枠なき心2

 給金を支払うことで管理人の肩書きを与え、堂々と家にいてもらう。そういう目論見だったが、断られてしまった。雇用者として上の立場になることが気に食わなかったのだろうかと、腫れた頬に氷嚢を当て塀二は涙目で悩む。

「ほんとだ、あたしの味付けとおんなじ。なんかキモチワル」

 炬燵の向い側では框が遅れた夕食を食べている。顎を動かしながら、こちらも思案顔だ。

「んー、こっちはちょっとおかしいかな……。あ、そっか。失敗の記憶も再現すんのね。前作った時失敗して悔しかったから。つまりあんたがおいしくないと思ったのは普通の感想だったってこと」

「それいつの話だ? お前が作ったのは今まで全部美味かったけどな」

 思いつきで返事をすると妙な沈黙が生まれたので警戒はしたが、炬燵の中で蹴られるようなことはなかった。

「布団、三人分納戸に並べらんないから応接間使うね。いいでしょ、どうせ客なんか来ないんだしサ」

 室倉家には居間と塀二の個室の他に二つ部屋がある。その内の一つが今夜から正式に占拠されることになった。

「川の字でもなんでも好きにしてください。結局お前も泊まるんだな」

「パパに電話で話してるんだから、いきなり帰るほうが不自然だっての。あんた、まだあたしが住むこと納得してないわけ? あたし絶対あんたの傍から離れないかんね」

 問いかけに、塀二はしばらく間を置いてからため息をついた。

(時給千円でいてほしいって言ったろ……)

 相当の決意で打ち明けたにも関わらず大して記憶に留まっていないらしいことを知って、急激な疲労感に襲われる。雇用関係を結ぶ以上の想いが伝わればと、にわかに抱いていた期待共々打ち砕かれた。

 何度言っても伝わらないのなら気持ちを隠す意味すらないのかもしれない。先程の決意とは打って変わり、本音の蓋の上にどっしり腰を据える臆病を追い払ったのは虚脱感だった。

「俺はお前がいてくれたら嬉しいよ。って言うか、お前の他にはなんにも要らないよ。けど、それはお前の自由だから。俺が押し付けることじゃない」

 框の頭から例のピンク色が吹き上がり始めた。真顔でこれといった動作もなく、どういう思念なのか塀二には相変わらず判別できない。

「そこまで言うなら……仕方ないね。ここにいてあげましょう」

「ああ、その代わりちゃんとここにいろよ。調子に乗って戦いに出たりするんじゃないぞ」

 その為に雇い主になりかった。行護の思惑に嵌り勝手な行動を取らせない為に。

「……ノーニャが言いつけたね」

 視線がこの場にいないノーニャを探し始めた。怪しい笑みに報復を求める残虐性が写る。

「あいつを責めるなよ。大体無茶だぞ? 俺たち妖部でもまともにやりゃ依霊には敵いっこないんだからな」

「でも昨日は勝った」

「相手がペストだって読んでたからなんとかなっただけだ。室倉は『まともにやらない』ことにかけちゃエキスパートだからな。違う依霊だったら今頃死んでる」

 更に言えば〝ペストの医者〟の仮面があっただけでも苦しかったに違いない。連戦は負担だったが、途中吸血鬼という戦力が加わったからこその戦果と言える。

「でもあたしにだってむつきがいるし」

「闇渡のことか? 確かに闇渡は強力だが全部お前の意のままになるわけじゃない。幾ら貯水槽が馬鹿でかくても、封印っていう蛇口があるからな。一度に水が出る量には限界がある。依霊を飲み込むくらいの洪水を起こそうと思うならダムを壊さなきゃならない。ダムってのはお前自身だ。んな無茶させるくらいなら俺はお前を封印してでも止めるぞ」

 馬鹿な考えをやめさせるよう、しっかり眼を見つめながら警告する。流石に怖気づいたらしく框の表情は曇った。

『クク……室倉が人を封じらるるものか。余をしろごと封ずれば代の命など藻屑よ。肉が裂かれまじないさえ消ゆれば余は晴れて自由の身。二重に縛られ、おんしにはできまい』

 影から余計な横槍が入り、「いいこと聞いた」とでも言いたげに框の眉が持ち上がる。

「できるさ。口にスリコギ突っ込んで簀巻すまきにして押入れに封じてやる」

「DVで訴えてやる」

 笑い合い、久しぶり安らかな気持ちになれた。

「あんたがここにいろって言うんなら、あたしはここにいてもいいよ」

「なら頼む、いてくれ。……今日はなんか悪かったな。一日落ち着かなかった」

「ううん。あんたのせいじゃないし」

 ほっとできたばかりのところへ、ノーニャが大騒ぎしながら居間に駆け込んできた。

「マーガレットが病気デス!」

 ノーニャの背から畳に下ろされたマーガレットはぐったりとしていて、瞼を閉じたまま身動きしない。意識がなさそうだ。

「あれこの子、息してなくない?」

「脈も無いんデス!」

「当たり前だろ、害思徒なんだから」

 物理干渉力を持つまでに存在を強めた意思エネルギーなので物体としては存在しても生命反応はそもそも無い。

「それよりこのパジャマ鴨居のか? 布団カバーといいえらく可愛いのが好きなんだなお前。意外だ」

「いいからそんなの! 助けてあげなさいよ。できるんでしょ?」

「誰に言ってんだ。俺は室倉だぞ」

 マーガレットが動かない理由はハッキリしているので塀二は慌てずに自室へ戻り、携帯音楽プレイヤーを持って戻ってきた。

「こいつは浄気で出来てて、浄気は夜間活性が弱まる。テレビのゴールデンも終わって世間はもう楽しいこともなくなってきたんだろ。『あー、また明日学校だ仕事だー』っていう時間な」

 言わばマーガレットは町の精神バロメーターと言える。町民の思考が健全でなくては満足に活動できない。病気から回復して明日学校閉鎖が解かれることを憂鬱に感じる後ろ向きな人間が多ければ必然的に弱ってしまう。

「だから楽しい気分を浴びせてやればいいんだ。――ぎゃっはっは!」

 音楽プレイヤーの録音機能に笑い声を吹き込み、エンドレスリピートをかけてからイヤホンをマーガレットの耳に装着する。眼を覚ますまでには至らなかったが、少しだけ寝顔の険しさが和らいだような気がした。

「これでもう大丈夫だ。瘴気の強烈な干渉でもない限り、崩壊するようなことはないよ。朝になれば勝手に元気になってる」

 塀二の説明を聞き、ノーニャは無言で框をマーガレットから遠ざけた。よくわかっている。今や町内で注意に値する瘴気は框が擁する闇渡と蔵くらいものだ。

「川の字は難しそうだな」

 塀二は密かに笑いながら、この状況を楽しむ余裕が生まれていることを嬉しく思った。



 翌朝、いつもより食卓が賑やかで洗濯物が増えたこと以外には特別普段と変わりなく一日が始まった。朝聞いた担任教師からの電話連絡ではあくまでも様子見の予定だったが、無事に再開した学校は欠席者も少なく町が立ち直ったことを示していた。たっぷり睡眠時間を取れたこともあり、塀二の体調も良好だ。

 充実した人生の一日を重ね、非常に良い心持ちで放課後を迎えて家に戻ると玄関先にいたマーガレットを見て不安を覚えた。

 なにしろ瓜二つなので外見からノーニャとマーガレットを外見で区別する方法はない。塀二には室倉の知覚があるが、今はそれを頼るまでもなかった。この少女は明らかに能天気な吸血鬼とはかけ離れた顔つきをしている。

「ミロード、お話が」

 口を利けるようになっている。横で框がぎょっとしたのに対し、塀二は何のリアクションも起こさなかった。

 今朝框は助手を断り一人で料理を作り洗濯物を片付けた。その時既に、マーガレットは物思いに耽っているような様子が見て取れた。実にノーニャの半身らしからぬ振舞いだ。

「随分落ち着いたな。環境が良かったか」

 マーガレットはこの町に暮らす人間の精神のバロメーター。近場の思念ほど影響を受けやすいことを考えれば室倉家にこびりついた歴代の蔵守りたちの思念を引き継いでいる公算が強い。屈んで膝の上に掌を広げて見せる服従のポーズを慣れた風にこなしているところから考えても間違いなさそうだった。

「ミロード、どうかお聞き下さい」

「あー……とりあえずそのこそばゆい呼び方はよせ。室倉に配下はない」

「室倉に従うは数多の呪具、知啓からのまじない。貴方様は室倉家当主であり、私めは貴方様の息、貴方様の仕草に御座ります。活殺の自在を捧げるは自明。そうではありませんか」

 どうしたものかと対応に困った塀二が頭をかくと横にいた框に袖を引かれた。

「この子一体どうしちゃったのサ」

「ええとな、思念体としてまだ安定してないから周りの影響で人格が変わって、結界張った俺を主人だと思ってるらし――うわあ!」

 説明している最中に大蛇が出現して框を絡め取った。

 ノーニャが従えていた使い魔の一つ、禍蛇まがへびがマーガレットの右腕から伸びている。ただし白い。結界の為に犠牲にした八体の魔物もまたマーガレットの中で生きているようだ。

「ミロードに近づくな、妖魔め」

 表情に敵意が覗く。攻撃的ではあっても塀二を守ろうという意思から来ているので、浄気である自身の存在を否定することにはならない。

『昨日今日生まれた分際で、余を侮るか』

 眼も口も覆われた框の影の中で闇渡が吠える。害意をむき出しにした本物の瘴気だ。

「馬鹿よせ! 室倉の術で結んであるんだから、そいつはお前と似たようなもんだ」

「承知しました。出過ぎた真似をお許し下さい」

 塀二が声をかけるとマーガレットはすぐに蛇を消して再び膝をついた。自由になった框は当然怒っている。

「あんた、いきなりなにすんのサ!」

「頼むから落ち着け! 落ち着いてくれ! もう二度とやらせないから」

 塀二としては間に入らざるを得ず泡を食った。マーガレットの素知らぬ顔が憎い。

「さ、どうぞ中へお入り下さい」

「あんたの家じゃないでしょうが」

「お前の家でもないけど――あ、いいえ、その、すいません」

 これからどう接したらいいものか悩みながら、塀二はマーガレットが開いてくれた門をくぐる。後ろで門が閉じ、おそらくは框が顔をぶつけた音を聞いて対策を急いだほうがいいと焦った。


 留守番をしているはずのノーニャの姿が居間になく、屋内を捜索すると風呂場の浴槽の中で発見された。

「マーガレットが反抗期デス。グズ守りさんからもなんとか言うデス」

「とりあえずその妙な略し方はやめろ」

 なにやらいじけているのをお構いなしに框が浴槽から引きずり出すと両手で持ち上げられノーニャの全身がだらりと伸びる。

まるで猫の子だ。

「そんな所にいたら掃除ができないでしょうが。居候が日のあるうちから風呂浴びないの」

 框はマーガレットから邪険にされ面白くないらしく、すぐにでも浴室のカビ取りを始めるつもりのようだ。フォローを試みれば薮蛇になりそうで、塀二はまず涙目で打ちひしがれているノーニャから話を聞くことにした。

 脱衣所の外に立って耳を傾ける。

「マーガレットにお叱りを受けたデス。妖部としての使命とか意義とか、こっぴどく人格攻撃、完全論破されたデス」

 マーガレットが素体とした役目を果たし短命に散った室倉の意思が、責務を放棄し逃げ出したノーニャを許さなかったらしい。それについては全面的ではないにしても塀二も同意見だ。

「そりゃ仕方ないな。お前がそれを選んだんだ。用意されたレールを捨てて生きるのは与えられたルールに従うより辛いらしいぞ」

「日本語が難しいデス」

 この時、ノーニャに向けた言葉がそのままマーガレットの抱えている問題だということには、かなりあとになって知ることになる。



「ご命令を」

 そう呟いたきり下がったままの頭を前に、塀二は大いに弱った。炬燵に入り湯飲みを傾け間を作ってみても許してくれないらしい。

 マーガレットが役割を求めている。

「んー……それを俺に言われてもだなあ」

「貴方がこの命を下さったのではないか!」

 顔を上げ、火の出るような勢いで噛み付かれた。必死だが、苦悶も見えた。浄気を基に存在するマーガレットが悩み苦しんでいるというのはなんとも皮肉だ。

 戦え。仮にそう命じたならマーガレットは喜んで従うだろう。害思徒や依霊と戦うことは室倉の意思とも合致する。しかしこの町は既に結界により安定し、結界によって存在するマーガレットは外へ出て行くことができない。相手にできる敵がいない。

 そもそもマーガレットが生まれたのは塀二にとって予想外の現象だった。

「頼みたいことってのも、これと言ってないしなあ……」

 塀二が呟くと、マーガレットの眼がそろそろと框へ移った。まだ排除対象と見なしているらしい。今度は框も迎え撃つ。

「やろうっての? 下手したてに出てれば調子に乗ってくれちゃってサ」

『よくぞ申した。この痴れ者に思い知らせてくれようぞ。さあ、我が名を呼べ!』

「わかった〝むつきゆすら――」

「やめろって! 危ねえなあもう!」

 見事にそそのかされている框の口に煎餅を差し込んで黙らせる。

「今〝影降ろし〟なんかしてみろ、結界に引き裂かれてバラバラになるぞ。闇渡は術でお前に括られてるんだから、その時はお前も同じ運命だ」

 さすがにゾッとしたらしく、框は煎餅をかじりながら敵意を引っ込めた。次はマーガレットのほうを諌めなくてはならない。

「あー、こいつは室倉の管理下にある状態だ。危険は無い」

「今まさに暴走する瞬間を目の当たりにしました。才の無い人間に妖魔を従えることは。適いません。個を捨て全を守るべきかと、僭越ながら進言致します」

「そんなことはない。こいつは俺が言えば尻を舐めるくらいの絶対服じゅ――痛い痛い! わかってるよそんなことさせねえよ、つーかちょっとは話を合わせろよ! ……とにかくこいつはこのままにしとくからな。わかったか!」

 妨害を受けながら一徹した指示を貫くも、マーガレットは食い下がる。

「封じることこそ室倉ではないでしょうか」

「必要ならな。ねじ伏せるのが室倉じゃない。それはお前にもわかるだろ」

「ですが、私は……わかりました」

 マーガレットは少しずつ勢いを失い、遂には放心して固まってしまった。室倉に傾倒するあまり偏った思念が中心になってしまっているらしい。

 封じ。確かにそれは室倉にとっても最も重い使命だ。取り込んだ思念の中でそれが最も強かったのだとしたらマーガレットがそこに固執するのも無理はない。しかし一つのことに専念し、休まない機械的な情熱は社会にとって毒に近い。軽いからといって他を無視していいことにはならないからだ。

(……好きにしろって言いたいけど、こう融通が利かないとなあ)

 マーガレットの中に自力で結集するまじないはなく、凝結したまま崩れないだけの歴史もない。八つの封印塚という外からの圧迫によって形作られている性質上、外へ出ては己を保てない。出られたとしても瘴気の影響を受け人類の敵に堕ちるという、多くの依霊たちと同じく魔道に堕ちる可能性も否めない。

 この状態が続くようなら、むしろマーガレットのほうが塀二にとって封印の対象に入る。だができるならそれはしたくない。

「室倉の使命じゃなくて、お前個人がやりたいことってないのか?」

「瘴気を滅しこの町に平和を」

「そりゃそう言うよなあ……」

「ミロード、私はどうすれば……?」

 束縛する気は無い。どこへでも行くがいい。ただし町の外へ行けば今のお前は死ぬ。町の中にお前を知る者は誰もいない。お前が人間でないことを考えれば一般的な友人を作るのは難しいだろう。

 と、いう風なことを伝えなければならないことが気鬱で、塀二は小さく唸った。

「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」

 マーガレットは表情を曇らせて肩を落とす。浄気のくせに落ち込んでいる。

「要は私は、生まれてきてはいけなかったということですね」

 それも深刻だ。塀二は慌てた。

「ちょっと待て、そうじゃない。飛躍するな」

「しかし、誰しも生まれてくる時には天より役割を与えられ、望まれて生まれてくるものです。私にはそれが無い。生まれた理由も、生まれたままでいる理由も」

 やたらと框に対し好戦的に振る舞ったのも別に框が憎いわけではない。そうすることでしかここにいられないと思ったのだろう。

「ならばどうかお願い致します。私を封じてください。私は浄気です。何かの糧としてならば、使い道もありましょう」

 呆れるほどまっすぐな信念に、塀二はつい苦笑いしてしまう。室倉らしい考えだ。

「難しく考えるな。焦らず休むことを覚えろ」

「休むもなにも、私はまだ何も成し遂げていない」

 いよいよ答えに困窮して後ろへ手をついて胸を反らすと、何か言いたげな顔で框に見られていた。

「ねえ、なんとかしてあげてよ。……あたしからもお願い」

 滅したいと思われていることは忘れた去ったようだ。これもまた框らしい。

「んー……わかった」

 塀二は指先で天板を叩き、徐に立ち上がった。

「夕飯の前に散歩に行く。あー……マーガレット、付き合え」

 結界の副作用を解決し術士としての務めを果たそうという責任感からではない。目の前にある暗い顔をそのままにしておくのは塀二の理念に反することだった。

「俺がお前に世の中が面白いんだってことを教えてやる」

 それができないようでは、人生を楽しんでいるとはとても言えない。


 マーガレットを引き連れて外へ出た塀二だったが、実のところ「これだ」という当てがあるわけでもなかったのでただブラブラと町を歩いた。

 町はペストの一件からすっかり回復し、雪も融けたのでいつも通りの風景が広がっている。日暮れ。黄昏。一昨日までであれば害思徒の誕生に気を配り始める頃だ。今はもうその心配が無い。

 しかし築いた平和の代償をマーガレットにひとり背負わせてしまっているようで、大喜びする気分にはなれなかった。

 さまよい歩いているうち、怪しい地域に足を踏み入れていたことに気が付いた。周りの建物を見て慌てて来た道を戻ろうとした塀二の首に、マーガレットが絡み付く。

「ミロード、少し休んでいきましょう」

 場所はいわゆる、ラブホテルの前。その中へと塀二を連れ込もうとしている。どうやら周囲の思念に中てられて影響を受けたらしい。

「やめろオイ! 気をしっかり持て、話せばわかるから離して!」

 目隠しのカーテンを掴んで必死に引きずり込まれまいともがく間に、マーガレットがピンク色の思念を発しているのを目にして塀二は眩暈を起こしそうなほど仰天した。框から出ているのを何度か見た思念の波長だ。

「なにぃっ⁉ じゃあ鴨居はちょいちょい発情してたってことか? 今後顔を合わせ辛い!」

 記憶の幾つかが蘇る。男として名誉と開き直るには至らず、ひたすら戸惑う。

「今は他の女のことは忘れて。ねっ、いいでしょう?」

 ともかくこのマーガレットをなんとかしなくてはならない。塀二は覚悟を決めた。

「俺はちょっと荒っぽいぞ」

「んふ、私は構いませんよ」

「なら良かった――『月曜日』! 『延滞料金』! 『新着メールはありません』!」

 ネガティブな感情に結びつきやすい言葉を真正面からぶつけられ、マーガレットは失神した。宵が近く浄気の力が弱まっているのでこの程度の〝呪文〟でも充分だ。

「多かったかな。ストレス溜まってんのか俺」

 小さな体を担いでそそくさと移動する。場所が場所だけに不審に見えはしないかと心配になったが、幸い通報された様子は無い。


 マーガレットが目を覚ましたのは公園のベンチに座らせた時だった。正気に戻っていてほっとする。

「とんだ狼藉をば」

 地面へ膝をつくマーガレットに声をかけず、塀二は黙ってベンチに腰掛けた。顎を振って隣に座るよう示す。

 植樹に囲まれた緑地公園はまるで住宅地にぽっかりと浮かぶ孤島のようだ。閑散としているものの若い夫婦が子供とボール遊びをしていて賑やかな声が絶えない。

 二人しばらくその様子を遠目に眺め、やがて塀二が口を開いた。

「なあ、お前何に焦ってんだよ」

「私は……自分の存在を疑っています」

 声は最早寂しさすらなく、真剣味だけを帯びてくらい。

「そもそも私は生きているのでしょうか。私には体があり、心があります。しかし夜には体は薄れ、強い思念に晒されれば心は乱れます。それでも私という個体は成立していると言えるのでしょうか」

「思念が不安定なことについては時間に任せろ。お前がお前として定着すればさっきみたく人格に影響を起こすことはなくなる。濃度からいってそうだな……二日もあれば充分だろ。逆に言えばそれまでどういう思念に関わるかでお前の人格が決まってくるわけだ。好みがあるなら特定の思念を選んで固定してやることもできるが」

 話しながら、マーガレットの反応が悪いことには気がついていた。

「お前が知りたいのはそういうことじゃないよな。……そうだな、俺はお前が生きてると思うぞ。お前は思念の集合体だが、人間だって細胞の集合だ。生体はただのシステムで、心なんてものがなんであるかはよくわかってないんだ。違いなんかないし、それを追求しても意味なんかないだろ」

 納得できないようだ。微笑みが寂しげで悲しい。

「この世に私が在ることを祝福する人は誰もいません。副産物なのだから当然です。必要とされていないのに、勝手に生まれてきたのです。だから私は探さなくてはならない。自分が必要とされる、勤めを果たすことのできる自分の居場所を」

 室倉の思念を多く反映しているだけに、マーガレットはそれに習おうとしたのだろう。ただ役割を演じる為に生きる。しかしそういう眼で見ていてはこの町に自分がやるべきことを見つけられるはずがない。蔵守りにこだわった考え方では。

「なあ、瘴気を滅して平和を守ることがお前がやりたいことだって言ったよな。ならお前の言う平和ってなんだ?」

 虚を突かれたような顔をして、マーガレットは返事に困っているようだ。塀二が続ける。

「じゃあここは、この公園は平和か?」

「平和です」

 きっぱりと肯定するのを見て塀二も満足して頷いた。

「ああそうだな。ここは平和だ。じゃあ具体的にどの辺が平和だ?」

 マーガレットは黙って親子連れを指差した。楽しく遊んでいるのを見れば円満な家庭だとわかる。エネルギー源である浄気が立ち上っているのでマーガレットにもそのことは深く理解できるだろう。

「平和の為にお前がやろうとしていることと、お前が感じる平和には随分なズレがあると思わないか? 平和って、守るだけのものなのかな」

 あの家族の笑顔は、戦いからは生まれない。

 マーガレットは思い詰めた顔で黙った。一つの道に囚われていたのだからすぐに別の道へ目を向けることは難しいだろう。

 弾んだボールが二人の座るベンチへ転がってきた。マーガレットがそれを拾い、塀二が懐から取り出した風船を膨らませてあっという間にバルーンアートでキリンを作ると一緒に渡した。大喜びした子供はお礼を言って両親の所へ戻っていく。見送るマーガレットの顔は子供と同じような笑顔になっていた。

「落ち着いたか?」

「……お世話をおかけしました。もう大丈夫です」

 満足して頷いて、塀二は公園の入口を指差す。生垣の陰からノーニャが顔を出していた。隠れているつもりのようだが丸見えだ。

「あそこにお前の誕生を祝福してくれそうな奴がいる。お前に罵倒されてへこんでたみたいだから、ちょっと行って平和にして来い。お前にしかできないことだ。別に役割とか責任とかじゃないけどな。やりたいように、好きにしろ」

 社会に平和をもたらすのは誰の役割でもない。社会によって、人と人との触れ合いによって自然と実現されるものだ。室倉が手を出すのはほんの少しの環境の乱れに過ぎない。

(まあ、それも好きでやってることだけどな)

 守りたいものを見つけて、それを守る為に生きてくれるよう願ってるよ。

 父が遺した言葉を塀二は信じている。代々の室倉は常にこの世界が好きだから守ってきた。それだけのことだったのだろう。

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