最終話 もう一つの約束

 ウィルガンドは目を開けた。深い眠りについていたかと思ったが、窓を見れば日は高く、一刻と少ししか過ぎていない。

 ここ数日間、一睡もしていないから実際には疲労が極致を迎えたために意識が飛んだだけなのだろう。それでもだいぶ、頭の中がすっきりしていた。

 喉が渇いた。そういえば空腹かもしれない。身体の感覚でなく頭がそうなのだと伝えてくる。

 この部屋ではコップに注いだ水しか口にせず、テーブルへ目を向けると最後に口にしたと思われる時から量が減っている。蒸発したのだろう。

 壁に手を突きながら立ち上がり、テーブルへ突っ伏すようにして水へ手を伸ばすと、その衝撃でコップが倒れ床へこぼれて、吸水性の良い絨毯があっという間に吸い尽くしてしまった。自嘲が漏れる。

 何をするでもなく濡れた床を眺めていると、腕に違和感を覚えて持ち上げた。ゼディンの剣に斬り裂かれた傷があるあたり。おかしな形に包帯が巻かれ、微妙に不快である。

 痛覚は消え失せて久しいが、こういう不快感は脳がかろうじて認識しているのは自分でもおかしく感じた。

 ああ、でも、そうか。


「……エリン」


 王女が来た、と思う。どれくらい前からか分からないが、歩ける程度には回復していたのだ。あのままうっかり死んででもいたら、せっかくの自分の願いも浮かばれまい。

 それで何か会話をしたような気がするが、それもおぼろだ。でもこの包帯を巻いてくれたのがエリンなのだけは記憶している。今はどうしているだろう。


「このままこうしていても、仕方ないからな……」


 何が仕方ないのかも分からないほど思考がうまく回らないが、適当に上着を羽織って、剣も持たずに廊下へ出た。この瞬間誰かに刺されても、別にそれはそれで納得してしまったかもしれない。

 肉体の衰弱と精神の摩耗まもうはウィルガンドから気力を奪い去っていた。



 足が向いたのは庭園だ。どうせもう、どこに行こうと何も変わらないだろうが、せめて腕の手当ての礼くらいは言っておきたかった。

 庭園に入ると、ラセニアとシルファ、ブラムの三人がテーブルを囲んでちょうど集まっていた。ウィルガンドと目が合ったラセニアが真っ先に立ち上がり、声を掛けて来る。


「あなた……やっと出てくる気になったのね」

「まあな」

「何日もお部屋から出てこられないので、心配しておりました」


 どれくらい、と聞き返すと、五日とシルファが答えた。そんなにかと虚脱感を覚える。


「ウィル兄ちゃん、大丈夫か……? すごく疲れてるように見えるけど」

「本当よ。久しぶりに現れたと思えば、死人の方がましな顔色をしているもの」


 気遣う言葉をかけられるが生返事で応じ、ウィルガンドは庭園を見渡す。


「エリンは……いないのか?」

「ええ。近頃あの子も元気がなくて……多分部屋にいるんじゃないかしら」


 エリンはいない。残念なような気分だがすぐに立ち去ろうとは思わず、ウィルガンドはテーブルの空いた席に腰掛けると、シルファが新しいカップに紅茶を注いでくれる。

 いつもはどうでもいい香りだが今は何か惹かれるものを覚え、一口あおればまろやかで優しい口当たりと、温かなミルクのような味わいが萎みきった五臓六腑へ染み渡っていった。


「うまいな。ありがとう」


 恐縮です、と一礼するシルファの横で、ラセニアも椅子に座り、ねえ、と問いかけてくる。


「あなた……これからどうするつもり?」

「どう、とは」

「皇帝はここにはもういないわ。あなたが近づける手段もチャンスもない。それなら……やっぱり、王国へ帰るの?」

「……そうなるだろうな」


 受け答えしていて現実感が欠如していた。終わりなのだ。でも明日になればまた、コロシアムへ行かなければいけないような――そんな強迫観念もまだ残っていて。


「そんな他人事で大丈夫なの? あなたは……エリンを守らなければいけないのよ。いくら殺し合いに明け暮れようとも、その事だけは忘れてはいけないわ」


 エリンを守る。でも……何のために。その意味を考えるのすら億劫だった。

 けれども、そんなウィルガンドの傍らにやってきたブラムが、真摯な視線を送ってきた。


「あのさ兄ちゃん……ちょっと聞いて欲しいんだけど」

「……なんだ」

「俺、前に誘拐とかされたじゃない? その時にさ……思ったんだ。ああ俺、ここで死んじゃうんだ、って。すげぇ怖かったけど、それとは別に……こうも思った。それでもしょうがないし、いいかな、って」

「ちょっと、ブラム……?」

「ラセニア様、今は」


 何を言い出したのかと気色ばむラセニアを、シルファが制止する。ウィルガンドはただブラムの双眸を見返していた。


「だってずっと、ここに閉じ込められてて……生きてる気がしなかったんだ。このまま何もしないでいたら、きっと後悔してた。それなら死ぬかもしれなくても、やりたい事やってみたいって。だから反省はしたけど、後悔はしてない」

「……何が言いたい」

「兄ちゃんも、そうなんじゃないかなって。後悔したくないけど、どうしたらいいのか分からない。だったらさ、まずその後悔っていうのを頭からなくして、やるべき事をやってみたらどうかな。命より大事な、成すべき事を」


 やるべき事を、やる。その言葉が、空っぽだった胸に吸い込まれていく。


 ――そうだ。そうだった。ウィルガンドは死者達の無念を背負っている。

 無念とはつまり、後悔だ。

 まだ生きていたかった。あんな事をしたかった。こんな事をやってみたかった。

 そんなかなわなかった悔いの――願いの欠片達が、報われる時を待っている。


「……ブラム」

「ん、なに?」

「ありがとな。おかげで目が覚めた」


 朗らかに笑うブラムを前に、ウィルガンドは自分の心に語りかける。

 休息は充分取った。そろそろ歩き出す時間だ。ほとんど燃えかすにも等しい灰のような灯火だけれど、鼓動が脈打つ限り、戦い抜く気概はあるか、と。

 見いだした一筋の光明がいずこに続いているかはようとして知れない。だが元々は考えた事もないし、その必要もない。そんな簡単な事を思い出し、苦笑しながら席を立つ。


「兄ちゃん、行くの?」

「ああ。ここにとどまっていても仕方ないからな」


 部屋を出る時に呟いた仕方ない、とは対極の意味で返す。それからブラムに向き直り、拳を突き出した。


「お前、すごい奴だよ。きっと大物になる」

「そうかな……?」

「この俺が保証する。どこにも正解なんてないのなら……後悔のない生き方を、しよう」


 どれほどの痛みを伴っても。どれだけ新たな呪いを宿しても。そんな誓いをするようにウィルガンドとブラムは笑い、拳を強くぶつけあった。




 数日後。ついにウィルガンドとエリンが帰還する日がやって来た。

 ウィルガンドは朝早くから城門の前へ行き、エリンの到着を待つ。

 ラセニアから餞別として借り受けた駿馬の調子や馬具を見ていると、朝靄に包まれた通りの向こうからエリンが現れ、こちらを認めると足を止めてしまった。

 何とも言えない空気から逃げるように、ウィルガンドは門の近くで待機していた兵に扉を開けるよう頼んだ。兵士が城壁側の塔へ入って行き、重々しい音ともに門が動き始める。


「……行くぞ」

「……はい」


 王女は小さく頷く。必要な荷物はウィルガンドが持っているが、リアンロッドの遺髪や父の遺骨だけでも持ち帰り手厚く葬ってやりたいのか、小さな袋を大事そうに抱えている。

 門が開いていく。ここに護送されて来てから早数ヶ月。ようやく外へ出る事がかなうのだ。ウィルガンドは門扉を抜け、エリンに手を貸して馬の後部に乗せると、自分は手綱を握って前へと進み出す。

 それからの半日、ひたすらに走り続けた。

 会話らしい会話はない。お互い無言で、ただ前方を見据えている。日が暮れれば野宿できる場所を見繕って火を熾し、食料を食べて眠る。その間も最低限のやりとりのみで、目を合わせる事も一度もない。

 払暁より早くから出発し、さらに疾走し続けると、やがて数名の王国軍と行き会った。


「ひ、姫様! よくぞご無事で……!」


 道の真ん中で手持ちぶさたに立っていたのはやつれた様子の老人。とはいえ彼は王国でも長年国王に仕えていた宿将の一人である。エリンがアンガルスを出立した事は当然ジェノム公も掴んでいるだろうし、彼らはエリンを迎えに来た一団なのだろう。


「王城の陥落したあの日以来の再会、感無量にございます……! ささ、ジェノム公の陣営はこの先ですぞ。我らとともに参りましょう」

「……はい。ウィルガンド、あと一息です。急ぎましょう」


 もう地平にはジェノム公の陣地が見えている。だから馬を降りたエリンは振り返った。けれどもそこには馬の側で佇み、黙って瞑目しているウィルガンド。


「……ウィルガンド?」

「いえ。王女殿下。――ここでお別れです」

「え……?」


 呆けたようなエリンを前に、ウィルガンドは数日前の出来事を反芻はんすう する。




 ――その日。ウィルガンドは巡回の兵の目を盗み、城の上階へと上がっていた。

 この階にはある将官の自室がある。あらかじめ入手しておいた情報を頼りに回廊を音もなく進むと、見つけた。今は亡きゼディンの私室。

 試しにドアノブを回してみたが、鍵がかかっている。

 ウィルガンドはおもむろに剣を引き抜くと、それをドアへ突き立て、引き裂いた。

 室内は質素を通り越して殺風景だった。ただ寝起きだけに使っているような、どこまでも人の暮らしていた形跡の感じられない部屋である。

 ウィルガンドは寝室や家具類には目もくれず、執務室や書庫のような、ゼディンが仕事のために使っていた部屋をしらみつぶしに探す。

 幸い鍵はどのドアにもかかっていない。二番目に開けてみた部屋は執務室らしく机と大量の本棚が待ち受けていた。背表紙を見ればそれらの本は報告書や地図、命令書がファイルに綴じて纏められ、用途に応じて一分の隙間もなく整理整頓されている。

 この本棚全てが仕事のためだけに集められた資料であり、将軍の部屋というよりは研究室か何かに思える。私物らしき本や日記の類はゼロであり、余計にその印象を強くさせた。

 そんな風に家捜ししていると、ややあって見つけた。

 机の引き出し。その資料の中からある戦いに備えての作戦指示書が。それは確かにウィルガンドの目的の品と合致していたが、その内容は想定をはるかに凌駕りょうがする恐ろしいものだった。

 作戦指示書には、ジェノム公が諸侯をまとめ上げ、帝国へ攻撃を開始してきた場合における最終決戦に向けての戦力配置や、どの部隊がどう動くべきか、はたまた起こりうるアクシデントや天候の変化による地形の移動方法などに至るまで、あらゆるシミュレーションがなされた対策の記述が事細かに詰め込まれていたのである。

 そして日付を見て再度驚愕する。この作戦指示書が記されたのは斧の月。すなわち、ヴェンデルの戦い以前からゼディンは数ヶ月後に巻き起こる王国連合軍との大戦を予期していたのだ。

 改めてぞっとさせられる。これこそがゼディンの本当に怖いところ。迅速かつ多角的で多面的な処理能力。ゼディンにかかればたとえ大陸を二分する天下分け目の決戦ですら手のひらの上。消化試合に過ぎないのだろう。

 ウィルガンドは紙面を懐に突っ込み、そそくさと部屋を出る。しかし廊下へ一歩踏み出した瞬間、背後から声がした。


「ウィルガンド……何をしているの?」


 ラセニアとシルファだった。ウィルガンドは無言で振り向く。


「あなた、ゼディンの部屋の前で一体……」

「ラセニア様。ドアを」


 シルファが示し、ラセニアはウィルガンドの後ろのドアの惨状に気づくと、瞠目する。


「ちょっと、これはあなたがやったの? 勝手に無断侵入したところで、この部屋にあるものなんて――」


 そこで鋭くも勘づいたのか、はっとしたようにウィルガンドを見つめた。


「……ちょっと来なさい」


 面を貸せ、と言わんばかりに連れて来られたのは中庭の人目に付かない木陰だった。


「カクラ平原で使われる作戦指示書を、手に入れたのね?」

「……まあな」

「ドアを無理に壊して部屋を物色までしたんだから、ただじゃ済まないわよ」

「犯人が分からなければ対応は遅れるし、疑いがかかる頃には証拠は手元にはない」


 それにちょうどいい、とウィルガンドはラセニアへ逆に質問する。


「あの指示書は実際に使われるのか。カクラ平原には皇帝自ら出陣しているんだろう?」

「……ゼディンの軍才は誰もが認めるところ。あなたの持つ指示書は多分写しで、本物は皇帝が持っていると思う」

「だが、死んだ人間の作戦だ。それを知っている部下が命令に従うものだろうか」


 これにはシルファが答えた。


「ファランパレス陥落までの一連の侵攻作戦はファンハイト様の名を借りたゼディン将軍主導のものです。付き従う軍勢もその事は承知し、信頼を寄せておりました」


 では、今回のカクラ平原での戦いには、総司令官を上回る唯一の存在である皇帝自身以外に作戦へ口を出せる者はいないわけだ――ゼディンの遺した指示書を除けば。


「もっと言うなら、今度の戦いはゼディンの仇を討つ名目も込められているわ。だから彼の作戦で動く事には余計に異論は差し挟めないはず。……その指示書が用いられる確率は非常に高いと言えるわね」

「俺はこれをジェノム公へ送ろうと思っている――そうすれば帝国の手の内は知り尽くせたようなものだ。王国側が勝利できる目はぐっと上がる」

「そう……やっぱりそうするのね」


 ラセニアが押し黙る。ウィルガンドは王国軍を勝たせようとしていた。つまりラセニアが彼を見逃せば、むざむざ帝国の人間を見殺しにするようなもの。帝国の皇女として、放置できるわけがない。


「お前が俺の計画を帝国軍に話せば、それで終わりだ。……どうする」


 沈黙そのものがすり切れそうな静けさが満ちた。かつて庭園でウィルガンドがラセニア達へ自分の本当の目的を語った時と同じほどの、長い睨み合い。

 やがてラセニアは嘆息し、扇子を取り出して自分を扇いだ。


「前に話したわね。私が皇帝――父の説得に成功すれば、あなたはその命を狙うのを取りやめるって」

「ああ」

「その答えはまだ聞いてない……いえ、それで良かったのかも知れないわね。結局私達の計画は立ち消えになった。もしくは、私には父を説得する気なんかなかったのかもしれない。ただブラムを守りたいがために、あなたに嘘をついて……シルファの事がなければ、今も現状維持でいたのかも。――最近振り返ってみて、そんな風に思う事もあるわ」


 ラセニアは遠い目をして、扇子を閉じる。


「あなたの意思は一貫していた。どこまでも虚構はなく、最後まで貫こうとしている。……これは最初から、あなたの戦いだったのかもしれない。私はただの、傍観者」

「そんな事はない。お前の助力がなければ、俺はここまで来られなかった。エリンも……どこかで失っていただろう」


 それ、とラセニアがくすりと笑って扇子を向けて来た。


「復讐のためじゃなく……あなたがエリンを守ろうとする気持ち。私は今度は、それこそに賭けようと思うわ。私とシルファが向かうべき道は、どうせならそんな暖かいものがいい。……だからね」


 ラセニアはどこか悲しげで、けれども優しげな微笑みを浮かべる。


「――あなたに託す。どんな結末になろうとも、私は二度と目を背けず、見届けるわ」

「俺はただ殺すだけだ。この帝国を変えるのはお前達の役目になる」


 あれほど帝国を滅ぼしたいと願っていた。だが今は、ラセニア達に変えて欲しいという気持ちもある。


「リアンロッドの遺志を継いだレジスタンス組織。本当に行動を起こす気なら連中を頼れ。橋渡しはリロがしてくれるだろう。だから……後は頼む」


 ウィルガンドは背を向けた。今生の別れのように。


「ご武運を」


 いつか死地へ向かう時。かけられたシルファの言葉が耳に響いて、いつまでも残った。

 その後、リロに指示書を渡し、ジェノム公の元へ向かってもらった。彼ならばウィルガンドの意を読み取り、戦況を優位に運べるだろう。

 後は、とウィルガンドはまぶたを開く。



「……わ、別れとは、どういう事でしょう……?」


 一方のエリンはウィルガンドの言う事が呑み込めず、呆然と問い返す。


「私は帝国軍を倒しに、王国軍へ参戦します。ですから、お供できるのはここまでです」

「待って……下さい。また、戦いに行くのですか……? ……ここまで、来たのに……」


 弱々しい反対の言葉にも、ウィルガンドは穏やかでさえある口調でエリンを諭す。


「エリン姫は、何のためにお戻りになられるのですか。安全な陣地の奥でぬくぬくと兵士達に守られるためでしょうか」

「ち、違います……! 戦争を終わらせるために、戻るのです!」

「私もそうです。帝国軍を止め戦争を終わらせる。奴らの望みをそうしてくじく事が復讐であり……こんな形ですが、あなたを守る事にもなるのです」


 二人を境界で分かつように、巻き上がる砂塵が横切っていく。すでに戦闘が始まっているのか、彼方より兵達の剣戟、ときの声が風に乗って響いてくる。


「考え直して……下さい。帝国にはラセニアさん達がいます、皆さんと協力して、話し合えば、この戦いもやめさせられます! あなたがこれ以上無理をする必要は……っ」


 エリンの懇願にも、ウィルガンドは動じない。その決意は明確にして強固だった。


「そうですね。私一人行ったところで、何もできないかも知れない。……ですが、皇帝が死ななければ終わらないんです。どちらの国も、止まらない」

「そんな事ないです、私がきっと……何とかしますから……だからっ」


 嫌々をするように首を振るエリンに、ウィルガンドはそっと近づいて、囁いた。


「……復讐にしか生きられない俺に、エリンは忘れていたものを思い出させてくれた。いつだってまぶしくて、少し羨ましかった。お前なら一人でも、願いをかなえられる」

「私の……私の、願いはっ」


 エリンは必死にウィルガンドを見上げる。


「あなたがずっと側にいてくれればそれだけで、良いんです……! 他には何も求めません……だからっ……!」

「俺にとって、お前はもう……必要ない。道は分かたれた。だから……さようならだ」


 エリンは身も世もなくしがみついて、引き留めたかった。でもそうしたら、こらえたものが全部噴き出てしまいそうで。崩れ落ちて、二度と立ち上がれなくなりそうで。


「……分かりました」


 彼の前でみっともなく泣きたくない。全てが終わるまで泣かないとも決めた。――だから今一度エリンは、手のかからない物わかりのいい王女の仮面をかぶる。


「その代わり、約束して下さい。必ず戻って来ると。コロシアムの時と同じに、絶対に生き延びて、私の元に帰って来ると。……そうでなきゃ、行かせません」


 けれど、駄目だった。子供のように泣きわめいていないだけで、駄々をこねているにも等しい願い。ウィルガンドはしばしの間、視線をエリンへと留めて。


「……約束する。すぐに片付けて、お前の元に戻る。死ぬつもりも別にないしな」


 身を翻した。行く。行ってしまう。エリンは無意識に踏み出そうとする身体をぐっと押し込め、息を詰めてウィルガンドが馬へ乗るのを見つめた。


「それでは、行って参ります。エリン姫……また会いましょう」

「ええ。……絶対……ですよ」


 言葉は震えた。これが最後かも知れない。ウィルガンドは自分の使命を終えて、そのまま帰らないのかも知れない。

 どうすればいいのか分からなかった。ただエリンは己の気持ちを込めて頷きを返し――見送った。

 ウィルガンドの姿が砂煙の先へかき消えると、老将軍がおずおずと声をかけてくる。


「姫様……そろそろ我々も」


 でも、エリンは微動だにできない。逃れえぬ別離に、心では滂沱と涙をこぼし泣きじゃくりながらも、耐えて、耐えて――ついに両手を握りしめて、背中を曲げてうつむき。


「……あぁ……!」


 一つだけ、悲痛に彩られたうめきを発した。

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