第一章 一話 その名はウィルガンド

 日の出と共に始まったヴェンデルの戦いは、まっさらな青空の下で無数の命が散らされ、太陽が中天を回り、徐々に空模様が陰りを帯び始めても続いていた。

 今や光を閉ざす暗雲が覆う中、エリンを乗せた馬車は脇目もふらずに走っている。その前後を五名ずつ、合計十人の護衛が挟み、森を突き進んでいた。

 王城からの脱出。それを果たし、同盟諸国へと逃れるには帝国の追跡を振り切らねばならない。エリン他、国の重臣達が揃って行軍すれば気取られる危険があるため、このように脱出経路をばらつかせ、その上で少数精鋭に守らせながらの道のりとなったのである。

 エリンが目指しているのはギネモンの言葉通り、王城の後方に位置するジェノム公爵の陣営だ。王国軍に比肩する兵力を持ち合わせるジェノム軍ならば、たとえ王城を手中に収めた帝国といえどおいそれと手は出せない。

 その上、彼は戦略、軍学に優れた傑物であり、帝国軍が王城へと迫ってからこそは戦力を支援に回すよう采配されていたものの、それ以前は南北に分かれた国境線の半分を帝国軍の侵攻から抑え込んでいたのである。

 しかし帝国側もジェノム軍を警戒しているはず。街道を先回りして封鎖されていれば、あえなくエリンは囚われるか、殺されてしまうだろう。それゆえ、王城から街道の半ば程からルートを外れ、程近い森を抜ける強行軍を選んだのである。

 がたがた、と細かい石を噛みながら不規則に揺れる馬車でエリンは振り返り、背後の窓から小さくなっていく王城を見つめた。

 立ち並ぶ胸壁、勇壮にはためく国旗、そびえる尖塔。どれもが記憶に新しく、けれどやがてそれも風化してしまうのだろうかと、暗澹 あんたんたる気分で思う。

 ならばせめてこの目に焼き付けよう。そして祈ろう。父親の無事と、幼き頃から過ごした思い出の場所が、罪科なき愛する民達が、恐ろしい戦渦に巻き込まれる事のないよう。


「いつか……いつかまた」


 ともすればまなじりに浮いてきそうな熱いものを、エリンはこらえた。

 これといった問題もなく、つつがなくエリン達は森を突破した。すでに王城から遠く離れ、代わりに深い谷底に面した渓谷へ差し掛かり、断崖沿いの道を走る。

 伝令、補給隊といった少数の人間なら通るのはたやすく、軍団ならば時間がかかる。そういった地形の有利不利も考え、ジェノム公爵はこの地を陣の後背に敷いたのだ。

 おかげでエリン達も帝国軍に見つかる事なく彼の元へたどり着ける、そう思われた。

 まったくの唐突。

 先行する騎兵の一人がよろめくように馬から滑落した。ぎょっとしたように後に続く兵が叫ぶ。


「おい、どうした! 大丈――」


 その声が不自然に途切れ、彼は喉元を抑えるようにして身もだえながら、ずるりと鞍から崩れ落ちる。

 そこに至ってようやく、残る兵士は落馬した二人の頭に、そして喉に、一本ずつ矢が刺さっているのを発見した。


「敵襲だ!」


 まさか、こんな人目につかぬ谷間の隘路あいろ で。警告が飛ぶも遅く、エリンの馬車を走らせていた御者の左目をさらなる矢が射貫き、絶命させると共に制御を失った馬車は勢いよく横倒しになる。

 何事が起きたのか理解する間もなく、地面に叩きつけられて破壊されたドアからエリンが放り出される。思わず上げた悲鳴に姫様、と護衛が二人駆けつけるが、他の者は間断なく飛来してくる矢を防ぐのが精一杯。


「何者だ! 姿を見せろ!」


 護衛隊長の男が呼ばわると、呼び掛けに応じるためか、矢が尽きただけか。突然の襲撃者達が崖の向こうから整然と歩み出る。

 現れたのは二十数名ほどの、帝国兵。その内の半数が新たに弓へ矢をつがえ、こちらへ狙いをつけていた。


「き、貴様は……!」


 兵の中から馬を進めて来た指揮官を認め、隊長から猛烈な怒りと、恐らくそれ以上の畏怖がないまぜになった声音が漏れる。エリンもまた護衛に助け起こされながら、初めてこの目で、その者を見た。

 黒い髪、黒い瞳の長身痩躯。全身あます事なく漆黒の甲冑で固め、軍馬すらも黒い馬具でそろえた一人の男が、悠然とこちらを見下ろしている。その風貌。戦の事は分からぬエリンですら、戦争が始まってから数余年、嫌と言うほど聞かされていた。

 帝国軍将軍、ゼディン。帝国軍の先鋒を務め、並み居る王国の守りを突破し、この会戦においても絶対の防壁として機能していた死の峡谷を越え、王城陥落のきっかけを作った、まさにファリア王国にとっての死神。黒騎将の異名を持つ、天敵にして恐怖の象徴。

 でも、どうして。どうやってこちらの位置が。


「ゼディン……! なぜここにいる! 貴様は王城へ向かったのでは……!」


 エリン以下、全員の疑問を代わって隊長が問いただす。


「知れた事。敗北を悟ったであろうお前達の次に取る手など簡単に分かる。当然、王城には別働隊が向かい、他の逃走者も我が手勢が捕らえている頃だろう」


 対するゼディンは叫び返すわけでも笑うわけでもなく、表情を変えずに淡々と言った。


「すでに、脱出経路すらも予想済みだったというのか……! なんという……っ!」


 と、ゼディンの視線がエリンへ送られる。エリンは背筋が冷たくなった。

 なんだ、この男の目は。追撃戦におけるエリン王女という『大当たり』を前にした喜びも、王国への憎しみも、正も負も一切も、何ら感慨を覚えていない風。

 これが、この相手が、本当にゼディンなのか。いや、本当に人間なのか。


「――あなたは……あなた達は、どうしてこのような真似をするのですか? 王国を侵略し、罪もない人々を虐殺し、村を町を焼き払い、なぜこのような人道に悖る行為を……!」


 絶体絶命なのは理解している。だがエリンは、口を開かずにいられない。問い詰めずにはいられない。王族として、一人の人間として。


「俺はただ、総司令官の命を受けたにすぎない。これは戦争だ。人が死ぬのに何らおかしな事があるとは思えないが」

「戦いなんて、間違っています! すぐに兵を退いて下さい!」

「それはできない相談だ。命乞いなら玉座の間で皇帝陛下にしてくれ」


 命乞いなどではない。見逃される事を期待したわけでもない。それでもただ、みんなが悲しむこんなひどい事はやめて欲しかっただけだ。理由を聞きたかっただけだ。

 だってこんなの、絶対におかしい。間違っているのはわかりきっているのに。

 なのにゼディンはエリンの要請をにべもなく一蹴し、慇懃な調子で要求を突きつける。


「全員、武器を捨てろ。抵抗は無意味と知れ」

「姫様、お下がり下さい。我らで血路を開きます」


 隊長が配下と目配せをしあい、エリンを守るように陣形を整える。彼らが何をしようとしているのか、それが分からないエリンではない。


「やめてください、みなさん。このままでは……!」

「どうしてもやる気か? 無駄なのは分かっているだろう」

「黙れ……! エリン姫は最後の希望なのだ、貴様ら薄汚い帝国に渡してたまるものか!」


 平坦な口調で忠告するゼディンに対し、隊長は高らかに号令をかけた。

 それは戦闘と呼ぶにはあまりにも一方的なものだった。ただでさえ数の上で不利、しかも包囲されている窮地に加え、敵はゼディン麾下きか の百戦錬磨の精鋭部隊。

 隙も容赦もなく行われる波状攻撃は嫌が応にも練度の差を見せつけられ、突破口を切り開くどころか護衛が一人、また一人と倒れエリン達は追い詰められていく。


「姫様……力及ばず、申し、訳……」

「そんな……しっかりして下さい!」


 胸を貫かれ、おびただしい出血をこぼしながら倒れた兵士が、エリンへ手を伸ばし、力なくくずおれる。息絶えていく護衛達にエリンは何もできる事はなく、震えながら訴えるしかなかった。


「もうやめて下さい! これ以上、誰も死ぬのは……」

「では、大人しく捕まれ。それならばこの場の人死にはなくなるだろう」


 直接の戦いには手を出さず、戦況を見守っていたゼディンが改めて選択を突きつける。

 いや、それは選択などではなく、始めから決まっていた結論。

 少し伸びるか、さっさと受け入れるか、ただそれだけの。


「姫様、あなただけは我々の命に代えましても……!」

「……もう、いいのです」


 残っているのは隊長を含めた三人だけ。戦闘を続行できるような状態ではない。

 観念から諦観。エリンは志半ばの無念を胸中で父に詫び、降伏を宣言するべく乾いた唇を開き。


 土砂が弾ける音がした。


 次の瞬間、何か大きな影がエリンの頭上を飛び越えていき、ゼディンとの間に風を纏って着地する。


「え……?」


 目の前に、一人の騎士がいた。今し方壮絶な戦場を切り抜けてきたかのように全身を赤と黒で染め上げ、あみだ状に血糊の走ったブロードソードを手に。

 ゼディンと同じく馬上から、この場にいる全員を睥睨へいげい していた。


「が、崖の上から降りて来たのか……?」


 隊長の驚きの声がする。そうだ。エリンの側から見ても、道の前後からではなく、空中から突如として現れたようだった。

 他に足場があるとしたら背後の崖しかないのだが、この上はほぼ垂直に等しい急斜面で、道具があったとしてもまともに降りようとする人間はまずいない。

 わざわざ森から迂回してきたエリンらはもちろんゼディン達でさえ、先んじて待ち伏せするだけでこのような無茶極まりない登場の仕方はしなかったのに。

 それを、騎乗したまま駆け下りたという。戦いの手は止まり、どちらの勢力も無言で、常識外れの乱入者の動向を窺っていた。


「――エリンデール王女殿下であらせられますね」


 騎士はおもむろに振り返った。

 その額から頬、顎にまでかけてどっぷりと返り血や肉片を浴びた異様な面相に射すくめられ、エリンは思わず身震いする。


「は、はい……」

「ご無事で良かった。私はウィルガンド。ファリア王国の従騎士にございます。微力ながら、お助けに参りました」


 ファリアの、騎士……? ではこの男は、味方。それにウィルガンドという名前にも何か、聞き覚えがあるような。

 けれど身分や名を告げられたとしても、さながら地獄の底から湧いて出たような風体の男に、エリンは安堵に胸をなで下ろす事などできなかった。


「おお、援軍か……! ウィルガンド殿と申したな。他に味方は……」


 一縷いちる の望みに生気を取り戻した隊長が尋ねるも、ウィルガンドは首を横に振る。


「私だけです。皆、持ち場を守るのに忙しいようで」


 どこか皮肉げな返答に隊長は押し黙った。

 そうだ。多くの敵に囲まれ、こちらは全滅寸前。そんな状況でただ一騎の増援が来たところで、一体何ができるというのか。


「……お前がたった一人で亡国の姫を救いに来た蛮勇は、褒めておくとしよう。しかし、見ての通り少々遅かったな。趨勢 すうせいはとうに決している」


 ゼディンのセリフに、ウィルガンドも向き直る。


「帝国の勇将、ゼディンか。俺が相手になってやる。姫に手出しはさせん」


 ――どこかで、稲妻が落ちたような轟音がした。

 気づけば、しとしとと音もなく雨粒が降り注ぎ始めている。


「見たところヴェンデルから駆けつけたようだが、それなりに使えるようだ。しかし今の状況が理解できないようでは、ただ命を捨てに来たに過ぎん」


 空気が、張り詰める。ゼディンが手綱を引き、剣を持ち上げたのだ。その場の誰もが、ついにゼディンが戦闘態勢に入った事を理解する。


「無謀だ……あのゼディンに一騎で立ち向かうなど」


 帝国軍へ威勢良く啖呵 たんかを切ったはずの隊長ですらも、ゼディンとの正面衝突をしようとするウィルガンドに苦く呟く。

 ゼディンは兵を動かす軍略はもちろん、その武勇においても無類無敵を誇るという。

 数年前、帝国との戦争が本格化する前哨戦となる国境を巡っての争いで惨敗を喫した王国軍は、ゼディン一人を狙い撃ちに罠を仕掛けた事がある。

 彼の軍勢をおびき寄せ、数手にも分けた大軍によって一気に滅ぼそうとしたのだ。

 だが、十倍以上もの数的有利、地の利、そしてジェノム公、大将軍リアンロッドを含む綺羅星 きらぼしの如き名将がそろい万全の布陣を築いていたにも関わらず、罠を見破ったゼディン軍の凄まじい反撃に当時の有力な貴族、挑みかかった武将は次々討たれ、ゼディンをも取り逃がし壊滅的な被害を被ったのである。

 窮鼠猫を噛むという言葉では済まされない。王国側の出鼻をくじくにとどまらず、黒騎将ゼディンの名が広く知れ渡る絶望的な敗戦だった。


「ウィル、ガンド……」


 ぽつり、ぽつりと髪や頬を濡らしていく小雨も気にせず、エリンは対峙するウィルガンドを見つめる。

 並の兵ならば誰もが恐れを成すゼディンの勇名は彼とて知っているだろうに、毛ほども逃げ腰になる様子はない。

 その姿にエリンもまた、あるいは、とどこか切願にも似た気持ちを抱いていた。




(ゼディン、か)


 一方のウィルガンドは慎重に機会を窺いながら、敵の一挙手一投足に目を配っていた。その構えは一見、無味乾燥だ。ウィルガンドがこれまで目にして来た帝国流の剣技。そのどれもと違わない。教科書通り。

 型だけならばそこらの一兵卒と変わらないのだ。だが、無駄な力みも癖もなく洗練されている。あまりにも模範的すぎて、人というよりそうしつらえられた人形を相手にしているかのような。

 すなわち、隙がない。戦士が強くあらんと練り込まれた理想そのもの、といった感じだ。

 だからといって、自分がこの男に劣るとは毛頭思わない。どれだけ鬼神のように称えられようが所詮人間。斬られれば死ぬし、落馬でもして打ち所が悪ければそれでさよならだ。

 さらに言えば、ここでこいつを始末できれば、帝国に大きな痛手を与える事ができるだろう。

 それはエリン姫を救うよりもある意味、優先していい事柄でもある。


(――帝国……!)


 ぎり、とかすかに奥歯を噛み締め、ウィルガンドは少しずつ馬を後退させた。

 ゼディンもその動きに呼応するように、同じく緩慢に下がらせていく。

 雨脚は強まりつつある。ウィルガンドは水滴がまぶたから眼球を伝い落ちるのも構わず、目を見開いてゼディンを睨み据え――馬腹を蹴って加速させた。


「おおおおおおおおおッ!」


 ブロードソードを握り込み、雨音を吹き飛ばさんばかりの叫声 きょうせいをほとばしらせ突進する。

 ゼディンも鏡あわせのように、しかし無言でこちらへと突っ込んで来ていた。

 十分に蹴速をつけた両者の馬が接近し、互いの間合いに入るや否や、振り抜かれた剣同士が激突する。

 火花が散った。その火の粉が雨に消されるよりも早く、返す刀の第二撃がぶつかり合い、新たに火花が上がる。

 一撃、二撃と防がれ、けれどウィルガンドは一心不乱に剣を叩きつけた。

 はじめの一合でゼディンの力量は知れた。評判通り頭抜けた使い手だ。でも、こちらの剣が通用しないほどではない。

 勝てる。殺す。ウィルガンドは自己暗示のように言い聞かせ、斬るというより叩き割るつもりで剣を振るった。技でなく、力ならばどうだ。半身で馬の操作をこなし、もう半身でゼディンを叩き斬るべく剣を振り回す。

 大きくしならせた腕から繰り出される上段の一撃、フェイントに見せかけた下段からの刺突。緩急をつけた力任せの薙ぎ払い。

 激しさを増す雨量に比例するように、両者の攻防は勢いと速度を引き上げながら拮抗していた。常人には計り知れぬ境地の斬り合いに、隊長が息を呑む。


「おお……よもや、あそこまであの黒騎将と打ち合える強者が我が方にいたとは……」


 ウィルガンドは自らを従騎士と名乗った。従騎士といえば、高貴な爵位を持つ貴族に仕える下位の騎士。そのほとんどは見習いを卒業した貴族の子女が叙勲を受けるのが普通だが、まれに何も血筋を持たない平民や農民が貴族に召し抱えられる事もあるのだ。


「あれほどの武技、さぞ名のある貴族の方とは思うが……」


 ウィルガンドの剣は尋常なものではない。あらゆる武術に精通した師範格の将ですら赤子扱いにするゼディンを前に、むしろ押しているように感じる。であれば少なくとも高名な武官か、将軍家に連なる叙勲されたばかりの騎士と窺えるのだが。


「……いえ」

「姫様……?」

「あの方は……貴族ではありません」


 ぽつり、とこぼしたエリンに、隊長が怪訝な顔をする。

 エリンの中に、おぼろげだが記憶が蘇りつつあった。

 自分は知っている。幼い頃に、会った事がある。

 名前と、あの凄惨な血糊に濡れた面影だけでははっきりとしたものは掴めなかったろう。ただ、あの戦い方。がむしゃらで、ともすれば捨て身にすら見える動き、身のこなし。それらがエリンの脳裏に、確かに一人の少年の姿を再生させつつあったのだ。

 しかし、互角と評した隊長の言とは裏腹に、ひたすらに攻め立てるウィルガンドには焦りが生まれつつあった。


(馬鹿な……こいつ……!)


 ウィルガンドの剣は生半可な守りなら膂力 りょりょくによって打ち崩し、そうして生まれた敵の隙を強引に食らい尽くすスタイルだ。

 そうでなくとも、これだけ全力の乱撃を浴びせているのなら、すでに腕の一本や二本、痺れの余り武器を取り落としていてもおかしくないはず。

 なのにこいつはなんだ。これだけ打ち付けているというのに、始めから今まで、ただの一度たりとも技に乱れがないのだ。

 防ぎ、守り、受け流し。どの方向から派生させ、どんな力配分でウィルガンドが打ち込もうと、まるでそれが当然のように耐えきってしまう。

 その上、動きどころか思考すら読んでいるかのように的確な反撃を返してくる。それも徐々に鋭く重く。

 読まれている。見切られている。こっちの力が吸収されている。技を打ち破るための技なのに、それが通用しない。

 こんなのは初めての経験だった。攻撃が当たらないだけでなく、言ってしまえば戦っている手応えすら感じられない。

 異様だった。人間を相手にしている気がしない。常軌を逸した対処能力と、何事にも揺らがぬ精神力がなければなしえぬ芸当である。

 ゼディンと戦って来た将や兵は、皆このような心地だったのだろうか。たゆまず研磨し、鍛え上げた力が柳のように容易に受け流され、納得のいかないまま倒される。ウィルガンドもまた、そのように仕留められた獲物達と同様の状況に陥りつつあった。


「く……おおおおぉ!」


 咆哮し、気勢を入れ直したつもりだった。けれど、ごく一瞬。力の入りすぎで袈裟懸けの斬撃が大振りになる。

 普段であれば、呼吸するよりも早く修正の利く攻撃。すぐさま関節と筋肉を操作し、思った通りの一撃へと戻せる――はずだった。


「ぐッ……」


 二の腕に痛みが走る。剣を握る腕を、ゼディンの剣がしたたかに斬り裂いたのである。

 こんな事が。こちらの行動にミスが生じた瞬間、防御から一転、カウンターを仕掛けてくるなど。失敗すればそのままウィルガンドに斬り倒されるのは自分自身だったろうに。

 技術面だけでなく、肝まで据わっている。味わった事のない敵の脅威に、ウィルガンドのこめかみを雨と共に冷や汗が流れた。


「王女を捕らえろ」


 寸前まで優位と思われたウィルガンドの負傷。その動揺が不安げに見守っていたエリン達に伝播するのを見逃さず、ゼディンが卒然と配下の兵へ命令した。


「しまった――!」


 まずい。エリン達は一挙に距離を詰められ、逃げ場をなくしている。

 そうだ。ゼディンの任務はあくまで王女の捕縛。目の前の対決に気を取られ、王女達の存在を失念していた事にウィルガンドは歯がみする。

 ともかく、エリンが捕まる前にゼディンを殺すしかない。

 傷は受けたが、内心の衝撃はすでに回復している。ウィルガンドは態勢を整えると、しゃにむにゼディンへと向かっていった。

 だが、そこからの展開はウィルガンドの思ったようには進まなかった。降り続く雨を裂くスピードで斬り下ろせば跳ね上げられ、横に薙げばするりと上体の重心移動だけで躱された。急所への突きも絡め取られた上に威力をゼロに削がれ、逆にこちらの剣へ刃を滑らせ危うく首を切断されそうになる。

 ウィルガンドの勢いは鈍り、ゼディンからの攻撃の量が増加する一方。致命傷こそ外しているものの、手甲の隙間など関節部には細かな裂傷、鎧すらもところどころ砕かれ雨と一緒に鮮血が流れ出している。

 蓄積する疲労も無視はできない。気づけば肩で息をし、絶え間なく汗が噴き出す。反対にゼディンは息一つ乱さないどころか、戦いが始まってからこちら顔色一つ変えていない。

 昆虫めいた無表情で、しかし研究者のようにウィルガンドを観察している。何を考えているか、余裕があるのか焦っているのか見下しているのか殺意があるのかも分からない。


「うぐぁああ!」


 後方の悲鳴にはっと我に返れば、エリン姫を守る護衛の二人が殺され、いよいよ崖際に追い込まれていた。手の空いた帝国兵も、王女のみならずじりじりとウィルガンドへの包囲を狭めている。

 このまま引き延ばしてもじり貧だった。ぎり、と歯を食い締めた時、しんしんと降る雨にゼディンの声がしみ通ってくる。


「どうした。諦めたのか」

「抜かせ……!」


 殺気を込めてゼディンを睨み据え、ウィルガンドは湧き上がる怒りと闘争心を筋力に注ぎ込み、渾身の力で斬りつける。

 大きく弧を描き、音速にも等しい剣速で殺到する刃を、ゼディンの剣が迎え撃つ。

 ぶつかり合う衝撃で雨が球状に弾け、残像すら残して返し合う。


「おおおおおおおおッ!」


 さらなる威力を注ぎ込んだ剣撃を見舞おうとした時、胴体へ二つ、何か冷たいものが通過していった。

 腕が、勝手に止まる。ゼディンの体勢がさっきとは違っていた。すでに勝負は終わったとでもいうように、剣を鞘へ収めている。


「な……が、はっ……!」


 その直後。斬撃が、二つ。ウィルガンドの鎧へ刻み込まれる。

 さらに一拍置いて、思い出したみたいに横一文字に鮮血がぶちまけられ。視界が暗くなり、意識が遠のく。

 重心が不安定になり、ウィルガンドの身体は鞍から滑落していた。

 砂利だらけの地面に激突して側頭部、肩、脇腹の順に走る衝撃と痛みを他人事のように思いながら、何をされたのかと必死に紐解く。

 斬られた。素早く二連撃で。それは理解できる。でも、いつの時点で。

 決まっている。互いに剣を交錯させて、引き戻し――そうして、ウィルガンドの再度の攻撃よりもゼディンの剣速がこちらを凌駕しただけ。


「……ぐ、ごほっ……!」


 大量の血液が喉元を逆流し、震える手で口を抑えても止められない。なんとか身体をくの字に曲げ、もがきながら懸命に立ち上がろうとする。


「……まだ、息があるのか。驚いたな」


 頭の上。でも実際にはもっとはるか上からのように、どくんどくんという自身の鼓動に混じってゼディンの声が聞こえてくる。

 そうだ。まだウィルガンドは死んでいない。落馬した時に剣は落としたが、すぐに拾い上げて、奴を。

 するとその時。苦痛に耐えて無理矢理動かした視野に、最後に残った護衛が倒れ、立ちすくむエリンの姿が映り込む。

 エリンは首を振り、何事かを口走りながら後ずさっているが、その後ろはもう、足場のない崖で。


「あ……」


 足を踏み外し、目を見開いたエリンが何もない空中へと放り出されていく。


「や……め、ろ……!」


 思考よりも早く、脊髄反射的にそちらへ飛び込んでいた。

 ウィルガンドの挙動に気づいた帝国兵が剣や槍を振りかざし食い止めようとするも、ウィルガンドは無手のままそれらを弾き、叩き落とし殴り飛ばし、血だるまのような有様になりながらもエリンの後を追って崖を飛び、下方を落下するエリンへと腕を伸ばしていた。


「く、そおおおおおぉぉぉ……ッ!」


 みるみる近づく谷底、急流。追い打ちの如く叩きつける雨。それでもウィルガンドはほとんど気を失っているエリンを捕まえ、抱きかかえながら背中側へ半回転し、エリンを衝撃から可能な限り守る。

 四秒。ウィルガンドの数えた時間ぴったりに、二人の身体は水面を突き破って水底へと沈んでいった。




 谷底の流れへ消えた二人を、崖際からゼディンが見下ろしていた。先ほどのウィルガンドの猛進も、水中に呑まれた王女の安否についても、これといった反応は示さない。


「……閣下、顔に……」


 兵に指摘されてようやく気がついたかのように、ゼディンが指先を自らの額から、鼻梁にかけてなぞる。そこには一筋の傷と、糸のように垂れ落ちる血。

 ……ウィルガンドの最後の攻撃。見切ったつもりでいたが、かすかに目測を誤っていたらしい。その血もすぐに雨に流され、ゼディンはやはり何事もなかったかのように、駒を返して背を向けた。

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