二話 猛襲のルヴァンダル

 暗雲の吐き出す豪雨と加速度的に水かさを増す濁流から、ウィルガンドは腕を突き出して浅瀬にある岸辺の草を掴んだ。

 水の勢いに身体と、脇に抱えたエリンを持っていかれないよう歯を食いしばって耐え、足で水面を蹴り半身を押し込んでいく。不安定に滑るぬかるみを何度も掴んで引き上げ、腰から上が水中から抜け出すと、一気に前方へ倒れ込んだ。

 やっと長い川との格闘から解放され、ウィルガンドはエリンを側の斜面へ投げ出すと仰向けになった。雨水が口に入るのも構わず荒く呼吸を繰り返す。

 ――死ねない。あの日、村を襲った帝国に復讐するまでは。




 澄み渡る晴天だったあの日、村を帝国軍が襲った。馬に乗った兵士達に家々を焼かれ、村人を殺され、命という命が踏みしだかれて、悲鳴と共に炎に呑み込まれていった。

 助かったのは運が良かったのだ。母が床板を外し、床下にある飢饉に備えて保存食を貯蔵しておく小部屋へ自分と三つ下の弟を隠そうとした。

 でも、すぐ側まで火と兵士達が迫っていて、どんなに急いでもその中には一人だけしか隠れられなくて。けれども弟はすでに大やけどを負い、どう見ても助からない状態で。

 結局入れたのは自分だけ。母は兵士達の目を逸らすために外へ出ていった。何時間も過ぎた後に出て来たらそこかしこに焦げずんだ黒い死体が転がり、惨劇を包む煙が晴れた後にはがれきの山だけが目前にある。

 ――そしてようやく、まるで火から自分を守るように弟が床板に覆い被さっているのに気がついた。




 さっきから隣のエリンが動く気配がない。

 崖から墜落し、水中でしばらくはもがいていたが今はぴくりとも。軽い打ち身や擦り傷だけで骨折などの大きな怪我はないようだが、呼吸をしていない。

 すぐに水を吐き出させなくては。


「目を覚ましてください……! あなたにここで死んでもらっては困る……!」


 肩を揺するがエリンはされるがまま力なく、体温は氷のよう。青白い顔で口を半開きにし、反応はなかった。

 仕方ない。ウィルガンドはうろ覚えの救命術を思い出しながら、エリンの体勢を変えた。

 ともかく呼吸を復活させよう。胸に手を当て、胸骨を砕く勢いで押し込む。それを何度か試し、エリンの唇を自分の口でふさぎ人工呼吸を行った。

 この大雨の中、休憩も取らず反復して処置したが、いっこうにエリンが水を吐き出す様子はない。さすがに嫌な汗が浮いてくる。

 一体どこまで流されたのか分からないが、一刻も早く医者に診せる必要があった。近くに村でもあればいいが、とウィルガンドは周りを見た。

 深い谷を抜けた岸。近くには灌木が生えそろい、林となっていた。足下は泥に埋まり、歩くのも一苦労だろう。ぎりぎりときしみを上げる四肢を叱咤しった し、ウィルガンドがエリンを背負い上げようとした時、だしぬけに人の声らしきものがした。

 このどしゃぶりである、聞き間違いかと思ったが、耳を澄ませてみると幻聴ではない。ウィルガンドは這うようにして草陰へ向かい、頭を傾けて声のする方を窺った。


「……しかし、かなり下流の方まで来てみたが」

「本当にいるんですかねぇ? もうブーツどころか靴下の中まで水浸しですよ」


 木立の先に数人……いや、十人以上もの武装した兵が立っている。鎧から見て帝国兵だった。

 ウィルガンドは舌打ちする。奴ら、なぜここに。

 その問いに答えるように、鎖帷子を着込んだ大柄な禿頭の男が片手斧を肩へ担ぎ上げた。


「こんな天候でもやらなきゃならねぇだろ。なんせあのゼディンの野郎直々の命令ときた。適当に済ませようならどんな目に遭うか分かったもんじゃねぇ」

「なんだってあの人はこんな川下に王女が流れ着いてるなんて思ったんでしょうね。上から見ましたけど、あんな高い崖から落ちちゃ絶対助かりませんよ」

「腕利きの騎士が側についてるって話だ。そいつにも注意しろとよ。……けっ、どうせ両方ともくたばってるに決まってるがよ、一応死体も引き上げなきゃならねぇ。なんでこのルヴァンダル様がこんなくだらねぇ仕事しなきならねぇんだ……ああクソ!」


 ぶんっ、と粗暴に斧を振り回し手近の樹木へ叩きつける。周囲の兵士がこわごわとした態度だし、恐らくは奴が指揮官だろう。

 よりにもよってこんな時に追っ手。しかもゼディンの差し金らしい。今のところ岸周辺まで探索の手は伸びていないが、もたついていればいずれ捕捉される。

 その上ウィルガンドは徒手空拳。王女という荷物を抱えてどこまで抵抗できるか不安が残る。エリンの容態は気に掛かるが、まずもってこの状況をやり過ごす必要があるだろう。

 そして死角を突きこの場を離れる。傷口から流れる血痕や足跡は雨が洗い流してくれるだろう。

 木の幹へ移動しながらウィルガンドが構築し始めた計画はだが、数秒も持たず覆された。


「う……ごほ、ごほっ……!」


 引きずり始めた矢先に動いたのが原因なのか、なんとこのタイミングでエリンが水を吐き出したのである。苦悶に顔を歪めて身をよじり、嗚咽めいた咳き込みを数回に分けて。


「誰だ!」


 たとえ雨音があろうと、それがほんの数メートル先にいる帝国兵の耳に入るのは自然な事といえた。何事もなかったみたいに規則的な呼吸を取り戻し、けれど依然として目を覚まさないエリンにウィルガンドは頭を抱えそうになる。

 とりあえず命に別状はないようだし、観念するしかないとはいえ最悪ウィルガンドが囮になってエリンを逃がせば、まだ望みはつながるだろう。


「誰がいやがる! 姿を見せろ!」


 業を煮やした帝国兵が踏み込んでくる前に素早くエリンを木蔭へ押し込み、立ち上がってゆっくりと歩み出した。


「なっ……なんだ貴様は! 何者だ!」


 ゆらりと現れたウィルガンドを目にし、兵士達が誰何すいか の声を上げながら武器を向ける。


「……その容貌、傷だらけの格好。ほーう、ゼディンから聞いた騎士の特徴とそっくりじゃねえか」


 だが、ルヴァンダルと名乗っていた禿頭の男はにやりと笑い、大股に進み出る。


「てめぇ、王女とともに崖から落ちた王国の騎士だな? 運が良かったのか知らねぇが、マジに生き残ってたってわけだ」


 ウィルガンドが黙っていると、ルヴァンダルは斧を持ち上げ、先端をこちらへかざす。


「王女の居場所を教えろ。てめぇはどこにいるのか知ってる。俺の機嫌が悪くなる前に答えな」


 答えなければどうなるか、あえてルヴァンダルは口にせず、獰猛どうもう さを隠そうともしない笑みを浮かべている。


「……おい、なんとか言え!」

「痛い目に遭いたいのか?」


 距離を縮めた兵士の一人が、いらだたしげに手槍の穂先で小突いてきた。

 瞬間、ウィルガンドは身をひねるや否や槍の柄を掴み取り、腰を入れてぐいと引いた。


「な……が……!」


 突然の出来事に前方へたたらを踏む兵士へ、手元で手槍を回転させたウィルガンドがその腹部めがけて突き入れる。目を見開いて腹を押さえようとする兵士からただちに穂先を引き抜き、近づいていた別の兵士を柄で薙ぐ。


「こ、こいつ……!」


 横合いから剣を握りしめて飛びかかろうとする兵士の足下を払い、槍を両手に持ち替えてとどめを刺そうとする――寸前、側面から殺気を感じて飛び退いた。


「おらぁ!」


 怒声を上げてルヴァンダルが斧を振り下ろしていた。とっさに後退した事で直撃は躱したものの、地面は泥をまき散らしてえぐれ、叩き込まれた衝撃にクレーターすらできている。あんなものを受けたら人体の一つや二つたやすく砕けるだろう。


「やってくれるじゃねぇか……そうでないと張り合いがないもんなぁ?」


 獲物を見るどす黒い眼光と視線が噛み合う。ずるずる、と斧がわざとらしく土へこすりつけられながら引き上げられた。

 ウィルガンドは槍を構え直す。そして踏み出そうとして――ぐら、と視界が傾いだ。

 のみならず、右半身から異様に力が抜け、代わりに上から押さえつけられたみたいに重くなる。槍を握る手も弛緩し、焦燥がよぎった。

 しまった。血を流しすぎた。気勢を込めて体勢を立て直そうとするも、その頃には眼前へルヴァンダルの斧が迫っていて。自由の利く左腕で防御態勢を取った。

 だがそんなもので防ぎきれるわけもなく、叩き込まれる衝撃に踏ん張りもできず、あっさり足が宙を浮いて背後の幹へ衝突する。

 たまらず膝を突き、息を切らしながら左腕へ目線を注ぐ。無事だ。切断されていない。ただ鎧を歪めるほど深く埋め込まれ、肋骨を強く圧迫しているだけで。


「ま、王女の居所を聞かずに死なれても何だからな。ただまぁ、あまりお痛したら次はマジで飛ぶぜ? 腕か足か、うっかり首とかな」


 今の一撃は、刃のない斧頭の部位で殴打されたのだろう。それでも当たり所が悪ければ即死すらあり得た。身体に半ばほど沈み込んでいる左腕を強引に引きはがすと、食道から駆け上ってきた血を盛大に吐く。内臓も痛めている。

 手槍は、と視線を地面へ這わせると、足下から少し離れた位置に落ちていた。


「もうその腕、使い物にならねぇだろ。いい加減答えたらどうだ。せっかく助かった命だろうが、なぁ?」


 わざわざ目を上げずとも、ルヴァンダルがにやついているのは分かった。

 だがあいにくと、まだ左腕は動く。骨にヒビくらい入りはしたろうが、この程度で音を上げるほどやわではない。

 ウィルガンドは幹を支えに立ち上がった。足を伸ばして落ちている手槍を跳ね上げようとする。

 だが、上がらない。こちらの意図を察したルヴァンダルが先手を取り、槍の穂先を踏みつけていたからだ。


「残念だったな」


 再び横殴りの衝撃を食らい、受け身も取れずぬかるみへ水しぶきを上げて顔から転がる。

 口元へ手をやると、とめどなく血があふれ出ていた。

 吐き気がひどい。視界が赤く明滅し、体内の熱が警鐘とばかりに暴れ狂っている。

 ウィルガンドは立ち上がった。


「こいつ……結構タフだな」


 少しばかり面白くもなさそうにルヴァンダルが吐き捨て、思うさま斧をぶち込んでやろうと振り上げる。

 その時、二人の間へ割って入る影があった。


「――待って下さい!」


 ウィルガンドは妙に狭まった視野に、かばうように立ちはだかる王女を目にする。どうやら、無事に意識を取り戻してくれたようだ。


「もうやめて下さい! 大人しく捕まりますから、この方を傷つけないで!」

「……だ、そうだぜ、ナイトさんよ。なんだよ、やっぱり近くにいたんじゃねぇか。余計な手間取らせやがって」


 おい、とルヴァンダルが目配せし、遠巻きにしていた兵士達に捕まえるよう指示する。

 だがウィルガンドは、エリンの肩に手を置いてそっと押しのけた。


「え……?」

「王女殿下。私が隙を作るのでお逃げ下さい」

「そんな……! いけません! 私の事など、もう……!」

「おいおい、せっかくまとまりかけた話をぶち壊しにする気かよ? それ以上無様をさらして満足か、え? てめぇは負けたんだよ、とっとと諦めな」


 ウィルガンドが踏み込もうとすると、ルヴァンダルの斧が容赦なく襲った。

 思うように身体が動かず、またしても吹っ飛ばされる。

 周囲の音がよく聞こえなくなっていた。頭の中でがんがんと鐘が鳴り響いている。誰かが自分の身体にすがりついていた。雨が冷たい。

 ウィルガンドは立ち上がった。

 はっきりと不快感をあらわにしたルヴァンダルが詰め寄ってきて、むき出しの両腕に隆々の筋骨を浮かび上がらせ斧を見舞ってくる。頭部に衝撃。

 それで全ての感覚は消え去った。

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