度は目を覚ました事は覚えているのですが、またすぐに気を失ってしまって、記憶が曖昧なのです」

「川を下り、下流の岸辺へなんとか上がれました。しかし王女殿下は溺れていたので、恐れながら緊急救命法を施させていただき、無事一命を取り留められたのです」

「溺れて……あ、で、では……っ」


 王女とて、川遊びなどで溺れてしまった時にどうすればいいか、その方法くらいは側仕えの教師や学者から聞いている。

 つまり、その、ウィルガンドにそういう事をされたと思考が至ったのか、とたんに頬を染めて視線を逸らした。


「そ、それは……私などにそんな……なんとお詫びしていいか……」


 はあ、とウィルガンドの生返事にも気づかず、エリンはふるふると頭を振り、深呼吸までして平静を取り戻そうとしているようである。


「ウィルガンド、あなたは私の命の恩人です。ですが、今の私にはあなたの働きに報いる事はできません……無力な王女を許して下さい」

「無力だなどと、そんな事はありません」


 つい語調を強めてしまったウィルガンドに、エリンは目を見開く。


「あなたはファリアの王族です。大陸の支配を企む帝国を打ち倒し、再び自由と未来を取り戻す。それができるのはあなただけなのです」

「そんな……ですが」


 エリンは迷いと怯えをたたえた瞳で両手を組み、うなだれる。


「私には何の力もありません……全てをなくし、帝国の持つ強大な城の小さな部屋に囚わている。何も掴む事はできないのです。ただ、一切の期待に応えられなかった哀れな王女の罪を裁く、運命を待つ以外には」


 自分には不可能。何もかも終わった。そう弱音を吐くエリンを前に、けれどウィルガンドは食い下がる。


「諦めてはいけません。確かに我らは邪悪なる帝国の手中に落ちました。しかし、ファリア同盟はまだ健在。王女殿下の帰りを待つ諸侯は大勢残っております」

「ウィルガンド、あなたは……」

「この城から脱出し、再び栄光あるファリアの元へ彼らを結集させ、帝国に対抗するのです。それがこれまで散っていった者達の志を継ぎ、囚われているであろうギネモン陛下を救うただ一つの手立てなのです! どうか、諦めてはいけません」


 強く語りかけるウィルガンドに、エリンは目を合わせられないように目線を逃がし――。

 こんこん、とドアがノックされた。次いで、「よろしいでしょうか」と女の声がする。

 はい、と戸惑いがちにエリンが応じると、音を立てずにドアが開かれ、そこから銀髪のメイドが楚々とした足取りで現れる。


「王女殿下。謁見の時間です」

「謁見……? もしや、この城の主と……?」


 エリンの問いかけに、メイドが淡々と頷く。


「皇帝陛下がぜひ、あなたと話をしたいと」


 その名を聞いた時、ウィルガンドは驚愕した。

 皇帝、だと。まさか。このアンガルス城に、本当に皇帝が直々にやってきているというのか。

 とっさにエリンと目を見交わすも、彼女もまた初耳だったらしい。

 あえて伏せられていたのか、こちらの動揺を誘うために。その意図は不明だが、それにしてもこんなところで。

 拒否権はないだろう、どのみち。こちらは囚人、相手は皇帝。

 たとえ王族だろうとこんな呼びつけるような形の要請ですら黙って呑まねばなるまい。


「あ、あの……その場には、このウィルガンドを供にしたいのですが」


 とっさ、もしくは思いつきといった風にエリンが口にしたのは、ウィルガンドの同行。

 ただそれが皇帝に対峙するというより、心細さゆえの受け身なエリンの言葉だと思うと複雑だった。


「承知しました」


 たかだか従騎士風情が謁見に参列するなどにべもなくはねつけられるだろうと思ったが、意外にもメイドはさして間を置かずこれを承諾。ウィルガンドとしては同行の許可がされたのは願ってもない展開だった。

 エリンを前に皇帝がどんな話を持ちかけるつもりか探りを入れられる。単に処遇を申し渡すだけか、それとも処刑の日時でも知らせるか。この会談如何でウィルガンドの取り得る手段も変わってくるだろう――その機会があればだが。

 いまだショックの抜けきらぬ二人をよそに、衛兵達が先導を始める。ウィルガンドは緊張に顔色が蒼白となるエリンを気遣いながら、後を追って廊下を進む。

 最大の敵との突然の邂逅に息を呑んだのはウィルガンドもだが、哀れなほどに狼狽するエリンを見ているとそれほど心が揺らぐ事はなかった。

 貴賓室からさらに上階へ進むと、城塞らしい無骨な空気はなりを潜め、より華美さを増した回廊に出た。衛兵の装備も軒並み上質で、時折学者や聖職者など、戦闘員以外の官吏ともすれ違う。

 エリンや衛兵はともかく、ヴェンデルからこちら騎士服をまったく着替えていず、そのため長い戦いにぼろきれ同然と化した服装のウィルガンドはあからさまに奇異の目で避けられ、そして手枷に気づくと露骨に侮蔑の表情を浮かべた。

 不意打ち同然にエリンを呼び出した事といい、仮にも一国の主の前へ出向くのにウィルガンドに着替えすらさせなかった事といい、これが皇帝の趣向だとすると底意地が悪いとしか言い様がない。

 珍獣でも見るような視線にさらされながらついに玉座の間の前へ到着する。

 なめらかな赤の塗料と金のレリーフで彩られた扉はなんとも重厚感があった。メイドが王女の到着を告げ、入室の許可を求める。


「入れ」


 数秒の後、その一言だけが返ってきた。

 異様に重く、そして鋭い声色。ウィルガンドはこの声の主こそが皇帝であると悟った。

 中にいた数人の親衛隊の手により、扉が開かれる。メイドの役目はそれで終わりなのか優雅に一礼し、去っていった。

 いよいよか、とウィルガンドも腹を決めて踏み込む。エリンも硬い表情で、ぎこちなく玉座の間へと入って行く。




 正面に伸びる絨毯の先には、まばゆい金と赤の輝きを放つ巨大な玉座。

 そしてそこに、一人の男が腰掛けている。


「良く来てくれたな。ファリアの王女エリンデール」


 親衛隊に引き立てられるようにして玉座の前へ立つと、その男は傲然と二人を見下ろし、にぃ、と唇を三日月型に歪める。

 ウィルガンドはまなじりが裂けんばかりに目を見開き、網膜へ焼き込むかのようにそいつを見据えた。

 この男が、こいつが、憎き帝国の。


 ――帝国の、皇帝。アーディウス。


「あなたが、皇帝アーディウス、ですね」


 問いというより確認の意を込めて発されたエリンの声に、いかにも、とアーディウスは自らの王冠を手袋をはめた手でいじり頷く。


「余こそが帝国の主。そしていずれはこの大陸の支配者となる、アーディウス十八世である。いやはや、これまで挨拶が遅れてしまったのを許して欲しい」


 勝利宣言にも似た自己紹介をしておきながら、口調には悪びれた風もない。

 ウィルガンドは呼気を止めて唇が白くなるほど引き結び、血のにじむほど拳を固め、アーディウスを射殺さんばかりに睨み続ける。

 エリンもとうに苦いものを隠しきれなくなっていた。


「そしてここにあるは我が帝国の誇る猛将、ゼディンである。王女殿下においては見知った顔ではないだろうか」


 見れば、親衛隊と肩を並べて佇む黒ずくめの騎士。ゼディンだった。

 ウィルガンドが今しも飛びかかりかねないほど殺意に満ちた目線を送っても、彫像のように何ら反応を示さない。


「父上、そのような言い方ではあまりにエリンデール王女がお可哀想ではありませんか。ファランパレスは陥落したとはいえ、いまだ同盟が潰えたわけではないというのに」


 と、新たな声がかかる。

 玉座の隣。アーディウスとゼディンの存在感に圧倒されていたが、肘掛けのすぐ側に、二十代半ばと思われる一人の高貴な身なりの男が立っている。


「おっと、申し遅れました。私の名はファンハイト。帝国の第一皇太子であり、ファリア征伐の総司令官などを務めさせていただいております。以後お見知りおきを」


 頭から馬鹿にしたような芝居がかった仕草で一礼するファンハイト。


「今、なんとおっしゃいました……? 王城が、なんと……」

「ええ、もちろん我々帝国軍が制しておきましたよ。大した抵抗もなく、城下の者どもも静かなものでした。まぁ、ヴェンデルに布陣していた王国軍は壊滅した上に頼みのジェノム公は領地へ逃げ散るという惨めな敗戦、我ら帝国によほど恐れをなすのも仕方ないと言えますね」

「お父様は……」

「ファリア王ギネモンならば今は手足を鎖につながれ、地下牢にいるでしょう。ふふ、仮にも一国の王がどこまでも落ちぶれたものですね」


 そんな、とエリンは視線を落として瞳を揺らし、かたかたと震える。


「やれやれ、ファンハイト。余には諌言をしておいて己は言いたい放題ではないか。少しは余にも発言させよ」

「これは失礼、出過ぎた真似を、陛下」


 頭を垂れて大仰に許しを請いながら、ファンハイトは一歩下がる。


「さて、父君の現状を聞いて満足してくれただろうか? 貴賓室での暮らしも快適に過ごしていただけたのなら幸いだが――何しろ、先だっての戦の後処理に手を取られていてね」


 獲物をいたぶるような目つきでアーディウスの視線がエリンをねめ回す。エリンは口を引き結び、挑戦的に見返した。


「私を、一体どうなさるつもりです」

「うむ。その件で此度はこの場へ来てもらったのだ。――率直に言って、余ですら君の未来をどうしたものか決めかねている。殺すも良し、諸侯への牽制として人質にするも良し」

「ならば、殺せば良いではありませんか! 私など生かしておいても、何の意味もありません……!」


 自暴自棄にも見えるエリンの叫びにウィルガンドは制止の声を上げそうになったが、アーディウスが高らかに哄笑したため遮られる。


「それは良い提案だ。だがそう簡単に命を捨てるものではないぞ、姫よ。そんなもの、サイコロか何かに己の運命を託すような愚挙だ。そうではない。人間の命というものは、自分自身の手で輝かせるものなのだ。そうは思わんか、ファンハイト」

「まこと、その通りです父上。あの地獄から、我らは知恵と勇気を持って進む道を作り出した。それは我らだけでなく、全ての人間に対して言える事でしょう」


 まるで、台本か何かでも読み上げるような二人のセリフに、ウィルガンドはうすら寒いものを覚えた。

 違う。こいつらはエリンに選択権など与えさせるつもりはまったくない。かといってただ笑いものになどするためだけでもなく、何か、自分達の利益とするべく利用しようとしている。


「そこで余に考えがある。聞いてくれ王女よ。余は君に、コロシアムに出てもらいたい」

「……え?」


 もったいをつけたような調子でアーディウスから放たれた言葉に、もはや捨て鉢だったエリンも、何をのたまうかと身構えていたウィルガンドも揃って唖然とした。


「コロ……シアム……とは?」

「聞いた事はないか? 腕に覚えのある戦士、あるいは闘技奴隷。その者らが金や栄誉を賭けて立ち会い、殺し合う神聖なる舞台。神に愛された勝者には褒美が、愚劣な落伍者には無惨な死が。……我ら帝国にも、伝統の国技としてコロシアムがあるのだよ」

「素晴らしい提案です、父上。このアンガルス城にも幾年もかけて建設されたコロシアムや、闘士達が用意されています。そこで王女殿下のお力を試すというわけですね」


 我が意を得たりとファンハイトも補足する一方で、ウィルガンドは彼らが何を言っているのか理解できなかった。

 コロシアム。なんだ、それは。そんな殺し合いの場に、エリンを参加させるだと。

 およそ常識離れの馬鹿げた要求。到底、容認できるものではなかった。

 伝統だからなんだ。帝国というのは一国の王女の命を見世物に、賭けの対象にして弄ぶほど腐りきっていたのか。

 それならばここで一暴れして見せた方が、まだ助かる確率は――いや、皇帝やファンハイトはともかくゼディンが目を光らせているなら可能性はゼロと言っていい。

 何も言えず竦んでいるエリンをひとしきりにやにやと眺めてから、アーディウスははたと手を打つ。


「ああもちろん、あえて望まぬでもない限り、王女自身に戦ってもらおうとは思っておらん。コロシアムというものは貴族同士の決闘としても利用されるが、何も本人が直接出る必要はない。……その場合」


 つい、とアーディウスの目がウィルガンドへ向いた。


「代理、として自らの従者、騎士、傭兵といった戦士を送り込む。彼らに雌雄を決してもらい、その結果が勝利だろうと敗北だろうと、貴族は甘んじて受け入れるというわけだ。なので今回も、そこの騎士……ゼディンと渡り合った剛の者というではないか。その者に王女殿下の命を預ける、という形式にしてはどうだろう」

「そ、んな……」


 提案とうそぶきながら実際にはとんとんと決定されていく自分達の末路に、エリンは何一つ言い返す事ができなかった。ただただ、この玉座の間という死刑台で執行を待つ死刑囚の気分。


(これが……貴様らの企みか)


 しかしウィルガンドは素早く思考を回転させ、アーディウス達の目的を察していた。

 連中は、同盟に対し多大なる影響力を持つエリンを生かしておくのはやはり危険と考えているのだ。

 だがただ殺すよりは、護衛のウィルガンドを観衆の面前でなぶり殺し名実ともに絶対的な敗北を刻み、ボルテージが最高潮を迎えた時に王女を処刑し帝国の士気を鼓舞する。そんなところだろう。

 ファリア国王というカードが手元にある以上、所詮エリンの利用価値など頭打ち。対戦と言えば聞こえはいいが、こんなものは事実上の公開処刑。そもそもウィルガンドが戦うにしても、満身創痍に加え手枷すらはめられた状態で何ができるというのか。

 出来レースでしかない。言うまでもなく罠だ。

 それでも――それでもなお。


(気にくわないが、奴の言葉通り……この死線、己が力で切り抜けなければ)


「せめて……せめて考えさせて下さい!」


 着々と追い詰められている事態に焦ったエリンが、やっとの思いで訴えるも。


「ならん。今ここで決めてもらう。コロシアムに出場するか、断って処刑台へ進むか。生殺与奪はこちらにある。異を唱えたいのなら、まずはその権利を勝ち取るがいい」

「わ、私は……!」

「王女殿下」


 ウィルガンドはおもむろにエリンの前へかしずき、震える瞳を見上げた。


「受けましょう、この戦い。さもなくば、我らの道は永遠に断ち切られてしまいます」

「ウィルガンド、そんな……! 無理です、だってあなたの怪我はまだ治っていないはず。それなのにコロシアムなど、とても」


 やる気を見せるウィルガンドを信じられないという面持ちで見つめ、認められないと首を横に振るエリン。

 だが、ウィルガンドも引く気はなかった。


「心配される事はない。王女殿下が信じて下さればこのウィルガンド、必ずや勝利をものにしてみせます。我が剣にかけて、王女殿下の命をお救いする事を誓いましょう」

「ウィルガンド……」


 曇りのない双眸を向けるウィルガンドに、うつむきがちだったエリンもやがて、心を決めたのか。


「……分かりました。私も覚悟を決めます。あなたを信じます、ウィルガンド」


 ひたとウィルガンドを見据え、一言に力を込めて言う。ウィルガンドは承知の意味を込めて頷きを返すのだった。


「おお、なんと美しい主従関係でしょう! 麗しき姫とそれを守る騎士! まさに市井のあこがれる物語の世界の一幕と呼んでも差し支えありませんな」


 白々しく賞賛を浴びせるファンハイトに、軽く拍手をしながらアーディウスも続く。


「まったく良い返事だ。そうでなくては困る。嫌々出られても盛り上がりそうになかろうからな。さすが余が見込んだ男なだけはある」


 どこまでも好き放題言ってくれる。ウィルガンドは姿勢を正し、皇帝の方へ向き直った。


「試合の日時は、いつ頃でしょう」

「あまり焦らしても真綿で首を絞めるような心地であろう。案ずるな、すでに手配は済ませておる。――ファンハイト」

「は。観客の動員、闘士の入城、全て準備万端整っております。後は主賓のみを待つ次第」


 さっそくというわけだ。だから城下町に妙に人の気配がなかった。謁見の最初からこの筋書きが仕組まれていたのだろう。だからといって、後戻りはできない。


「さあ、コロシアムへ向かうがいい。言うまでもなく、王女殿下においては観戦に出ていただく。こちらについても特等席へ案内するので、ぜひ共に我らが騎士の健闘を楽しもうではないか」

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