リベンジ・コロシアム

牧屋

プロローグ 亡国のエリンデール

 地平線の先から、叫喚がとどろいていた。

 土が馬蹄に踏み荒らされ、巻き上がる土煙。その中でひっきりなしに交錯する数え切れない人の影。恐怖と苦痛に彩られた馬のいななき。止む事のない激しい剣戟。

 鎧を着込んだ兵士の一人が打ち倒され、大地の上へ仰向けになった。手足をばたつかせて懸命に立ち上がろうとするのを、数人の兵士達が取り囲み、次々に剣を槍を振り下ろす。

 剣の一撃が兜を砕いて顔面へめり込み、穂先が腕を貫通して地面へと縫い止める。串刺しにされた兵士はひしゃげた口元から血泡を吹きながらなおも起き上がろうとするが、打ち下ろされた斧に腰を真っ二つに両断され、突然動かなくなった。

 一人の命を奪った三名の兵士は荒く息を吐き、狂気に歪みきった表情で武器を握り直すと、そこかしこから聞こえる怒号、叫びに急かされるようにしてきびすを返す。兵士の死体から流れる血だまりを転々と足跡に残し、土煙に踊る影の一部となっていた。



 数千年に及ぶ繁栄が作り出した城下に臨む雄大なる町並みと、偉大なるファリア国王の座する威光と堅牢さを兼ね備えたファランパレス王城。

 大陸諸国の敬意、畏れ、思慕、羨望を一心に集めてはばからないその地が、かつてない危機に見舞われようとしていた。

 城内の一角。来る帝国軍との決戦に向け作戦会議室と銘打った一室には、張り詰めた空気が漂っている。

 王城周辺の地形が描かれた地図の開かれたテーブルを囲み、王国の支柱たるそうそうたる面々が集っていた。国の施政を担う大臣、諸国との外交を引き受ける参謀長官、軍務を司る大将軍、その副官。他に国家の危機に駆けつけた高い爵位を持つ貴族、重臣達。


「よもや黒騎将ゼディン率いる敵部隊が、この王城近くまで攻め寄せるとはな……」

「あの人を寄せ付けぬ恐ろしい自然の獄……死の峡谷を抜けての奇襲など、誰が予想できたものか。おのれ……」


 その誰もが険しい表情で、つい先刻もたらされた絶望的とも呼べる知らせについて、意見を交わし合っていた。


「ともかく、すぐに部隊を呼び戻し、ゼディンめの討伐に向かわせなくては」

「いや、ファランパレスの守備を固めるのが火急でしょう。我が守備隊が力を合わせれば、救援など待つ必要もなくたちまち跳ね返して見せます」

「貴様は武官でありながらゼディン将軍を知らぬのか? 補給係にもなれぬ、ろくに前線に出た事のない金持ちのぼんぼんどもが束になったところでかなうはずがなかろう!」

「そ、それよりも、諸侯の援軍はまだ来ぬのか? 何度も使者を送ってはいるのだが、まだどの者も戻って来ておらず……」


 紛糾する会議は混迷を極めるばかり。刻々と変わる戦況、そして帝国軍の思わぬ一手に、誰もが恐れおののき、危地を脱する策を出せずにいる。

 それどころか状況がここまで悪化した責任をなすりつけ合うように、直接の戦闘とは関係のない話題まで散見される始末。


「そもそも大臣殿、あなたがジェノム公を後方に配置するなどと指図しなければ、今頃は援軍が間に合っていたというのに……!」

「私は万一のために退路を確保するべきと思ったまでだ。戦いにおいて絶対はない、ジェノム公にはそのために後方へついていてもらおうと」

「王城が落とされれば次などないのですぞ! 一体大臣殿はどこへ逃げられるおつもりなのですか? ――もしや、ジェノム公と謀って帝国へ下ろうと」

「もうよい」


 低く、重い声が響いた。報告という建前で自らの失態の言い訳を重ねていた者も、どれだけ議論を重ねても空回るしかなかった者も、頭に血が昇り半ば席を立って糾弾し合っていた者も、一斉に黙り込み、声の主を見やる。


「諸君らの話はよく分かった。もう十分だ」


 静かに、けれど諦観めいた疲れをにじませ、椅子に腰掛け両手を組んでいた男が顔を上げる。

 長く伸ばした髪に、蓄えられた髭。そして続く戦乱に実年齢よりもはるかに老け込み、皺にまみれて落ちくぼんだ目。ファリア王ギネモン。

 幾度目かの会議からいつしか沈黙を貫いていた国王が、ついに口を開いた。


「へ、陛下。十分とは、一体……?」

「聞いての通りだ。事ここに至った以上、決断は限られる」


 重々しいため息をついて、ギネモンはゆっくりと彼らを見渡す。


「雌雄は決した。ほどなく帝国軍は王城へたどりつき、城下を蹂躙するだろう。……人を、いや生物を寄せ付けぬ死の峡谷を抜けてくるとは、まったく思いもしなんだ。さすがはゼディン将軍といったところか」


 この争乱が始まった最初期から、防戦する王国軍を尻目にゼディンが率いる軍勢は連戦連勝。此度のヴェンデル丘陵を舞台にした決戦でも、かの者は死の峡谷を越えるという離れ技を披露した。

 険しい山岳に覆われ、豪雨と雷、そして竜巻までもが巻き起こる不毛にして災厄そのものであるあの一帯は、とても人の智の及ぶところではないというのに。


「ですが、援軍さえ到着すれば、押し返す事も……」

「だが、来ていない。それが連中の答えだろう。我らのファリア同盟など、その程度のものだったという事だ」


 この大陸の最初の王、ファリア。彼は精強なる軍を派遣し、各地を制圧した。そうして、配下として良く戦った者達や元の土地を治めていた主へ爵位を与え領地に封じた。有事の際には王国を救えとの誓約を込めて。

 それがジェノム公をはじめとする諸侯の存在意義であり、ファリア同盟の始まりであり、ファリアを戦神と崇めるファリア教の起りでもある。

 なのに幾千年もの時を経た今ではそのような使命は忘れ去られ、同盟は形骸化した。帝国に攻め寄せられている今も、諸侯は保身か、あるいは帝国との裏取引に忙しいかのいずれかだろう。

 結果、この合戦に参じたのは王室の傍系に連なるジェノム公爵の手勢のみ。たとえ後何日持ちこたえたとしても、それ以上の助けは来ないと見ていい。

 まさか、本当に見捨てられたりはしていないだろう。そんな風に心のどこかで逃避していた重臣に、ギネモンは逃れようのない現実を突きつける。

 自分達は負けたのだ。どうしようもなく絶対的に、帝国へ屈したのだ、と。


「で、では、我々に残された手は、いったい……」


 大臣の震える声に、ギネモンが改めて応じようとした矢先。

 お父様、と声がした。その場の剣呑な空気には似つかわしくない、なんとも涼やかで可憐な少女の声。見れば、会議室の扉が開かれ、侍女を伴った一人の少女が立っていた。

 その姿を目にし、国王は呟く。


「エリンデール……」


 殺気立った部屋が華やぐかのような燦然と艶めく金の髪。最高級のビロードで織られ、輝く刺繍のドレスに包まれた細い身体にしなやかな四肢。瑕疵かし 一つない丁寧に丹念に手入れのされた赤子のようにきめ細やかな肌。深い海を思わせながら透明感をたたえた無垢な青の瞳。

 ――ファリアが育みし王家の至宝、王女エリンである。


「王女様、なぜここに……」

「それは……皆さんの事が、心配で」


 表情を曇らせ、エリンが言う。その背後では数人の衛兵が戸惑ったように顔を見合わせている。見張りに立ってはいたものの、さすがに王女を止めるわけにはいかなかったのだろう。


「お父様、お話は聞きました。このままでは帝国が、この城にやってくるのでしょう……?」

「……そうだ。ちょうどよい。お前を呼ぶ手間が省けた」


 え、と呆けたように目を丸くするエリン。他の者も国王の真意を測りかね、ただ固唾を呑むばかり。


「エリン、そして皆。これより城を脱出せよ」


 水を打ったように会議室が静まりかえり、数拍後、驚きや怒りの声があふれた。


「陛下、そのような……!」

「我々にファリアを捨てよと言われるのですか!」

「我らにも意地があります、かくなるは城を枕に最後まで戦い抜き――」

「ならん」


 とめどなく発される反発に対し、ギネモンはどこまでも落ち着き払った調子で答える。


「我々は敗北した。であれば、これ以上の抵抗は無意味だろう。しかし、戦争はまだ終わってはおらん」

「と、いうと……?」

「いかに帝国といえど、我らが篭城しての消耗戦に持ち込まれればいっそう犠牲を払う事になる。できるだけ被害を抑えて制圧したいはず――それはこれまでの侵攻の仕方を見ても明らかだ。包囲、交渉、調略……そうして開城に至った都市や砦は数知れん。連中は野蛮だが、取引に応じる頭を持っている。ならば、我らが優先すべきは国民を守る事だ」

「まさか、お父様は……」


 エリンは父親の考えに予想がついたのか、表情を青ざめさせる。


「……一人だけ残り、我が身と引き替えに民の助命を……?」


 何ら迷いもなく、それが当然の責務とでもいうように、ギネモンは頷いた。


「私は城に残る。そして連中にせいぜい、ファリアを高く売りつけるつもりだ。そうして時間を稼いでいる間に、お前達は諸侯の元へ落ち延び、力を蓄え……いつか、ファリアを取り戻すのだ」

「そんな……!」


 将も兵もいなくなった城内で、ギネモンは孤独に帝国へ立ち向かうつもりなのだ。できるだけの民の安全を買い、可能な限りの自由を取り付けるために。

 だが、敗戦国の王族がどのような結末を辿るかは想像に難くない。見せしめに処刑、あるいは奴隷のように扱われ、他国への侵攻に利用される。

 帝国を名乗る砂漠の向こうの侵略者達がある日突然やって来て、名誉も命も何もかも破壊していった以上、最後に残った王家という旗頭をどう扱うかは、楽観などできるわけもない。

 当然、国民とて無事では済まないだろう。過酷な制度、度を超した徴税による搾取。


「では、私もお供します! 陛下お一人を見捨てるような真似をすれば末代までの恥となりましょう!」


 私も、と続々と名乗りや宣誓の声が上がる。その反応も想定していたように、ギネモンはかぶりを振った。


「……お前達は生きよ。生き延びて、いつの日かファリアの再興を果たすのだ。それはここまで戦い抜いた者にしか務まらん」


 国王が滔々とうとう と語る間も、ある者は悔しさに拳を握り、ある者は無力感にうちひしがれ、嗚咽を漏らしている者もいた。

 これで、終わり。長き王国の黄昏。それがこんな形で訪れようとは。エリンは今生の別れとなるだろう父親をじっと見つめる。

 帝国との戦いの最中に多くの将兵を失い、領土を侵され、病に倒れた母を看取り、それでも戦い続けた父親は憔悴しきっていたが、この窮状においてどこか安らかな面持ちだった。


「お父様……決意は、固いのですね」

「そうだな……悩むだけの時間は十分にあった。覚悟を決めるだけの時間もな」


 そして、周囲の者達へ最後の命令を伝える。


「リアンロッド大将軍はヴェンデルへ事の次第を知らせよ。少しでも多くの兵を逃がし、未来へつなげるのだ。参謀、大臣はともに城下町の混乱を防いでくれ。他の者は刻限までに脱出経路の確保に努めよ。……エリン、お前はジェノム公の元へ身を隠すのだ。あの男ならば、何よりもお前の力となってくれるはず」

「……はい」


 子宝に恵まれなかったギネモン。つまるところ直系の人間はエリンただ一人。

 だから王家の意思……遺志を継げるのは、もうエリンだけなのだ。


「……すまんな、エリン。お前にこのような重荷を背負わせる羽目になってしまって」


 いえ、とエリンはギネモンから目を逸らさずに言葉を返す。


「お父様の娘として、ファリアの王族としてその誇りに恥じる事のないよう、生きていきます。――お父様もどうか、戦神ファリアの加護あらん事を」


 新ファリア歴1982年。剣の月。


 その日、押し寄せる帝国軍によりファリア王城は陥落。

 後にヴェンデルの会戦と語り継がれる事となる大陸の運命を賭けた戦いは王国側の歴史的大敗という形で幕を閉じ、それは同時に、ファリア同盟を大きく揺るがす一つの転換点となっていくのである。

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