第四章 十八話 虚像のゼディン

 彼は目を覚ました。上半身は砂浜に埋もれ、下半身は波打ち際に浸かっていてひどく冷たい。体温は低下し、四肢はこわばり、憔悴しきった身を起こすのに数秒を必要とした。

 太陽は中天にあり、水面を反射してきらめく光が周囲の様子を克明に照らしている。自分が打ち上げられた砂浜、後ろには浅瀬と、やや離れた位置にいくつかの桟橋。

 手前には風雨にさらされ壁にヒビや穴の開いた漁師小屋と、前方にはわらぶき屋根の民家が建ち並んでいるのが見える。その中央には広場があり、まばらに人の姿があった。


「……お、おい、ぼうず。もしかして海から流れ着いて来たのか?」


 人のいる広場へ歩いていくと、こちらを認めた幾人かの男が近づいて、話しかけて来る。

 だが彼は答えられなかった。周りを囲む者達の言葉が分からなかったのだ。

 彼は元々、人買いに連れられて船に乗っていた。金に困った家族がいくばくかの金銭と引き替えに我が子を差し出すのは故郷ではよくある話で、人身売買自体は法に触れる行いだったため秘密の密輸ルートを経て隣国へ亡命する途中だったのである。

 しかし公的機関の目を盗む危険な海域を通っていた船は、運悪く――もしくはある意味必然として突然の嵐に襲われ、転覆した。

 彼もまた真夜中の荒れ狂う波へ投げ出され、甲板から引きはがされた頼りない木の板を命綱代わりに海をさまよったが、ついに力尽きて意識を失った。

 だが幸か不幸か命は助かった。言葉も通じない異国へと流されはしたものの、今のところこの人間達からは脅威を感じない。よって彼はその場にとどまり、情報収集を優先した。


「もしかしておめえ、俺達の言葉が分からないのか?」

「名前は? それも答えられないのか?」


 漁師らしき男達が身振りで自分を指し示している。恐らく名前を尋ねられているのだろうが、彼は人買いの男にそんなものは役に立たないから捨てろと言われたので、記憶野から抹消している。男達には何一つ情報を明示できそうにはなかった。


「参ったな……昨日はひどい嵐だったし、仏さんの一つでも流れ着いているかと思ったら」

「ああ……よりによって大陸の外からのお客さんとは」


 彼を囲み、弱り果てた様子の男達。その時彼の腹がぐうと鳴った。


「お、ぼうずおめえ、腹が減ってんのか?」

「そりゃそうだろ……遭難してたならまともに食べられてるはずがねぇ」

「何にせよ、何か食わせてやろうじゃねぇか。後の事はその時考えよう」


 男の一人が彼の背中をぽんと叩き、民家の一つを指し示す。ついてこいという意味と受け取り、素直に家へ上がらせてもらった。そこには妻と思われる女が待っており、男が事情を説明すると、保存していた魚の干物とパンが彼へ与えられた。


「しっかしなんだ……お前さん、妙に落ち着いてるよな。まだ年端もいかねぇのに、親ともはぐれて、言葉も分からなくて、ここがどこかも知らないのに……」


 黙々と腹ごしらえをする彼に、脳天気なのか肝が据わっているのか、と男が笑う。

 ねえ、と女が男を小突き。


「どうするのよ、この子」

「さあなあ……言葉が通じないんじゃどこから来たのかも分からんし、嵐の影響で船は出せないし……どうだ、うちでしばらく預かるってのは」

「冗談じゃないよ。今だって今晩の飯をどうするか悩んでるのに、これ以上食い扶持ぶちを増やしてたまるもんか」

「とはいってもな……運悪く遭難して来ただけなのに、放り出すってのも……」


 どうしたものかと二人が額を突き合わせて悩んでいると、唐突に家の外からわめき声が聞こえてきた。驚いた男が戸口を開けて覗き込むと、広場の方に武装した男達が現れ、集まって着た村人を恫喝している。


「まずい……野盗だ」


 隠れろ、と声を潜めた男が妻と彼へささやき、自らは外へ出て男達へと向かって行く。


「乱暴はやめてくれ、金はないんだ」

「だったら食料を寄越せ」

「無理だ。昨日嵐があって荷物が滞ってる。渡せるものはないよ」


 そう返すと、先頭の野盗がやおら剣を抜き、男を斬りつけた。とっさの事に男は肩口から血しぶきを上げ、叫び声を漏らして倒れ込む。


「だったらお前達の命をもらっていくだけだ」


 片目に眼帯を巻いた頭目らしき男が剣を振り上げて宣告する。多くの村人は立ちすくみ、何人かはそそくさとその場を離れようとしたが、手下の野盗に行く手を阻まれた。

 それでも一人が山刀を手に抵抗を試みるも、たちどころに包囲され切り刻まれて絶命する。他の家々にも野盗が押し入り、あちこちで悲鳴が上がっていた。

 夫を傷つけられ、震えながら座り込む女。それをよそに彼は家を出て、広場へと歩いていった。


「なんだ、こいつは?」


 犠牲者の血に染まった山刀を無言で取り上げる彼に、手下へ指示を出していた頭目が気づく。何もできず身を寄せ合っていた村人の何人かが、その様子を目にして呼び掛けた。


「ぼ、ぼうず、逃げろ! 殺されちまうぞ!」


 言葉が通じなくとも、今ここで何が行われているのか分からないわけではないだろう。なのに、彼は頭目の方へ向き直り、山刀の切っ先を向ける。頭目は粗暴な笑い声を上げた。


「おいおい、まさかそいつで俺と戦うつもりか?」


 げらげら、と周りの野盗も笑い出す。頭目はにやつきながら、剣をわざと手先で揺らし、彼への距離を詰めていった。


「さあどうした? やってみろよ」


 彼は顔を上げ、頭目の姿を視界に映し――意識を集中させる。


 途端、瞬く間に野盗達の姿も、倒れたいくつもの死体も、漁村の風景までもが薄れ、彼は正方形の、白い部屋の中心に立っていた。

 昔からだった。彼は長い時間物思いにふけっていても、実際の現実ではわずかな時間しか経過していない事が多かった。人は極限まで集中力を高めると、体感時間がスローに感じられる事がある。

 常人をはるかに凌駕する集中力を備えた彼は自らの特異な才能を自覚して以降精神修養を重ね、いつしか自らの精神内に独自の空間を形成するにまで至っていた。

 この空間は集中している彼のイメージを具現化したものであり、意識の深層にある精神世界である。意識を集中させるだけで自由に出入りができ、ここにいる間は外の時間は限りなく緩やかだ。じっくり睡眠を取ったとしても、外ではほんの数秒も過ぎていない。

 彼は漁村で手に入れた山刀をどこからともなく作り出し、握り込む。このように外の物質を詳細にイメージすればするほど、精神世界にも出現させる事が可能だ。山刀に限らずこれまで知覚し、認識し認知に触れた記憶にある物全てを再現できる。

 イメージと集中力の象徴である精神世界も拡張を繰り返し、今やこの白いトレーニングルームのみならず、どんな城よりも巨大で多数の部屋が存在するほどの規模だ。

 彼は山刀をしげしげと観察した。重さ、刃の鋭さ、感触、匂い。続けてそれを何気なく振るう。こんな風に武器を握った事も生まれて一度もなかったから、まだまだその動きは素人同然。山刀の重量に体勢を崩しかけ、片手持ちや両手持ちに切り替えて何度も振るう。何度も。何度も振るう。角度を変えて、スピードを変えて。

 一振りごとに山刀から生まれる威力を覚える。どのような動作ができるか分析する。徐々に慣れていく。何日も何週間も振り回して、どんどん効率が良くなり、無駄がなくなっていく。何ヶ月と振り続けて我流の技が生まれ始める。

 一年が経過し、ただ振っていただけの動きはれっきとした鍛錬へと変わっていた。それを続ける。変わり映えのない白い部屋で。精神世界だから休養は必要ない。飲み食いもしなくていい。

 それをいい事に何年も山刀を振り回し、ある程度自分で納得がいくレベルにまで達して、ようやく動きを止めた。

 そして彼は次に、頭目を出現させる。映像だけの存在なので害はない。彼は頭目を観察した。顔立ち、目つき、風采。ぐるぐる周りを歩き回り、武器の形状や、どの程度の身体能力を持っているのか。

 それにも満足したら稼働させた。分析したデータの上で頭目は彼へ向かって剣を次々振り下ろす。筋肉の躍動、神経の反射といったコンマ一秒、一フレームごとの動きから得られた情報も記憶にインプットしていく。それをあらゆる状況下で繰り返してシミュレートする。敵の一挙手一投足を――攻撃防御回避、その全てのパターンを頭に叩き込んで覚え抜く。

 ふと外の様子に意識を向けると、数秒が経過し先ほどよりも頭目が近づいて来ていた。


「やれるもんなら――」


 彼が精神世界に入る前の口上をまだ吐いていた頭目の言葉はそこで途切れた。彼が先手を打ち、その腹部を山刀で横に断ち割ったからである。

 頭目は口を開け、何が起こったのか分からないという風にぼんやりと風穴の開き、ぼたぼたと臓物の飛び出た自分の腹を眺めてから、倒れた。

 彼はその死体を見下ろしながら、返り血の付着した山刀の刃を見つめる。

 遠巻きにしていた村人はもちろん、すぐ側で野次を飛ばしていた野盗達も、その一瞬の出来事をまるで認識できなかった。できなかったが、目の前の彼に自分達のボスを殺された、という一点は呑み込めたようで、逆上し我先にと斬りかかる。

 彼はごく力の抜けた自然体で、一人を斬り倒した。続けざまに二人目を斬り落とした。数秒前まで剣術のけの字も知らなかった彼は、何十年とたゆまず己の技を磨き上げた練達れんたつの剣士であるかのように野盗達を屠っていった。


「な、なんだこいつ……! 強すぎる! 逃げろ!」


 我流の剣術に習熟していたのも大きいが、敵の行動は綿密にシミュレートしてある以上、傷を受けるどころか返り血すらかからない。その時の彼に逃げる敵を見逃すという発想はなく、襲って来た野盗達を斬り捨てると駆けだし、村を逃げ惑う野盗を一人ずつ始末していった。助けてくれと哀願されても無機質に殺していった。


 最後の一人の脳天を貫き、広場に戻ってくると、村人達が駆け寄って来て口々に彼を賞賛した。助かった。おかげで命拾いした。ぼうず、こんなに強かったんだな。

 彼へ向けられる視線には一抹の恐れも含まれていたが、おおむねこの結果は受け入れられたようだ。

 それから数日が経過し、村にも活気が戻って来た頃、衣食住を与えられ民家に滞在していた彼に村人の一人がこんな話を持ちかけてきた。


「なあ、ぼうず。思ったんだが……その強さをこんなへんぴなところで腐らせてるのは惜しい気がするんだよな。近々戦争も迫ってるって噂だし、ちょいと帝都へ行って、士官でもしてみたらどうだい」


 言われて、彼は思案する。ここ数日で、彼は村に収まっていた古い本棚から言語学の本を読みあさり、大陸の共用語を理解し、話し、読み書きもできるようになっていた。


「帝国の兵隊になれば、ぼうずが自分の国に帰る方法も分かるかもしれないしな。お偉いさんに頼めば、うちのぼろ船なんかよりもっといい船を手配してもらえるだろうしよ」


 そいつはいい、と他の村人も膝を打って同意する。


「村中の本を五分たらずで全部丸暗記しちまってるし、あんなに強い上に頭もいいどえらい神童ときたもんだ。きっとすぐに認められて、ひとかどの将官になれるだろうよ」


 勧められるままに、彼は村を出発し、帝都を目指す事になった。村人の一人は彼を後々の将軍と評したが、その時点で大陸全土を探しても比類のない英傑であったなどと見抜けた者は皆無だった。

 帝国領の地理は地図を読み込み頭に入っている。彼は村人から餞別せんべつ として受け取った路銀と食料を手に、村の田園地帯を抜け、深い森林を踏破し、荒涼とした荒野に出た。

 帝国は一部の恵まれた土地以外は荒廃し、乾いた風吹きすさぶ荒れ地や砂地ばかり。精神世界で技や知力は伸ばせても肉体の強度は現実で鍛えなければ変わらないため、彼はトレーニングも兼ねてわざと険しい道を選んで進んだ。

 数ヶ月後、ようやく帝都へ到着した。立地的に天候は常に悪く、どんよりと空は曇っている。町の様子も砂漠を隔てた王国侵攻の話題一色だった。彼は兵を募集する掲示板や瓦版を頼りに、受付を済ませ城へ入るのを許される。

 通された控え室は物々しい雰囲気で、十名近い応募者が思い思いに待機していた。その一人が彼へ気づき。


「よう、新顔か。俺はグラップ。短い付き合いかもしれないがまあよろしく頼むぜ」


 気安く声をかけてくるが、その視線からは彼の腕前の程を品定めするような油断ならない光があった。適当に聞き流して待っていると、彼が最後だったようで部屋のドアが開き、居丈高に胸を張った年若い青年が踏み込んで来た。


「全員揃っているようだな。自己紹介させてもらおう。――私の名はファンハイト! 偉大なる帝国の第一皇太子である!」


 そこで喝采の一つでも期待したのだろうが、部屋はしんと静まりかえっている。空回りに気がついたファンハイトは取り繕うように大きめの咳払いをした。


「……あー、諸君らに集まってもらったのは他でもない。私の手となり足となり、我が望みを叶えるためだけの忠実な配下として働いてもらうためだ。だがしかし!」


 と、ファンハイトは一人一人を指差して声音に凄みをきかせる。


「欲しいのは強さと見識を合わせ持つ忠誠心あふれる即戦力だが、ただ命令に従うだけの馬鹿は必要ない! よって試験に挑んでもらう!」


 分かるような分からないような注文を散々長々つけた後、彼らはまず最低限の教養を試す筆記試験にとりかかる事になった。ここでただの馬鹿をふるい落とすのだろうが、彼は問題集を一読しただけですらすらと答えを書き込み、数十秒ほどでファンハイトへ差し出した。


「む、なんだ? 表記漏れがあったか? ……ん、書き終えただと?」


 馬鹿にしているのか! 部屋に反響する大声を張り上げて彼を罵倒した後、ファンハイトは一応問題を見て――目が点になった。


「ぜ、全問正解……だと?」


 他の応募者達からもざわめきが上がる。まず例を見ない解答速度は驚きを呼び込み、彼は試験をパスできた。次は実技。腕試しに応募者達で模擬試合をする事になったが、彼はこれも全て瞬殺し、当然の如く合格。ファンハイトの片腕となる事を許されたのである。


「やれやれ、とんでもない奴と同期になったもんだが……よろしく頼むぜ」


 器用さと抜け目なさを見せたグラップも従者として登用されたようだ。彼らは順番にファンハイトの執務室にて改めて面談する。


「口数の少ない、何を考えているか知れない気味の悪い奴だが能力は本物らしいな。……その髪や目の色。お前、漂流者だろう?」


 彼は頷いた。帝国では彼のような遠方からの漂流者は珍しくもないという。おかげでまだ見ぬ未知の技術や道具などが普及し、資源に乏しい帝国は急速な革新的発展を遂げてきたのである。

 あいにく彼から開示、提供できるような技術や知識はなかったのでファンハイトに失望はされたものの、故郷に戻りたければ相応の便宜をはかってもらえるようだ。


「我が帝国としても、大陸の外の客に下手な扱いをして火種を呼び込むのは望むところではないからな。だがそのためには、せいぜい私の元で働いてもらうぞ」


 と、そこでファンハイトは首を傾げる。彼の名前が思い出せないのだ。もちろん名前などないのだが。


「なにっ、名前がない……だと? お、お前それでよく、受付が通ったな……」


 呆れられたが、戯れにファンハイトが彼に新しい名をつけてくれるという。


「そうだな――ゼディンというのはどうだ。意味だと? 知らんのか、ゼディンとは太古の昔、蛮王ファリアと我らが一族の命運をかけて戦った、真の勇者の名。勇者ゼディンはただ一人で邪悪なファリアの軍勢を打ちのめし、ファリアをひざまずかせた伝説の男だ」


 ファリアに勝利したのならどうして、帝国はこんな僻地にいるのだろう。当然の疑問だがさして興味もないのでその名前を名乗る事にした。

 実力主義の風土である帝国において、彼はあらゆる状況に頭一つも二つもぬきんでた成果を残すため嫌でもファンハイトの目に止まり、評価を上げていった。

 そのうち、ファンハイトにある推薦を受けた。


「コロシアムを知っているか? 王国との戦争に備え、帝国の戦意を奮うべく開かれる祭典だ。お前の腕ならばホーククロウくらいは狙える。勝利し私の地位を押し上げてみせろ」


 その時のファンハイトは王国への遠征に同行できるくらいなら御の字と期待もしていなかったろう。だが彼は淡々と勝ち続け、大きくなる事態に血色の悪くなるファンハイトとは対照的に武名と人気を上げていった。

 人間の五感の一つである視覚は実は万能ではない。両目で見えているものには必ず死角が存在し、その部分は脳が自動的に補い、見えているかのように錯覚している。彼は敵がその錯覚している部分を分析し、嗅覚や聴覚、触覚といった他の感覚すら欺き、たとえ目視されている状態からでも死角のみを突いて行動ができるのだ。相手からすれば唐突に彼が消えたように感じるだろう。

 そして迎えた御前試合。アイウォーンの動きは試合を観戦して何度かチェックし、データベースに組み込まれている。よって敵の認識の外から剣で心臓を一突きにするのはそう難しい事ではなかった。

 突然彼を見失い、何一つ動けず殺されるとは予想だにしていなかったであろうアイウォーンの末期の表情は、どんな時でも見せた事のない恐怖と驚愕に歪みきっていた。


「お、お前っ……お前、なんて事をしてくれたんだ……っ! こ、皇室の人間を……!」


 控え室に戻ると、ファンハイトに掴みかかられた。思いつく限りの悪口雑言を浴びせられる。面倒なので彼が優勝した願いを上司のファンハイトが使ってもいい、と申し出た。


「見くびるなよ――このファンハイト、皇室に名を連ねる者として恥は知っている! よりによって神聖なコロシアムで! 施される願いなどいらん! 願いは……お前が使え」

「では、特に願いもないので褒美は辞退します」

「――こ、この唐変木とうへんぼく が!」


 ついに堪忍袋の緒が切れたのだろう、皇太子が横殴りのパンチを食らわせてくるが、頬を殴られる直前、身に染みついた挙動でかすかに角度をずらして衝撃を受け流す。

 受け流された力は倍になって返り、ファンハイトの手首は崩壊した。絶叫が迸るが時間の無駄なので彼は自室へ戻り残りの書類仕事を片付けた。


 王国との戦端が開かれた際には先鋒を任され、一夜にして七つの要塞を陥落せしめ国境線を丸ごと切り取った。類いまれな軍略家として本格的に頭角を現し勇躍ゆうやく、王国侵攻への盤石の足がかりを築いたのである――。


「面を上げよ」


 ひざまずき、頭を垂れていたゼディンは立ち上がった。目前には、玉座に腰を下ろす皇帝アーディウスがいる。


「各地で抵抗を続ける反乱分子の鎮圧、ご苦労であった。貴様にとっては赤子の手をひねるようなものだろうがな」

「お褒めの言葉を賜り、望外の喜びに存じます」


 そう答えると、皇帝はくつくつとさもおかしそうに喉の奥で笑声を漏らす。


「やめよ、やめよ。そのちっとも真心の籠もっていない言葉でさえずるのは。余を笑い殺す気か貴様」


 アーディウスは知っていた。この男に自分という個はない。自我があるかも怪しいもので、ましてや忠誠心など爪の先ほどもない。ただ請われるままに能力を振るっているに過ぎないのだ。それが他者へどのような影響を与えるかなど顧みもせずに。


「なあ、ゼディン。貴様の名を知った時は正気を疑ったものだが、今は存外納得しかけているぞ。貴様は真実、あのゼディンの再来やもしれん、とな。ファリアを撃退し、我らの祖先に栄光をもたらしたとまことしやかにささやかれる、伝説の勇者のな」


 皮肉たっぷりに言う。もちろん、異国の人間であるゼディンと伝説の勇者に共通項などない。

 ただ、そのありよう。意思なく全体に従う幽霊のようなこのゼディンと、追放された自分達を慰めるためだけに妄想の中から生み出されたであろう太古の英雄。その現実味のなさは髄まで似通っているように思われた。

 この男の正体が大衆の願う幻想そのものだとすれば、なるほどこれほど扱いやすく、危険な存在もいないだろう。


「恐悦至極に存じます」


 表情筋をちりとも動かさないゼディンに、アーディウスはおもむろに歩みを寄せ、間近からその黒い双眸を覗き込む。


「貴様はそれこそ、蛮王ファリアをも上回る武を備えているだろう。……いや、その気になれば帝国、大陸全土すら支配できる――そんな貴様の願いは何だ? 叶えられぬ願望はない。できない事はない。そんな男の望む世界とは……おお、なんとも深すぎる闇の淵よ、余をもってしても正視に耐えぬ」


 運命にすら左右されぬ、言うなれば現象。概念。摂理そのもの。

 であるならば、皇帝としてこの怪物を制して見せよう。意のままに操縦し、潜在能力を使い切って見せよう。


「帝国の礎となれ。……どこまでも条理を覆す、虚ろなる英雄よ」

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