第二章 六話 ラセニアの取引

「……七割、ってところか」


 左腕の包帯を外して軽く振り、その稼働率を確かめる。あれから数日。休養を取り負傷の治癒に集中していたが、あいにくとまだまだ完治にはほど遠い。

 ウィルガンドはその間しばし、自分に割り当てられた剣闘士用の部屋を眺めた。

 自分が来るまでにろくに清掃もされていなかったのか、ゴミが散乱し、あちこちに蜘蛛の巣が張り放題。不快害虫はひっきりなしに這い回るし、椅子や机、ベッドといったなけなしの家具は損壊寸前ときたものだ。

 鉄格子がないだけで牢獄も同然の環境。休めるだけまだマシだが、剣闘士にも格のようなものがあり、最下層はこんな馬小屋みたいな場所に押し込められるのだそうだ。

 ともあれ一応歩けるようになってからは各部屋の位置、周辺の構造もある程度把握しておいた。剣闘士として正式に登録した者達にあてがわれる部屋は、コロシアム内の回廊に並び、闘士の格に応じて規模も質も向上していくようだ。

 コロシアムが伝統らしいだけあり施設もかなり充実している。

 剣闘士達が戦闘技術を磨く訓練場に、談話室として使えるホール。

 倉庫には資材置き場や猛獣を入れておく檻などがあり、関係者以外立ち入れない厳重に閉ざされた部屋にはエレベーターや大燭台など舞台装置の数々が揃っている。

 剣闘士専用の食堂もあるが、それも格の高い剣闘士のみが利用できる場所で、通りがかった時に下層の剣闘士が嘘を言って番兵に叩きのめされている光景も見かけた。

 といって無断で城内や城外に出る事は許されていない。何か用がある時は夜の門限になる前に詰め所の番兵に用件を伝え、許可をもらってから外出する必要がある。帰りが遅れれば叱責と罰則。剣闘士になった時点で、その身柄はコロシアム運営の預かりになるのだ。

 エリンの話ではそう遠からず再びコロシアムで剣を握る羽目になる。いくら勝利したとしてこのままではただの延命処置だが、ウィルガンドとしてはそうして勝ち取った時間を活用し打開策を講じる必要があった。

 エリンとは医務室を出た日以来引き離され、城の貴賓室に軟禁状態のようだ。いかに王女仕えの騎士と名乗っても今は奴隷も同然の身分。正面から会いに行く事はまずかなわないだろうが、相談や連絡を取り合うためにもいずれなんとかしなければならないだろう。

 至急方針をまとめなければならないが行動に制限が多すぎて難しい、と頭を悩ませていた時、廊下から足音が近づいて来た。

 薄いドアなので特に耳を澄ませずとも聞こえる。一人だ。足運びは素人同然。多分刺客という事はないだろう。

 こんこん、とノックされる。迷いがなく、妙に確信があるように感じた。ウィルガンドがこの部屋にいるのを知っているのだろうか。


「ごきげんよう、サー・ウィルガンド」


 油断せずドアを開くと、そこにいたのは美麗なコートに身を包んだ赤毛の女だった。しかも、ごく最近見覚えがあるような。


「先日の華々しい初陣、まずはお見事と言っておくわ」

「誰だ……?」

「とりあえず、部屋に入れてもらっていいかしら? あまり人に聞かせる話じゃないから」


 ウィルガンドはこの正体不明の来客を前に数秒、思案したあげく、結局その通りにする事にした。


「俺に何の用だ。見たところ、結構なお偉いさんのようだが」

「あなた、思ったよりぶっきらぼうな口調なのね。まぁあの戦いぶりを見た後なら合点もいくけど、ちょっと意外だったわ」

「いちいちかしこまる必要ないだろう。今の俺は単なる奴隷だ。――質問に答えろ」


 肩をすくめた後、脅すように睨めつける。何のつもりか知らないが、舐めた用件ならば即刻叩き出してやる。


「奴隷にしては態度が大きすぎる気もするけれど。……私はラセニア。帝国の第一皇女よ」


 ――思考が停止する。瞠目どうもくし、ラセニアと名乗った女を見つめた。

 帝国。皇女。怨敵。喉が渇き、だらりと下げた両腕に詰め込まれた筋肉が蠢く。はっきりと害意を持って、この場でこの女を寸刻みにしてやりたいと。

 にわかに殺気立つウィルガンドなどラセニアはどこ吹く風というように、飄々と続けた。


「別に笑いものにしたり、嫌みを言いに来たのではないわ。今日はあなたに取引を持ちかけに来たの」

「取……引?」


 予想外の言葉に募っていた殺意が若干、薄れる。


「あなた、これからもコロシアムに出て、勝ち上がっていくつもりでしょう? ……王女様を守るために」

「……ああ」

「その戦いの手助けをしてあげる。あまりおおっぴらにというわけではないけれど、裏方で情報を流したり資金援助をしたり、そういうサポートを」


 再度、何のリアクションもできないほど硬直する。

 口を半開きにして穴の空くほどラセニアを凝視した。警戒心が最大限にまで高まる。


「何のつもりだ……? そんな真似をしてお前に何の得がある」

「あらら。今しも斬りかかって来そうな顔つきの割には話を聞くだけの理性はあるのね。気に入ったわ。……そうね。強いて言うなら、あなたがコロシアムで勝つ。それそのものが私のメリットになるのよ」


 またわけの分からない事をほざく。そろそろ堪忍袋の緒が切れそうだが、感情任せにしようとするウィルガンドとは別の、打算的な部分が冷徹に回転を始めていた。


「手助けってのはどういう事だ? 具体的に何をしてくれる」

「たとえば次にあなたが戦う対戦相手。そいつの戦術とか弱点とか、ディテールを調べて伝える。お金が必要なら支援する。後はそうね……今のあなたには不可能な、王女様の警護とか? あの子、父の命令で助命されてるけど、その事を良く思わない連中もいるでしょうし」


 ウィルガンドは歯を食いしばった。知っている。こいつはウィルガンドの手詰まりな現状も弱みも、自分の話に耳を傾けざるを得ない事も。


「他にも要望があれば相談の上受け入れる用意があるわ。大抵の問題は解決してあげられると思う。その代わりコロシアムで身体を張ってもらうけど」

「ますます話が読めんな。どうしてそこまで俺達に肩入れする」

「言ったでしょう、つまるところ利害の一致。それに正確にはあなたにだけ協力してるの。王女様には今のところ何の興味もないし、干渉する気もない」


 ウィルガンドがコロシアムで勝つという事は帝国の戦士を次々殺していくわけで、常識的に考えて不利益しかないはずなのにラセニアに何の得があるというのか。


「勝ち進んでいけばいずれ話すわ。それもあなたがこの申し出に頷けばだけど」


 勝ち進まなければ教えられない。その資格がまだない。ラセニアはそう言っている。

 その思惑が何であれ、ウィルガンドはたった今、大きな決断を突きつけられているのだ。

 ここまでペースを握られがちだが、整理しよう。

 まずこいつは皇帝の娘。憎き仇敵であり、できれば惨殺してやりたい相手だ。しかし、その相手がこちらに手を貸すと申し出ていた。その考えはようとして知れないが、話自体はウィルガンドにもメリットがある。

 最低限味方と確約できるのが囚われの王女一人という孤立無援な状況である以上、皇女という強力な後ろ盾がついてくれるのは諸手を挙げて歓迎したいところなのだ。

 利用される事になるのはこの際仕方ないが、様々な便宜を図ってくれるというし、ウィルガンド一人では届かない、どうしようもない事態へも手を伸ばす事が可能だろう。

 だが……帝国の皇女。敵。湧き上がる怨念がウィルガンドの身体を蝕む。

 えり好みしている場合ではない、絶好の機会を感情が阻む。これまで窮地へ陥る度に気力を奮わせて来たものが、正常な判断力を削ごうとしている。


「一つだけ聞きたい……なぜ俺なんだ。有能な剣闘士ならいくらでもいるだろう。なんでまた、よりによって敵国の人間の俺なんだ?」

「私が買っているのはその不屈の意志よ。あなたと同じくらいの強さの剣闘士なら他にもいるでしょうけど、ルヴァンダルとの戦いでは鬼気迫るものを感じたわ。それは私の求める条件にぴったり当てはまっている――何が何でも生き抜くという、その気迫が」


 そうか。この女はまだ、ウィルガンドの目的が帝国の復讐という事にまでは思い至っていない。いわんや国を滅ぼされ虜にされた恨みはあるだろうが、それは王女を守るという至上命題を超えるようなものではないと。

 殺せる、とウィルガンドは歯止めをかけるように自分へ言い聞かせた。

 こいつは殺せる。いつでも殺せる。思いつけば殺せる。何の気なしに殺せる。今は利用するだけだ。不要になれば、その時始末してやればいい――何の意味も理由もなく。


「……分かった。色々言いたい事はあるが、ひとまず呑んでやる。力を貸してくれ」

「いいわ。契約成立ね」


 その時までウィルガンドに負けず劣らずの仏頂面だったラセニアが、ふっと目元を緩めた。それは人によっては見とれるほどの微笑みとも取れたが、ウィルガンドは警戒をまだ解いたわけではない。


「そうそう、王女様には話すのかしら。私との協定が結ばれた事を」

「いや……やめておこう。まだあんたの事が分かったわけじゃないし、安全が確認されるまでは王女殿下にもできるだけ隠しておきたい」

「そうね。それは好きにするといいわ。他の人にも内密にお願いね。後援者の存在はルール違反ではないけれど、私ほどの大物にもなると基本的にはいい顔をされないから――観客はともかく内部の人間にはね」

「分かったよ……仰せの通りに」


 確かに、自ら言いふらす必要もないだろう。けれども皇女がそこまで帝国の人間に気取られるのを気にするとは、帝国も一枚岩でもないのだろうか。


「それじゃ、行きましょうか」

「……は?」


 つらつら考えていると、きびすを返したラセニアが当然のように同行を求めて来た。あっけにとられて聞き返す。


「行くってどこへ」

「決まってるでしょう。王女様のところよ」


 ラセニアはどこかいたずらっぽく微笑った。

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